フィクサー

閻魔大王の第一補佐官、鬼灯さまと親密になることは容易い。仕事ができればいい。閻魔大王の第一補佐官、鬼灯さまの愛用の棍棒で殴られることはこれまた容易い。仕事ができなければいいのだ。
「あなたも獄卒の端くれなら真面目に働いたらどうなんですか」
「働いてます。それこそ先週から三日三晩寝ないで働いてます」
「甘いですね。私はかれこれ一週間寝室に足を踏み入れていませんよ」
「寝てくださいお願いですから寝てください鬼灯さま」
「そう思うならさっさとこの書類を片付けていただきたいですね」

ぱこん、ぱこん。鬼灯さまの手に握られた判子が軽快な音を立てながら書類の一部を朱に染めていく。黒の衣服から覗く赤襦袢が先ほど見た亡者の血の色のようで、次にあの亡者が回されるのはどの地獄だろうと想いを馳せた。阿鼻地獄だろうか、それとも別の地獄だろうか。阿鼻地獄、あそこの獄卒はいい。亡者はまず2000年かけて下へ下へと落ち、そこから罰を受けなければいけない。よって、亡者を待ちわびる他獄卒の仕事が少ない。

2000年という数字は亡者にとってとてつもなく長い時間なのだという。自分には、あまり実感が湧かない数字だった。寺子屋を卒業し、一度就職して、そして獄卒となった。安定している仕事だと思う。鬼灯さまに日夜棍棒でぶん殴られること以外には。

鬼灯さまはワーカホリックだ。地獄で亡者を叩き、殴り、吊るし上げ、拷問するために生きているお人だ。鬼も恐れるそのお姿は、まさしく鬼の中の鬼。辛辣かつ歯に衣着せぬ物言いと、あの閻魔大王さますら屈伏させる腕っぷしの強さは、恐れられながらも鬼や獄卒の中で憧れの的だった。鬼灯さまのご指導はいつだって厳しいが、その指導が間違っていることは一度もないのだ。
「あっ」

記録課から届けられた紙の束が風に乗って散らばっていく。鬼灯さまの眉間に皺が刻まれたのがはっきり見えた。紙の束を破いてしまわないよう丁寧に、かつ迅速にかき集める。おびただしい量の文字が綴られたその紙に記された内容は、鬼灯さまの元で働き始めたときのものよりも幾分内容が変わっている。亡者の名前も、その名前に使われる文字も、罪の内容も、善の内容も。時代は常に移り変わるのだ。最後の紙を拾い上げ、今度は風に飛ばされないよう重しを置いた。キラキラと光るそれは、鬼灯さまが秘密経路で入手したというクリスタルの人形だ。鬼灯さまが物をくれることなど滅多にないことなので、こうして記念に飾ることにしたのだ。
「この間、鬼灯さまがおっしゃっていたでしょう。現世ではIT化が進んでいて何でもかんでも小さなコンピュータという箱一つで解決できるのだと。あれを、こちらの世界でもっと応用してみるのはどうでしょうか。きっと鬼灯さまの仕事も減りますよ」
「馬鹿なことを言わないでください」

一蹴された挙句に棍棒で殴られた。これが頑丈な鬼でなければ身体中傷だらけになってしまうところだ。人間よりは頑丈というだけで、痛いものは痛い。鬼灯さまの元で働くと、分かるはずもない亡者の気持ちがよく分かるようになった。だからと言って、彼らに対する拷問の手を緩めると今度は自らが上司によって拷問されかねないので情をかけたりはしないが。
「機械より、一番信頼できるのは自分の頭ですから」

それは鬼灯さまの話であって、大抵の者は自分の頭を信用しきれていないしそこまでの度量はないはずなのに、鬼灯さまの課す仕事はいつもアナログだった。書類の整理も、判を押すのも、記録も、全てアナログだ。現世はデジタル化が進んでいるのだという。現世へ視察へ行けるのは一部の上官のみなので、私は現世というものをこの目で見たことは一度もないが、連絡に使うための携帯電話の番号すら教えてもらえず毎回上司を探し回る羽目になるというのは、些か効率が悪いと思うのだ。
「ですが、実際に鬼灯さまから聞く現世は便利なものが溢れていて、それを使わない手はないと思うのですが」
「現世は絶えず進化しているようですからね。それこそ、私が生きていた頃よりもずっと」
「……今だって生きてるじゃないですか」
「人間だった頃は、という話です」

