シュガーレイディ

暇だなあ。呪術高専の殺風景な教室に全く似つかわしくない朗らかな声にスマホの画面へ落としていた視線を上げると、その声の主たる先輩は真面目な顔で手に持った鏡をじっと見つめているところだった。椅子に腰掛け真剣な表情でせっせと手に持ったマスカラを睫毛に塗りつけながらもう一度「暇だ」と口を尖らせて言った先輩の反り返った手首に視線を移すこと数秒、再びスマホの画面に視線を落とすと虎杖からメッセージが届いているのが目に入った。

「伏黒もう任務終わった?」の言葉に「ああ」とだけ打ち込んでアプリを閉じる。ホームボタンをダブルタップしてアプリを消したところで、ちょうどマスカラを塗り終わったらしい先輩の少し茶色がかった睫毛に縁取られた両眼と目が合った。ぱちぱちと瞬きをしているその瞳から目を逸らせないでいると、俺が持っているスマホの画面に視線を落とし表示されている現在時刻を確認したらしい先輩の口元がへの字に歪められたのが見える。
「もう17時じゃん。五条先生帰ってくるの遅すぎない?」
「……確かに、「ちょっと夜蛾校長のとこ行ってくる」って言ってた割には遅いですね」
「帰っちゃってもいいかな。今日任務早めに終わったらフラペチーノ飲みに行こうかと思ってたんだよね、このあと暇だったら一緒に飲みに行かない?」
「俺はコーヒーしか飲みませんけど」
「スタバだったらコーヒーも売ってるじゃん」

そういや恵はコーヒーはドトール派なんだったっけ、と先輩の口から吐き出された言葉に否定も肯定もしないでいると、この話題に飽きたのか先輩は今度は「チークどこやったっけ」と言いながら鞄から引っ張り出したポーチの中をごそごそと漁り始めた。二人で教室に取り残された後「五条先生帰ってくるまでに化粧直しちゃお」と言うなり鞄から手鏡を取り出して真剣な顔でマスカラを塗り直し始めたと思ったら、まだ他にやることがあるらしい。もう三度目になるスマホの画面に目線を移す。例の五条先生の「ちょっと行ってくる」発言からもう既に30分が経とうとしていた。

今日は虎杖と釘崎が代々木方面で呪霊関係と思しき事件の調査、俺と先輩が新宿の方で最近発生している連続不審死の原因と思われる呪霊の討伐に当たる予定だった。想定される呪霊の等級にもさほど違いはなく、おそらく同時刻に終わると思われていた任務は蓋を開けてみると俺たちの方が随分と早く終わり、行きは同じ補助監督の車に乗って来たが帰りはそれぞれ別の車で高専へと帰ってくることになった。

そうして早々と任務を終えた俺と先輩が車へ乗り込むなり運転していた補助監督へと五条先生から連絡が入り、途中で先生を拾った車が高専に着いたの16時半過ぎだ。そこで簡単に報告事項だけをまとめてすぐに解散となるはずだったが、今、俺たちはこうして教室で五条先生に待ちぼうけを食らわされる羽目となっている。もちろん現代最強の呪術師として多忙なのもあるが、時折わざとこちらを待たせるようなことをしてくるあの人のことだから、待っておけと言われた通り大人しく教室で待っているのが正解なのかは分からない。そもそも言った通りにここへ戻ってくる保証もない。任務終わりの俺と先輩が帰りを待っていることなどすっかり忘れて一人さっさと高専を後にしている可能性だって十分にあり得る。何せあの人はそういう人だからだ。

そうやって俺が五条先生の発言に対し懐疑的になっている間に、先輩は鞄の中でチークを探し当て長かった化粧直しをようやく終えたようだった。手に持ったポーチのジッパーを閉め鞄へと仕舞った音が教室に響いた後、不意に口を開き「五条先生っていえばさぁ」と言った彼女と再び視線がぶつかる。
「恵って五条先生の目見たことある?」
「まあ何度か」
「えっ何で、ずるくない? 私見たことないんだけど」
「何でって、そりゃまあ保護者代わりだったんで……風呂入ったときとかはさすがに目隠してませんし」
「えーいいなあ。先生の目って宝石みたいに綺麗なんでしょ」
「別にそんないいもんでもないですよ」

