覚悟なされよ

他者より秀でた才能の持ち主が一つの団体のうちで煙たがれることは往々にしてあるものだ。ハンジ・ゾエ分隊長は調査兵団一と言っても差し支えないほど頭の切れるお方であるが、如何せん生活力に欠けていた。研究に没頭すると睡眠や食事を忘れ、三日ほど姿を見ないと思っていたら燃料切れで床に転がっているのを部下に発見された、という話はもう聞き飽きたほど。
「死にたいんですかハンジ分隊長!」

モブリットさんの声が幾度も飛んでくる。ああまたあんな近くまで巨人に近づいて……!立体起動でブレる視界の中、場違いなほど能天気な分隊長の声と巨人の足音が聞こえる。……これで、11回目だ。
「分隊長は、何のために研究を続けているのですか?」

放っておくとハンジ分隊長は本当に死んでしまいかねない。それも巨人に食べられてではなく、栄養失調で、だ。兵士長ほどではないがかなりの実力と実績を誇るこの人は、兵士ではなく研究者として我が道を歩んでいる。いわく「研究も結局は戦いの一環なんだよ」だそうだが、あれほどの頭脳が活かされるのが巨人の研究(ほとんど手がかりがないに等しい)のみというのは、些か宝の持ち腐れというものではなかろうか。また没頭して寝食を忘れてしまいかねない分隊長の机に飲み物の入ったカップを置き、尋ねた。今、人類の敵である巨人を殺すのではなく生け捕りにし、あまつさえ研究しようなどと血迷った行為を行う人間などこの人しかいないのだ。煙たがられようと理解を示されなかろうと研究を続ける分隊長の姿は、人類のあるべき姿のようにも見え、それでいて滑稽であるかのようにも見えた。
「君は私が嫌いかい?」

的外れな返答が返ってくる。椅子の向きを変え、私に向き直った分隊長は眼鏡の淵を押し上げ、しっかりと私を見据えた。
「いえ、尊敬に値する素晴らしいお方だと思っております」
「じゃあ、巨人のことは?」
「人類の敵だと思っています」
「そうか……ねえ、君が私に忠誠を誓う必要なんてないんだよ。いつ死ぬのかなんて誰にも分からないし、もしかしたら私も君も、明日巨人にやられて死ぬかもしれない。君が心臓を捧げるべきは私個人じゃない。調査兵団が背負っているもの全てだ。大切なのは常に前を向いて進むことで、私はこの研究が人類の未来にとって大切な何かを見つける手がかりになると信じている。本当に信じているんだ」
「……分隊長、私はそのようなことなど一度も、」
「だけどこれは私自身の話であって、君が私と同じようにする必要なんてどこにもないんだよ。研究が好きでも嫌いでも、理解したくてもしたくなくても、君は君。私は私だ。そして、その頭で何を考えていようと、君が私の部下であることに変わりはない」
「……でも、あなたが死んだら、誰が好き好んで巨人の研究なんてすると思うんですか」
「君はなってくれないのかい?あの子たちの後見人に」
「死んでも御免です」
「はは、それでいい。前を向く心が大切なんだ。例えやり方が違っても、我々は同じ未来を見据えている」

巨人を巨人としてでなく「あの子たち」などというな呼び方をする物好きもこの人くらいだろう。おそらくハンジ分隊長のいう言葉は正しい。ひょっとしたら私は、分隊長のしていることを、いや、分隊長を、理解したいと思っているのだろうか。
「もう一つ聞いてもいいですか、ハンジ分隊長」
「いいよー、何でも聞きたまえ」
「どうして私はここにいるんでしょう」

今日も、明日も明後日も、また一人ずつ仲間が巨人に食べられ死んでゆく。希望など初めからなかったかのようなこの世界で、見つめ続けられるものがある分隊長が、私は、…私は、この人を羨んでいるのだ。例え死んだって誰にも気づかれず誰の記憶にも残らない。そんな私とは違う、この人の姿を。話しながら大袈裟に手を動かしていた分隊長の動きが止まった。
「そうだね、君はまだまだ半人前もいいところだけど」

無造作に結ばれた分隊長の髪が揺れる。机の上に置かれたカップに口をつける、それだけの動作がやけにゆっくりに見えた。
「君の淹れたお茶は私のやる気を引き出すのに十分な役割を果たしてると思う。どうしてここにいるのか?なんて、それ以上の理由なんて必要なのかな?」

この世界では、誰にでもいいから必要とされたいなどと陳腐なことを考え始めた人間から死んでゆく。立ち止まったらそこから足元が崩れ落ちるのだ。私が心臓を捧げたのは人類全ての進撃に対してであり、調査兵団にかかる重圧や期待や未来すべてであり、そしてハンジ分隊長その人である。理由なんてそんなもの、
「それだけあれば十分ですね」

背中に背負う自由の翼の重みが増した気がした。