As he likes it.

首都高を一直線に駆け抜けるスポーツカーも、おとぎ話に出てくるお城も、透き通るような海の色も、星が落っこちてきそうな夜空だってそうだ。世の中の美しいものはすべて彼のためにある。そう思わなくてはやってられなくなるほどに、跡部景吾は特別な人間であった。

校門の前に横付けされたリムジンのすぐ隣りを歩かない、学食を使うときはストーブに一番近い席には座らない、校舎裏のフェンスの前(テニスコートがよく見える)に立つのは一人につき3分まで、外周中の男子テニス部の部員にはいかなる理由があろうともみだりに近寄ってはいけない。

いま氷帝にある明文化されていないルールはすべて跡部のために出来たものだ。

宗教という言葉がぴったり似合うと思った。跡部のために道が出来、跡部の着ているセーターが品薄になり、食堂では跡部の食べるメニューが一番人気になって、教室は跡部の朗読する番が回ってくるときにだけ完全な静寂がやってくる。氷帝においての跡部景吾は絶対で、絶対たる所以もこれでもかとばかりに揃っているものだから、誰もが彼を「跡部さま」と呼ぶことに疑問の一つも抱いていなかった。




「キャー!跡部さまー!」
「こっち向いてくださーい!」

歓声を上げるときほんとにキャーと言う生き物を、私は氷帝に入学して初めて目の当たりにした気がする。誰もいない多目的室の陰に山ほど積まれた机と椅子を一組引っ張り出して、斜め下で押し合いへし合い蠢く幾つものつむじを見下ろしながら、その先のテニスコートへと目線をやった。体育館5つ分はあるだろう広いテニスコートに総勢200人を越える部員が集結している様は何度見ても圧巻で、これだけの人が同時に同じ場所にいて酔ったりしないんだろうかとぼんやり思いながら、隅々まで目を走らせる。

お目当ての人物の姿はわざわざ探さなくても分かるくらいに、200人いるらしい部員の中でも特に目立っていた。異彩を放っていたと言った方がいいのかもしれない。あっちこっちに動き回る彼の後ろを付いて回るように黄色い声が四方八方から飛んでいくのを、よくやるよなあと半ば感嘆のような気持ちを入り混ぜながら、椅子に座る位置をずらして顔をさらに左に向けた。こうした方が、日の光を受けて光る金髪がよく見える。真下からの黄色い歓声を受けながら、ふと自分があの中の一人になったらどうだろうかと想像してみた。…きっと10秒もしないうちに熱に当てられて死んでしまうんじゃないかな。

誰もいない多目的室と、それに続く廊下には足音一つさえ響いてこない。ほとんどの生徒はもう家路についているか、部活をしているかで、そのどちらでもない私のような暇な生徒もとっくの昔に外に出て何かしらの遊びに興じている頃のはずで、がらんとした校舎は水の滴る音ですら大きく聞こえるくらいに静かだ。

授業をする教室とは打って変わって殺風景な多目的室には、去年の文化祭で使った装飾の残りかすや年末の大掃除で使うらしいモップやちりとりが無造作に埃と一緒になって置かれていた。クラスメイトのあのお坊ちゃんやお嬢さんたちが自ら埃にまみれて掃除をするなんて到底思えないけれど、一体いつの品なんだろう。誰かが置きっぱなしにしたまま忘れてしまったんだろうか。氷帝はお金持ち学校として有名で至る所が庶民には理解しがたいほど煌びやかに装飾されているけれど、こういうところはきっと他の学校と同じなんだろうと思う。

徐々に太陽が西の空に落ちてきて、完全に日が傾いた頃。テニスコートに残る人数がまばらになったところで私は腰を上げて椅子と机をもとの場所に戻し多目的室を後にした。このあとの氷帝テニス部の動向は何となくだけれど把握している。

ナイターの明かりに照らされたテニスコートで、準レギュラーと正レギュラーは自主練、それ以外の部員はストレッチ、そしてフェンスを突き破らんばかりに身を乗り出して黄色い声を上げていた女の子は皆、散り散りになって帰っていく。これも、暗黙のルールのうちの一つだ。

