そうして裏も表もないのなら

あの安室という青年が働き出してからポアロはいつも満席で、落ち着いてコーヒーの一つも飲めやしない。そう不満を零しつつも、私は今日も件の喫茶店へと足繁く通う。決して安室さん目当てではない。あくまで、そう、あくまでも、……好物のハムサンドを手に入れるためなのである。

一体どこから見つけ出してきたのか、いつの間にかポアロ(行きつけの喫茶店)でイケメンが働くようになった。イケメンの名前は安室透。29歳。褐色の肌と明るめの髪が印象的な、好青年だ。職業は私立探偵らしい。何でも、この喫茶店の上で探偵業を営んでいる毛利小五郎に弟子入りしたとか。やけに彼について詳しいなって?何も特別なことはない。全部雑誌や女子高生ネットワークから得た情報なのだから。

毛利小五郎氏が『眠りの小五郎』として持て囃されるようになってから、彼を目当てにポアロを訪れる客足は伸びたものだが、安室さんが働き出してからは眠りの小五郎ブームの比ではなく毎日のようにテーブルは埋め尽くされ、待ち時間まで出る始末で。職場と家のちょうど中間地点にあるこの喫茶店で朝食や夕食を摂るのがルーティンになっていた私にはありがた迷惑な話だった。オシャレなメニューが出るわけでもない何の変哲もない喫茶店がこんなに女子高生や女子大生で埋め尽くされてしまっては、落ち着いてコーヒーの一つも飲めやしない。だが、不平不満を零しながらも私はまた足繁くここへと通う。全ては、そう、
「お待たせしました~」

このハムサンドのせいなのである。

元々ポアロのメニューには好きなものが多かった。どれも決して派手な盛り付けではないけれど、美味しくて、彩りも良く、何より店員さんが可愛いから、ひどい時には毎日のようにポアロで食事を摂っていたこともある。今はさすがに毎日とは言わないけれど、それでも3日に1回は私はこの店のドアを開け、梓さんと軽く挨拶を交わし、コーヒーと軽食(給料日後にはケーキも付ける)を戴いてから家路を目指す。それを一通りこなしてやっと、私は私の1日が終わったことを実感出来るのだ。
「今度、うちに新人さんが来るんですよ」

いつものようにポアロのドアを開け、いつものように席に案内され、いつものようにメニューを注文した私に向かって、梓さんがいつものように可愛い顔をして言った。「最近忙しそうでしたもんね」と声をかけると「そうなんです!もう大変で」と梓さんの顔が綻ぶ。嬉しい悲鳴というやつだろう。この喫茶店の上で探偵事務所を営んでいる毛利小五郎氏がメディアに取り上げられるようになってから、人の入りがまばらだったポアロの店内には常に人がいるようになった。メディアの影響力というのは凄まじいものだなと思いながら梓さんが運んできたコーヒーのカップに口を付ける。一口飲んでから、「新人さん、良い人だといいですね」と言葉を発した。

このとき、「はい、ありがとうございます」と朗らかに答えた梓さんにも、コーヒーに舌鼓を打ちながらメインディッシュを待ちわびていた私にも、まさか2ヶ月もしないうちにこの何でもない日常が一変するなんて思いもよらなかっただろう。そうだ、誰にも予想出来なかった。シャーロック・ホームズのような稀代の名探偵でもあるまいし、一体誰に予想が出来ようか。まさか、あんな青年がこの何の変哲もない喫茶店へやって来るなんて。




金曜午後6時、仕事終わり。同僚たちがオシャレなバーやクラブや合コンに消えていくのを尻目に、私は今日も杯戸町の道を闊歩する。ここ最近は、仕事が忙しかった。オフィスを出るのはポアロの営業時間をとっくに過ぎた頃ばかりで、暗くなった喫茶店の前を通り過ぎて曲がり角のところのコンビニで安売りされている弁当を買い、家路を急ぐ日々だった。

ようやく山場を超えた今日、実に2週間ぶりにポアロの扉を開く。そこで私の目に飛び込んできたのは、いつもの梓さんの笑顔ーーではなく。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

