世界の呼吸が聞こえるか

白石や忍足や千歳と同じクラスで隣りの席になった、と言えばすぐさま羨ましいだの私と代われだのやいやい言われてしばらくはお昼ご飯のときはその話でもちきりになるというのに、一氏と隣同士になったと言っても誰からもこれといった反応が得られなかったあたりで、何となく私は一氏ユウジが四天宝寺中学の女子の間でどういう認識の下に置かれている存在なのかを理解した。四天宝寺の女子生徒界隈において、男テニと知り合いというのは一種のステータスのようなもので下手をすれば中間テストで満点を取ることよりもずっとずっと価値のあることなのだけれど、会話の中心に上るのは大体が部長の白石や優しいともっぱら評判の忍足やその白石と忍足によく絡まれてる二年の財前くんで、そこに一氏の名前は出てこない。

現に一氏と同じクラスでさらに隣りの席になったと報告しても誰も「いいなあ」と言わないばかりか、「今度あの芸人のモノマネやってって言っといて」なんて言い出す始末で、それは多分あのテニス部の中でもダントツでネタに走っているこの男の芸風からしたらごくごく当たり前の反応なんだろうけれど、国語の授業中、飽きたのかろくにノートも取らずにペン回しを始めた一氏の横顔を見て「可哀想なやつ」と心の中で呟いた。そのすぐ後に一氏がこっちを向いたものだからうっかり口に出てしまったのかと一瞬肝が冷えたけれど、なんてことはない。
「暑ない?」

そう言ってシャツの襟元を掴んだ手を上下させる一氏は、こっちがうんざりするくらいにしきりに「暑い」と口にしては大げさに自分に向かって下敷きをぱたぱた扇がせていた。何ていうか、もう、存在そのものが暑い。暑苦しい。そんな暑いんやったらバンダナ取ればいいのに、それは嫌らしい。よく分からん。
「クーラー入れてくれたらええのに」

ぶつぶつ不満を口にする隣りの席のやつと同じようにノートの下から引き抜いた下敷きをぱたぱた扇ぎながら、黒板へと視線を戻す。いつの間にかかなり進んでしまっていた板書を書き写すべく、私は慌てて下敷きを元の位置に戻すとシャーペンを握り直した。書くのも早ければ消すのも早いからあんまり好きじゃないんよなあ、この先生。

私が必死になって黒板に書かれた文字をノートに走り書いている間、椅子の後ろ足の部分だけで体重を支えてつまらなさそうにしていた一氏は、私が手が止まったのを見ると扇いでいた下敷きでこっちの机を叩いて「新技できた」と言って楽しそうに笑った。持っているシャーペンが手の上をくるくる回りながら滑っていく。これ見よがしにシャーペンを回して得意げな顔をする隣りの席の男は、同じ男テニの白石や忍足や千歳、それに財前くんに比べるとずっとずっと親しみやすくて、話しやすくて、無茶ぶりにも答えてくれるし、ツッコミにも中々キレがあって、しかもレパートリーも豊富ときた。友達になるにはこれ以上の奴はおらんなってこっそりこの男のことを高く評価している私は今のこの一氏の隣りの席というポジションがなかなかに気に入っている。いわく新技らしい一連の動作を終えた後どや顔でこちらを見てきた一氏に一言「アホや」と言うと「誰がアホや」と睨まれた。そうそう、こうやってからかうとすぐ乗ってきたりするところも、単純で面白いなって思う。同じ男テニの人でも白石とか忍足とか財前くんとか、あの人たちは雲の上の人すぎて口が裂けても「アホや」なんて言えない。

