よしんばあなたがわたしをあやめたとしても

アメリカ帰りの帰国子女なのだというから、あんな風に目元に一つだけポツンとホクロがあったりするから、制服をきっちり着ていたって崩して着ていたって体操服を着ていたって汗まみれになって練習している最中だってその身から溢れる色気を隠そうともしていないから、私みたいなアホで愚かで無駄に夢見がちな乙女が引っ掛かってしまうのだ。氷室辰也くん。日本の上のほう、東京という大都会に比べたら寒くて寒くて遊べるところも豊富にあるとは言えない、秋田の辺鄙なミッション系の学校に、そんなインターナショナルな美形が転がり込んできたらどんな女子高生だって大騒ぎもするもんだろう。当然のように私は大騒ぎをした。友達と群れをなしては毎日のように格好いいだの素敵だのと少ないボキャブラリーを駆使して言いまくった。そんな私たち女子高生の猛攻に対し、どこまでもスマートな氷室くんは、ただただ綺麗に微笑むだけでそれ以上のこともそれ以下のこともしなかった。こっそり抱かれてる子もいるんじゃないかと勘ぐる私だったけれど、昼間の彼はそんな素振りも全然見せなくて、むしろ健全だった。氷室辰也くんは、バスケばかりをしていた。一にバスケ、二にバスケ、三にバスケ、さらにはその次の四も五もバスケ。さすがに夜の彼の動向を逐一把握するなんてことは出来ないので、学校から帰ったあと何をしているのかは知らない。しかし、いかんせん昼間の氷室くんはアダルトのアの字も感じられないほど健全だった。あんなにも色気を垂れ流してるくせに、どこまでも清らかだった。そして私の勘ぐりは否定されることも肯定されることもないまま、燻っては萎びて、そしてまた燻ってを繰り返すこととなったのだ。

何がどう良くて彼のお気に召したのかはいまいちよく分からなかったけれど月日が流れるうちに氷室くんは私の彼氏となっていた。そして判明した衝撃の事実、なんと夜の氷室くんも健全であったのである。てっきり事あるごとに愛を囁いたりハニーだのスウィートハートだの、言ってきたりするもんだと思っていた。どろどろの蜂蜜のように甘くて、濃密で、近づいたこちらが色気に当てられて卒倒してしまうような、そういう男が氷室辰也で、部屋に招かれたらそれが最後だと思っていた。そう、思い込んでいたのだ。
「完全に身から出た錆でアルな」
「正論すぎてぐうの音も出ない」

中国からの留学生である劉はまるでスポンジのように着実に日本語を覚えていっていた。主に悪い言葉ばかりを、だけれども。十中八九バスケ部の影響だろうと私は睨んでいる。もちろん氷室くんは除いて。
「氷室くん見てると自分が惨めに思えてきちゃうんだよね」
「実際惨めだろ」

劉の声は至って淡々としたものだった。私たちの話している日本語とは少し違う、平坦なような妙な抑揚があるような独特の話し方で、ズケズケと物を言ってくる劉は、私を私の望むように突き放してくれるから、好ましいと思う。氷室くんはたとえ地球が反転したとしてもこういう風には言ってくれない。
「氷室くんのどこが好きなのか分からないくらいには好きなんだけど」
「……ノロケなら他所でやってほしいアル」
「ノロケじゃない。相談。……何か、一緒にいると結構辛いっていうかね、惨めになるの」
「さっきも聞いたぞそれ」
「もう分かんなくてさ、ね、劉、私は一体どうするべきだと思う?」
「別れたらいいんじゃないアルか?」

女の子が他人に相談を持ち寄せるとき、それは意見を求めてるんじゃなく同意を求めているだけなのだという話は有名だろうが、ここまであっさりと言わんとしていたことを口に出されてしまうと、咄嗟に反応できなかった。黙りこくると、劉は鼻で笑いながら私にトドメをさそうともう一度口を開く。
「氷室もこんなアホの相手させられて可哀想アルな」