男の目が綺麗か綺麗でないかなど俺にとってはどうでもいいことだったが、先輩にとっては重要なことらしくそれからしばらくの間「いいなあ」「見てみたいなあ」「外国の王子様みたいな感じなのかな」「成績優秀だったら見せてくれたりしないかなあ」と独り言のように呟いていた。それに「気が向いたら見せてくれたりもするんじゃないですか」と相槌を打つと、俺がこの話題にさほど関心がないことが透けて見えたのか「もうちょっと興味持ってくれてもよくない? 雑談しようよ先輩と」言った先輩がまた口を尖らせているのが視界に映る。

「……男の目の話して何が楽しいんですか」
「えー? 少なくとも私は楽しいけどなあ」

それは先輩がそういう性分だからだろう。先輩は虎杖と同じく何事にも割と前向きに取り組むタイプの人間だった。それが例え底意地の悪い呪霊の討伐や凄惨な現場であったとしても、犠牲が出たことに心を痛めはすれど必要以上に気負ったり落ち込んだりはせず少しでも遺された者にとってプラスになりそうなことを探そうとする。パンダ先輩の言葉を借りるなら「呪術師にしては珍しいネアカ」だ。

一人そうやって思考を巡らせていると、不意に伸ばされた先輩の手に前髪を掬い上げられた。明るくなった視界の先で、椅子から身を乗り出しこちらを覗き込むようにしている先輩の茶色がかった瞳に自分が映っているのが見える。いきなりのことに一体何をするんだと言いかけた言葉は、目の前の先輩の呪術師らしからぬ真っ直ぐな瞳の中に吸い込まれていってしまった。
「恵の目もすっごい綺麗だよね。睫毛めちゃくちゃ長いし。鉛筆乗せても大丈夫そう」
「乗せようとしないでください」
「ちょっとぐらいいいじゃん。ね、折角だしマスカラ塗ってみてもいい?」

いいわけあるか。これが虎杖や釘崎ならば即刻そう断っているところだが、仮にも相手は先輩なものだから無下にすることも出来ない。……たとえ先輩ではなかったとしても、俺がこの人に対しては強く出られない節があることは確かなのだが。
「そういや今日の任務、私の方が祓った呪霊の数多かったよね。勝った方が負けた方の言うこと一個だけ聞くってことにしない?」
「それ今言うのずるくないですか」
「いいじゃんいいじゃん、ね、ちょっとだけだからマスカラ塗らせてみてよ。大丈夫、ちゃんと色付かないやつにするからさ」

何が大丈夫なのか微塵も分からないが、一度こうなってしまった先輩はちょっとやそっとのことでは意見を曲げることはないということを俺は知っている。勘弁してくれと心の底から思ったが、下手に断ってこの後ずっとへそを曲げられてしまうよりはマシかと思い直し「目閉じて」と言われるがまま瞼を閉じると、「そうこなくっちゃ」と言った先輩の楽しげな笑い声が聞こえた。

いくら相手が同じ高専の先輩ーーしかもそこそこ気を許している方の先輩とはいえ、視界からの情報がない中で他人に触れられそうな距離まで近づかれるというのはどうにも落ち着かない心地がした。先輩を始めとする世の女達は皆こういうことを日常的にやっているのだとしたら、オシャレというものは釘崎がよく言っているように中々に大変なものなのかもしれない。だからこそ楽しいのだとも釘崎が言っていたような気もするが、俺にはとてもじゃないが真似出来ない芸当だと思った。睫毛に液体が触れるひやりとした感触に、これが楽しいわけあるかと思わず文句を言いたくなってしまう。

どうにも我慢ならず薄目を開けようとするとすかさず「今目開けちゃダメ」と嗜められ、観念してまた目を閉じる。……こんなことなら先輩からのお願いなんて聞かなけりゃ良かった。「せっかくだし綺麗に塗れるように頑張るね」と言う先輩に、何でもいいから早くしてくれと思いながら待つこと少し(おそらく本当は5分にも満たないほどだったと思うが、俺にとっては永遠のように感じられた)、やっと先輩から発せられた「目開けていいよ」という言葉に閉じていた瞼を開ける。途端に襲ってくる違和感に眉を顰めると、先輩が「まだ乾いてないかもしれないからあんまり瞬きしないでね」と言った。
「どう? 我ながら綺麗に出来たと思うんだけど」
「すげぇ重いし違和感しかねぇ……。取っていいですか」
「ダメだよ、せっかくなんだしもうちょっと楽しませて」