誰だこのイケメン。

……え?何で?何でここにイケメンが?店長は?梓さんは?まさか店間違えた?……いや、でも、ここポアロだよね。さっきドアにポアロって書いてあったし。初めて来た訳でもないし。何なら常連だし。店の場所なんて今更間違えるはずない。じゃあこのウェイターの格好をしたイケメンは、一体ここで何をしているのか。そこまで考えて、ふと2週間前の梓さんの言葉を思い出した。
「今度、うちに新人さんが来るんですよ」

確かに彼女はそう言っていた。じゃあ、彼がその新人店員ということか。……いや、イケメンすぎじゃない?
「……お客様?何名様でしょうか」

ドアを押し広げたままの格好で棒立ちになっている私を不思議そうに見つめながら、イケメン店員が言う。その一言で我に返り、指を一本立てながら「1名です」と答える。にこやかに笑顔を作った彼は、爽やかさをこれでもかと振りまきながら「こちらへどうぞ」空いている席へと私を促した。……あ、ここ、いつもと違う席だ。
「ご注文は?」
「あ、えーっと、……」
「今日のオススメはハムサンドです。美味しいですよ」
「……じゃあ、それで」

ハムサンドなんてメニューにあったのか。知らなかった。いつも決まったものばかり頼んでいたからなあ。オムライスとか、ナポリタンとか。あとコーヒーも。そのうち「いつもの」なんて言っても通じるんじゃないか、と淡い期待を抱いていたりして。
「かしこまりました」

そう言ってメニューを下げる彼の動作一つ一つに釘付けになる。…どうにも落ち着かない。いつもの席じゃないところに座っているせいだろうか。それとも、梓さんがいないからだろうか。何だかポアロではない空間にいるようでムズムズしてしまう。

結局その日のコーヒーはイマイチ味がせず、最後の一口まで飲んでいる心地がしなかった。ただ、あの店員さんがオススメしてくれた通りハムサンドは物凄く美味しくて、今までどうしてこれを注文しなかったのかと少しばかり後悔した。ほんの少しだけれど。




その3日後にポアロを訪れたとき、あのイケメンはいなかった。代わりに迎えてくれた梓さんに彼のことを訪ねると、やはり新しく入った店員だったらしい。メニューはどうしますかと聞かれて、少し悩んでからハムサンドを注文する。「いつものじゃないんですね」と梓さんに微笑みかけられ、ちょっぴり恥ずかしくなった。やっぱり、いつも頼むメニュー覚えられてたみたい。

テキパキと仕事をこなしていく梓さんの姿を視界に入れながら思った。接客されるのならやっぱり梓さんが良いな。優しいし、癒されるし、好きなメニューも覚えてくれてるし。あのイケメン相手だとどうにも緊張してしまう。曰く彼はバイトでこの上の探偵事務所で助手として働く傍らここに勤めているらしいけれど、探偵というのは本当なのだろうか。…芸能人か何かの間違いじゃないか。

その次の週。いつものようにポアロのドアをくぐると、店内には彼がいた。
「いらっしゃいませ」

白い歯を見せながら挨拶をされ、体が強張る。前に1人で来たことを覚えていたのだろう、何も言わずにカウンター席に案内された。……あ、ここって。
「いつもここに座ってらっしゃるんですよね?すみません、この前は入ったばかりで何も知らなくて」
「い、いえ、そんな」
「今日はここ、空けておきましたから」

常連認定されてしまった。週に2、3回は必ずここを訪れているのだから、常連には間違いないのだろうけど。何だか気恥ずかしくて、「メニューはどうされます?」と聞いてくる彼の顔が見れない。
「…あ、えーっと、…ハムサンドでお願いします」
「ハムサンドですね。かしこまりました」

いそいそとメニューを下げる彼の顔が見れず、目線を伏せる。…この前は気づかなかったけど、この人も梓さんに負けず劣らずテキパキしてるな…。接客経験者なんだろうか。メニューを片手に持ち、軽く会釈をする彼に会釈を返す。そのまま踵を返すのかと思いきや、また白い歯を見せて笑った彼に言葉を投げられた。
「この前のハムサンド、美味しかったでしょう?実は僕が作ってるんですよ」