姿も見えないし実在するのかどうかも分からない女の影にいちいち殺されそうになっている私は自他ともに認めるアホであった。ただ、氷室くんだけは、そういうところもひっくるめて好きなのだ、と。言ってくれるのだけれど、私はそれがどうにもむず痒くて、素直に受け取れなくて、いっそのこと氷室くんがアメリカ帰りの帰国子女というイメージに逆らわないチャラチャラした人だったなら良かったのにと何度も思った。むやみやたらに愛の言葉を吐き散らかして、どろどろに溶かした挙げ句にあっさり捨ててしまえるような、経験豊富でアダルティで愚かな人だったらどんなに良かったか。それなら悪口の一つや二つ言ってしまえるのに、氷室くんはどこまでも清らかだった。眩しかった。私に、好きじゃなくなる隙を与えてくれやしない。そのくせ、私を惨めにさせる。酷い男だと罵ったあとで、本当に酷いのは自分だと分かっているから余計に傷ついた。本当に、こんな私の相手をさせられる彼が可哀想だと思う。
「本当に別れるかも、私」

自信も何も無くなってしまった胸の内から吐き出した言葉に、今度は劉さえも笑ってくれやしなかった。


何度部屋に招かれようといつまで経っても最後の瞬間はやってこなくて、氷室くんは私を抱くどころか夜になると指一本触れてこなければ同じベッドで眠ることもしなかった。ただ一緒に帰った流れでそのまま彼の部屋でご飯を食べて、紅茶を飲んで、たまにビリヤードに連れて行ってくれて、遊び終わるのが夜遅くだと家まで送り届けてくれるか、自分のベッドを貸してくれる。そして、氷室くんはソファで眠るのだ。いくら構わない、気にしないと言ったって、聞き入れてはくれなかった。いつだって肩身の狭い思いをしながら私は眠りに落ちていく。そしてまた、朝目覚めると氷室くんは綺麗に微笑みながら「おはよう」と私に言うのだ。もちろんそのあとにハニーとかスウィート何たらとか言ったりはしなくて、英語で挨拶をしてくるわけでもなくて、ただただ優しい朝を与えてくれる。その優しさにまた逐一嬲り殺されそうになっている私がいることを彼は知っているんだろうか。

私が最初に好きになったはずの私の中の氷室くん像を彼は自分の手で完膚なきまでに叩き潰してくれた。一にバスケ、二にバスケ、三にバスケなのは相変わらずでも四か五あたりには私の事を考えてくれている。そこに他の女の影もなければアダルトのアの字もない。分かっているのに不安になる私にアホと言って罵ったりも、しない。氷室くんと一緒にいると私がどんどんダメになるのだ。自分だけが汚れていくような気持ちになる。彼の体も、手も、声もまっさらなのに、黒く塗りつぶされてしまうみたいで、だから別れたいのか?と聞かれるとすぐに首を縦に振れはしないのだけれど、でも、それでも、たった一言「別れよう」と口に出すのは適わなかった。だって、私から裏切れる訳がない。
「……こういうオレは、嫌いかい?」

氷室くんは、よく気づく。困ったような顔をする氷室くんに、嫌いじゃないよと私が返すことも、きっと知っている。そして、氷室くんは嫌いじゃないけどこういうことを考える自分が嫌いだと言う私に、でもオレは好きだよと返してくるであろう彼のことは、私だって知っているのだけれど。
「まさか、全然嫌いになれないあたりもう手遅れだなぁと思ってるよ」

氷室くんが好きだと言ってくれる自分を好きになれないことがたまらなく嫌で、惨めだった。勝手に盛り上がって、勝手に打ちのめされて、また期待して、もう何回だって惚れ直してるのに、一向に氷室くんは私をどうにかしようとしなければ全てを委ねようとしてくる始末で、裏切るならお前からだと、そう促してくる。
「私ね、氷室くんになら何されてもいいって結構本気で思ってるんだけど」
「……うん」
「今日も一緒に寝てくれないの?」

目の下のホクロさえも愛しいと思うなんて、たった一言で心臓を握りつぶされたような気持ちになるなんて、言わなきゃ分からないのに、手に取るように分かっているんだろうと思わせるこの人は、……この人は。私があげられるものなんて限られているのに、受け取ろうともしてくれない。心底惨めな気持ちの中で床とスリッパが擦れ合う音を聞く。どろどろで蜂蜜のように甘くてこちらが色気に当てられてしまいそうなほど濃密なんだろうと想像していた彼からの口づけは、思いの外しょっぱい味がした。