地獄でなぜ悪い

それほど混み合っていない平日の夜中の車内、座席に座ってミニスカートで足を組む女性にやたらと目が行ってしまうのは間違いなくあの男の影響だろう。反対側のホームからすし詰めになった急行列車が発車するのを見届けて、電車から降り鞄のポケットから煙草を探し火をつける。嫌な顔を思い出してしまった。

時刻はちょうど日付を跨いだところぐらいか。火をもみ消しながら苦みの残る口の中をすぐさますすぎたい衝動に駆られた。こんな気持ちで家に帰ったってやるせなくなってしまうだけだし、押すというよりも突つくと言った方がいいような勢いで携帯のボタンを押した。あれもこれも全部あの男のせいだ。

聞き手で煙草の吸い殻を持って、もう片方の手で携帯を耳に押し当てる。決して行儀のいい行為とは言えないこれも、今から会う男のことを考えるとむしろ似合いの振る舞いだと思えた。コール音が鳴り響いたあと、少し掠れた声が電話の向こうで「あ?」と声を出す。この時間なら数コールで電話に出ることを私は知っていた。おおかた一人で晩酌してたとかそういうところだろう。
「今から行くから鍵開けといて、や、むしろ迎えにきてくれない?」
「は?」
「今あんたの最寄りのとこにいるんだけど」
「何でオレが」
「終電逃しちゃったし」

迎えにきてよ。そう言い終わるのを待たずにブツッと切れた電話を見つめて10秒。何度も言っているというのに、用が終わるなりすぐに電話を切る癖を直す気はさらさらないらしい。二本目に火をつけた。ほんとはあるんだけどな、終電。まあいいや。わざと階段をゆっくり降りるともうそこにはやたらとゴツいスクーターに跨がって口の端を釣り上げた灰崎が待ち受けていた。白いTシャツが暗い夜の景色の中でひと際目立っていて少し不気味。
「早かったね」
「お前が呼んだんだろーが」

確かにそうだ。丸めていた背中をしゃんと伸ばして、ストッキングの中のつま先を二、三回折り曲げて、ほぐしてやる。ゆっくりと灰崎に近づくと、ゴツいバイクのシートを開けてヘルメットを取り出しているところだった。……何を今更、交通安全に目覚めてるんだか。ぼーっとその作業を見つめているとヘルメット二つを脇に抱えた灰崎と視線がかち合った。
「なんだよ」
「……や、意外だなって思って」
「あ?」
「ヘルメット持ってんの」
「誰かさんが死にたくねえってうるせぇからな」

じろりと睨まれて私のせいかよと心の中で悪態をついた。そんなに口うるさく言ってたつもりはないんだけどな。乗れよ、と急かされバイクの後ろに跨る。ベルトもつけないうちにエンジンがかかって、「出すぞ」と言う声が聞こえた。ちょっと待って、まだヘルメットつけてないってば。

風を切って走る。その表現がぴったりくるような走りを灰崎はする。後ろから見た灰崎の頭は、見慣れた灰色じゃなくてらてらと光る黒い色をしていて、割と頭小さいんだよなと全く関係のないことに思いを馳せた。ちなみに私のヘルメットは薄いピンク色だった。こんな可愛らしい色の物体をあの灰崎がシートの下から取り出してくるなんて。アンバランスで笑える。

外見からすれば不良以外の何物でもない灰崎が、きちんとヘルメットをつけているというのはやはり変な心地がした。ちゃんと被ってって言ったのは私だけど。それだって別に灰崎が大事だからとか、そういう意味で言ったんじゃない。もし仮に事故になったとして同乗者が死んだんじゃ煙草も不味くなる。一体どれだけの価値があるのかは分からないが私だって自分の命や将来が惜しい。ただそれだけ。

灰崎の部屋は相変わらずあまり片付いてはいなかった。でも別に生活が苦になるほど散らかっているわけでもない。どうせお前が片付けんだからいいだろ、なんてふざけた口を聞いたコイツにいつか女に刺されるんだろうなと憐れみの目を向けたのもつい最近のことだ。さっさとシャワー借りて寝よう。脱衣所へ向かおうとした手を後ろから掴まれて、何すんだと思ったら私のつま先辺りからスカートの裾あたりまでをじろりと舐め回すように見た灰崎が「黒じゃねぇのかよ」と言って口を尖らせるのを見てまたかよと思った。毎年毎年、この季節になるとコイツは不機嫌になるのだ。
「黒いやつ履いてこいっつったろ」
「いや会社で肌色って決まってるし」

それに、どうせ破くんだから色なんてどうだっていいでしょうに。この部屋に来る度にストッキングをダメにする私の身にもなってほしい。ぐっと距離をつめてくる灰崎の体を押しのけて、ソファに体を預けるようにしてもたれかかる。明日も仕事なんだし、勘弁してほしい。しかし私がそんな風に思っていることなど微塵も気づいてなさそうな灰崎はソファにもたれる私の体に覆い被さるなり、爪を私の脚に突き立てた。おろしたてのストッキングが肌に沈む。
「あ、ちょっと、ダメだってば」

それでもおかまいなしにストッキングを引っ掻くもんだから、私はソファにもたれ気味だった上体を起こして本格的に奴を制止した。身をよじったせいでスカートがまくれ上がった。最悪だ、これ絶対しわになるし。
「や、ホントダメ。ホントに。今日予備の持ってないし」
「生足で帰りゃいいだろ」
「本気で言ってんのそれ」
「オレは冗談は言わねぇよ」

その発言が既に冗談だろう。親指と人差し指でストッキングを引っ張った灰崎が、楽しくてしょうがないといった様子で「こうなるって分かってただろーが」なんて台詞を吐いたもんだから次に起きたら一番にコンビニへ走ろうと決意しつつ灰崎の頭を抱き寄せた。「オレやっぱお前の脚が一番好きだわ」なんて、気持ち悪いことを言う灰色の毛に背中に悪寒が走る。もういいよ黙ってて、ていうか脚だけ好きみたいに言わないでほしいんだけど。ピンクのヘルメットよりもよっぽど趣味が悪い。変態。思っても言えない私はどこかコイツに対して甘いらしい。もう本来の役割をちっとも果たしていないパンストが脚から抜かれていくのを見て観念した。あ、煙草吸いたいかもしんない。