楽しいのは先輩だけだろう。嬉々とした表情で差し出された手鏡を見ることもなく机の上に置いて、ゆっくりと息を吐き出した。一刻も早く寮の自室に帰りたい気分だ。後輩の男の睫毛に嬉々としてマスカラを塗りたくろうとする先輩の女と、それにされるがままにされている後輩の男。こんな場面を他の二年の先輩や五条先生に見られでもしたら、後から何を言われるか分かったもんじゃない。……五条先生もおそらくもうしばらくは戻ってこないだろうしな。先に帰ってやろうと思い立ち手に持っていたスマホを鞄に仕舞うと、マスカラを手に持ったままだった先輩が首を傾げながら「恵?」と声をかけてくる。
「……帰ります」
「えっもう? 五条先生まだ帰ってきてないのに」
「待っててもいつ戻ってくるか分かりませんよ」
「薄情だなぁ」
「待ちくたびれてたのは先輩も一緒でしょ」
「そうだけどさぁ。ね、まだ外明るいしスタバ行こうよ」
「……こんな顔で俺に外出ろっていうんですか?」
「ごめんごめん、後で寮戻ったらメイク落とし貸してあげるからさ。そしたら一緒にスタバ行こ」

どんだけスタバ行きたいんだ。椅子から慌てて立ち上がり俺に続くようにして教室から廊下へ出てきた先輩が先回りするように俺の前に立ちはだかり、そして先程と同じように顔を覗き込んでくる。上を向いた睫毛に縁取られた瞳にじっと見つめられて、少しだけ胸の辺りがざわざわとした。
「やっぱり恵の目ってすごい綺麗だよね」
「……口説かれてます? 俺」

しみじみと呟くようにして言われ、つい思ったことがそのまま言葉として口をついて出てしまった。その言葉に口元を釣り上げて笑った先輩が身を翻し廊下を軽い足取りで歩きながら「さてどうでしょう」と言った口ぶりはひどく楽しそうだ。
「恵の目が綺麗だなって思ってるのは本当だけど」
「…………」
「ちょっと、そこは先輩の方が綺麗ですよってお世辞でもいいから言うとこでしょうが」
「痛ぇ」

いつの間にか前ではなく隣に並んでいた先輩の手刀が後頭部に鮮やかに決まった。呪霊のことなど何も知らなさそうな小さな彼女の手から繰り出された衝撃は、一瞬にして身体に広がった後すぐに消えてなくなってしまう。……それがほんの少しだけ名残惜しいと思ってしまうなんて、いつから俺はこんな風になってしまったのだろうと考える。いや、考えなくたって答えは一つに決まっていた。こんな風に、自分が自分でないような想いがしてしまうのは、高専に入ってこの人と一緒に任務をこなすようになってからだ。

寮に向かって二人で歩き、自分よりも低いところにある先輩の顔を気付かれないようにちらりと盗み見る。その瞬間、「お世辞でもいいから」という先輩が発したさっきの言葉がふと頭に浮かんだ。……俺は別にお世辞だと思ってないと言えば、いつも俺を振り回してばかりのこの人の慌てた顔が少しだけでも見られるだろうか。黙々と歩いているうちに先輩の部屋の前まで辿り着いてしまった。……まさか俺がこんな風に少しの名残惜しさを感じているとは微塵も気付いていなさそうな先輩に向かって「……行ってもいいですよ、スタバ」と呟く。するとすかさず「ほんと!? じゃあ待ってて、すぐメイク落とし取ってくるから」と返すなり自室へ引っ込んでいった先輩の残像が瞼に残った。……ぱちぱちと瞬きをする睫毛はやはり普段よりもずっと重い。しかしもう嫌な心地はしなかった。

部屋の向こうからメイク落としを探し回っているのであろうバタバタとした物音が聞こえてくる。……次に先輩がこのドアの向こうから顔を出したら、とりあえずはこの睫毛にかかる重みを一刻も早く取っ払って、それからコーヒーも飲めないくせにスタバにやたらと行きたがるあの人に俺がこんな風に任務後の雑談や息抜きに付き合ったりするのは相手があんただからだというのを伝えて、そして、図らずしも先輩と二人きりで教室で過ごす時間を作ってくれた五条先生には心の片隅でほんの少しだけ感謝をしておこう。とにもかくにも、大事な話はそれからだ。

アニメの伏黒の睫毛が長すぎて我慢なりませんでした

titled by コペンハーゲンの庭で