えっ、ほんとですか。そう言おうと思ったのに、咄嗟に言葉が出てこず曖昧な笑みを返す。彼は、私のぎこちない笑みを特に意に介さない様子でパーフェクトなスマイルを浮かべると、メニューを抱えて去って行った。その後すぐに運ばれてきたハムサンドを前に、さっきの彼の言葉を思い浮かべる。こんな美味しいサンドイッチが作れるなんて、イケメンは何でも出来るのか。天は二物を与えずと言うけれど、彼に関してはきっと、それは例外に違いない。




それからというもの、イケメン店員、もとい安室さんが作るサンドイッチを目当てに私はますます足繁くポアロへ通うようになった。自分でも信じられないけれど、正直に言って、私はあのハムサンドの虜だった。パンとハムとレタスだけのシンプルなサンドイッチなのに、あんなにも美味しいとは。一体どんな作り方をしているんだろう。家でもあの味が再現出来ないかと材料を揃えて作ってみたりもしたけれど、結局ここで食べるものには敵わない。この喫茶店で食べているというシチュエーションによる効果も少しはあるのかもしれない。とにかく、どうせ食事を摂るなら家で1人で作って1人黙々と食べるよりも、こうして時折梓さんや安室さんと言葉を交わしながら食べる方がずっと美味しく、有意義な時間を過ごしているように感じられるから、やっぱり私は今日もこの喫茶店のドアを叩いてしまうのである。

彼がポアロで働くようになってから2ヶ月と少しが経った。ここ最近で気づいたことが2つある。安室さんが働き出してから、ポアロの客層がサラリーマンや近所の人ばかりだったのがドリンク1つで何時間でもおしゃべりしている女子高生・女子大生グループに変わったことと、意外にも安室さんは欠勤することが多いらしいということだ。

当たり前だが安室さんは若い女性に人気があった。テーブル席に腰掛けてお揃いのドリンクを注文している女子高生のグループに質問責めにされていたり、女子大生らしき2人組に写真をせがまれている姿を見ない日はないほどに、彼はいつも女性客に囲まれていた。元々イケメンの店員がいるらしいと噂になっていたようだけれど、雑誌の喫茶店特集に今をときめくイケメン店員として掲載されたことでその人気に火がついたらしい。

カウンター席で黙々と注文したサンドイッチを頬張っている私にも、色めき立つ彼女たちの声が聞こえてくるほどに、来る日も来る日も安室さん目当ての女性客でポアロの客席は埋め尽くされていた。彼女たちのおかげで直接聞いたわけでもないのに安室さんの情報がどんどん私の中で更新されていく。下の名前が透ということや、年齢が29歳ということ、実はここからそんなに離れていない場所に住んでいるらしいこと、ギターが弾けること、そして、どうやらポアロや毛利小五郎氏の助手以外の活動も精力的に行なっていて、忙しい生活を送っているせいで度々ポアロを欠勤しているらしいということも。

本人から直接聞いたわけではないけれど、知らぬ間に私は安室さんについての情報をいくつも把握しているようになっていた。それが良いことなのか悪いことなのか、私にはまだ判断がつかない。しかしどれだけ噂が流れようと嫌な顔一つせずテキパキと仕事をこなしていく安室さんは、それだけハードな生活を送っているらしい気配を微塵も感じさせず、今日もまた美味しいサンドイッチを私に拵えてくれる。その姿を見ていると私はやはり、天は二物を与えずというのは全くの嘘っぱちで、天は彼に二物どころか三物すら与えたのではないかと思ってしまうのだ。

そんな中、私がこの町で『彼』に出会ったのは、よく晴れたある日の午後のことだった。




定時上がり、梅雨の晴れ間、金曜日。夜の街へ繰り出すのには最適なシチュエーションばかりが揃っていたその日、私はまたもやクラブではなく杯戸町の一本道を闊歩しながらポアロまでの道のりを進んでいた。今日は天気も良いし、残業もしなかった。いつも店で食べるサンドイッチも、今日はテイクアウトしてたまには家で食べてみよう。ちょうど見たかった映画が地上波で初放送される予定だったはずだ。この時間なら、ポアロに寄ってすぐに帰ればまだ十分に間に合うはず。そう思って足を早めたそのときだった。
「……安室さん?」

