唱えた夜にひかりあれ

スナイパーの人たちって、やっぱり射的も上手いのかなあ。そんな安直な疑問を抱いてしまったのは、防衛任務の帰り道で夏祭りに訪れていた浴衣の大群とちょうどバッティングしてしまったことに一因がある。狭い道路でひしめき合うようにして進んでいく群衆に流されまいと気を引き締めて歩いていると、いつの間にか少し前を歩いていたはずの東さんが隣にいた。驚く間もなく「こっち」と促されるままに人混みをかき分け東さんに着いていくと、大通りから一本外れた人気の少ない道へと辿り着いてほっと一息をつく。助かった。まさかここまで人がいるとは思わなかった。
「すごい人だな」
「もうお祭りの季節なんですね」
「来週あたり花火大会もあるんじゃなかったか?」
「そうでしたっけ。東さん詳しいですね」
「奥寺と小荒井がこの前話してたからな」

ああ、確かにあの二人ならお祭りとか好きそう。男子高校生だし、と随分遠くの方へと行ってしまった二つ分のツノ頭を見ながら呟くと、東さんが「そうだな」と笑った声が聞こえた。同じように帰路を辿っていたはずなのに、二人とももうあんなところにいる。今更もう合流出来そうにもないし、今日の防衛任務は変わったこともなかったから改って特別報告することもないと東さんも言っていたし、このまま解散となる流れだろうか。

奥寺くんと小荒井くんよりも先を歩いていたはずの自分と同じ隊の皆の姿もいつの間にか見当たらなくなってしまっている。電話をかけたところでこの人混みではもう見つけようもなさそうだ。同じことを東さんも思ったらしい。「今日はもう解散だな」と言っている声が隣から聞こえ、すかさずグループラインに通知がいったのかポケットの中のスマホが震えるのを感じた。

解散かあ。せっかくだしちょっとだけでもお祭りに顔出してから帰りたいなあ。ボーダーの誰か来てそうだし、会えたりしないかな。こんなことなら浴衣でも着てくればよかった。そんな考えの数々を知らず知らずのうちに口に出していたのか、それとも顔に出ていたのか。東さんから不意に放たれた「せっかくだし、寄ってく?」の言葉に、うんと高いところにある東さんの長い黒髪を見上げて訊ねる。
「いいんですか?」
「行きたいんだろ」

ずばり言い当てられ、そんなにも分かりやすい顔をしていただろうかと気恥ずかしくなって俯くと「ほら」とせっつくような東さんの声で再び視線を前に戻した。一度逃れたはずの群衆の中に再び飛び込んでみても、先ほどとは違ってボーダーの中でもずば抜けて背の高い東さんの姿は見失いようがない。これならはぐれることもなさそうだと安心しながら人混みに揉まれて歩いていると、不意に東さんから「あんまり離れるなよ」との言葉が投げかけられ「はい」と返事をした。……はぐれそうになったら手の一つでも繋いでもらえりはしないだろうか、と淡い期待を抱いていたことまで見透かされていたような気持ちになって、色とりどりの看板を掲げている出店の屋台を目指して足早に歩いていく。

それにしても随分と人が多い。これも私たちが日々防衛任務に当たっている賜物なのだと心の中でこっそり胸を張った。

近界からの招かれざる客がよく現れるここ三門市においても、大衆にとって娯楽は必要なものだった。クリスマスの時期になれば商店街にはクリスマスキャロルが流れるし、流行りの映画は皆がこぞって見に行くし、夏祭りと花火大会だってもちろん外せない。そして三門市民がこうした娯楽を精一杯楽しむための平和な街づくりに日々精を出しているのが私たちボーダー隊員というわけだが、私たちだってまだ10代20代の立派な若者のうちの一人なわけで。防衛任務終わりのたまの娯楽の一つや二つは許されるものであってほしい。いいよね、任務も無事に終わったことだし、今日ぐらいは楽しんじゃっても。一緒に楽しんでくれる相手が東さんっていうことだけは想定外だったけれど、明日また本部へ行ったら皆に自慢してやろう。きっともう二度と経験出来ない貴重な時間になるはずだ。
「どれから行く?」
「射的行きたいです」
「へえ、得意なのか?」
「得意というか、……あの、東さんがやってるところが見たくて」