一氏の相方の小春ちゃんはIQめっちゃ高いらしいけど、一氏は多分あんまり頭が良くない。授業中あんまりノート取ったりしてへんし、先生に当てられそうになったときは必死でこっちに助け求めてくるし、数学の宿題のプリントを写させてあげたことだって何回もある。こいつが一番楽しそうにしてるのは体育の時間で、特にテニスをやることになったときは相方の小春ちゃんと一緒になってお笑いテニスや何やと言って積極的にネタを披露してはクラスの皆の笑いを取っていた。ふざけているようにしか見えないあの二人も、いざダブルスで対戦するとなるとこっちが手を出せないくらいに強くなるからよく男子から「お前ら二人ハンデつけろや!」とブーイングを受けていてその度に「やっぱりウチらのお笑いテニスが最強やで!」とか言ってはけたけた楽しそうに笑って二人ブイサインをしていた。それを見る度にプレイスタイルはあんなんやけどやっぱりちゃんとテニス部の一員なんやな、と改めて思ったり。本間、何で人気出えへんのやろアイツ。いや、人気者なのは人気者やけどさ、お笑い的な意味では。白石とか忍足はよくモテてるけど、一氏には浮いた話が全くと言っていいほどなかったりする。全く、あの一氏でさえ霞んでしまう男テニとは一体どれだけ恐ろしいところなのか。そういう感慨に耽りながら、私は自分のペアの順番が回ってくるのをひたすら待ち続けていた。




そんな風に、男テニの中でも一、二を争うくらいに親しみやすくてしかも面白いという中々のハイスペックだと思われる一氏だけど、不思議なことに女子と親しげに話しているところはあんまり見たことがなかった。私が知る一氏は、授業中にペン回しの新技を開発したり新しいネタを思いつく度に報告してきたりするだけで、休み時間まで話しかけてくることはないし、授業中以外はほとんどずっと小春ちゃんのところにいる。お弁当を食べるのも、移動教室も、部活に行くのも、いつも小春ちゃんと他の誰か男子と一緒。話しかければちゃんと会話してるから多分女子が嫌いとか苦手とかじゃない。そういうのじゃないけど、一氏はあんまり女子と話さない。彼女がほしいとかそういう台詞も聞いたことがない。不思議に思って聞けば、「小春以外の奴に興味あらへん」らしい。なるほど。だから浮いた話が何もないのか。

一人で納得した後、ああだから私に話しかけてくるのは授業中だけなんだと思い至って複雑な心境に陥った。一氏は小春ちゃんのことが好きで、小春ちゃんに構ってほしくて仕方なさそうに毎日を過ごしている。彼の学生生活は小春ちゃん中心に回っていて、小春ちゃん一直線と言っても過言ではない。小春ちゃんがおらんから授業中は私に話しかけてくるけど、小春ちゃんと喋れるようになる休み時間に私にわざわざ話しかけてくることはないし、小春ちゃんを放ったらかして他の何かに注意を払うなんて絶対にない。

つまり何ていうか、その、要するに一氏の世界はおそらく小春ちゃんと、それ以外の全員で構成されてるんやと思う。男かとか女かとか関係なくて、小春ちゃんか、そうでないかで一氏は物事を判断してるきらいがある。それは別に全然悪いことでもなんでもないけど、何となく女子の中では一氏とかなり仲良いほうじゃないんかなと自惚れつつあった私は改めて気づかされた事実に愕然とした。小春ちゃん以外の奴には興味ない。この一言が一氏ユウジの全部を端的に表している。初めっから本人はそう言ってたじゃないか。隣りの席になって一ヶ月、ようやっと事態を飲み込んだ私は四天の男テニにお熱な他の女の子たちが一氏に対してイマイチ反応を示さないのは、アイツがそうやって他の人に対して引いてる線をちゃんと感じ取ってたからやねんなと改めて感心すると共に、人を都合のいい暇つぶしみたいに扱わんといてくれよと今更憤りを感じたりもした。

私は、一氏が話しかけてくれるようになって めっちゃ嬉しかったんやけどなあ。こいつの話いちいち面白いし。芸も細かいし。うるさいだけの奴かと思ったら意外と気配ったりも出来るみたいやし。別に男テニと仲良くなることがステータスになるとかそんな風にはあんまり考えてないけど、もしこうして関わることがなかったとしても男テニの中じゃ一番仲良くなりたいのは一氏やなと思えるくらいには、私は一氏に対して良い印象を持っていた。そして、何となく、一氏もそうなんかなって思ってしまっていた。だから、構ってくれるんやとも。