道路の向かい側でキラリと光った金髪に、どことなく見覚えがあるような気がしてとっさに振り向く。コンビニの前の横断歩道で信号待ちをしながら会話をしているらしい2人組。その右側の、金髪に褐色の肌をした男性に見覚えがあった。昨日も見た顔だ。

あの安室さんが、およそ安室さんとは思えない険しい顔をして、道路の向かい側に立っていた。声をかけようと向こうへ一歩踏み出した足を止めてしまうくらいには、険しい顔を彼はしていた。ポアロのときとは180度違うその姿に面食らい、信号が変わって横断歩道を歩き始めた2人が近づいて来ても声を出すことが出来ない。安室さんの顔をした彼は、そのまま何も気づいていないかのように涼しい顔をして私のそばを通り過ぎ、そのまま路地へと消えて行ってしまった。

行き場のなくなってしまった爪先を引っ込めて、考える。…一体今のは、誰だったんだろう。金髪も、褐色の肌色も、背格好も安室さんだったけれど、安室さんとは決定的な何かが違っていた。目すら合わなかったし。話に夢中で気付かなかった?こんな至近距離にいたのに?…安室さんの隣にいた眼鏡の男性とは何度か目が合ったけれど、彼とは不自然なほどに一度も目が合わなかった。そこそこポアロには通っているつもりだし、顔も覚えてくれていると思っていたのだけれど、そうではなかったのだろうか。安室さんじゃなくてよく似たそっくりさんとか?いや、そんなまさか。こんな小さな町にあんなイケメンが2人もいたらたまったもんじゃない。それじゃあ良く似た双子とか?そんな話は聞いたことがないけれど、もしかしてという事は有り得る。たまたま機嫌が悪かったという線も、プライベートではあまり声をかけられたくないタイプという線も勿論あるけれど、何となくそれらは違う気がして。…どうにもポアロへ寄る気分にはなれず、その日はそのまま家へ帰ってしまった。


そして、二度目にその『彼』に出会ったとき、彼は私服ではなくスーツに身を包み、駅前の交差点に停めた車のすぐ側に立っていた。思いがけず二度目の遭遇となってしまい、声をかけるべきかそのまま知らん顔で通りすぎるべきか迷っている間に、「降谷さん!」と大きな声を上げながら見覚えのある男性があちらから走ってくる。この前交差点で安室さんの隣にいた男の人だ。息を切らして走って来たその男性に向かって、安室さんらしき男性が口を開いた。
「風見!いたか?」
「……いっ、いいえ!すみません見失いました」
「まだ近くにいるはずだ。追うぞ!来い!」
「はい!……降谷さん!待ってください!」

バタン、ガチャガチャと音を立て傍らの車に乗り込んでいく彼の後ろ姿に、掛けようとした言葉が尻すぼみになって消えていく。瞬く間に見えなくなってしまった白い車の残像だけが頭の中に残った。…何だったんだ今のは。やけに緊迫した様子だったけど。脇目も振らずに一目散に車を発進させた彼の姿を思い浮かべる。

車で誰かを追いかけていた?一体誰を?それに、あの安室さんによく似た男性の隣にいた眼鏡をかけた男の人、彼に向かって「ふるやさん」と言っていたあの人は、一度見たことがある。この前の交差点で安室さんの隣に立っていた人だ。前に見かけたときは友人か親戚か何かだろうと思っていたけれど、今日のやり取りを聞く限り、安室さんが先輩で彼の方が後輩らしい。てっきり逆だと思っていた。友達ではないのだろうか。ひょっとすると探偵業の仲間かもしれない。仲間にしてはピリピリとしたムードが辺りに漂っていたのが気になるけれど、きっと、よっぽど厄介な事件だったのだろう。ここのところ毛利小五郎氏も忙しいみたいだし、弟子の1人や2人取っていても不思議じゃない。

