マイフェアレディ


「赤葦って社会人と付き合ってるってマジ?」
「マジですけど」

期待に目を輝かせて聞いてきた木兎さんに対しそう答えた途端「おい聞いたかマジなんだって!」「そんなんどこで知り合うんだよ紹介しろって」「社会人っていくつ?25とか?」「可愛いの?」「っつーかどこまでいったんだよ」どっと湧く先輩たちに「別に普通ですよ」手短に答えると「普通じゃねーって」怒った木葉さんにボールを投げつけられた。片手で掴んでそのままオーバーでネット際に上げたトスを木兎さんが打ち込んで、「集合!」練習再開の合図が出される。

整列しようと走る背中を後ろから叩かれて、視線を向けると三年の先輩たちがこぞってにやにやしながら後ろを小走りで走っていた。軽く会釈するとさっきよりも強い力で小突かれて「彼女の写メないの?」と言ったのは木兎さんだ。すかさず「ありません」と答えると、「嘘だ」「絶対嘘だ」「本当はあるんだろ」「出し惜しみすんなって」またわっと湧く先輩たちを振り切って円形に集まる部員の中に紛れ込む。少し遅れて合流した木兎さんたちの視線が刺さるように痛いけれど、本当にないものを見せることなんて出来ないし、そもそも彼女がいることなんて誰にも言っていなかったのにどこからそんな話が出てきたんだと不思議に思って先輩たちを見る。一見真剣な顔をしながらマネージャーの説明を聞いているように見える木兎さんと目が合った。目が合った途端ににっと歯を見せて笑った木兎さんの顔を見て、これは一週間はこのネタでからかわれるなと悟った。面倒なことこの上ない。




「赤葦ぃ、マック寄って帰ろうぜ~」

部活終わり、木兎さんが手に持ったシューズケースで軽く背中を叩きながら言ってくるのを受け流しつつLINEの画面を開く。赤いドアを開けてぞろぞろと店の中へ入っていく先輩たちの後ろを進みながら、梟谷男子バレー部のグループの一つ下に表示された名前をクリックして、トーク画面を開いた。
『借りてた漫画返したいんですけど、今日時間ありますか』

朝方送ったメッセージにまだ既読はつかない。全員が席についたところでじゃんけんをして、負けた猿杙さんが注文をしにレジへ向かった。「赤葦は?」の声に「ポテトLで」短く答えて画面を上にスクロールする。飲み物は部活に持ってきた麦茶が残っているからそれでいい。あの人が連勤が終わる日付を言っていたのはいつだったか、おそらく今日か明日が最終日だと言っていたはずだが確証がない。遡ろうにもここは電波が弱いらしくなかなか読み込んでいかない画面に業を煮やして猿杙さんが運んできてくれたポテトに手を伸ばした。向かいでビッグマックをかじっていた木兎さんが机の上に置かれたままのスマホの画面を見て、「赤葦誰とLINEしてんの?彼女?」と言った。彼女というワードに反応してか、思い思いに喋っていた先輩たちがわらわらとこっちに群がってくる。爛々と輝く何個もの目を直視しないようにして、スマホを机の下に隠しながら言った。
「あーまぁ、一応、……そうですけど」
「噂の社会人の彼女か!アイコンプリクラ?見せろよ」
「プリクラじゃないですよ。動物です」
「写真は?」
「ないです」
「んーじゃあどういう人?かわいい?」
「……強いて言うなら木兎さんみたいな人です」
「え」

興味津々といった様子でスマホを覗き込んでこようとしていた先輩たちの動きが止まる。部員の正直な反応に少し木兎さんが可哀想だなと思った。引き合いに出した木兎さん本人はジュースのストローをくわえながら「なに、俺赤葦のタイプってこと?」なんて言ってるし、その曇りのない瞳にげんなりしながら「全然違います」スマホの画面に表示されたアプリを消した。ポテトを食べ終わっても一向に既読はつきそうにない。さっきまで写メだアイコンだとうるさかった先輩たちは、こちらからの反応が見込めないと思ったのか今度は理想の女性のタイプの話に夢中になっている。「やっぱり年上って何かエロいよな~」誰かの声が聞こえた。これ以上ここにいるときっとこっちにも矛先が向くんだろうなと、何となく予想がついた。
「お先に失礼します」

空になったポテトの包み紙を載せたトレーを持って、猿杙さんの前に代金を置いてから席を立つ。「赤葦もう帰んの」と言う木兎さんに頷くと意外にも引き止めることなくすんなり手を振ってくれた。「また明日な~」木兎さんに続いてあちこちに座る部員から声がかかる。軽く会釈してから店を出て鞄を背負い直した。改札前で立ち止まってもう一度トーク画面を開く。上から二番目、デフォルメされた動物のアイコンの欄を親指でタップする。既読がついていた。
『あるっちゃあるけど、部屋汚いから』
『明日ならオフだから大丈夫だよ』