実際そんなことは全くないみたいで、今だって一氏の視線は小春ちゃんの短く刈り上げた頭に釘付け。時折「あっつ」と呟いたりもしてるけど、それは別に私に向けた言葉とかやなくて独り言ってことはちゃんと分かってる。だから返事はしない。相変わらずクーラーは作動する気配をちっとも示さずに、扇風機が生温い風を教室全体に送り込んでくるだけ。こんなんやったら扇風機なんか付けん方がマシやわと苛立ちながら強めに下敷きで顔を扇ぐ。その風に煽られたせいでプリントが横のほうに飛んでいった。巻き添えを食らって一緒に飛んでいったプリントを慌てて掴んだ一氏が「何すんねんお前」と言って睨んできたので、「ちゃんと前向きや」と短く言ってひらひら飛んでいったプリントを拾いに席を立つ。あーもう。席に帰ってくると一氏は机に突っ伏して眠る体制に入っていた。伏せられたバンダナ頭を見て机を蹴飛ばしてやりたくなって、今までこんな凶暴な気持ちを抱いたことなんかなかったのに、何でやろうと自分でも不思議に思った。何か知らんけど、めっちゃいらいらする。変なの。




全然やる気が起きひんのも、何にかは分からんけどいらいらしてしまうのも、多分、夏バテのせいだ。こんなにも日差しがガンガン照りつけているのに、部活は中止になるどころか外周を命じられる始末でやってられるかと思いつつ出来るだけ日陰を走って時間を稼ぐ。だらだら走っていると前方に視界への暴力とも言える黄緑と黄色のジャージを着たバンダナを発見して、暑さで溶けそうな体に鞭打って速度を上げて洗面台の前で顔を洗っているやつのところへと走った。洗面台の前に立つ一氏の向かいに回って、ひょこっと顔を出してやる。
「一氏!」
「うわっ」

驚かしてやろう、っていう軽い気持ちだった。いつも授業中静かなときにわざと笑かそうとしてくるから、それの仕返し、これやったらどんな顔するんかなっていう、純粋な興味。ただそれだけのつもりやったのに、蛇口を捻っていた一氏は予想以上に驚いたのか、蛇口から出てきた水がぶしゃあ、と音を立ててこっちの方に飛んできた。まさかそんなことになるとは思っていなかった私は避けれるはずもなくて、まともに正面から水を被る。咄嗟に瞑った目を開けると前髪から瞼から水が滴り落ちた。ぽたぽた、と水滴が地面に跡を作る。びしょ濡れや。どうしよ。

私をびしょ濡れにさせた張本人はというと、蛇口の前に突っ立ったままぽかんと口を開けて私の前髪辺りを凝視していた。今のは、多分、いきなり驚かした私も悪い。悪いけど、心配せえとは言わへんけど、一言「ごめん」くらいあってもよくない?一氏は、鳩が豆鉄砲を食らったときのような顔で相変わらず突っ立っている。濡れた服をどうしようかと考えて、まあいいかすぐ乾くしなとランニングに戻ろうとしたら、服の裾を引っ張られて引き戻された。
「何やの」
「使え」

私の体操服の裾を掴んだ一氏がもう片方の手で差し出したのはタオルで、多分さっきそこの洗面台に置いてあったやつやと思う。そのタオルは一氏が着てるジャージと同じように目に全然優しくない色をしていた。
「ええよ別に。放っといたら乾くし」

季節は真夏で、日中の平均温度は30度近くまで上っているし、一時間くらい外にいたらこんなんすぐに乾いてしまう。むしろちょっと涼しくなって快適というか、水浴びでもしたと思えばいい。どうせこのあと一時間は部活も続くし、そろそろ戻らんと探される可能性もある。
「びっくりさせてごめんな。じゃ」
「待て」

まだ何かあるんか。もう一度ぐっと引っ張られた体操服に、伸びたらどうすんねんと思いながら足を止める。振り返るやいなや無理矢理タオルを押し付けてきた一氏は不自然に私のさらに向こうのほうを見ている。さっきから待てとか使えとか、命令されてるみたいで嫌やねんけど。こいつこんなに強引な奴やったっけ。言いにくそうに歯切れの悪い言葉を並べる一氏に、用があるならさっさと済ませてくれと苛立ちが募る。本間何やねん。
「……ふ、服。透けとる」
「あ」

ほんまや。言われて気づいた。透けてるって言っても透けたのは体操服の下に着てるタンクトップで、別に下着が丸見えとかそういうわけでもないのに一氏は面白いくらいに動揺して視線をあっちこっちに泳がせながら頭を掻いた。そして、一歩こちらへ踏み出したと思ったら私の手首を掴んでずんずん歩き出した。突然のことに驚いた私は振り払うことも出来ずに引っ張られるまま一氏に渡されたタオルを握って小走りに着いていく。頭の中は疑問でいっぱい。え、ちょっと待って、いきなり何?
「一氏?」
「ええから」

