かつての勝利の蹄


「しくじるんじゃないぞ」

赤司くんはよくその言葉を口にした。中学生が使う言葉としては少し似つかわしくない気もしたけれど、彼の口から発せられるとしっくりきてしまうのだから不思議だ。私はそう言われる度に遠回しに鼓舞されたような気持ちになって、密かに彼の言葉を胸にしまいこむことを繰り返していた。一種のお守りのようなものだ。しくじるんじゃない。ああそうだ、しくじる訳がない。彼がそう言ってくれているのだから。自分にそう言い聞かせては、完璧を具現化したかのような彼に近づけたような気がして一人、満足していた。


赤司征十郎とはつくづく不可思議な人だ。まるで勝利の女神が彼だけを愛しているかのように、赤司くんの手には数々の勝利が舞い込んでくる。彼から見えるこの世界はどんなものだろう。対人関係においての本当の理解など存在しないことは百も承知だけれど、「追いつきたい」と思わせる魅力が彼にはあったのだ。

定位置、というものを誰しも一つは持っているもので、赤司くんの場合のそれは教室の自席の上だった。赤司くんは暇があると将棋を指していて、その相手は大抵緑間くんなのだけれど、たまに私も相手をさせてもらっている。当然のことながら全く歯が立たない。最後の一手で全てがひっくり返される展開も将棋ではよくあることだ。「しくじるんじゃないぞ」その一言の後に教室に響いた「王手」の声にがっくりと項垂れたのはつい昨日のこと。また勝てなかった、今日こそは、明日こそは。教室に明かりがついていた。今日もやっているのか。今日の相手は緑間くんだろうか、と思いながら赤い彼の元へ歩み寄ると、机の上に乗せられていたのは将棋盤ではなく見覚えのない白黒の盤。「たまには趣向を変えてみるのもいいかと思ってな」彼の唇がそう紡ぐ。右手で持っているのは、何の駒だろうか。
はチェスが分かるかい?」
「キングとられたら負けってことぐらいしか分かんないかも」
「日本じゃチェスはあまり浸透していないからね」

駒を指で弄びながら赤司くんが言った。

「折角だからにもチェスのルールを教えてあげるよ。おいで」

言われるがままに赤司くんの向かいの席に座った。悠然と立つキングの駒に視線が吸い寄せられる。
「まずはこの駒。ビショップだ。将棋でいうところの角だな。斜め方向に何マスでも進むことが出来るが味方の駒を飛び越えることは出来ない。進んだ先に相手の駒があった場合はその駒をとることができるんだ」
「次にルーク。将棋で言うと飛車だ。縦方向と横方向に何マスでも進むことが出来る。ただし、味方の駒があったときは止まること。さっきのビショップが緑間だとしたらこのあたりは黄瀬に似てるね」
「ナイトは騎士。将棋の桂馬の動きと似ていて、前後左右に動くことが出来る。味方の駒を飛び越えることも出来るし相手の駒をとることも可能だ。あえていうなら青峰だろうな」
「クイーンは最強の駒で、ルークとビショップの特性を併せ持っている。オフェンスもディフェンスも出来る紫原みたいな駒だ」
「ポーンは将棋でいう歩兵で、動き方が少し特殊なんだ。一番弱い駒なんだが、使い方次第で弱くも強くもなる。歩のない将棋は負け将棋、って言葉があるだろう?そういう意味では黒子に似てるな」
「最後はキング。こいつをとられるとゲームが終わる。将棋でいうところの王将だ。どの方向にも一マスだけ進むことが出来る。バスケ部で例えるなら、オレのポジション。さて、ここまでで何か質問はあるかい?」
「バスケ部のこと大事に思ってるんだね」

質問と言うよりも感想になってしまった。将棋とバスケ部で例えてくれたおかげで赤司くんの説明はすんなり頭に入ってきて、ボード上に立つキングの駒を見て確かに彼に似ているなと一人納得。緑間くんのようにテーピングで保護している訳でもないのに、赤司くんの指はとても綺麗だ。
「大事に、か。それはちょっと違うな」

相手のキングの駒をつついて赤司くんが一言「チェックメイト」と呟いた。私が知っている限りでは赤司くんとバスケ部の仲は悪くないようだし、信頼関係もあるように見える。一体何が違うというのだろう。
「You cannot play at chess if you are kind-hearted.って言葉を知っているかい?」
「知らない」
「フランスのことわざでね、心優しいものにチェスは出来ないって意味なんだ」

言葉を続けながら向かい合って座る赤司くんが駒をこちらに寄越してきた。どうやら彼はこのまま話を続けながら私とのチェスの試合をするつもりらしい。話の意図が掴めないまま、相槌を打ちつつゲームを進める。次の一手、十手先を考えながら駒を進めていくところは将棋と同じだ。
「心優しいものにチェスは出来ない。将棋だって常に相手を欺くことを考えて一手を進めなければならない。良い駒を持てば持つほど有利なんだ。そして今までオレはあらゆることにおいて敗北を味わったことがない。これがどういうことを意味するか分かるか?」

素直に首を振った。盤上のビショップ、ルーク、ポーン、クイーン、ナイト、そしてキングが目に入る。ポーンをどういう風に使うのか、ビショップをどのタイミングで動かすのか、考えることはたくさんあるのに赤司くんの唇から目が離せない。
「オレはつくづく良い駒に恵まれてるってことだよ」

コン、と彼が駒を進める音がする。何か反応を示さないと、何か、何かを。ごくりと唾を飲み込んだ。しばらく赤い彼の髪を凝視していたけれど不思議と言葉が出てこない。言いようのない不安感に襲われる。
「……その駒っていうのは、チェスとか将棋とかの駒の話だよね?」
「さあ?どうだろうな。の判断に任せるよ。……ただ、くれぐれもしくじるんじゃないぞ」

私は彼と一体何の話をしているのだろう。将棋の話?チェスの話?…それともまた違う何かの話?これまで何度も繰り返された同じ台詞にひどく寒気がした。一つ駒を進めると赤司くんがやんわりと笑う。
「チェックメイトだ、

ああ、所詮は私も彼に白黒の盤の上で踊らされる駒の一つにすぎないのだ。しくじるんじゃないぞ。ただひたすらに繰り返されるその言葉に目の前の赤がゆっくりと滲んだ。