いつか僕らひとつで魚になる

やっと見つけた。山の麓で木刀も持たずに地面に座り込んでいたところに声をかけると、首を横に振って「帰りたくない。……帰ったら義勇と会わなきゃいけないから」と膝を抱えながら答えた妹弟子に錆兎は目を丸くした。
「どうしてそんなことを言うんだ? 鱗滝さんが悲しむだろう」
「だって……錆兎といるときはあんなに楽しそうに笑うのに、私といるときはにこりとも笑ってくれないの。きっと私のことすごく嫌いなんだと思う」

何を言っているんだと大きな声を出したくなるのをグッと堪え、錆兎はの前に立って手を差し出した。しかし尚も下を向いて動く気配のないにふうと溜息を吐く。

逆巻いているつむじをしばらく見下ろした後「」と呼びかけると、ようやく上を向いた彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。何も泣かなくともとは思うが、この妹弟子は剣の筋はいいのだが少々繊細なところがある。彼女にとっては深刻な事態なのだろう。錆兎にとってはまもなく狭霧山の日が暮れてしまうことの方が気がかりだったが、てこでも動こうとしないをここに放っていくわけにもいかない。
は義勇が笑わないのが嫌なのか?」
「嫌じゃないけど……寂しいと思う。だって錆兎とは仲良しなのに」
とはまだ知り合って日も浅いし、少し時間がかかるだけだ。元から社交的なやつじゃないのはも分かってるだろ」
「……そうだけど」

なおも納得がいっていなさそうな表情を浮かべる彼女に「帰ろう。日が暮れるぞ」と言うと、渋々といった様子で立ち上がり着物についた土を払っている姿を見て錆兎はふっと口元を弛ませた。

――まったく、手がかかる奴だ。義勇もも。

彼らに伝えたことはないが、錆兎は内心そう思っていた。それこそ、この二人が初めて顔を突き合わせることになった日からずっと。

家族を鬼に襲われるまで剣とは無縁だった錆兎は、鱗滝に弟子入りするなりめきめきと腕を上げていった。そしてそれは同時期に狭霧山へとやってきた義勇も同じで、二人は鱗滝から課される修行の度に剣を交えては互いを高め合っていた。そこに後から加わったは、兄貴肌で面倒見のいい錆兎とは気兼ねなく話せるようになってきているものの、寡黙な義勇との距離感を未だどうにも計りかねているらしかった。

さくさくと音を鳴らして草を踏み分けながらどんどんと薄暗くなっていく道を歩いている途中で後ろを振り返ると、相変わらず彼女は俯いて暗い顔をしながら着いてきている。そんなに義勇に会うのが嫌なのか。そう訊ねると静かに頷いた彼女の足が完全に止まってしまったのを見て、錆兎も同じように山を下っていた足を止めた。
「そんな顔をするなよ。何か言われたのか? 義勇に」
「……何も言われてない」
「じゃあ嫌われてるなんて思わなくていいだろう。あいつは優しいけれど引っ込み思案なところがあるから、まだとどう話していいのか分からないだけだ」
「違うの、……本当に、私には何も話してくれないんだよ。錆兎とはあんなに話してるのに、おはようって言っても「ああ」としか返事してくれない」

だから私のこと、好きじゃないんだと思う。そう言った彼女の声がまたどんどんと沈んでいくのが分かった。
「俺だって義勇と初めから色々と話していたわけじゃない。――よく話すようになったのは、お互いの家族のこととか、ここにきた理由を話すようになってからだ」

育手である鱗滝の下で修行に励んでいる子供たちは皆、似たような境遇だった。狭霧山で初めて義勇と会ったとき、錆兎は親兄弟や身内を鬼に殺された人間が自分でなくとも多くいるのだということを思い知るとともに、こんなにも多くの人間を傷つけ大切なものを奪っていく鬼の存在を許すことはできないと木刀を握る手にますます力を込めるようになった。そしてそれは言葉にこそ出さなくとも義勇も同じで、だからこそ彼らは友達になることが出来たのだろう。

天涯孤独なのはも同じだった。――そもそも、そうした事態にならなければ一般の人間が鬼の存在、ひいては鬼殺隊の存在に気がつくことは難しい。皆言葉には出さないものの家族を失った虚しさや絶望を胸の内に抱えていて、それらを鬼狩りの修行の原動力へと変えてきていた。だから、少し時間はかかるかもしれないが同じ志を持つと義勇も必ず上手くやれるはずだと錆兎は思っていた。しかし当のはといえば、錆兎にそうした思い出を話させてしまったことの方に申し訳なさを感じているようで、その表情は依然として暗いままだ。
「……ごめん。錆兎」
「いい。それより、早く帰らないと鱗滝さんが心配する」
「そうだね」

鱗滝に心配をかけたくないという想いが勝ったのか、「急ぐぞ」と差し出された錆兎の手を握って再びは歩き出した。課される剣の修行は厳しいが、自分たちの身を心から案じてくれる鱗滝のことを彼らはとても慕っていた。その鱗滝の名を出されてしまっては、とて強情を貫くわけにもいかない。しばらく二人で黙って歩みを進めていると、家の明かりが見えてきた。