ええから、って、一氏、部活。白石呼んでるけど。ええの?手を引かれたまま二人並んで校庭を横切る。やたらと目立つジャージを追いかけて白石が声をかけてきたけど、一氏はそんなの聞こえてないみたいに一直線に校舎の裏へと進んでいく。何なんやと思ってたら、ようやく一氏が足を止めた。人気のない校舎の入り口に腰掛けて、握ったままの手首を少し引いて、私にも座れと促す。何なんや一体。訳分からん。訳分からんけど、なんとなく嫌やって言い辛くて、そのまま一氏の隣りに腰を下ろした。座ったんやから離してもらおうと手首を引っ張る。びくともしなかった。え、何で?何で離してくれへんの?この男が考えてることがさっぱり分からなくて、離してと目線で訴えてみても横を向かれた。ぼそぼそと呟く声がかろうじて聞こえる。
「そんな格好で部活行かれへんやろ」
「行けるけど」
「……」
「……何なんその顔」
「ええから、……乾くまでここおれって」

いっつもおちゃらけた調子で話しかけてくる一氏しか知らんから、こういう風に真剣な顔をされるとどうしたらいいんか分からなくなって戸惑う。なあ、一氏。何でそんな顔するんよ。いつもみたいに笑い飛ばしてくれたらいいやん、そしたら私も、何も気にしてないみたいに振る舞えるのに。掴まれたままの手がとんでもなく熱い。こんなん、いつもの一氏じゃない。逃げ出したくてたまらないのに、地面に根が生えたみたいに動けなくなった。足の裏から太陽に焼かれたアスファルトの熱がじんじん伝わってくる。
「なあ、一氏、」

手、離してや。たった五文字くらいのことで、言ってしまえばすぐ済むことなのに、喉につっかえた言葉がなかなか外に出てこなくて困った。何これ。私なんでこんなに緊張してるんやろ。相手は一氏やのに。今までずっと、友達でしかなかったのに、こんなやつにどきどきしてるなんて、信じたくない。信じたくないけど、暑くて仕方ないくせに手汗も気にせんと私の手をぎゅっと握ってくる一氏の目を見てたら何も言うたらあかん気がして、「何でもないわ」首を振る。みんな、探してるかな。ランニングの途中でさぼったと思われてないかな。思われてたら嫌やなあ。
「一氏」
「なんや」
「部活。……行かんでええの?」
「お前もやろ」
「私はそろそろ行くけど」
「あかん」
「何でよ」
「何でもや」
「でも小春ちゃんとか、待ってるやろ。一氏のこと」
「……」
「早よ帰ったらなあかんよ」
「……何でここで小春が出てくんねん」

何でここで小春が出てくんねん?一気に不機嫌な顔になった一氏にきろりと睨まれて、私さっき何か言うたらあかんこと言うたかなと慌てて思い返してみても特に何も問題はない普通の会話で、どうしてここまで不機嫌になられなくちゃいけないのかと首を捻った。
「小春は今関係あらへんやろ」
「え、でも一氏小春ちゃんのこと好きって」
「はァ?」

ずっと地面の方を向いていた一氏のバンダナ巻いた頭がぐるんって効果音つきそうなくらいの勢いでこっちを向いて、刺さりそうなくらいに鋭い目線を向けられた。その目つきの悪さに一瞬怯んでしまった。いつもふざけてるところしか見てへんから全然気にしてなかったけど、こうして一対一で向き合っていると、目つきが悪いなと改めて思う。そんなん今この場で言おうもんならシバかれそうやから言わんけど、ていうか今さっき一氏小春ちゃんは関係あらへんやろって言わへんかった?嘘やろ、信じられへん。あの小春ちゃん命みたいな一氏が。
「誰が言うててんそんなん」
「みんな言うてるよ」