最後に可愛いのか可愛くないのか何とも言えないスタンプが添えられているメッセージを見て、送信時間を見るとほんの10分前、さんの会社の定時の時刻から1時間半が経ったところぐらいの時間だった。梟谷の最寄り駅からあの人の家まではそこまで離れていない。電車で30分もあれば着く。その頃にはきっと家主も部屋に帰ってきているだろう。明日なら~と続く文面をもう一度見て、「別に気にしませんよ」とだけ入力して送信する。お返しにスタンプでも送ってやろうかと少し考えて、やめた。ろくなものを持っていないと気づいたからだった。




電車に揺られながら、社会人というワードに大袈裟に反応してみせた先輩たちの顔を思い出した。これから顔を見に行くあの人は、おそらく先輩たちが想像しているであろう社会人像とは大きくかけ離れている。大体年もそこまで変わらないのだ。ただ学生かそうでないか、スーツを着ているか制服を着ているかの違いだけだと個人的には思っている。それをあの人に言うと怒りそうだから言ったりはしないけれど。

ポケットの中でスマホが震えた。「今来てもご飯何もないよ!」「マックでポテト食べたんで大丈夫です」相手もちょうど電車に乗っているところなのか、既読がつくのが早い。別に、腹を満たすために通っているわけでもないのにあの人は時々こういうことを言う。わざと匂わせないようにしているのか、なんなのか。!マークのたくさんついたさんからの返信を見て、やっぱり木兎さんとどことなく似ているなと思った。文面からでも口調が簡単に想像できてしまう。

数回に分けてインターホンを押すと、がちゃりと鍵の開く音の後、わずかに開けたドアの隙間からさんが顔を出した。
「あと三分で片付くから待って!」
「片付いてなくてもいいって言ったでしょう」

閉めようとしたドアを掴んでそのまま身体を入れる。まさか俺がそんな行動に出るとは思わなかったらしいさんは目を見開いてドアから離れた。少し背中を曲げて玄関をくぐると慌てた様子のさんの姿が目に入った。
「あ、赤葦、スリッパこれ使って」

廊下の壁に置かれたスリッパを取って寄越すとさんは廊下の奥へと駆けていく。鞄を適当に玄関に置いて、ゆっくり追いかけるとさんは丁度洗面台で前髪を整えているところだった。何も言わずに、リビングの方へ向かう。テレビの前に腰を下ろして、さんの身支度が整うのを待った。テレビのリモコンはすぐそこに置いてあるけれど手はつけない。代わりに部屋をぐるりと見回して、「全然散らかってないじゃないですか」と呟くと洗面台の方から「何か言ったー?」と声がした。「別に何も」今のうちに持ってきた漫画を持ってこようと思って席を立つと丁度洗面台から出てきた彼女と鉢合わせすることになって、後でいいかと思い直してリビングへ戻る。


「オレンジジュースでいい?」と聞いてきたさんに頷いて、隣りへ座るように促した。Tシャツに短パンのラフな格好をした彼女の向こうにハンガーにかけられたスーツが見える。この蒸し暑い中あの格好は辛いだろうなとちらりと考えた。同じようにグラスに注がれたオレンジジュースを持ったさんの喉が鳴る。まるでビールでも飲むかのようにジュースを流し込む姿をじっと見つめていると、視線に気づいたのかさんがこちらを向いて少しだけ笑った。
「久しぶりだね。いつから会ってなかったっけ?」
「一ヶ月くらいですかね。ろくに既読つかないんで倒れてるかと思いましたよ」
「さすがに倒れてはないけど連勤だったからねーあと既読の話はごめん」

「ここのところ繁忙期でね、無視してたわけじゃないんだけど」とさんは続けた。「分かってますよ」と答えれば申し訳なさそうに眉根を下げられて、そういう顔を見に来たんじゃないのにと思った。何とも言えない気持ちを抱える俺が怒っているように見えたのか、姿勢を正したさんが少し距離を離して座り直した。あからさまに距離を詰め直す気にもなれず、そのままテレビのリモコンに手を伸ばしてボタンをいじる。さんは、そんな俺の様子を探るようにおずおずと近づいて手に持ったリモコンと顔のあたりで視線を行ったり来たりさせていて、さていつ切り出すべきかと考えながらリモコンをテーブルに置いた。

