ならば銀河に


見た目と中身が異なる人というのはまあ、ギャップ萌えだの何だの言われている昨今ではそう珍しくもないのだろうけど、東峰に関しては極端すぎると思うのだ。

烏野って留年してる人いるんだ。第一印象はそれだった。高校1年生の春、クラスが離れてしまった同中の友達の教室に教科書を借りに顔を出すと、知らない人だらけの教室の端あたりで見慣れたあの子が手を振っていた。

「古典の教科書貸して」
「ないよ」
「何でよ」
「昨日持って帰ったから」
「えー!いつも置き勉してたじゃん」
「うちのクラスさぁ、担任が置き勉禁止ってうるさいんだよね」

そうなんだ。うちのクラスは置き勉してても今のところは何も言われないのに、クラスによって違うんだなぁ。しかし、肝心なのはそこじゃない。古典の教科書だ。断られるとは想定していなかった。どうしよう、完全に当てが外れてしまった。入学したてでまだ他のクラスの友達はこの子しかいないのに。いや今のクラスにもまだ友達いないけど。

「入学したばっかなのにもう教科書忘れたの?」
「うん。やらかしたわ、どうしよう今日」
「隣の席の人に見せてもらうしかないんじゃない?」

やっぱりそれしかないよね。ええと、隣の席の子の名前なんだったっけ。まだ話したことないけど優しそうな子だったし、見せてってお願いすれば見せてくれるかな。他のクラスに知り合いもいないし、当てはもうそれしかなさそうだ。そうと決まれば早く自分の教室に戻らないと。先生が来る前に隣の席の子に話をつけておきたい。高校入学早々に教科書を忘れたから見せてほしいとお願いするなんてだらしない奴だと思われてしまいそうで気は進まないけれど、残された道はもうこれしかないのだからしょうがない。それに、もしかしたらこれがきっかけで仲良くなれるかもしれないし。うん。前向きに考えるようにしよう。

踵を返し自分の教室へ戻ろうとしたそのとき、聴き慣れない低い声が後ろから聞こえてきた。

「……俺持ってるけど、使う?」

ぼそりと呟かれたその言葉に振り返ると、友達の左隣の席に座っている強面の男子生徒が古典の教科書を手にこちらに視線を向けているのが分かった。私が声を発するよりも先に、友達が彼に向かって声をかける。

「いいの?東峰くん」
「うん。どうせ今日は使わないし、俺ので良ければ」
「だって。ありがたく貸してもらえば?」
「ありがとうございます!」

渡りに船とはまさにこのことだ。あまり開かれた様子がないピカピカの教科書を受け取ってがばりと頭を下げると『東峰くん』と呼ばれた彼は「そっ、そんな頭下げなくても……たまたま鞄に入れっぱなしにしてただけだし……」と恐縮した様子を見せた。強そうな見た目に反して下げられた眉尻は優しげで、その温和な表情は今の私にはまるで仏のように感じられた。見える、見えるぞ私には。彼の後ろに後光が差しているのが見える。

ひとしきり感謝の言葉を述べた後、弾むような足取りで自分の教室へと戻る。烏野、同中の友達一人しかいないしせっかくの高校生活なのに全然楽しめなかったらどうしようって不安に思ったりもしてたけど、あんな良い人がいるなら捨てたもんじゃないかもしれない。それにしても東峰くんて、大人っぽい人だったな。とても同い年には見えなかったけど、何歳なんだろう。20歳とかかな。烏野って留年してる人いたんだ。もし教科書返すときに聞くタイミングありそうだったら聞いてみよう。

ノートの上でペンを滑らせる。ここの助詞は、と先生が説明している声に合わせて教科書にも印を入れようとして、……あっ。まずい。これ自分の教科書じゃないのに書き込んじゃった。どうしよう。東峰くんのだ。怒られるかな。さっきまでの仏の顔が鬼の形相に変わる瞬間を想像して背筋が凍った。土下座すれば許してくれるだろうか。それとも一発殴られたりする?一発で済めばいいけど……。

チャイムが鳴ると同時に教科書を引っ掴んで隣のクラスまで飛んでいき、土下座せんばかりに頭を下げると、東峰くんは怒るどころか「俺たまに先生が言ってること聞き逃すことあるから助かる」なんて笑って言う始末で、私は彼のその心の広さにいたく感動した。入学早々に借りを作るどころか借りた教科書に書込みまでしてしまったというのに、どこまで良い人なんだろう。神も仏も確かに存在したのだ。