スナイパーとして任務でもランク戦でも活躍し通しな彼らのーー欲を言えばその中でも凄腕として知られる東さんの、射的の腕前を見てみたい。そう正直に白状すれば、予想外の回答だったのか珍しく東さんが目を丸くしている姿が見えた。えっ何その顔、本当に珍しい。写真撮りたい。皆にも見てほしい。

がさがさとスマホが入ったポケットを漁っている間に東さんの表情はいつも通りのものに戻ってしまっていた。もう一回さっきの顔してくれないかな。写真も撮り損ねちゃったし、目に焼き付けとけば良かった。そう考えているうちに、射的の屋台はもう目の前に迫ってきている。……ほ、本当に東さんが射的やってるところ見られるんだ。なんだか私までドキドキしてきてしまう。

店主にお金を渡してコルク銃を受け取った東さんがそれを構えた瞬間、周りの空気がどんどんと張り詰めていくのを感じる。縁日の喧騒でここだけが別空間になってしまったかのような空気の中、東さんの放った弾が景品を撃ち抜くパァンという音が響いた。



「凄かったですね」
「動く的に比べたらまあ、簡単なもんだよ」

それもそうか、普段ランク戦でもっと動いてる人間撃ちまくってるんだもんな。動かない的に当てることなんて造作もないことなんだろう。

ずらりと並んだ景品の最後の一つを東さんが仕留めたところで「あの、そろそろ……」と音を上げた店主に向かってぺこりと頭を下げ、二人で屋台を後にする。「次どこ行きます?」と言いながら抱えたぬいぐるみの頭を片手で撫でると「女の子ってそういうの好きだよなぁ」と言う東さんの声が聞こえ、腕に抱えたテディベアの毛羽立った後ろ頭へと視線を落とした。

女の子、だって。何てことはないただの事実を口にしただけのはずなのに、東さんの口から吐き出されると途端にどぎまぎとさせられてしまう。私は女の子で、そして、東さんは男の人だ。それも私よりもうんとたくさんのことを知っていて、強くて、賢い大人の男の人。だけど今日はほんの少しだけ彼のことを親しみやすいように感じてしまうのは、普段の三門市とは全く違う縁日の雰囲気に当てられて浮かれてしまっているせいもあるのだろうか。

手に持ったぬいぐるみのふわふわと逆立った毛をもう一度撫でてみる。「せっかくだし一つぐらい持って帰るか。どれが欲しい?」と訊ねられ、ざっと眺めたうちで一番持って帰りやすそうなものを選んだ結果がこのテディベアだった。子供っぽいと思われただろうか。やっぱりあの知育菓子セットとかパーティセットにしておけば良かったかな、そうしたら今度作戦室で皆と遊べたかもしれないし。だけど、あの中で何か一つ東さんからもらえるのならこれが良かった。家に連れて帰ってしまったら、明日からはこれを見る度に今日の東さんのことを思い出してしまうんだろうなと何となく察しはついていながらも、一度目が合ったが最後、もうこのテディベアを貰うこと以外は考えられなくなってしまったのだ。
「あっ、金魚すくいやってる。東さんもやります?」
「ああ」

目に入った屋台を指差してそう言うと東さんが頷いてくれたのが見えた。金魚が泳いでいる水槽の前に腰を下ろし、今度は二人でポイを構える。少しだけ射的を覗いてお祭りの雰囲気を楽しんだら帰るつもりでいたはずが、気が付けば普通に楽しんでしまっている。東さん、大丈夫かな。長いこと付き合わせちゃってるけど、退屈じゃないかな。手に持ったポイを水に浸しながらスイスイと泳いでいる金魚を追いかけるふりをして東さんの表情を伺うと、少しだけ眉を下げて私と同じように金魚を追いかけている東さんの横顔がそこにあった。……これもまた見たことのない顔だ。やっぱり写真撮りたいなあとは思ったものの、今回も私の両手は塞がってしまっていてシャッターチャンスをみすみすと逃す羽目になってしまった。今日はもう写真とは縁がない日ということなんだろうなと諦めたところで、掬ったはずの金魚が水を求めて逃げ出したボチャンという音が響く。意外と難しいぞこれ。



