夜の海でねむりを数えて


「岩ちゃんが初心者マーク貼ってるの何かウケる」
「ハァー?」

助手席でケラケラと笑う私の横でハンドルを握った岩ちゃんが青筋を立てている。いつもの岩ちゃんに向かってこういう軽口を叩こうものなら肩あたりに鉄拳が飛んでくるところだけど、どうも今日の彼にその余裕はないらしい。拳の代わりに顔をしかめて全身全霊で嫌そうな表情を浮かべる彼を横目に、これ以上に愉快なものはそうそう見られそうにないな、と思いながら前方を見やった。
「岩ちゃんほら、前見て信号青だよ」
「分かってるっての」

ハァ、と大きく息をついてからハンドルを握り直した岩ちゃんがアクセルを踏んだ。大きな車体に似つかわしくないゆっくりとした速度で車が進んでいく。通勤ラッシュの時間を過ぎた道路は閑散としていて、私たちが乗る車のライトだけが行先を照らしていた。

岩ちゃんから来るメッセージはいつも短い。「明日の夜暇か?」 と表示されたスマホの画面を見て、こうやって挨拶もなしにいきなり何か送ってくるのは岩ちゃんだろうな、と思いながらアプリを起動した。一番上に表示された名前はやっぱり岩泉一で、グループじゃなくて個人で岩ちゃんが連絡してくるなんて珍しいと思いながら画面の上で指を滑らせる。「バイトないから暇だよ。飲み会やるの?」とメッセージを返してアプリを閉じた。岩ちゃん個人から連絡来るの久しぶりだけどどうしたんだろう。バレー部か高校のクラスで同窓会でもやるのかな。及川とまっつんとは前の飲み会以来会ってないけどマッキーとはこないだ居酒屋でばったり会ってちょっと話したところなんだけどなぁ、と思いながら再び光ったスマホの画面を見る。一つしか表示されていないポップアップを指でタップ。用件だけを送ってくる岩ちゃんのLINEはいつもシンプルで分かりやすい。
「車買った」

でも、さすがにこれは反応に困った。




岩ちゃんがどうやら車を買ったらしい。いつもの改札口ではなく指定されたロータリーの方に足を向けると、もうそこには黒くて大きな車と岩ちゃんが待っていた。岩ちゃんっぽいなぁ、と思いながらお父さんの車変わった?と聞くと俺が買ったんだよ!と胸を張って納車したときの写真を見せられた。ほんとだ満面の笑みで映ってる。試合勝ったときでもなかなか見たことないぐらいに笑ってるんだけど。
「凄いじゃん岩ちゃん頑張ったね」
「バイトめちゃくちゃ入れた」
「あーだから前の飲み会来なかったの」
「当日誘われて行けるほど暇じゃねーんだよ」
「悪かったね暇人で」
「お前のこと言ってんじゃねーって」

運転席に乗り込んだ岩ちゃんに促され助手席のドアを開ける。街灯の光を反射するつるつるのシートに腰掛けると、鼻先を独特な匂いがくすぐった。
「めちゃくちゃ新車の匂いするね」
「3日前に納車されたばっかだからな」
「超最近じゃん。もしかして私が助手席乗るの第一号だったりする?」
「おう。まだめちゃくちゃローン残ってるから汚すなよ」
「了解」

記念すべき岩ちゃんの愛車の助手席第一号は私だったらしい。てっきり及川か家族の人あたりに先越されてるかと思ったのに、え、めちゃくちゃ意外。いいの私で。後で写真撮って及川に送ってやろうっと。
「どこ行くの?」
「決めてねえ」
「まじで」
「とりあえず高速乗るか」
「じゃあ私新しく出来た道の駅行きたい」
「もう閉まってるだろ」

時刻は夜の20時を回っていた。念のためスマホで営業時間を検索してみる。…19時で閉まってるらしい。あそこの名物の丼食べたかったのに。授業終わってそのまま何も食べずに来たからお腹すいたな。岩ちゃんはもうご飯食べたのかな。コンビニ寄ってくればよかった。隣で運転する岩ちゃんを横目で見る。…こんな真剣な顔してんの久しぶりに見たなぁ。なんかさっきから事あるごとに高校の部活してたときのことを思い出してしまう。岩ちゃんと2人でこうやって会うの久しぶりだからかな。
「ね、高速乗る前にコンビニ寄ろうよ」
「ん」

