骨だけ残って

夏油傑が他者より優れている点を挙げれば枚挙にいとまがないが、あえて彼が他者より恵まれなかった点を挙げるとするならば、それは「最強」と誰もが口を揃えて評価するあの男ーー五条悟と同じ国、同じ時代、そして同じ呪術師に生まれてきてしまったことであろう。

とても表立って口に出せるような考えではないが、実は私はもうかれこれ10年の間、それこそ高専で初めて彼らを見たときからずっとずっとそう考えている。


昔から社交性はおそらく人よりある方だった。当たり前だ。私は猿ではないのだから。
「お帰りなさいませ、夏油様」

自身の名を呼びながら恭しく頭を下げる女に脱いだばかりの上着を渡し、ミーティングルームへの扉を開いた夏油を出迎えたのは見慣れた顔だった。先ほどの女とは違い、至ってフランクに夏油へ「お帰り」と声をかけた彼女はソファに座ってワイドショーを流す小さなテレビの画面を眺めている。
「夏油が今日取材されたニュース番組ってこれ?」
「そうだよ」
「ふうん。真面目そうな番組だね」
「ああ、担当者も真面目な男だったしね」

わざわざ近場のカフェまで取材のために足を運んできたその担当者は、最後まで夏油を新興宗教の教祖だと信じ込んだまま死んでいった。ひとしきり自身が代表を務める団体についての嘘八百を並べ立てた夏油の言葉を聞き漏らすまいと録音アプリを起動させながら必死にメモを取り、最後に「貴重なお時間を頂きありがとうございました」と頭を下げたあのときの男の顔は実に見ものだった。あと数秒で自身が呪霊に取り憑かれ殺されるなど、ゆめにも思っていないであろう顔。とても同じ生き物だとは思えないくらいに穢らわしく、愚かで、醜かった。猿はどこまでいっても猿なことに変わりはないのだ。

まとっていた服の隅々まで除菌スプレーを吹きかけた後、テーブルに置いた紙箱を指差した夏油が「そういえば君にお土産があるんだ」と口を開いた。
「ケーキ?珍しい」
「そろそろこういうものが食べたくなる時期だろう?」

生暖かいミーティングルームの片隅に置かれた暖房器具が煌々と明かりを放っていた。師も走るほど何かと忙しいこの一月は、街全体がどこもかしこも浮かれているように見える。夏油に指差された白いケーキの箱にも煌びやかな装飾が施されていた。

ケーキの箱を開けて中身を確認する。ショートケーキとチョコレートケーキが一つずつ入っていた。今この本部に来ている幹部は夏油を含めると8人。明らかに数が足りない。夏油は意地悪で6人分の『お土産』を買ってこないような男ではない。ということは、この2人分のケーキはと夏油2人のために用意されたもの、と受け取った方が自然だろう。
「食べないのかい?」
「……後で美々子と菜々子に見つかったら面倒だと思って」
「あの二人は今日はスイーツパラダイスに行っているそうでね。もうケーキは飽きるほど食べているだろうさ」
「わざわざそのタイミング狙って買ってきたわけ?」
「君と二人で食べたかったからね。たまにはこういうのもいいだろう?」

にこりと微笑んだ夏油に「そうだね」と返事をしたが立ち上がる。ミーティングルームから少し離れた場所に位置するキッチンから皿とフォークを取り出してミーティングルームへと戻ると、先程までが座っていたソファに腰を下ろした夏油が箱の中身を指してへと質問を投げかけた。
「イチゴとチョコレートだったらどっちがいい?」
「……あえて選ぶとするならチョコかな」
「そう言うだろうと思った」

はいどうぞ、と差し出された皿に乗ったチョコレートケーキを受け取ったが夏油の隣に腰を下ろす。2人分の体重を受け沈み込んだソファがひしゃげた音を立てた。
「どうかした?」

ケーキの乗った皿を膝に乗せてじっと見つめたまま微動だにしないへと視線を寄越した夏油がケーキを一口頬張ってから口を開いた。その口ぶりは仏のように優しく落ち着いているが、向けられた眼光はナイフのような鈍い輝きを放っている。
「浮かない顔をしているね。何故だか当ててあげようか」

当ててもらわずとも、答えなんてものは分かりきっている。柔らかいスポンジにフォークを突き立ててからゆっくりと首を振って、は口を開いた。
「遠慮しとくよ。そういうのは信者の人たちにやってあげるものでしょう?」
「……猿どもの話はやめておこう。せっかくのデザートがまずくなる」

楽しげにフォークを口へと運んでいた夏油の顔にシワが刻まれる。やってしまったとほんの一瞬ぎくりとしたけれど、その表情はまたすぐに飄々としたいつもの彼のものに戻っていた。が10年前からよく知っている、あの時から変わらない『夏油傑』がそこにいた。