「テレビ見ていいよ」と言ってきたさんの腕を掴んでそのまま胸元へ引き寄せる。逃げないように背中に腕を回すと「赤葦」何かを訴えるようにしてさんが俺の名前を呼んだ。何となく、何を言われるかは分かっている。だから、言わせてやらないでおこうと思った。「さん」抱きとめた背中を少しだけ撫でてから、切り出す。
「今回は長かったですね」

もうかれこれ一ヶ月はずっと思っていたことだ。
「これでも我慢強いほうだとは自分でも思ってたんですけど、まさか一ヶ月も放ったらかしにされるとは思いませんでしたよ」
「ごめんね」
「責めてるつもりはないんですけど、……他に男が出来たかと思いました」
「えっ」
「もう飽きられたんじゃないか、とも」

大人しくされるがままになっていたさんがここで初めて抵抗をみせた。勢い良く俺の腕から抜け出すと「ない!ないない!それは絶対にないから!」両手を振って全身で否定する。予想通りの反応に苦笑がもれた。分かっている。この人はこういう人だ。なかなか声が聞けなかったのも顔が見られなかったのも仕事が立て込んでいたからで、俺を嫌いになったからでも、連絡を取るのが面倒になったわけでもないっていうことくらい、ちゃんと分かっている。それでも本人の口からきちんと聞いてみたかった。実際、こうして慌てて弁明の言葉を探すさんは俺を安心させる決定的な一撃を浴びせようと必死になっている。それを見るためだけにここに来たと言っても過言ではない。
「赤葦に飽きるとか愛想つかすとか絶対ないから!むしろつかされるとしたら私の方だし!」

どんな人なんだと聞かれて強いて言うなら木兎さんのような人だと言ったあの言葉は冷やかしでも皮肉でも何でもなくて、ただこうして常にエネルギーで溢れているようなところとか、仕事に熱中しすぎるとそれ一辺倒になってしまうところとか、調子にムラがあるところが似ているなと思うのだ。




さん少し落ち着きましょう」
「むしろ赤葦が何でそんな冷静なのか聞きたいよ」

別れ話かと思ったじゃんやめてよホントに、と項垂れる頭に手を伸ばした。触れるより先に「お風呂沸かしてくるから」と宣言してすっくと立ち上がったさんの顔は見えない。声が震えているような気がして、立ち上がって顔を覗き込むと案の定目尻に涙が浮かんでいた。
「……泣いてます?」
「わざわざ聞かないでよ」

ごしごしと袖で拭おうとした手を掴んで止めさせる。さんが一人で暮らすためのこの部屋の天井は低くて、バレーをやっている俺には腰をかがめないと少し辛い。今にも泣きそうなさんに対して場所を変えましょうかと言い出せるような雰囲気でもなく、かといって強引に引っ張っていくわけにもいかず、どうしようもなくなった俺はとりあえずもう一度背中に腕を回した。さっきよりも熱い背中を撫でてやると「泣いちゃうからそれやめて」と下から声がする。……やめてって言われても。
「泣いたらいいじゃないですか」
「やだよ格好悪いもん」
「目こすったら睫毛刺さりますよ」
「…………」
さん」
「だって年下に格好悪いところ見せらんないじゃん」
「三つしか変わらないでしょう」
「その三つが私にとっちゃ重要なの」

変なところで強情なのは一体誰に似たのか。横に背けた顔を手のひらで包み込むようにしてこちらに向かせる。一つ一つ言い聞かせるようにして言葉を選んでいくと、あまり化粧をしていないせいかいつもよりもずっと幼く見えるさんがかろうじて目尻に留まっている涙の粒を落とさない程度にぱちぱちとまばたきをしながらこちらを見つめていた。
「俺は、さんが甘えてくれると嬉しいですけど」

年の差が埋まることはないし、俺がこの人と同じように社会に出て仕事をするようになるにはまだ時間がある。年下の、何も高校生に構わなくともきっとこの人にはたくさんの出会いがあって、俺が決して分かることの出来ない悩みも痛みも抱えているはずで、だからこそさんは俺に弱っているところを見せようとしない。年上なりの意地がどうの、ときっとこの人は言うだろうけど、そんなものこちらにとっては煩わしいだけのものだ。
「それに、別にさんが格好いいと思って付き合ってるんじゃないですよ」

だから別に、俺の前くらいでは格好付けなくたっていいでしょう。とどめを刺すように言ってやるとさんは観念したように項垂れてそのまま俺の胸に頬を埋めた。制服のシャツがどんどん涙で湿っていく。不快なだけの他人の体温が今は心地よいと感じた。ぽつりぽつりと鼻声で語られる仕事の愚痴に、背中をさすりながら相槌を打つと腕の中のさんが肩を震えさせた。
「も~どこでこんなの覚えてきたの赤葦~反則だよ~」

