やがてバニラが香る指先

爆豪勝己が私のことを好きらしい。そんな噂がまことしやかに囁かれ始めたのは、ちょうど、職場体験が始まってすぐくらいのことだった。

年に一度のビッグイベント、体育祭が終わってからの雄英ではそこかしこで男女が仲睦まじく話すようになっていて、中学では思春期なのも相まってろくに男子と話さないまま過ごしてきてしまった私には軽くカルチャーショックだった。登校中も、移動教室でも、昼休みも、帰りの道中でさえ、どこもかしこもカップルだらけ。一体どうなってるんだここは。私が想像していた雄英はこんなところではなかった。少なくとも、立派なヒーローになるために受験勉強に励んでいた中学生の私が想像していたヒーロー育成校はこんなところではなかった。誰も彼もが浮かれてばかり、学生の本分は一体どうしたんだ。だけど、ほんの少し。ほんの少しだけ、心の中で羨ましいと思うことだって、ないというわけでもない。思うだけだけど。

いくら雄英が名門校といえ、ヒーローの卵ばかりが集められているとはいえ、年頃の男女がこうも同じところに集められていてはそういった話題になることも多い。むしろ、話すことといえば四六時中そればっかりだ。体育祭で見た誰々が格好よかっただの、普通科の上級生(可愛い)に声をかけられただの、他校の生徒からラブレターを渡されただの。それは、厳しい入試をくぐり抜けて選ばれたこの1-Aの精鋭たちだって例外ではなく。
って好きな奴いねーの?」

とんがった赤毛を逆立ててニヤニヤと笑いながら聞いてくる切島は、見た目に反して恋バナをするのが好きらしい。入学以来もう何度聞かれたか分からないその質問に、またかとため息をついた。
「いないよ」
「いないのかよ!」

聞かなくても分かりきってるくせに。椅子から勢いよくずっこけるふりをした切島を上鳴が指差してヒーヒー笑う。一気に辺りが騒がしくなった。ヒーローじゃなくてお笑い芸人でも目指した方がいいんじゃないか、と思えるくらいのオーバーリアクション。個性が飽和しているこのご時世、ヒーローはメディア映えすることも大切だというからこれぐらいの気概はあってもいいのかもしれないけれど、それにしてもうるさい。…ちょっと上鳴、いい加減笑いすぎだと思うんだけど。
「でも爆豪はのこと好きだよな」
「またそれ?ありえないでしょ」
「絶対そうだって」
「根拠は?」
「ない」
「ないの」
「だってよ、爆豪に聞いても無視されるし」
「いつものことじゃん」

爆豪勝己ほど扱いづらい人間を、私は生まれてこのかた見たことがない。そう断言出来るほどに、あのクラスメイトは人付き合いに難がある人間だった。何があるとすぐキレるし、手が出るし、ろくに話も聞いてくれないし、かと言ってこっちが話聞いてないと怒るし。同中だった緑谷を子供のときから執拗にいじめてたとか、上級生でも構わずケンカばかりしてたとか、女子供にだって容赦しないとか、雄英生らしからぬ良くない噂は彼の周りでごまんと流れている。体育祭でのお茶子ちゃんとの対戦では噂に違わぬ暴君っぷりを存分に発揮し、あっぱれと言いたくなるくらいのヒールっぷりを見せつけてくれた。とんでもない男だ。かつてここまで悪役が似合う雄英生がいただろうか。そのくせヒーローの才能はずば抜けていて、入試1位かつ体育祭でも(本人は不服そうだったけど)名誉ある1位なのだから、やってられるかと匙を投げたくなる。

だけど、そんなとてもじゃないが一般人には手に負えそうもない爆豪勝己とも仲良くしようとする変わり者がうちのクラスにはいる。切島だ。どれだけカスだクソだとなじられようと、めげずに話しかけにいく姿は賞賛に値すると思う。真似したいとは全く思わないし、事あるごとに爆豪と私をくっつけようとしてくるのだけは勘弁してほしいんだけど。
は爆豪のことどう思ってんの」
「どうって聞かれても……」