…それにしても、かっこいい車に乗ってたなあ。


猛スピードで走り去っていく寸前に見た、あの白い車をふと思い出した。かっこいい車だったなあ。確か、車の名前はRX-7だったはずだ。試しにネットで調べてみる。…あった。やっぱりスポーツカーか…高い…。レンタカーって訳でもなさそうだったし、じゃあ、あれは安室さんの愛車だろうか。実はお金持ちの御曹司だったりするのかな。ああ、だから29歳にして私立探偵なんてものをやっていられるのか。お金持ちの坊ちゃんが暇つぶしがてら片手間にバイトしてるみたいな?それならあのポアロのシフトのムラにも合点がいくし、あの眼鏡の男の人は探偵業の仲間ではなくお付きの人とかなのかもしれない。

だけど、あのとき安室さんに向かって「ふるやさん」と言っていたあの人は、お付きの人にしては随分余所余所しい態度で、とても坊ちゃんとそのお付きの人のようには見えなかった。まるで、会社の上司に接するときのような、そんな態度をしていた。私もよく上司に対してああいう風に接しているから、肩肘を張ってしまう感じはよく分かる。お付きの人ならばもう少し、くだけた態度で接するんじゃないのか。ほぼ家族みたいなもんだろうし。よくドラマとか漫画とかとかで見るボンボンの坊ちゃんとその世話を焼く爺やみたいな…。それとも、実は安室さんは芸能人で、あの人はマネージャーだったりとか。本名が安室透で、芸名は「ふるや」ということになっているとか。そちらの方がまだ説得力がある。あれほどのイケメンならば芸能事務所が放っておかないだろうし。

それとも、さっき見た彼らは安室さんとは全く関係がなくて、他人の空似だったんだろうか。それにしたってあんなそっくりな人いる?ドッペルゲンガーでもあるまいし、外見どころか声まで同じだったんだけど。………。ああダメだ、安室さんのことがますます分からなくなる。元々名前と年齢と職業くらいしか知らなかったけれど、今はその情報が正しいのかすら怪しい。




ふるや、と呼ばれる彼に最初に出会ったあの日、ポアロの店内を覗いてみるとそこに安室さんはいなかった。その次に出会った日も、やっぱりあの喫茶店に彼の姿はなく「いらっしゃいませ」と朗らかに微笑む梓さんが出迎えてくれただけだった。安室さんは?と聞くと、最近他の仕事が忙しいのかポアロにあまり顔を出さないと聞かされて、やはりあの青年と安室さんは同一人物なのではないかという疑念がぐるぐるとついて回る。それから何度かまたサンドイッチを目当てにポアロへ足を運んだけれど、1週間の間、とうとう彼は姿を現さなかった。

その後、実に1週間ぶりにポアロに姿を見せた彼は、そのつるりとした頬に不似合いな絆創膏を貼り付けていた。久方ぶりの彼の登場に色めき立つ女子高生グループから悲鳴が上がる。カウンターまで注文を聞きにきた彼に「大丈夫ですか」と尋ねてみると、「平気ですよ、かすり傷なので。ただこの歳になるとちょっとした傷でも治りが遅くて…困ったものですね」とおどけてみせた彼に、それはこの前のときに出来た傷ですかとは聞けなかった。何食わぬ顔で注文を終えた私に、彼はとびきりのスマイルを見せてから店の奥の方へと引っ込んでいく。胸に詰まっていた息を一気に吐き出した。やけに緊張してしまうのは、やはり、あのとき車の側に立っていた彼の姿が頭にこびりついて離れないからだろうか。顔に傷を作るなんて、一体何をしていたのだろう。取っ組み合いでもしたんだろうか。それほどの事件だったということなのかもしれない。ただ単にぶつけただけとか、道で転んだだけとかの可能性もあるけれど、だけど、もう、私の中で疑念は確信へと変わりつつあった。
「お待たせしました」

いつものようにハムサンドを運んできた安室さんに向かって「あの」と声をかける。どうしました?と振り向いた安室さんに、ごくりと唾を飲み込んだ。
「安室さん、あの、……1週間前って、駅前にいませんでしたか?」