数分後。私の手には何度もポイを破りそうになりながらも何とか捕まえた赤い金魚が一匹。そしてその隣には「持つよ」と言われたのを断りきれなかった私が渋々ながらも渡したテディベアが東さんの腕の中に一匹ちょこんと収まっている。

「東さんにも出来ないことってあるんですね」
「そりゃまあ人間だからな」

「こういうのはコツがあるんだよ」と言いながら、結局東さんは一匹も金魚を掬えていなかった。東さんにも出来ないことってあるんだ。何でも出来るスーパーマンみたいな人だと思ってた。思えばいつだって東さんは誰かに囲まれていて、こうして二人で話す機会も今日までは滅多にないことだった。だから知らなかったのだ。スナイパーのパイオニアとしても頼れる兄貴分としてもボーダーの皆に慕われている東さんにだって出来ないことはある。そんな当たり前のことにすら私は気付けていなかった。それを見透かしたかのように「幻滅した?」と訊ねられた言葉にぶんぶんと首を横に振る。
「むしろ楽しいです。ボーダーとまた違う感じの東さんが見られるので」

今日の彼にならきっと、多少の気安い言葉を投げかけたって許してもらえるだろうと打算的な想いを孕んだ言葉をそのままぶつけると、「それは良かった」と言って東さんが笑う。その顔も普段ボーダーで見せるものよりも殊更柔らかいもののように見えて、気恥ずかしくなった私はまた東さんの手の中にあるぬいぐるみへと視線を落とした。
「疲れた?」
「ちょっとだけ」
「どこかで休憩するか」

向こうで待ってて、と指を差された方向にあった人気の少ない木陰のベンチへと腰を下ろす。東さんはというと「何か買ってくる」と言うなり足早に屋台の方へ向かって行ってしまった。あ、ぬいぐるみもらうの忘れてた。そのまま持って行っちゃったけど、大丈夫かな。ポケットの中からスマホを取り出して時間を確認すると、時刻は21時を回っていた。もうそんなに経ってたんだ。お腹も空いてくるはずだ。東さんどこまで買いに行ったのかな。がやがやとした喧騒の中にぽつんと一人座っているのはとても心細い心地がする。早く帰って来てほしい。

それから少しして、ざりざりとベンチに向かって誰かが近づいてくる足音にスマホへと落としていた目線を上げる。東さん、と言いかけた身体がびしりと固まった。東さんじゃない。太刀川くんだ。えっ、何で太刀川くんがここにいるの?
「あれっなんだ、東さんがいたからてっきり奥寺と小荒井がいるかと思ってたのに。意外な組合せだな」
「だから言っただろ、今日は違うって」

もぐもぐとたこ焼きを頬張っている太刀川くんの後ろから東さんがひょっこりと顔を出した。その手にはパックに入った焼きそばが二つと私が渡したテディベアが抱えられている。そのテディベアと私を交互に見た太刀川くんが「なるほどな」と口の端を吊り上げて言った。 「東さんが手に変なの持ってるから何かと思ったら……そういうことか」

したり顔の太刀川くんから浴びせられる視線が痛い。刺さってる。物凄く視線が刺さってきているのを感じる。そういうことって、どういうことだろう。誤解されてる予感しかないんだけど、どうしよう、ひとまずここは何でもいいから何か言わなきゃ。
「あ、その、えーっと、太刀川くん今日一人で来てるの? 良かったら一緒に回らない?」
「いや、流石にここで邪魔者になるような趣味は俺にはないから。二人で楽しんで」