おっかないやつだな、ぐらいの印象しか抱いていない。そう正直に言ってしまえば、切島はどういう反応をするだろう。面白くねーとか何とか言って、また大袈裟にリアクションを取るだろうか。だけど、実際そう思ってしまってるんだから仕方ない。

雄英に入学して早数ヶ月が経ったけど、あの爆豪がニコニコしてるとこなんて見たことないし、見るとすればイライラして余裕がなさそうな姿ばかり。名誉ある1位を獲得したはずのあの雄英体育祭の日だって、競技が始まって表彰台に上がるまでの間、それこそ朝から夕方までずっと、爆豪は不機嫌な様子を隠そうともせずイライラし通しで、隣に座っていた私はかなり肝を冷やした。表彰台の上でいつ血管が切れてもおかしくないと思えるくらいの形相で辺りを睨んでいたあの顔は、とてもヒーローと呼べる代物ではなかった。鬼だ。実力がいくらあろうとあれは鬼だ。プロヒーローになったら絶対子供とか助けた人を泣かせてしまうに決まってる。

そんな爆豪が私のことを好きなんて、切島はきっとどうかしているのだ。いくら恋愛沙汰に敏感な年頃だからといって、誰でも彼でも見境なしにくっついていいわけがない。そうやって何度否定したって彼らは諦めることを知らないようで、俺の目に狂いはないと胸を張る切島の隣で上鳴と瀬呂がうんうんと頷く。切島はともかく上鳴と瀬呂はほとんど爆豪と関わってないだろうに、何でそんなに自信満々なんだろう。この3人が集まるときは大抵ろくでもないことが起こる。体育祭が終わってから2ヶ月と少し、初めは知らない人ばかりだったこの雄英での生活にも、バラエティに富んだクラスメイトたちの個性にも、段々慣れてきた。クラスメイトがどういう人かも徐々に分かってきたし、誰と誰が仲がいいとか、誰と誰がそんなに仲良くないとか、そういうことも分かってきた。

それでも、私が爆豪勝己と仲良くなることはない。持って生まれた個性も、性格も、何もかもが違いすぎるから。私には、爆豪が見ているような景色は見れない。爆豪のような才能がある人がこの世界のヒーローなのだとしたら、きっと私は、路傍の石ころのようなもの、脇役に徹することしか出来ない存在だろう。それこそ、爆豪自身がよく言っているように。

いつだって、ナンバーワンは他にいる。




だから、きっと一生かかっても仲良くなれないだろうと思っていた爆豪とよく話すようになったことについて、一番驚いてるのはきっと、私自身だろう。

仮免試験を終え、2学期の始まりを目前にしたタイミングで爆豪と緑谷が謹慎処分になった。学校終わりに個性を使ってケンカしたらしい。罰として寮内の共有スペースの清掃を言い渡された2人が心配になって、覗いてみた緑谷の顔には痛々しい傷跡がついていた。あの爆豪と喧嘩したんだから、そりゃそうなる。むしろそれぐらいで済んで良かったと言うべきだろうか。それにしても、緑谷がこんな風になるのは珍しいと思った。入学してから今までの間、緑谷は他の人に比べて怪我をする頻度が高かったけれど、それは自分の個性の関係であって、人に暴力を振るったり、振るわれたりして出来たものじゃなかった。むしろ、彼はそういう暴力沙汰を好まない雄英の中でもとびきり心優しい男の子だと思っていた。けれど、どうも爆豪が絡むとそうもいかないらしい。幼馴染というのは色々しがらみもあるんだろう。小さい頃から知ってるっていうのも大変だな。ちなみに、謹慎処分になった緑谷をひとしきり冷やかした後で爆豪の部屋にも行ってみたけれど、当然のように入れてもらえなかった。未だ彼の部屋に足を踏み入れられた者はいないらしい。まったく、プライドも高ければ心のハードルも高い男だ。
、爆豪見なかったか?」
「見てないよ。謹慎中なんでしょアイツ」

ソファに座ってマンガを読んでいるとちょうど通りがかったらしい切島に声をかけられた。「探してんのに見つかんねーんだよな」と頬をかきながら切島が続ける。寮生活が始まってからクラス内の団結力はより上がったように思えるけれど、その団欒の場に爆豪がいることは滅多にない。クラスのみんなが共有スペースで談笑しているときも顔を出してこないし、誰かの部屋に集まったりもしないタイプだから、爆豪に会えるのは学校の中だけのことがほとんどだ。特に謹慎中の今なんて尚更。