鬼灯さまはかつて人間だったお人だ。うんと昔に、鬼へと生まれ変わったのだという。人間だった頃の話はあまり聞かせてもらえないが、良い扱いは受けていなかったのだろうと想像できる。鬼灯さまが人間として生きていた頃の現世は、それこそデジタルなものなど何もなく、何もかも自らの頭で処理しなければいけない時代だったという話をしていたのは、鬼灯さま当人ではなく閻魔大王さまだった。しかし今は時代が違うのだ。インターネット犯罪などという聞いたこともないような犯罪が多発するようになった。これらの罪を償わせるための地獄を考えるのにまた頭を捻らなければいけない。上司の仕事は膨らむ一方なのだ。

気づけば鬼灯さまは全ての書類に判を押し終わっていた。そんな馬鹿な。自分はまだ半分もいっていないというのに。一段落ついた、とばかりに片手でプルタブを引き開けた鬼灯さまの喉が鳴った。
「あなたは知らないでしょうが、これでもう357年です」
「357年?何の数字ですか?」
「一緒に仕事をするようになってからの年数ですよ。人間の暦で言うと、私とあなたは共に働いて357年ということになります」
「もうそんなに経ったんですか」
「ええ。あなたが覚えきれないことも私は記憶することができます。あなたはただ、私の言う仕事を完璧にミスのないようこなしていけばいい」
「それはつまり都合のいいパシリということなのでは」
「忠実な部下ということです」
「なら電話番号くらい教えてくれたっていいじゃないですか。毎回毎回鬼灯さまが何処にいらっしゃるのか探し回るのは骨が折れます」
「でも毎回毎回あなたは私を確実に見つけ出しているでしょう」
「それは鬼灯さまが見つからなければ仕事にならないので必死に地獄中走り回っているからですよ!」

おかげで腿と脹脛にそれなりに立派な筋肉がついた。流行りのミニスカート風の着物もおちおち着られたものじゃない。私はデスクワークがしたいのだ。安定した職を求めているのだ。足に筋肉をつけるために獄卒になった訳ではない。
「電話で連絡を取るとなると、あなたが私に連絡を寄越し忘れることなど目に見えています。あのアホのように。だから私はあなたを走らせるのですよ」
「走らせてる自覚はあったんですね」
「手を動かしてください」
「すみません」

サディスティックだと言われている鬼灯さまだが、決して流行りのツンデレなどというものではない。357年という月日を共にしてきて、優しくされたことなど一度もない。ここはただのサディスティックワンダーランドだ。自分はいつから棍棒で殴られることに耐性が出来てしまったのだろう。缶の中身を飲み干した鬼灯さまは、その缶をひっくり返し手の平に叩きつけている。何をしているのだろう。尋ねるより先に、鬼灯さまが口を開いた。
「それに、そうすれば確実に私の手元にまでやってくるでしょう」
「あたしがですか?」
「書類の話です」

失言した。やってくる、なんて言うからてっきり自分のことを言われているのかと勘違いした。大事なのは自分でなく書類だったのか。そりゃそうだ。ゆらりと揺れた影に殴られるのかと思ったら、額に向かって缶が飛んできた。間一髪のところで受け止めようとしたが受け止めきれず、床に転がる。死んでた。これが地獄じゃなかったら確実に死んでた。
「痛いです鬼灯さま……でもありがとうございます。後で有難く飲みますね」
「鬼の端くれが痛いなどと甘っちょろいことを言わないでください」

手の平の中でまだ少し温度を保っている缶の中身は、鬼灯さまとお揃いのコーンスープだった。合点がいく。さっきの鬼灯さまの不審な動きは、この粒を取ろうとしていたのか。
「鬼灯さま、先程のコンピュータシステムの話、やはりエンジニアに掛け合ってみてはいかかでしょう」
「これ以上私の管轄の仕事が増えるのは御免です」

自分としては、コンピュータなどという箱より鬼灯さまの電話番号が欲しいところなのですが。そう言ったら今度は缶ではなく棍棒が自分目掛けて真っ直ぐ飛んできそうだったので、口を噤んだ。書類の上で鎮座するクリスタルの人形が光を受けキラキラと光るのを見て、この仕事が終わったら寝室へ向かうのより先に散歩するのもいいかもしれないとぼんやり思った。あ、コーン奥歯に挟まったかも。