正規の部活動終了時刻を越えてまでテニス部の応援をしてはならない。

一体どこの誰がいつ決めたのかも分からないこんな条約を、私もあの子たちも一日たりともかかさずきっちり守っている。あれもこれもすべては跡部景吾という人物ただ一人のためなのだ。



船を漕いでいた。あまりにも授業が退屈で、フランス語だかなんだか忘れたけれど日常生活で聞いたことのないヨーロッパの言葉はとんちんかんな呪文にしか聞こえなくて、手にシャープペンシルを持ったまま、かくんかくんと船を漕いでいた。
「おい」

かりかりとペンをノートに走らせる音、どこかのページの一文を読み上げて解説をしているらしい先生の声にまぎれて低めの二文字が後ろのほうから響いてくる。うつらうつらと夢の世界に引きずり込まれそうになりながら、あぁ誰かが呼ばれているなと思っていたときだった。
「……おい、おまえ」

トン、と肩甲骨のあたりに軽い衝撃のあと、後ろから聞こえてきた、低い声。全身からサッと血の気が引いていく。一気に覚醒した頭が聞き逃すはずがない。あの人の声だ。がばっと顔を上げると、前の席の人が置いたらしいプリントの束が机から落ちる寸でのところで折り重なっていた。首が一回転しそうなくらいのスピードで振り返るとシャープペンを片手に頬杖をつく姿が目に入る。
「プリント。早く回せ」
「ごっ、ごめんなさい」

話しかけられてしまった。

余韻に浸る間もなくブルーの瞳が私を急かす。紙の束から自分の分のプリントを一枚とって、後ろへ送る。渡すときに手が触れてしまわないか少しハラハラした。私と同じように一枚とって、さらにその後ろへと手渡した彼の手の甲あたりをまじまじと見つめる。血管一つないように見える白い手はまるで氷のように見えた。

強豪と謳われるテニス部の部長として200人の頂点に立っていて、小学生のときはイギリスで過ごしたおかげで英語はもちろんギリシャ語とかドイツ語とかその他幾つもの言語がペラペラで、外国人のような顔立ちによく通る声、そのうえさらに生徒会長として今度は千人ほどの人間の上に立っていて、氷帝始まって以来の有名人かつ優等生。

もはやハイスペックという言葉一つで片付けるのが憚られるほどにどれを取っても一番で完璧でパーフェクトなその人、跡部景吾は、なんと教室では私の後ろの席に座っているのだ。




「跡部くん」

同じ学年の男子の中で私がくん付けをするのは跡部ただ一人で、あとの男子は皆呼び捨てにするのに、彼のことはどうにもそう出来ずにいた。さすがに本人の前でさま付けでは呼べないけれど、呼び捨てにすることも出来ない私なりの苦肉の策だ。椅子を引いて振り返った私の声に、さきほどまで使っていた教科書の端を丁寧に揃えて机にしまっているところだった跡部の目線が上に向けられる。
「あの、あの、……さっきは、もたもたしちゃってごめんなさい。あと、ありがとう。助けてくれて」
「……アーン?」

早口に言いすぎたせいで聞き取れなかったところがあるのかもしれない。ぐっと眉間に寄せられたしわも、少し斜めに傾げた顔も、顎から頬にかけての輪郭をなぞるように添えられた指も、まるで絵画のように完成された美しさがある。

結局あのあとも授業に集中出来ずにいた私はテキストを朗読するよう当てられるもどこを読んでいいのか分からずに冷や汗をかくばかりで、とうとう後ろにいた跡部に「ページ38だ。そのページじゃねえ。そこの三番目の段落」と教えられる羽目になってしまい、やっと朗読が終わって席に座るよう促されたときにはもう消えたくて消えたくてたまらない気持ちでいっぱいだった。何を言っているのか三分の一も理解出来ていないのに完璧に朗読するなんて出来るわけがない。何度も何度も詰まりながらやっとの思いで席に着いたときには、後ろの席の跡部はもう椅子を引いて立ち上がり自分の分の朗読を始めてしまっていた。