「ていうか気になってたけどあんた何で東峰くんに敬語なの?」
「え?だって留年してる年上の人なんでしょ」
「ええっ!?」

違うの?と首を傾げた私の言葉に誰よりも大きな声を上げたのは東峰くんだった。「りゅ、留年……俺ってやっぱりそんな老けて見える……?」がっくりと肩を落としまさに意気消沈、といった彼の様子はその大きな身体に全く似つかわしくなくて、しおしおと縮こまってしまった姿はまるでか弱い小動物のようだ。彼の地雷を踏んでしまったことに気づいて謝ると東峰くんは何故かさらに申し訳なさそうな顔をして「いや、俺の方こそごめん」と謝罪の言葉を口にした。

「ーーで、そのうち二人で謝り合戦みたいになってったのが今思うとおかしくてさ。しばらくは思い出す度に笑っちゃったよ」
「へー!1年のときから旭さん同級生に年上って思われてたんすね!確かに試合のとき他の学校の奴から留年した社会人いるって思われてたことありますもんね」
「何で高校生の大会に社会人が出てるんだよ!って怒られたやつな」
「ワハハ!」

珍しく廊下で東峰が誰かと喋ってると思ったら澤村と二年生の坊主の男の子だった。声をかけようとしたちょうどそのときチャイムが鳴ったのを聞いて会話を切り上げそれぞれの教室へと帰っていく澤村と坊主の子を見送った後、東峰と一緒になって教室へと戻る。

「東峰また1年のときの話してたの?案外根に持つタイプだよね」
「いや、違うんだって、怒ってるんじゃなくてさ。最近また1年入ってきて「旭ってあいつらに何歳だと思われてんだろうな」とか大地が言うからあのときのこと思い出して、つい……」
「いや、だってさあ、こんな髭生やしてガタイも良い奴がまさかこないだまで中学生だったとは思わなくない?留年してると思われても仕方ないって」

剃ってみたらちょっとは若返るかもよ?と言うと東峰が「まだ俺17なんだけど……」と言いながらがっくりと肩を落とす。そうやって大きい身体を縮こまらせている様は、初めて会ったときから何も変わっていない。今思うと少し幼さの残っていた1年生のときの東峰の顔を思い出しながら、東峰の机の横にぶら下げられたシューズケースに視線を移した。

「そういや東峰また部活やることにしたんだね」

頬杖をつきながらそう声をかけると、東峰はバツの悪そうな顔をしながら頬を掻いて「ああ、うん、まあ」と返事を寄越した。歯切れの悪い言葉を並べる髭の生えた顔をまじまじと見つめる。廊下で部活の後輩らしいツンツン頭の男子と教頭先生を巻き込んで騒ぎを起こしてからの東峰は部活に行くのが気乗りしないらしくて放課後も塞ぎ込んでばかりだったけど、ようやくまた体育館に足を向けられるようになったらしい。見た目だけでもワイルドになりたいからなんていって髭まで生やしてるくせに、この男の内面はどこまでも繊細だ。

「ま、そのうち戻るだろうなって思ってたけど。部活本当に辞めたい人はあんな風に体育館の前うろうろしたりしないし」
「うっ……。俺、そんなに未練がましかった?」
「相当ね。せっかく部活ないんだから遊んで帰ろうよって誘ってもずっと上の空だったしさ、ウジウジしないで早く戻ればいいのにってずっと思ってた」
「はは、大地にもスガにも同じようなこと言われたなぁ」

烏野の男子バレー部といえば少し前までは全国大会にも出るような強豪校だったらしいけど、最近はめっきり試合に勝つこともなくなってしまっていたらしくて、うちの代の部員は澤村と菅原と東峰の3人しかいない。バレーをやるには6人必要だから後輩に頼ることになるんだけど、今年は頼もしい奴が入ってきて助かってるよ、なんて言って笑っていた東峰の顔を思い出してあれからもう1年経つのかと感心した。月日が流れるのは早い。

ピカピカの新入生だった私たちも今やもう最高学年の3年生で、部活も高校生活も最後の年だ。1年のときに見た3年生の先輩たちは2つしか違わないとは思えないくらい物凄く大人に見えたものだけど、今の私たちも、あのときの先輩たちみたいに後輩たちの目に映ってるんだろうか。ちょっとは頼もしく思われてたら良いんだけど。まあ、東峰は初めて会ったときから見た目だけは大人みたいだったけど、それはまた別として。