どこ行ったんだよ、とぼやきながら再び部屋の方へ歩き出した切島の背中を見送って、冷凍庫からアイスを取り出した。これ今日帰ってから食べるの楽しみにしてたんだよね。2つくっついたアイスをパキンと割って、1つをまた冷凍庫に残す。こっちは明日のために取っておこう。

さっきまで座っていた位置に戻って、袋の封を開ける。腰掛けたソファの反対側が沈み込んだのを感じて、誰だろ、切島かな、もう爆豪探すのは諦めたのかな、それか梅雨ちゃんとかかな、と振り向いたとき、手に持っていたアイスを落としそうになった。そこに座っていたのは爆豪だったからだ。
「何でいんの?」
「いちゃ悪いのかよ」
「悪くないけど……」

びっくりした。爆豪がこんなとこに来るなんて滅多にないし、共用スペースにいるところなんて見たことないのに。しかも何でそこに座ってんの?もしかしてここが私が知らないだけで爆豪の定位置だったりとか?座ろうとしたのに私が来たからどけよってこと?え、どいたほうがいいの?

手に持ったアイスから水滴が落ちる。あ、やばい、溶けちゃう。慌てて頬張ると、隣からの突き刺すような視線を嫌でも感じた。
「なにどうしたの」
「別に」
「爆豪も食べる?アイス」
「…………おう」

えっ、食べるんだ。絶対「いらねえ」って言われると思ったのに。

ちょっと待ってて、と一声かけてから冷凍庫まで走ってアイスの片割れを持って帰ってくると、爆豪はさっきと変わらない姿勢でソファに座っていた。……てっきりいなくなってるかと思ったのに、大人しく待ってるなんてどういう風の吹き回しだろう。待っててって言ったのは私だけど。
「はいどうぞ」

無言でアイスを受け取った爆豪が包み紙をはぎ取ったのを見て、なんだアイス食べたかっただけか、と胸を撫で下ろした。暑かったもんね今日。

立ったままの私をチラリと見た爆豪がアイスをくわえたままでそっぽを向く。どうしよう、座り直したいけど、どこに座ったらいいのか分からない。さっきのところにもう一回座ってもいいんだろうか。あえて違うところに座ったらいやらしいような気がする。でも、爆豪の隣に進んで座るのはなんだか違うような気もして。

……やめよう。何で先に座ってた私が色々気を使わなくちゃいけないんだ。嫌そうな顔されたらじゃあそっちがどけばいいでしょって言い返してやればいいだけの話なんだから、何も気にすることはない。ここはみんなの共用スペースなんだから、誰がどこに座ろうと自由なはずだ。そう思って元いたスペースに腰を下ろす。盗み見た爆豪は、何も言わずに私とお揃いのアイスをかじっている。その横顔を見て、いつも切島が自信ありげに言っているあの言葉を思い出した。
「ねえ爆豪」
「ああ?」

私のこと、好きなの?

ついうっかり喉元から飛び出してきそうになる言葉をゴクリと飲み込んで、ツンツンに尖った彼の髪の毛のてっぺんあたりを見つめてみる。…触りたい、と初めて思った。
「緑谷とケンカしたの、痛かった?」
「うるせえカス」

緑谷に付けられたらしい傷を指差しながら言うと、忌々しそうに爆豪が吐き捨てた。カスとはなんだ、こっちは心配してやってるのに。口が悪いのにももう慣れたから今更傷ついたりはしないけど。

アイスを食べ終わった爆豪が、くしゃくしゃになった包み紙を握りしめてソファから立ち上がった。
「……帰るわ」
「えっ、もう?」
「…………」

しまった。もう?とか言ってしまった。まるで爆豪にまだここにいてほしいみたいじゃん。

食べ終わったアイスの棒を口にくわえた爆豪にジロリと睨まれる。違う違う、さっきのはせっかくだしもうちょっとだけゆっくりしていったら?っていう意味なだけで、別にそこに他意はないから。文句言ったりしたわけじゃないから。ほんとに。冷や汗をかく私を横目に、フンと鼻を鳴らした爆豪はそのまま部屋の方へと歩いて行ってしまった。本当にアイスだけ食べて帰っちゃったよアイツ。このアイス好きだったのかな。……あ、食べ終わったあとのゴミもらうの忘れた。まあいいか。見てくれや言動がああでも根は真面目な爆豪のことだから、食べ終わったゴミをポイ捨てしたりはしないだろうし。