傾けた首を元のまっすぐに戻してから跡部が口を開く。

「おまえ」
「はい」
「テキストを読む声がちいせえ。せめて俺様に聞こえるようにしろ」
「はい」
「次どこから読むのか分かんねえだろ」
「……ごめんなさい」

本日二度目の謝罪。すみませんの方が、より丁寧で良かっただろうか。ごめんなさいの続きになる気の利いた言葉なんて出てきそうになくて、ふんと鼻を鳴らした跡部に背を向け机の上に散らばったままだった筆記用具を一生懸命にかき集める。そして、後ろの席の気配が完全に感じ取れないようになるまでその作業は続いた。

がた、と椅子を引く音がしてすたすたと教室を出ていく跡部の背中に、廊下を歩く女子生徒の熱い視線がついて回る。その姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、思いっきり胸を撫で下ろす。同じクラスにいる男子生徒とほんの数十秒会話をすることがこんなにも心理的負担を伴うとは思ってもみなかった。

テキストではなく私自身をまっすぐに見据えてくる強い瞳、自信と高潔さをよく表している低く美しい声色、何をしていても優美さを感じさせる佇まい。どれをとっても私を緊張させるには十分すぎるくらいの要素であって、世界中の憧れを集めて溶かして固めたらきっと跡部が出来上がるんだと思う。今まで生きてきたどの環境の中にも彼みたいな人はいなかった。それくらい、跡部景吾という人物は私にとって唯一無二で絶対的な存在で、それは他の人にとっても同じ。跡部の携帯のアドレス帳に総理大臣の名前が入っていたってきっと、ここにいる誰も驚かないだろう。

今日も元気にテニスコート脇のフェンスに群がる女子生徒の集団とその先で踊る金髪を眼下に見下ろしながら、そんなことをずっと考えていた。私とあの女の子たちが決定的に違うのは決して部活動中の本人に声をかけないことだ。黄色い声援であっても、氷帝コールであっても、私が自ら進んであの人に声をかけたことなんて無いに等しい。そういえば、これだけ跡部を頭の中で勝手に褒めちぎっておいて面と向かってまともに会話したのは今日が初めてだったな、と考えを巡らせているうちに、ボールがラケットに弾かれる音の合間に聞こえてくる女子の話し声は減るどころかボリュームを増していった。

暦の上ではいよいよ日が落ちるのが早くなってくる季節になったけれど、私や彼女たちの放課後は長くまだまだ終わりそうにない。



跡部の声は決して声量が大きいわけではないのによく通る声をしている。
「樺地、ハンバーグセットだ」
「ウス」

パチン、と指を鳴ったのと同時に注文の列へとお盆を二つもって向かっていった樺地くんと彼の会話にこっそり聞き耳を立てながら、きっと今からの時間と明日のお昼はハンバーグを頼む生徒で食堂が溢れかえることが容易に予想された。毎日決まった時間に食堂を利用する彼は樺地くんがいない間、一人優雅にソファに腰掛けて本を読んでいる。遠すぎてタイトルも何も分からないけれど分厚い本だ。きっとギリシャ語だろう。

皿に残ったオムライスの最後の一口を運びながら、そういえば部活でいつも一緒にいるテニス部の男子たちはどうしたんだろうと考えた。あれだけ騒がしければどこにいたって目立ちそうなものなのに、跡部の周りは静かでまるで他の生徒など存在しないかのよう。

気になって辺りを見回してみると、跡部とは反対側のストーブ周辺に向日と宍戸、その傍らに芥川、そしてさらに奥に行ったところで滝がこれまた古めかしそうな本を読んでいるのが見てとれた。なんだいつもテニス部と一緒にいるわけじゃないのか、とひっそり心の中で思う。食堂の真ん中、ストーブや冷房が一番に当たる特等席に一人腰掛ける跡部と、その周りで各々好きなことをして時間を過ごしているテニス部の部員たちを交互に見る。