「東峰って見た目そんなんなのにヘタレだよね」
「ええっ!?」
「しっ、あんまり声出すと先生に当てられるよ。ただでさえ目立つんだから」

人差し指を唇に当ててわざとらしく注意してやると、東峰は慌ててこちらに向けていた身体を黒板の方へと向き直らせてノートを取る素振りを見せた。椅子の上で精一杯縮こまらせた身体はそれでも周りの生徒から頭ひとつ分くらい抜けている。本当、見た目こんななのに普段は全然パッとしないというか、遠慮がちというか。この東峰が驚いたときとかショック受けたときに言う「ええっ!?」も、今じゃもうすっかり聞き慣れてしまった。どんだけ驚いてんだよ、っていう。

東峰がどうも見た目通りの武骨な男ではなくてむしろ人一倍繊細で責任を感じやすい性格をしているということに私が気付くまで、そう時間はかからなかった。高校3年間、何かと一緒に居続けていれば嫌でも分かってしまう。2年に上がった頃には他の部活の後輩に「先輩で背が高くて髭生やした格好いい人がいる」と騒がれたこともあったみたいだけれど、澤村や菅原とのやり取りを聞いた彼女らに「なんか違う」って言われてそれ以来騒がれなくなってしまったりとか、球技大会で身長を買われてメインのポジションを任されたのに相手チームにビビってろくに攻撃できなかったりとか、そんな姿を来る日も来る日も見てきた。いくら昨今ギャップ萌えだなんだと見た目の印象と中身が異なる人が持て囃されているからといって、東峰の場合は極端すぎると思うのだ。

でも、そんなお世辞にも「男らしくて格好いい」とは言えない東峰にも、皆が「あいつは凄い」と口を揃えて言うような一目置かれる瞬間がある。

バレーをやっているときだ。

ズドン、バガンとおよそスポーツとは思えないくらいの激しい音を立ててボールが床に叩きつけられる。そのボールを叩きつけたのは東峰の右腕で、普段のおどおどした様子とは別人のような凛々しい顔をした東峰の姿がそこにはあった。

鴎台と烏野の試合が終わったことを告げるホイッスルの音に合わせて頭を下げる烏野の選手にありったけの拍手を送る。ぷるぷると小鹿のように足を震わせる澤村に手を差し出す菅原と、疲れた顔をしながらもどこか清々しいような表情を浮かべた東峰を目に焼き付けるようにじっと見つめた。

挨拶を終えてぞろぞろと体育館から出てくる選手たちを出迎えながらようやく出てきた東峰に向かって手を振ると、澤村と菅原に「ちょっと行ってくるわ」と声をかけた東峰が小走りで近寄ってきた。

「お疲れ様。良い試合だったよ」
「応援してくれた家族とか友達のおかげだよ」

労いの言葉をかけてやると、拭いても拭いても噴き出してくるらしい汗をタオルでごしごしと拭いながら東峰が笑った。その脇腹を少しだけ強い力で小突いてから「お疲れ」ともう一度声をかける。「ありがとな」と顔を綻ばせた東峰に、私も歯を見せて笑った。「応援してくれたのにゴメン」とか、謝られなくてよかった。だって皆精一杯やったんだから、何も謝ることはない。本当の本当に、良い試合だった。東峰たちは強かった。ただ、それでも、ほんの少しだけ、相手がうちよりも強かっただけだ。私がさっき言った「良い試合だったよ」の言葉に、嘘偽りは一つもない。

だけど残念、一つだけハズレだ。ただの友達はこんな風にわざわざ大枚叩いて新幹線で東京まで試合の応援しに来たりしないし、最後の最後で思いっきりスパイク打った後ろ姿に泣きそうになったりもしないし、部活行かなくなっていつも上の空で腑抜けた顔をしてるのを心配したりもしないし、何より、試合に全力で臨んだ後の自分より一回りも二回りも大きな身体を抱きしめてやりたいなんて思ったりしない。出し切った、という風にタオルで顔を拭きながら天井を仰いでいる東峰の横顔をちらりと盗み見る。今はまだ友達でも将来的にはあわよくば恋人になりたいんだけど、そう言ったら東峰はどんな反応するんだろう。ぶっ倒れるのかな。