通りに面したコンビニに車を停めてカーナビで地図を確認している横顔をじっと見つめていると、「…何だよ」視線が気になったらしい岩ちゃんにじろりと睨まれる。やだなぁ顔怖いよ岩ちゃん。私じゃなかったら多分泣いてる。
「お茶買いに行くけど岩ちゃんなんかいる?」
「コーヒー」
「オッケー」

会計を済ませ、アイスコーヒーとお茶のペットボトルとフリスクが入ったビニール袋をぶら下げてコンビニのドアをくぐる。お腹すいたしホットスナックでも買おうかと思ったけど、ピカピカの新車の中で食べたら岩ちゃんめちゃくちゃ怒るだろうな、と思ってやめた。あーでも、ガムくらい買えば良かった。車の中でお腹鳴ったらどうしよう恥ずかしくて死ぬかもしれない。

運転席に座って私を待つ岩ちゃんはカーナビをいじるのをやめてスマホの画面を見ているようだった。ブルーライトに照らされた横顔は知らない男の人のもののように思える。……高校のときよりちょっと髪伸びてるからかなぁ。何だかそわそわしてしまう。
「お待たせ。はいコーヒー、奢りね」
「サンキュ」
「あとフリスクも買った。なんか岩ちゃん運転してる途中に寝そうだからこれで眠気覚まして」
「寝ねえっつーの」

なめんな、と言いながらどこか機嫌良さそうにコーヒーとフリスクを受け取った岩ちゃんはやっぱりいつもと違う気がする。何だろう。どうにも落ち着かない。オーディオからは最近彼がハマっているらしいアーティストの音楽が流れていた。鼻歌なんて歌っちゃってさ。新車でのドライブが相当嬉しいんだろうか。そりゃそうかバイトめちゃくちゃ入れたって言ってたもんなぁ。

高速に入ってからの岩ちゃんの運転は初心者マークを付けてるとは思えないくらいにスムーズで、私の腹の虫がぐうと鳴いたのはそれから20分くらい車を走らせた後のことだった。やっぱりガム買っておけば良かった。そういうときに限って車内にかかっているのは流行りのバラードで、私はお喋りをするでもなく窓の外の景色を見ていて、なんで岩ちゃんこんなのプレイリストに入れてんのいつもロックばっかのくせにと心の中で悪態をつく。
「次のパーキング停めるか」
「……ごめん」
「俺も腹減ってきたし」

気にすんなと声をかけられたところで、気にしない女がこの世にいるだろうか。いないだろう。思わず反語を使ってしまった。ていうか岩ちゃんやっぱり晩ご飯まだだったんじゃん。最初に聞いとけば良かった。

10分ほど走ったところにあるパーキングエリアに入って名物らしいラーメンを2人ですすった後、「眠い」と言いながら欠伸をする岩ちゃんを見て、そういや今何時だろうと時計を確認すると22時を過ぎていた。えっもうこんな時間。時間経つの早い。そりゃお腹もすくはずだわ。晩ご飯というよりも夜食だなあのラーメン。明日バイトだし、そろそろ帰らなくちゃ。…岩ちゃんは明日、忙しいのかな。こんな時間までドライブしてて大丈夫なんだろうか。ポケットに入れたスマホを取り出して、トイレに行った岩ちゃんを待つ。ほどなくして現れた彼は、「ちょっとこっち来いよ」と言って私を手招きし、来た方向へと再び歩き出した。
「どうしたの?」
「いいもん見せてやる」

いいもんって、こんな誰もいない少し寂れたパーキングエリアに一体何があるというんだろう。言われるがままついていくと、こじんまりとしたテラスに行き着いた。そしてその向こうには夜景が広がっていた。誰もいない真っ暗な夜のテラスに眼下の家々の明かりがきらきらと光を放っている。そよそよと吹いた風が隣に立つ岩ちゃんの短い髪を揺らした。え、うそ、何これめちゃくちゃロマンチックなんだけど。デートみたいじゃん。
「……めっちゃ綺麗だね」
「おう」