の高専の同級生だった夏油傑が派遣された任務へと向かったまま姿を晦ましたのは、まだ夏の匂いが残る9月のことだった。

一人の天才だけではとてもこの世界は救えないが、千の呪霊を持ってすれば世界は壊せる。彼が初めてこの持論を彼女の前で語ったのはいつだったか、もう思い出すことは出来ない。学び舎だった高専から追われる身となった後、解体されたはずの宗教団体の頭目として彼がの前に姿を現した日から2年が経った冬の日だったろうか。3年目だったかもしれない。

ショートケーキの残骸の上で転がっているイチゴに夏油がフォークを突き刺したのがの目に入った。
「君は非術者を殺したいわけではないんだろう?」
「……殺戮を好き好んでやりたがるイカれた奴なんてそうそういやしないでしょ」
「おや、じゃあ私は君から言わせると『イかれてる』のかな?」

わざとらしく肩を竦める夏油を見て、彼女は深いため息をつく。とてもケーキなど食べられる気分ではない。呪詛師として全呪術師から追われる身となった今のが『殺戮を好き好んでやっているわけではない』と述べるなどとんだお笑い草だが、実際そうなのだから仕方がないだろう。

この手で葬った人数が百を超えたときから数えることはもうやめた。彼女が望むのは今も昔もただ一つ、彼と並んで見ることが出来る世界だけ。そのためなら多少の犠牲は厭わないと、そう思ってここまでやってきたわけだけれど、いざ世界の転覆を目の前にすると多少尻込みしてしまうくらいには私はまだイカれきってはいなかったらしい。自嘲するの心の内を知ってか知らずか、夏油がゆっくりと口を開いて言った。
「私はね、これ以上この世界で術師が死ぬのを見たくないだけなんだ」
「……言ってることとやってることが違いすぎません?」
「大義とそれを手にするための手段ってやつさ」

フォークに突き刺されたイチゴが大きく開けられた夏油の口の中へと消えていく。まだ半分以上皿に残っている自分の分のケーキをフォークで突きながら、イチゴまできっちり食べ終え満足そうに頬杖をついている彼の顔を彼女はじっと見つめた。

あと数日すれば百鬼夜行が始まる。呪霊で世界が満ちるのだ。その後の世界がどうなってしまうのかは正直なところ、よく分からない自分がいる。

昔から、社交性はおそらく人よりある方だった。当たり前だ。私は猿ではないのだから。だけど、社交性だけではどうにもならないこともあるのだと気が付いたのはここ最近のことだ。

何も出来ない人間が嫌いだった。猿と呼ばれても仕様がないと思っていた。だけど最近はよく分からない。呪力を持たない彼らが猿と呼ばれるのなら、呪力を持っているだけで何も出来ない私は一体何と呼ばれるべきなのだろう。

呪術師の世界は狭い。新しく入った1年に憑いているという特級呪霊を手に入れるために、夏油は高専へ攻撃を仕掛けるだろう。そこには未来ある私たちの可愛い後輩たちだけではなくあの男ーーーー教職となった五条悟だっている。

五条悟は天才であるが故に不遜な男だった。そしてその彼と常に一緒にいた夏油傑は天才ではないが故に優しい男だった。だから私は彼の手を取った。いっそ夏油傑が稀代の天才であったなら、こんなことにはならなかったのだろうか。はなから私には手が届かない人なのだ、と、そう諦めもついたのだろうか。

味のしなくなったチョコレートケーキを無理やり喉へと押し込んだがまるで酒でも飲み干すかのようにコップから一気に水を呷る。ごくん、と大きな音を立ててケーキの塊だったものを飲み込むと、トントンと自身の眉間を指で示した夏油が「シワ入ってる」との方を向いて笑った。
「しかめっ面ばかりしてるとそういう風な顔になるって昔誰かに教わらなかった?」
「……甘いもの食べると嫌でもあいつのこと思い出しちゃうなと思って」
「奇遇だね。私もちょうど悟のことを考えていたところだよ」

この男はもしかすると、記憶の淵へ追いやっていた当代最強の呪術師のことを思い起こさせるためにわざとケーキなんて買って寄越したのかもしれない。昔からそうだ、とても趣味が良いとは言えない男だった。そうでないとあんな男の親友なんて、祓った呪霊を取り込んで使役する呪霊操術の使い手なんて務まらないだろう。

食べ終わった皿に無造作に置かれたフォークに反射する夏油の表情からはどんな考えも読み取れやしない。高専で同志として同じ任務に当たっていたときも、高専を離れてでも彼の手を取ると決めたときも、信者の前で立派な御高説を垂れている様を眺めているときも、教祖や呪詛師として以外の顔を誰かに見せているこのときも、いつだって彼女が夏油傑の心に触れられたことはない。そして、このとき彼が五条悟の一体何について考えていたのかを、ついぞは聞き出すことが出来なかった。




あともう少ししたら年が明ける。また違う1年がやってくる。信者たちは今日も救いを求めて教会へとやってくるだろう。だけど、売れ残ったケーキと不気味に嗤う呪霊を片手に、夏油傑がミーティングルームへの扉を開き「ただいま」とに向かって声をかけてくる瞬間は、もう、二度と訪れなかった。

20201001 呪廻アニメ化記念
珍しくシリアスなのを書こうとしたらこの様です
titled by 彗星