しがみつくように背中に腕を回してくるさんは素直に可愛いと思う。この人のことだから、きっと明日にはけろっとした顔で、今日のことなんて忘れたかのように振る舞ってくるんだろう。それはそれで結構なことだけれど、自分としては、もう少し弱音を吐いてくれたって罰は当たりやしないと思うところだったりするのだ。生憎これを言葉にして分かってもらうのにはもう少し時間がかかりそうだな、と心の中で苦笑を漏らした。この人は確かに俺に比べると大人だけれど、俺の前くらいでは無理に大人ぶらなくたっていい。



数分後、落ち着いたのか顔を離したさんは目の前の濡れたシャツを見て「洗濯機入れとこうか」と気まずそうに笑った。少しだけ胸の内が痛む。だから、そんな顔をさせたいがために言った言葉や態度じゃないというのに。
「ごめんね」
「何で謝るんですか」
「面倒くさい女だなって思ったでしょ」
「別に思ってませんけど」
「……ほんとに?」
「むしろもうちょっとワガママ言うようにしてくれたほうがいいくらいです」

さっきこの人と木兎さんは底抜けに明るくて単純で向こう見ずなところが似ていると言ったけれど、訂正する。この人は木兎さんよりもずっとずっと不器用で、負の感情を表すことも甘えることも下手くそだ。マイナスを表に出さないから、どんどん一人で溜め込んでいく。これなら木兎さんみたいに表立っていじけてくれたほうがまだマシなもので、こっちが分からないうちに知らないうちに潰れていかれたんじゃたまったものじゃない。

顔を洗ってすっきりした顔のさんが照れくさそうに頬を掻きながら距離を詰めてくるのが見えて、もたれていたソファに雑誌を置いた。手招きすると素直に従う姿が珍しくて、すぐ隣りに座るように促す。何も言わずにソファに腰を下ろしたさんの髪を指で掬って、呼びかけるようにして言った。
「先輩」

この人は俺との年齢差にコンプレックスを抱いているせいか、こうやって目に見えて年上扱いをしてやると喜ぶ。地毛の目立つようになってきた頭を優しく撫でると恥ずかしそうに目を伏せたさんの赤くなった鼻の頭にキスしてやろうと顔を近づけた。
「会社でも色んな人がいるでしょうけど、俺以外に渡しちゃダメですよ。合鍵」

こくこくと頷くさんに「よくできました」と言うと「それも甘やかそうとして言ってくれてるの?」なんて言葉が返ってきて思わず笑いそうになってしまった。誤摩化すように咳払いをした向かいで、ふとさんが本棚のほうへ視線を向ける。
「あ、そういえば漫画何巻まで貸してたっけ」

わざわざ返しに来てくれたんだよね?まっすぐに向けられる瞳に言葉を濁した。確かに漫画は鞄の中に入っているし、返しにいくともLINEに打ち込んだけれど、それは確かにそうだけれども。
「あとでいいですよ」
「ダメだよ忘れたら来た意味ないじゃん」

本気で言っているのかと問いつめたくなった。まさか、俺が、部活帰りの高校生が、定期券外の場所にわざわざ乗り越し料金を払ってまで漫画を返すためだけに出向くとでも思っているのかこの人は。だとしたら男子高校生に夢を見すぎだ。ソファから降りようとした肩を掴んで唇を合わせる。
「漫画なんて口実に決まってるでしょう。会いたかったんですよ」

淡々とぶつけた言葉の意味を理解した瞬間、さんの顔が火がついたようにみるみる赤くなっていくのを見ていい気味だと思った。分かりにくいだなんだと不服そうに呟く唇に顔を寄せて分かりにくいのはどっちだと心の中で自嘲する。

さんはさっき愛想をつかされるなら自分の方だと言ったけれど、それは間違いで、この人のただの思い違いだ。さんは多分俺が思っているよりもずっとずっと強い人で、きっと俺がいなくてもそれなりに楽しく毎日を過ごしていける。だけど俺は既読が長い間つかなくなっただけで部活に身が入りきらなくなってしまうような子供で、余裕も足りなくて、言葉の裏の意味を拾い上げてやるのにはまだまだで未熟で、そして本人が思っているよりもずっとずっとさんのことを大切に思っているのだ。そのことにこの人が気づくのは一体いつになるのか、知りたいようで、知りたくないような複雑な心境に陥る。そんな俺の胸の内など微塵も察していなさそうなさんの真っ赤になった鼻の頭をつまみあげて、なにはともあれ今度はこの人のほうから「会いたかった」と言わせてやろうと決心した。