もしかすると彼らのことをテニス部という一つのくくりとして考えているのは私たち部外者の人間だけで、本人たちにとっては案外それほど重要ではないことなのかもしれない。現に、跡部の向かいや四方の席はそこだけ不自然なくらいにぽっかりと穴があいているのにも関わらず、散り散りになったテニス部の部員たちはそこに座るどころか跡部の方を見ようともしていなかった。ああ、もちろん、常に跡部の後ろに付いている樺地は別として。



跡部の声がよく通るのは食堂だけじゃなく教室でだって同じで、決して声を張り上げたりはしないのに彼の言葉には一つ一つ重みがあり、刺さるくらいに透き通ったブルーの瞳がさらにその威圧感に拍車をかけていた。そんな跡部景吾に真正面から見下ろされてしまっては、まるで蛇に睨まれた蛙のように小さく縮こまるしかない自分が情けなくて仕様がない。
「相変わらず声が小せえなテメーは」
「すみません」
「発声するときは腹から出すってことも知らねーのか?」
「知ってます」
「基本的なことだろうが」
「ごめんなさい」

さっきから謝りっぱなしで「ごめんなさい」や「すみません」ばかり繰り返す私に今度は「それしか言えないのか」とばかりに冷ややかな視線が向けられる。今の「ごめんなさい」のほうが、さっき私が授業中に英文を読み上げたときの声よりも大きかったことには自分でもしっかり気づいていた。それが彼の神経を逆撫ですることになっているのにも、何となく気づいてはいた。

だけど、頭で分かってはいても、後ろの席からの視線や私の朗読に合わせて彼の白い指先がページをめくっているであろう音、そんなほんのちょっとのことが気になって、正直に言ってしまえば朗読なんてしてる場合じゃないのだ。こんなこと、この席になってからが初めてで以前は何ともなかったことなのに、理由が理由だからろくに言い訳も弁明もさせてもらえないのが余計に悔しくて悲しい。

いつの間にかギリシャ語の時間は私にとって一週間の時間割の中で最も憂鬱な時間になっていて、毎週のように跡部のなめらかな発音が聞けるなんて天国だと嬉々として選択科目として選んだときの情熱も今はもう跡形もなく消え去ってしまった。いつ当たるのかとびくびくしているさまが目立つのかほぼ毎週のように朗読をするよう命じられ、その度に私のあとに順番が回ってくる跡部に目くじらを立てられる。それを毎週繰り返していれば自然と話す時間も増え、女子から羨ましいと言われる回数も増えたけれど、私としては、氷のように冷たい瞳で理路整然と言葉を並べる跡部よりも、金髪をなびかせてテニスボールを汗塗れになりながら追いかける跡部の方が何十倍も好きで、何時間でも眺めていられるとさえ思えるのだった。

世の中の美しいと評される事柄はすべて彼のためにある。そう私に強く思わせる一番の理由はなによりも、彼自身が美しいからだ。フェンスに群がる女子やコートの隅でボールを拾っている部員からの氷帝コールを背中で受け止めながら「俺様がキングだ!」と高らかに宣言する彼を、誰もが羨望のまなざしで見つめているのも見慣れた光景になってしまった。一番初めに聞いたときは何の冗談かと思ったけれど、今、その言葉に疑いの余地はない。

彼のために道が出来て、彼のための椅子が用意され、この目は彼の姿を焼き付けるために生まれたもので、彼の朗読するギリシャ語の例文を、高らかに笑うその声を聞くためだけにこの耳がある。本当に、彼こそが私たちの王様なのだ。



夏休みも終わり、テニス部の部員そして応援席の女子生徒がちりぢりになるまでの時間も段々と短くなってきた頃。相変わらずギリシャ語の時間は憂鬱で、跡部の切れ長のブルーの瞳は秋の夜長よりも冷たい温度を保っていて、そして私は少しだけ腹式呼吸が上手になった。

季節が変わっても私やテニス部のすることは何も変わりやしなかった。全国大会で負けた跡部たち三年生は部活を引退して、今は二年生のおかっぱ頭の少年が部長を引き継いで次のシーズンへ向けての練習を始めているらしい。だけど、代が変わって氷帝コールが聞こえなくなったりあの高笑いが二度と聞こえることもなくなったりするわけではなかった。現役だったときに比べてさすがに頻度は少なくなったものの、跡部たち三年生は時折部活に顔を出し、女子生徒からの黄色い声援をこれでもかとばかりにその背中に浴びている。

