Under your spell

「忘れてくれ」

そのたった6文字の言葉がどれほど残酷な響きを持っていたか、きっと、どれだけ言葉を尽くしても説明することは出来ないだろう。

ファーストキッスはレモン味、というのはこの世界でも共通の概念なんだろうか。魔法史の授業で隣に座っていたエースにそれとなく尋ねてみると「さあ?俺まだしたことないから分かんない」と返ってきて、「監督生はしたことあんの?」続けて鋭い質問が飛んできた。「……ないよ」視線はエースではなくトレイン先生の方へ向けたまま、ぺらぺらと教科書のページをめくる。少しだけ訝しげに眉を寄せてから「ふうん」と言ったエースの興味は、こちらとは反対側の席に座るデュースの頭に派手についた寝癖に移ったようだった。

……言えない。言えるわけがない。私だってしたことなんてなかった。元の世界にいたとき散々読んだ少女漫画で言われているようなロマンチックなあれこれは、この世界でも縁遠いものだと思っていた。そう、昨日までは。現実に重ねた他人の唇というのは甘酸っぱい味がするのかと思いきや意外とそうでもなくて、ただ柔らかい感触があるだけで。

だけど、いくらエースとデュースが自分の仲の良い友達だろうとこんなこと言えやしない。だって、何しろそのファーストキッスのお相手はあのジャミル先輩なのだから。


「忘れてくれ」の一言と一緒に顔を背けられた後とうとう最後まで目も合わせてもらえなかったあの時から、意図的にジャミル先輩に避けられているような気がする。食堂でも廊下でも、視界の端で捉えた長い黒髪に声をかけようとしても煙のようにすぐに消えてしまうのだ。のらりくらりと逃げ回る彼の尻尾をようやく掴んだのは、あの「忘れてくれ」から1週間が経とうかという頃だった。
「ジャミル先輩!」
「……先に行っててくれ、カリム」

一緒に歩いていたカリム先輩を先に寮へ帰らせたあと、眉間にシワを寄せて振り返ったジャミル先輩が腕を組みながら口を開く。
「……何の用だ?」
「ジャミル先輩と話したいことがあって」
「あのことなら忘れろと言っただろう」
「忘れられるわけないじゃないですか!」

思わず声を張り上げると、眉を釣り上げた先輩が「……廊下で大きな声を出すな」とため息を吐く。そして目線を少し泳がせた後、こちらを向いて「お前は元いた世界に戻るんだろう?」と言った。
「はい、えーっと、……おそらく」
「なんだやけに歯切れが悪いな」
「まだ帰り方もどうしてここ来たのかもさっぱり分かってない段階なので……」

あなたが元の世界に帰る方法を探しましょう、と学園長は言ったけれど、あれよあれよという間にナイトレイブンカレッジに来てから結構な時間が経ってしまった。あの人は本当に元の世界に帰る手段を探す気があるんだろうか。もしかすると自分は一生この世界で暮らすことになるのかもしれない。……魔法が使えない人間ってこの世界の、ナイトレイブンカレッジの外で生きていけるのかな?絶好のカモとしてすぐに殺されたりしない?殺されはしなくとも一生奴隷にされたりはするかもしれない。何せこれまで会った生徒の人たちも一筋縄ではいかないクセの強い人ばかりだし。もちろんそれは目の前のジャミル先輩だって例外ではなく。
「この世界のことなんて覚えているだけムダだ。俺のユニーク魔法のことはもう知ってるだろう。その気になればお前を操って他の男に告白させて、あのことを忘れるように仕向けることだって出来るんだ」
「はい」
「お望みなら今すぐこの場で魔法をかけてやってもいいんだぞ」
「はい。……ふふ」
「何がおかしい」
「だって、脅してくる割にジャミル先輩、本当にやる素振りを見せないので。優しいなあと思って」
「……俺はお前のためを思って言っているんだ」

ジャミル先輩のユニーク魔法はとても強力だ。それは実際この目で目の当たりにした自分が一番よく分かっている。だけど、魔法だけでどうにか出来るほど、この世界はどうも簡単ではないらしい。何かしらの不思議な力でこの世界に呼ばれた自分が、まだ、願うだけでは元の世界に戻れていないように。
「魔法を使ったって多分ダメですよ。一度忘れてしまっても、ジャミル先輩に会うたびにきっとまた思い出すはずですから」
「…………」
「それに、ユニーク魔法なんてなくっても先輩なら自分を虜に出来るでしょう?」
「……随分な口を叩くようになったじゃないか」

じゃあ、これからは手加減しないがいいんだな?と念を押すようにこちらを見ながら言ったジャミル先輩に向かって「お手柔らかにお願いします」と笑いながら答えると「調子に乗るな」と額を小突かれた。正面に立つその顔には相変わらずシワが刻まれているけれど、もう先ほどまでの険しいだけの表情は浮かんでいない。

魔法が使えなくたってきっと、この世界で出来ることがある。そう思えるようになったのは、ジャミル先輩のおかげだ。だって私は魔法使いではないけれど、そんなものがなくたって先輩と心を通わせることが出来た。あのとき彼が唇を重ねてくれたのは、私と同じ気持ちを彼が持ってくれていたからだと、そう信じたいと願うくらいには私はこの世界とこの学び舎に馴染んできたらしい。

ゆっくりと距離を詰めてきた彼が私の肩に手を置いたのを確認して、そっと目を閉じる。……もし、いつかその日が来てしまったとしても、この世界に私が来たのは貴方に会うためだったのだと心から言えるような結末を二人で迎えられたらいい。