にこやかだった彼の表情が強張る。その一瞬の表情の変化を、私は見逃さなかった。すぐに元の笑顔に戻った安室さんが、頬に貼った絆創膏を指で掻きながら少し屈んで耳元で囁いてくる。耳打ちされたそれは、私には、とてもじゃないが予想外な言葉だった。
「僕、このあと30分でシフト終わりなんです。それまで待っててもらえますか?」

運ばれてきたばかりのハムサンドをひっくり返しそうになった。待っててもらえますかって、え、どうして。どういうこと。混乱する私をよそに、もうすぐシフトが終わるらしい彼はそそくさと別のテーブルへと移っていった。…あんなに好きだったはずのハムサンドの味がしない。喉に通らないのを無理やりコーヒーで流し込んで、私はただひたすら時計の針が進むのを待った。一生にも感じられるほどの30分だった。


お会計を済ませ店の外へ出ると、もう彼はそこで私を待っていた。手招きされるままに少し離れた路地まで着いていくと、見覚えのある車が視界に入る。白のRX-7。……やっぱりこの車、安室さんのだったんだ。有無を言わせず車へ乗るよう促した彼に、1週間前のあの緊迫した彼らの様子を思い出す。バタン、とドアを閉めたと同時に、車が動き出した。辺りはもうすっかり暗くなっていて、私は何故かスポーツカーに乗っていて、隣の運転席にはポアロの制服を脱ぎ私服に着替えた安室さんが座っている。ただならぬ状況にどっと汗が吹き出した。車は緩やかに杯戸町の街並みを進んでいく。沈黙が肌を突き刺すように痛い。4つ目の信号に引っかかった後、ようやく安室さんが口を開いた。

「見てました?」
「見てました」
「…………」
「…………」
「見られてしまっては、もう、仕方ありませんね」

長い沈黙の後、どこぞの悪役かと思うようなセリフを吐いた安室さんに私は目を見開いた。運転席でハンドルを握る安室さんは、尋常じゃないくらいに汗をかいている私に対し、涼しい顔で運転を続けている。その冷静さが今は怖い。一体どこへと連れて行かれるのだろうと不安に思い始めたところで、狭い路地で車が停車した。

ハンドルから手を離し、ギヤに手をかけながらこちらを向いた安室さんがにっこりと微笑む。ポアロで見せるものとはまた違ったその顔に、空気を読めない私の胸は少し高鳴ってしまった。
「僕の秘密をお教えしましょう。……安室透は嘘つきですが、今から僕が言うことは本当だと思っていただいて構いません」
「……は、はい」
「僕の本当の仕事は警察官です」
「はい?」

びっくりしたでしょう?と悪戯っぽく笑う顔から目が離せなくなる。…今、警察官って言った?誰が?安室さんが?警察官?警察官ってあの警察?お巡りさんってこと?…え、ちょっと、嘘でしょ。

理解が追いつかない私をよそに、くすくすと笑いながら安室さんが続ける。
「正確には警察の中でも公安警察なんですけどね」
「……す、凄いですね」

混乱のあまり当たり障りのない返答しか出来ない私をどうか笑ってほしい。…今、隣にいる人が警察官だなんて、とてもじゃないが信じられない。信じられないけれど、こんな場面で彼が嘘をつくはずがないし、安室透が嘘つきだというのなら、目の前の彼はきっとそうではないのだろう。
「駅前で見ていたんでしょう?あのとき隣にいた男が僕の部下です。これでも結構上の方なんですよ」
「……何となく、そうじゃないかなと思ってました」

あの眼鏡の男の人、やっぱり安室さんの部下だったんだ。2人の間に漂っていたピリピリとしたムードを思い出す。部下がああいう態度を取るということは、安室さんはもしかすると上司としては怖い人なのだろうか。全然想像がつかない。どんな警察官なんだろう。どんな仕事をしているんだろう。「ふるやさん」と呼ばれていたけれど、あれが彼の名前なんだろうか。じゃあ、安室透とは一体誰なのか。次から次へと疑問が湧いてきて全然整理がつかない。それを振り切るようにして口を開いた。
「あの、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「お名前が安室透っていうのは」
「嘘ですね。偽名です。薄々気づいていたでしょう?」