家の前で立ち止まってしまったの背中を軽く叩いて促すと、しばらく逡巡してから意を決した表情をしてが玄関の戸に手をかける。戸を開いたに続いて玄関をくぐると、中では義勇と鱗滝が夕餉の支度をしていた。――とは言っても、夕餉を作ったのは水の呼吸の修行をしていた義勇と鱗滝ではなく錆兎の後ろに隠れるようにして家の中の様子を伺っているで、夕餉の時間が近づいてくるにつれ義勇と顔を合わせることに憂鬱を募らせた彼女が家を抜け出したために彼らは残されたそれを温め直しているだけではあったのだが。

皿を並べながら「おかえり」と言った鱗滝の声に「ただいま鱗滝さん」と返事をしたがいそいそと席につく。その間も彼女の視線が義勇へと向けられることはなく、どうしたものかと思ったものの何も言わずに錆兎がしばらく箸を進めていると、の視線が同じく夕食の鮭に箸を伸ばしていた義勇へと向けられているのが分かった。同じように食べ進めていたはずなのに、義勇の皿はほとんど空に近くなっている。その皿に目をやったがおずおずと義勇に向かって声をかけようも口を開いたのを見て、錆兎は心の中で「がんばれ」と呟いた。
「義勇は鮭が好きなの?」
「……ああ」
「美味しい?」
「ああ」
「よかった。……義勇の笑った顔って私初めて見た」
「……俺はいつでも笑っていると思うが」

二人のやりとりに耳を傾けつつ黙々と食事を口に運んでいた錆兎は、義勇のその言葉を聞くなりとうとう我慢しきれなくなった。握っていた箸を置いてくつくつと笑いを漏らす錆兎を、ぎこちないながらも言葉を交わしていた義勇とが不可解そうな目でじっと見つめているのが分かる。
「どうしたの? 錆兎」
「……いや、何でもない。それより、も早く食べないと冷めるぞ」
「うん。……義勇がいっぱい食べてるの珍しいからついつい見ちゃってた」

「気に入ったなら私の分も食べる?」と鮭が乗った皿を差し出したを遮った鱗滝に「それならこっちのをやろう」と持ちかけられ、義勇は困惑した表情を浮かべている。その視線に気がつかないふりをして鮭を口に運ぶと、錆兎の助けが得られないと察した義勇が数秒あけてから二人に向かって口を開いた。
「……いや、いい。ありがとう」
「いいの?」
「ああ」
「じゃあまた今度二人が帰ってきたら作れるように取ってくるね。鮭」
「……簡単に取れるものなのか?」
「ちょっと遠くに行かないと取れないの。結構難しかったけど、岩を斬るよりは簡単だよ。鱗滝さんに手伝ってもらえるし大丈夫」

だから二人とも最終選別頑張ってね、と今度は錆兎にも向けられた視線に頷くと、狭霧山からここへ帰ってくるまでずっと暗い顔をしていたがようやく笑った。

錆兎と義勇は鱗滝から最終試験として課された『岩斬り』を無事に達成し、明日藤襲山へ向けて発つことになっていた。そこには連れてはいけない。彼女はまだ岩を斬れていないからだ。焦るに錆兎は「鱗滝さんの教えを守っていたら斬れるようになる」と声をかけたが、義勇は何も声をかけられていなかった。その二人が明日、ここを発っていなくなってしまう。そしてまた戻ってくる頃にはもう鱗滝の弟子ではなく鬼殺隊の一員として、鬼狩りとして生きていくのだ。

置いていかないで。そう言葉にこそしなかったが、たった一人で鱗滝の下で修行を続けることになる妹弟子が言い知れぬ不安を抱えているのは錆兎にも分かっていた。

そして、が不安を感じていたのは剣士として一足先へ進んでしまう二人の兄弟子の背中にだけではなかった。夕食後の洗い物をしている彼女の隣に並んだ錆兎は後ろで洗濯物を片付けている鱗滝と義勇に気付かれないように小声でそっと耳打ちをする。
「――俺の言った通りだっただろう?」
「うん。初めて義勇とあんなに話せて嬉しかった。最後の日まで話せないのかなと思ってさっきまで悲しかったのに不思議。……それに、嫌われてるわけじゃないのかな? とも思えたし。ありがとう錆兎」
「礼を言われるようなことはしてない。それに嫌われてるどころかあいつは、……いや、まあ、これは帰ってきてからでいいか」
「え? なに?」
「何でもない。選別が終わったらまた話す。……洗い物、変わるから義勇の方を手伝ってやってくれ」
「分かった」

濡れた手を手拭いで拭ったが振り返って鱗滝と義勇の方へと歩いていくのを見送った後、錆兎は皿を洗う作業に取り掛かった。鬼殺隊に入るための最終選別は七日間続く。玄関先には鱗滝が錆兎と義勇の無事を願って彫ってくれた厄除の面が立てかけられていた。明日、あれを付けて自分と義勇は旅立つのだ。そうしたら、こうして次に鱗滝やの作った食事を皆で囲むのも七日後になる。そう思うと、何か一つだけでもきちんと家事をやっておきたかった。

背中の後ろから聞こえてくる友人と妹弟子、そして心から尊敬する師匠のやりとりを聞きながら、錆兎は静かに皿についた汚れを流す。――今から一週間後、藤襲山にいる鬼を倒して、自分は鬼狩りとなるのだ。そして、ここへ帰ってくる。そうしたら、「そんなんじゃいつまで経っても好きだって気付いてもらえないぞ」とあの少し引っ込み思案なところがある妹弟子を励ましてやって、義勇にはもう少し自分の気持ちを言葉にするように言ってやろう。そう密かに決意を固めながら、錆兎は黙々と皿についた四人分の汚れを洗い流していた。