まるで迅くんかのような含みのある言い方をした太刀川くんは、ひらひらとこちらへ手を振った後、返事も聞かずに縁日の喧騒の中へと姿を眩ましてしまった。誰もいなくなってしまった東さんの隣の空間をじっと見つめる。……何、今の。太刀川くんがいなくなった途端に急激な気まずさに襲われ、東さんの顔を見ることが出来ず視線を泳がせた。視線を逸らしたまま、東さんがこちらへと近づいてくる足音に耳を傾ける。ゆっくりとこちらへ近付き私の隣に腰を下ろした東さんからは、普段ボーダーにいるときの彼の様子からは全く想像がつかない香ばしいソースの匂いがした。
「紅しょうが食べれる?」
「大丈夫です」

受け取った焼きそばを側に置いて財布を取り出そうとすると「いいよ」と固辞されてしまった。鞄に突っ込んだまま行き場のなくなってしまった手をすごすごと元へ戻し、姿勢を正してベンチに座り直す。それからはしばらく、二人無言で焼きそばを口へと運ぶ時間が続いた。

私、さっきまで東さんとどういう風に話してたんだっけ。太刀川くんがあんな風に意味深なことを言ったせいで、嫌でも意識してしまう。東さん、大丈夫かな。射的と金魚すくいに付き合わせただけでは飽き足らず焼きそばまでご馳走になってしまったけれど、もう帰りたいって思われたりしてないかなぁ。

食べ終わった箸をプラスチックの容器に入れてポケットの中のスマホを確認すると、21時30分を過ぎていた。もうこんな時間なんだ。そういえば、あんなに大勢いたはずの人通りも段々まばらになっていっているような気がする。

祭りの終わりが近づいてきていた。

そろそろ帰りましょうか。その一言がどうしても喉から出てこなくて、手に持った金魚の入った袋を掲げてしげしげと眺めているふりをする。金魚って、どうやって飼うんだろう。自分からやりたいとは言ったものの、掬った後のことは全く考えていなかった。エサは何をあげればいいんだっけ。そもそもどこに売ってるんだろうか。水槽なんて持ってないし、コップに入れておけばいいのかな。

手に持った水の入った袋の中で揺らめく赤色をじっと見つめながらそうこぼすと「さすがにコップは金魚が可哀想だろ」と東さんが言った声が聞こえてきて、「やっぱりそうですよね」と肩をすくめる。独り言だったつもりがばっちり聞かれてしまっていたらしい。どうしよう、いい加減な奴だと思われてしまっただろうか。東さん、今どんな顔してるのかな。呆れられてないといいなぁ。

それからもしばらく透明な袋の中でゆらゆらと揺れている金魚を眺めていると、不意に名前を呼びかけられ隣にいる東さんの方へと顔を向ける。すると、じっとこちらを見ている東さんの黒い瞳と目が合った。
「水槽、ないんだったら明日買いに行く?」
「いいんですか?」
「そっちが良ければ」

そっちが良ければ、だって。ずるいなあ。さっきから東さん、そういう言い方してばっかりだ。行きたくないなんてことあるはずないのに。

こくりと頷いた私に向かって「じゃあそろそろ帰るか」と言った東さんの言葉を合図にベンチから立ち上がる。ぐんぐん高まっていく鼓動をよそに、祭りはどんどんと終わりに近づいている。だけどもう寂しくはなかった。今この胸にあるのは、明日何を着ていこうかなという逸る気持ちと、まだ少しだけ延長することを許された東さんと過ごす時間への期待だけだ。手に持ったビニール袋の中で金魚がゆらゆらと揺れる。ふと目線を落とすと東さんの腕に抱えられたテディベアと目が合って思わず頬を緩ませた。神社の出口が見えてきても、もう名残惜しくはない。なにせ私と東さんの夏は、まだ始まったばかりなのだから。

ワードパレット「浴びる、匂い、金魚」より。Twitterの再録です