特に、跡部がコートに姿を現した日にはコートの傍で見物している女子の数が三倍に膨れ上がるものだから、私はわざわざ自ら探しにいかなくとも彼が今日テニスをしているのかしていないのか自然に知ることが出来ていた。
「跡部さまー!」
「キャー!跡部さまー!」
「こっち向いてくださーい!」

歓声を上げるときほんとにキャーと言う生き物を、私は氷帝に入学して初めて目の当たりにした気がする。誰もいない多目的室の陰に山ほど積まれた机と椅子を一組引っ張り出して、斜め下で押し合いへし合い蠢く幾つものつむじを見下ろしながら、その先のテニスコートへと目線をやった。体育館5つ分はあるだろう広いテニスコートに総勢200人を越える部員が集結している様は何度見ても圧巻で、これだけの人が同時に同じ場所にいて酔ったりしないんだろうかとぼんやり思いながら、隅々まで目を走らせる。

お目当ての人物の姿はわざわざ探さなくても分かるくらいに、200人いるらしい部員の中でも特に目立っていた。異彩を放っていたと言った方がいいのかもしれない。今、引退した人を含めると少し減って150人くらいになっているのかもしれないけれど、それでも十分すぎるほどだ。

あっちこっちに動き回る彼の後ろを付いて回るように黄色い声が四方八方から飛んでいくのを、よくやるよなあと半ば感嘆のような気持ちを入り混ぜながら、椅子に座る位置をずらして顔をさらに左に向けた。こうした方が、日の光を受けて光る金髪がよく見える。真下からの黄色い歓声を受けながら、ふと自分があの中の一人になったらどうだろうかと想像してみた。

……きっと、10秒もしないうちに熱に当てられて死んでしまう。眩しすぎる。そんなことは十分承知していたはずなのに、それでも、名前を呼ばずにはいられないようにさせる力が彼にはあるような気がして、届きっこないと分かっていながらも窓のサッシに手をかけ名前を呼んだ。


跡部景吾。跡部さま、跡部さん、跡部くん、……跡部。


跡部さま跡部さまと呼び交う高い声色のなか、敬称もつけないただの三文字が一体誰に聞こえるというのだろう。ばかばかしいと思いながらも不思議と達成感に包まれて、何となくこれまで幾度となくこの場所に通いつめてきた自分の目的が遂に果たされたような心地さえする。まだテニス部は自主練に残るみたいだけれど、今日はもうこれでいいや。満足だ。

そう思って踵を返そうとしたとき、ほんの一瞬の出来事だった。どれだけ名前を叫ばれようとコートでひたすらテニスボールばかりを追いかけていた跡部景吾がこちらを向いた。途端、フェンスでただ声援を送るだけだった女子の塊から幾つもの悲鳴が上がる。
「あ、跡部さまが私を…!」
「違うわよ!私!」
「待って!私よ!私!今、私の方を見た!」

まるで芸能人のコンサート帰りのように彼と目が合ったのは自分だと主張する女子生徒の喧噪がまるでずっと遠くの出来事のように聞こえづらくなっていく。なるほど感覚が研ぎすまされると言うのはこういうことかと他人事のように思った。そして、うぬぼれや自意識過剰のたぐいでは決してないと誓える。

ラケットを片方の肩に背負って、私のいる方角を指差すようにして跡部景吾がそこに立っていた。



いつの間にか女子生徒の喧噪も消えて、テニスコートに立つ跡部と、多目的室で立ち尽くす私しかこの学校にはいないかのような錯覚に陥る。もちろんそれはただの錯覚で、我に返り眼下を見下ろすと跡部の指先と視線を追って、何十もの目がこちらを見つめていた。
「なあに?あの子」
「跡部さまの彼女?」

とんでもないことになってしまったと、気づいたときにはもう遅い。彼女、という単語が出たせいで一気に疑惑の目に変わる女子生徒たちに、ただただ首を真横に振ることしか出来なくて、慌ててこの騒動の中心人物である跡部を見る。すると彼は涼しい顔をして、何やらおかしそうに口の端を歪めた。
「バーカ」