何で私は今、岩ちゃんと2人で夜景なんか見てるんだろう。というか何でそもそも2人でドライブしてるんだっけ。明日暇か?って昨日LINEで言われたからだけど。…ほんとはちょっと思ってた。何なら今日最初に会ったときから思ってた。「車買った」なんて言うから、てっきり皆で仲良くドライブするんだと思ってやって来たのに、いざ車に乗り込むと私と岩ちゃん以外は誰もいなくて。高速に乗ろうとする岩ちゃんに「あれ、マッキー達迎えに行かないの?」と聞いて「今日は行かねえ」と返事が返ってきたときからずっと思ってた。これじゃあまるでデートみたいだなって。

もしかして、いや、もしかしなくてもデートなんだろうか。2人きりで夜のドライブなんて、カップルの定番中の定番じゃないか。さっきまでの私と彼にそんな甘酸っぱい雰囲気は微塵も感じられなかったけれど、でも、これはどう考えたってそうな気がする。車乗る練習したいのかと思ったけど合流もETCの通過も駐車も難なくやってのけてたし。練習付き合えってことじゃないとしたら、ただ単に私とドライブしたかっただけってこと?え、じゃあほんとにこれデートってことにならない?私と岩ちゃんが?ほんとに?

しばらく無言で景色を眺めたあと、先に口を開いたのは岩ちゃんの方だった。
「そろそろ行くか」
「うん」

助手席のドアを開けて車に乗り込む。ギアを入れる岩ちゃんの手つきはもう慣れたもので、……だめだ一回意識しだすと運転してる腕やら肩やらにやたらと目がいってしまう。落ち着け。前だけ見ろ私。落ち着け。落ち着け。
「わっ」

前の車が急にブレーキを踏んだらしい。安定した走りに油断しきっていた私は、先ほど口に含んだばかりのお茶をペットボトルごと落としそうになって慌てて態勢を立て直した。危ない。ピカピカの新車のシートを危うくお茶まみれにするところだった。げほげほ、と咳き込みながら口からこぼれたお茶を手のひらで拭う。シートまでこぼさなくて良かった。汚すなって釘刺されたのに、岩ちゃん怒ってるかな。
「大丈夫か?」
「あんまり大丈夫じゃない……」
「そこにティッシュ入ってっから使えよ」

岩ちゃんが優しい。絶対怒られると思ったのに、やっぱり違う人みたいだ。言われた通りグローブボックスを開けて、入っていたティッシュを一枚抜き取る。ペットボトルを拭いている間に車は高速を降りて見慣れた駅へと向かっていた。
「ありがと岩ちゃんここで良いよ」
「おう」

もう遅い時間だというのにロータリーにはたくさんの車が停まっている。ひしめきあう車の合間を縫ってロータリーの手前で駐車した車の中で、定期券を探してカバンの中を漁りながら視界の端で捕らえた岩ちゃんは、やっぱり私の知らない男の人のような顔をして、ハンドルに身を預けてこちらの支度が終わるのを待っている。…別れる前に、これだけは聞いておきたい。
「なんで誘ってくれたの?今日」
「あ?」
「助手席乗るの、てっきり及川が最初かと思ったのに」
「野郎を助手席に乗せて何が楽しいんだよ」

え、そういうもんなの?じゃあ私乗せてるのは楽しいってこと?そう聞きたいのにさっき咽せたときのお茶がまだ残っているのか喉元から言葉がなかなか出てこなくて、ごほんと咳払いをすると岩ちゃんの視線がこちらを向いたのが分かった。
「お前今日何の日か知ってるか?」
「……何の日だったっけ」

真っ直ぐにこちらに向けてくる視線に冷や汗しか返せなくて、運転席から目を逸らしダッシュボードの上に置いたままのスマホを見る。誰かからLINEが届いたらしい画面がチラチラと明かりを放っている。メッセージの送信者の名前と一緒に表示された時刻は6月9日の23:50だった。終電の時間が近づいてくる。もうすぐ6月10日がやってきてしまう。……でも、私はまだ、このドアを開けられそうにない。