爆豪が去って、ようやく自分のアイスを食べ終わった後も、何となく部屋に戻る気にはなれなくて、ソファに座ったままぼーっとしていると通りがかった切島と梅雨ちゃんに声をかけられた。
「一人で何やってんの?」
「アイス食べてた」
「いいわねアイス。暑いものね」
「もう一個ねーの?」
「ないよもう。爆豪にあげちゃったし」
「爆豪?」
「さっきまでそこ座ってたんだけど部屋帰った」

ソファの隣を指差すと、切島と梅雨ちゃんが顔を見合わせる。あ、そういえば切島って爆豪探してたんだっけ。爆豪がいるうちに呼んであげればよかったかな。そんなことを考えていると、にっこりと微笑んだ梅雨ちゃんが口を開いた。
「仲良しね」
「え?」
「爆豪くんとあなた」
「アイス一緒に食べただけで大袈裟じゃない?」

まぁ確かに色々あったせいで他のクラスの人たちからは怖がられている爆豪に普通に話しかけられる人って少ないみたいだけど、クラスメートだし。一緒の寮に住んでるのに無視したりしたら感じ悪いし。隣に座ってたら話しかけるぐらいはするでしょ、と言うと、
「何だ、気づいてなかったのか?」

さっきまで爆豪が座っていた場所を顎でしゃくった切島が、私を見てニシシと笑う。
「爆豪座るときいつもの隣に座るじゃん」
「本人は自覚してないみたいだけどね」
「え?」

切島に続いて梅雨ちゃんまで何を言い出すんだ。もういないはずの爆豪がどこかで聞いていたらどうすると慌てて辺りを見回してみるも、私の周囲が爆発する気配はない。そっと胸をなでおろす。ぽっかりと空いた隣のスペースに視線を落として、さっき切島が言った言葉を頭の中で反芻した。

爆豪、座るときいつもの隣に座るじゃん。

今までの爆豪とのあれこれに思いを馳せてみる。…ああ、そうだ。雄英体育祭のときも、休み時間のときも、インターンシップの後にみんなで盛り上がっていたときも、そしてさっきだって、そう。

そういえば、爆豪はいつも私の隣に座っていた。
「お、やっと気づいたか」
「爆豪くんもだけど、ちゃんも結構鈍いわね」
「う、うるさい」

ニヤニヤ笑っているであろう切島の顔が見れない。ポオッと熱を持ち出した頬を慌てて抑えてみてももう手遅れのようで、二人のニヤニヤ笑いがさらに増えている。気づきたくなかった。けれど、気づいてしまった。壊れてしまったのかと思うほど早鐘を打つ心臓はもう、止められそうにない。ああもううるさい、こっち見ないでよ、みんなどっか行っちゃえ。

しっしっと手で払う仕草をすると「じゃあまた明日学校で」なんて言いながら二人は機嫌よさそうに部屋へと帰っていく。明日また学校で、なんて、よく言えたもんだ。こんな風になってしまった今、気づいてしまった私が、これまで通りの学校なんか、……爆豪になんか、会えるはずないのに。

ツンツン頭が座っていたソファへと視線を下ろす。さっき、あの髪に触れたいと思ってしまったのは、気のせいじゃない。いつだって隣にいたから、知らないうちに、そう思うようになってしまった。ナンバーワンはいつだって他にいて、私はその他大勢のうちの一人だって、それでいいんだって、思っていたはずなのに。明日からどんな顔して会えばいいんだろう。しれっと隣に座っていられるほど、私は器用じゃない。

それでもまだ、路傍の石ころのように脇役に徹するしかない私は、未来のヒーロー爆豪勝己がまだそれに気づかないことを、ただひたすらに祈るばかり。