釣り上げられた口元がそう言っているようにしか見えなくて、たまらなくなった私は椅子と机を片付けるのも忘れ多目的室を飛び出した。階段を飛ぶように駆け下りる最中、今まで見てきた彼の色々なことを思い出す。授業中の私に向かって注意をするときの冷ややかな瞳、食堂で一人樺地くんを待っているときに見せた本をめくるゆっくりとした指の動き、そしてテニスをしているときの楽しそうな顔。

走ってきた勢いのままテニスコートに飛び出すと、もうそこに跡部はいなかった。

今まで見たことのあるどの顔とも違う、さっきの跡部の姿をもう一度思い出してみる。今まであんな顔は一度たりともしなかったのに、どうして。それ一つが聞きたい一心できょろきょろと辺りを見回すと、ちょうどテニスコートの向かいにある校舎に金色の後ろ姿が吸い込まれていくのが目に入った。呼吸を整えてから、走り出す。どうやって声をかけようかなんて、迷っている暇なんてない。




「跡部!」

息を切らせながらテニスコートの裏、多目的室の向かい側の校舎の入り口へ一目散に駆け抜ける。あまりに急いだせいで途中で何度も転びそうになった。もつれる足を振り払いながら、私はテニスラケットを背負った人物めがけて進んでいく。うわばきのまま外に飛び出してきてしまったけれど、今はそんなことどうでもいい。

一歩ずつ跡部に近づきながら、もう一度、私のよく知る彼の姿を思い出した。教室で外国の言葉を流暢に読み上げているときも、退屈そうに食堂で本を読んでいるときも、テニスコートにいるときもそうだ。思えば彼はいつだって、一人ぼっちで過ごしていた。
「なんだおまえ」

肩で息をする私を見下ろした跡部が静かに言った。静かだけど、力強く、耳にしっかりと届く声色。この声を冷ややかだと感じた私は一体彼の何を見ていたというのだろう。今までで一番近くの距離から見る跡部景吾は、氷帝にいる何千人という生徒の誰よりも麗しく佇み、テニス部にいる200人の部員の誰よりも優雅で、そして私たちと何ら変わることのない、ただの15歳の少年のような顔をして言う。
「ちゃんとでけぇ声出せるんじゃねーか」

お馴染みの高笑いじゃなくて、格好付けたように口元だけを上げる微笑みでもなくて、ただの少年でしかない15歳の顔。それがすべてだと思った。


ずっと、特別な人だと思っていた。彼のために出来た道も、彼のために出来たルールも、彼に向けられる羨望も、彼だけに用意されたもの、彼だけが手に入れることを許されるものだと、そう勝手に思っていた。世の中には美しいものがそこら中に溢れているけれど、美しいあの人が望むものは一体なんだろう。そんなの分かりっこないはずなのに、なんとなく、それは授業中の重苦しい雰囲気や、一人だけで過ごす食堂での時間ではないってことだけは分かるような気がする。

テニスをしている跡部が好きだ。美しい佇まいも、一つ一つが優美な身体の動きも、黄色い歓声も、何一つとしてテニスをする彼には勝てない。

立派なリムジンも、お城のような家も、ギリシャ語を話す形の良い唇も、すべての人を虜にしてしまうカリスマ性も、なに一つ持っていない私だけれど、きっとこの人と同じ景色が見れると思った。私だって跡部だって、同じ15歳であることには変わりない。たとえ彼が王様であったとしても、私が彼に近づいてはいけないなんてルール、誰にも決められちゃいないのだ。

でも、きっと、跡部は私の名前を知っている。ちょうどさっきの私がやってみせたように、身を乗り出して私の名前を呼ぶことが出来る。たとえ私が200人の中の一人、何千人のうちの一人だったとしてもだ。

だからもう、同じになれなくたっていい。私の考えていること、私が期待していること、私の憧れ、そして、私の好きなもの。「すべてお見通しだ」と、流れるような青い瞳に言われているような気がした。

Happy Birthday Keigo Atobe