そうなると、「ふるや」という名前がおそらく本名なのだろう。本業の方で呼ばれていたみたいだし。まあ、どっちも偽名という線も捨てきれないけれど。…この調子だとまだ他にも名前がありそうだ。うっかり人前で呼び間違えたりしたら悪いので、あえて聞かないことにするけれど。それとも、意図せず彼の秘密を知ってしまった今、安室さんと呼ぶのはもうやめた方が良いのだろうか。でも、わざわざ偽名を使ってまでバイトをしているということは何かそうせざるを得ない事情があるはずで、本名がバレると不都合があるからなのだろう。というかポアロの面接よく偽名で通ったな。イケメンだからだろうか。そりゃこんな顔でここで働きたいって言われたら断る人はいないだろうけど。
「聞きたいことはそれだけですか?」

それだけかと聞かれると、嘘になる。聞きたいことは山ほどあるに決まってる。だけど、一体何から聞けばいいのやら。
「…私立探偵っていうのは本当ですか?」
「半分本当です。本業は警察ですけど」
「29歳なのは」
「それも本当。何なら免許証でも見せましょうか?」
「……いや、いいです。そこまでして頂かなくても…」

真面目な人ですね、と返されて言葉に詰まった。何が面白いのか、こちらを見ながらくすくすと笑う彼の顔を正面から見つめてみる。…こんなに爽やかに笑う人が警察官なんて、やっぱり想像つかない。まだ芸能人だと言われた方が信じられたかもしれない。スーツ姿は確かに格好良かったけれど。だんまりを続けるだけの私を不思議に思ったのか、笑うのをやめた安室さんに「どうしました?」と尋ねられてしまった。
「……29歳には見えないです」
「もっと若いと思ってました?それとも、もっと上に見えるってことかな」

30代に見えるだなんて、そんなまさか。次は彼に何を尋ねようか、何から尋ねるべきかを考えているうちに停まっていた車が再び動き出した。家はどの辺りですかと聞かれて、そこの角を曲がってすぐだと答える。滑るように進んだ車はあっという間に私の住む小さなアパートの前へと辿り着いてしまった。

車から降り、埃一つついていない白いスポーツカーを両目でじっと見つめる。まさかこの車に乗るなんて、店の外で安室さんと話す機会があるなんて、1週間前には思いもよらなかったなあ。ただハムサンドを食べに喫茶店へ通っていただけのはずなのに、いつの間にか大変なことになってしまった。未だに落ち着きを取り戻せず突っ立ったままの私に向かって、パワーウィンドウを開けた安室さんが声をかけてくる。

さん」

あれ、そういえば私、いつの間に名前教えたんだっけ。はいなんでしょうと答えるより先に、安室さんが続ける。
「君に、僕の秘密が守れるかい?」

唇に人差し指を当て、およそ29歳とは思えないキラーウインクで問うてくる彼に、考えるより先に「はい」と言葉が口をついて出た。秘密を守れるかって?当たり前だ。自慢じゃないが昔から口は堅い方だったし、義理堅くもあるつもりだ。それにこんなドラマのような話、例え誰かに言ったって信じてもらえないに決まってる。

時刻は夜の9時を回っていた。運転席からヒラヒラと手を振ってくる安室さんに視線を返すことが出来ない。…どうしよう、もう明日からポアロ行けない。とんでもないことになってしまった。ハムサンドはきっとしばらくお預けだろう。家で自分でも作れるように、どさくさに紛れて今のうちにレシピを聞いておいた方がいいのかもしれない。しかし彼はそんな私に追い打ちをかけるように「安室透」の顔をして、私の名前を呼ぶとにっこりと微笑んだ。
「明日も来てくれますよね?さんが好きなハムサンド、用意しておきますから」

バレてた。ハムサンド目当てにポアロに通っていたのがバレていた。一体どこまでお見通しなのだろう。一体いつから分かっていたのだろう。そんなことばかりをぐるぐると考えてみても、稀代の名探偵でも、ましてやその助手でもないただの一般市民の私には、何も分かるはずもない。ああ、でも、そんな私にも1つだけ分かることがある。これから私のお目当てがハムサンドから安室さんに変わるまで、そんなに時間はかからないはずだ。直感がそう告げていた。