一氏は小春ちゃんのことが大好き。そんなん今更言われんでもみんな知ってるし、みんな分かってる。あいつらほんま仲ええな、って今日もクラスの男子が言ってたし、隣りのクラスの女子も、一氏はどんだけ可愛い女の子が来ても見向きもせえへんからつまらんって嘆いてたのを聞いた。それくらい、みんなが思ってることやのに、一氏はまるで私が禁句でも口にしたかのように鋭い瞳で顔を近づけてきて、確認するみたいに一語一語ゆっくり言葉を口にした。
「お前は俺のことホモやと思っとるんか」
「思ってへんけど」

低い声で凄まれて、咄嗟に言葉が口を突いて出る。……そうか。小春ちゃんを好きってことは、つまり、そういう意味になるってことで、え、でも一氏小春ちゃんのこと大好きやん。浮気か、とか言って怒ってるやん。あれは何なん、ふざけてるだけ?ネタの一環ってこと?聞きたいことが次から次へと出てくるのに、一氏が怒った顔をするから何も聞けないまま口をつぐんで黙って一氏の話を聞く他ない。
「俺は一言も小春と付き合いたいとか言うたことないからな」
「あ、え、そうなん?」
「……そら小春のがそこらの女より何倍も可愛えけど、俺は、」
「うん」
「……別に、……何でもないわ」
「そこまで言うたんやったら言うてよ」
「言わん。自分で考えろ」

そんな無茶な。そう言おうとしたけど、ぱっと離された手のほうが気になってしまって続きを催促するタイミングを見失ってしまった。私をようやく自由にした一氏は、部活に戻るでもなく私に話しかけるでもなく、ただぼうっと空を見ている。
「今何時やろ」

呟いた言葉が独り言なのかどうか判断がつかなくて、私はただひたすら一氏の派手なジャージから伸びる膝を見つめることしか出来なかった。




校舎に落ちる影がどんどん色濃くなっていく。掴まれたままになってた手は離されたのに、部活に今すぐ行かな怒られるかもしれへんのに、どうしてか動き出す気になれない。
「乾いたな、服」

静かに空を見上げていた一氏が私の体操服に視線を合わせて、そう言ったのを聞いて自分の着ている服に視線を落とす。下に着ていたタンクトップの色がはっきり写っていた白いシャツにはもう何の色も映っていなかった。
「部活戻ろか」

無言で頷いて、腰を上げて歩き出した一氏の後ろに続く。ジャージのポケットに入れられた一氏の手と、宙ぶらりんになった自分の手を交互に見つめてさっき掴まれた手の熱さを思い出した。途端に胸がしめつけられるような心地がして、足を止める。足音が聞こえなくなったことに気づいたのか振り返った一氏が不思議そうに私の顔を見て、さっき押し付けてきたタオルを私の頭に被せると「早よ行くで。熱中症なるわ」と急かした。暑さで参ってるんじゃないことは何となく分かるのに、面と向かって違うよとは言えない。バンダナに向かって伸ばしかけた手を寸でのところで引っ込めた。
「暑いな」
「……そうやね」

一氏がいい奴ってことも、面白いってことも、ギャグもモノマネのレパートリーもいっぱい持ってるってことも十分に知ってるけど、こんな顔をする一氏のことは知らない。小春ちゃんばっかりで占められてると思ってた一氏の頭の中は、多分、もっと他のことも考えてるような気がしてならない。小春ちゃん以外には興味ないって言うてたのに、小春ちゃんの話をしたら怒られた。そういえば、口を開けば小春ちゃん小春ちゃん言うてる一氏やけど、彼女がほしいとか浮いた話題は聞いたことがないけど、別に本人の口から彼女がいらんとか、そういう台詞も聞いたことがなかった気がする。何これ、さっきから一氏のことばっかり考えてる。私、好きなんかな、一氏のこと。一氏は、好きなんかな、私のこと。もし、好きって言われたら、言われてしまったりしたら、私はどうしたらいいんかな。

洗面所まで戻って、テニスラケットを手にした一氏の腕から下をじっと見つめる。さっきまでその手に握られてたのは私の手だったんだと思うと顔にカッと熱が集まった。バンダナから流れる汗を見て、一氏のタオルを借りっ放しだったことに気づいて頭にかけられたタオルを外して両手に握る。続きを急かしたとき、自分で考えろって言ったあのときの一氏の顔を思い出した。なあ、一氏。考えたって考えたってどうしても一個の答えにしか行き着かんのやけど、私はどうしたらいいんやろう。好きって言うても、いいんかな。