さよならの音色は美しい

一度目にジャン・キルシュタインの存在を意識したのは、第104期訓練兵団の入団式でのことだった。それぞれが口々に自分なりに考えうる限りの真っ当な理由をキース教官へ提示する中、あの男だけは堂々と、それこそ悪びれもせず「内地で暮らす特権を得るために憲兵団を志願する」と言い切ったものだから、手を胸に当て敬礼の姿勢を取っている最中だった私も思わず眉を動かしたのだ。そしてその日の夜、教官から浴びせられた罵詈雑言の数々に心折られ食事も満足に喉を通らないような輩が多い中、奴は早々に同期内で敵を作っていた。とんだ愚か者だと思った。ジャン・キルシュタインとエレン・イェーガーとの諍いは絶えず、訓練後の癒しの一時であるはずの食事の時間を邪魔されることもしばしばだった。内地で暮らす特権を得たいのならば黙々と訓練に励み卒団を目指せばいいものを、これだから頭にすぐ血が上る人間はいけない。

もう一度、改めて彼の存在を意識したのはウォール・ローゼが破られ、5年ぶりに巨人が現れたときだった。次々と巨人に捕食され命を落とす兵士の姿を目の当たりにしながらもあの男は空を飛んでいた。彼はよく驚き、よく声を上げ、よく動揺し、絶望し、それでも最後には奮い立ち周囲に檄を飛ばすような人間だった。肉体の強さが全てであって、身体能力が優れているものだけが兵士として生き残れるのだと、本気でそう思っていた私はこのとき、初めて自分とこの男の根本的な違いを理解した。精神的な強さなんて腹の足しにもならなければ巨人を倒す兵器になるわけでもない。そう思っていたはずなのに、どうしてかどこも怪我を負っていないはずの自分の体が重くて仕方なくて指一本さえまともに動かせなかった。
「おい、お前の班はどうした!?」
「……キルシュタイン」
「立てるか!?」
「な、何とか」

嘘だ。私の立体起動装置にはまだガスは残っているし、刃だってまだ使える。なのに体が動かない。動かなければ、食われてしまう。隊長や同期の彼らのように、足で踏みつぶされ、手で叩き落とされ、体の半分を齧り取られてあっけなく死んでしまう。頭では十分なほどに分かっているのに動かしたはずの唇の感覚さえもなかった。死が目の前で手招きをしている。後ろには巨人の足音。頭上には「しっかりしろ!」と私をその手に持った立体起動装置で殴らんばかりの勢いで捲し立てるジャン・キルシュタイン。内地で暮らすために憲兵団を志願するというこの男の目的は野心でも愚かな考えでも何でもなくただただ現実を見据えての意見だったのだ、と思い知った。震える足に力を込める。握り直したグリップは汗でべっとりと湿っていた。きっとこの唇にもう色はない。再びキルシュタインが地面を蹴って飛ぶ。
「死にたくなけりゃ自分で飛べ!」

とても統率力があるとは思えない浅はかな男、という私の中の彼の評価は、この瞬間全くの反対方向にひっくり返ってしまった。

包み隠さず物を言っては周囲に軋轢を生み自らも喧嘩っ早いような直情型かと思えば、一歩下がって現状を把握し戦略を練ってから局面に臨むという堅実な思考を持っており、立体起動装置を使いこなす実力がありながら、巨人を駆逐するのではなくこの世界においての最高の贅沢とも言える内地での安心と安全を手に入れることのできる憲兵団に入るために訓練に励むという打算的な性格も持ち合わせているのがジャン・キルシュタイン。決して超人ではなくとも、才能に溢れていなくとも、きっとああいうのを、『人間らしい』と言うのだ。きっと、おそらくは。




燃え盛る火の中で焼かれているのであろう盟友の死体を前に涙に暮れる背中を見たときが三回目だった。このとき私はまた、ジャン・キルシュタインの存在を意識した。声をかけなくてはいけない、という気持ちになった。
「ジャン・キルシュタイン」
「…………、オレは」
「調査兵団にするんだね」

憲兵団じゃなくて。そう言えば「気が変わったんだよ」という言葉が返ってきた。気が変わったと言っても、少しだけ方向を修正したどころの話ではない。キース教官に堂々と「憲兵団を志願する」と言ったときとは正反対の声色で、彼は「調査兵団になる」と言った。あのときほど自信に溢れた声ではなくとも、苦しそうな声であっても、炎を見つめ膝をついたその目は同じだった。
「あんたは超人じゃない」

おそらく誰もこの男を超人だと思いやしないだろうが、それでも、言ってしまわなければならないような気がした。声をかけなければいけない気がしたのだ。仲間を失う恐怖と絶望に打ち拉がれているのは何もこの男と私だけではないとはもちろん理解していても、私の両目には真っ先にこの男の背中が飛び込んできていた。

それからキルシュタインとは、色んな話をした。珍しく話も弾んだ。楽しい話題ばかりではなくとも、気が紛れれば何でもよかったのだ。キルシュタインは相槌を打つのが存外上手かったので、これまた私の評価は間違っていたのかと反省した。そうしているうちに私は泣いてしまって、声も上げずに涙をこぼした。キルシュタインは何も言わない。何も言わないのをいいことに、骨の判別も出来ないから墓も作ってやれなければ花を手向けることも出来ない自分を嘆き、もういない仲間のことを思った。嫌でも考えてしまう、次は自分の番ではないか、という恐怖と、少しだけ思ってしまった自分でなくてよかった、という思い。どちらも戦闘には不要なもので、兵士にとってはあるまじき感情であった。

誰よりも人間らしいジャン・キルシュタインが苦手だと思っていたのに、気がつけば私はそのキルシュタインよりも何倍も人間らしい情けない人間になっていたのだと自覚したのはこのときだ。
「アルミンに会いたい。あんたじゃなくて、アルミン・アルレルトに」

彼ならきっと、優しく宥め賺すような言葉を使って私を慰めてくれる。彼は私よりずっと賢く、聡い。そしてキルシュタインよりも人間らしいとは言えないから、同じ目線になるよう屈んでくれて、頭だって撫でてくれるだろうし、その撫でる手だってもっと小さくて決してキルシュタインのような無骨な手ではないはずだから、私の涙をこれ以上誘うようなことだってないはずなのだ。酷いことを言っているのは百も承知だった。
「ごめん」
?」
「ごめんねキルシュタイン」
「……気にしてねえよ別に」

キルシュタインよりも大切なもの、キルシュタインよりも価値のある人間がごまんと存在していることなんてもちろん知っている。それでも今、彼は何よりも尊く大切な存在のように思えたのだった。涙はもう流れてこない。炎の熱さも感じない。そういえば、キルシュタインは一度だって泣くなとは言わなかった。膝を抱え直して、呟く。
「あんたやっぱりリーダーに向いてるよ」
「ハァ?」
「ミカサみたいに強くもないし、アルミンみたいに聡いわけでもないけど、でも、向いてると思う」

現に背中を押された人間がここにいる。 「……前の二つは余計だろ」

そう言ったキルシュタインの声は掠れていた。私の声も弱々しいものだった。四度目に会ったとき、彼はもう一度あんな風に空を飛んでくれるだろうか。五度目があるならば、今度は「ごめんね」の四文字ではなく「ありがとう」の五文字を言いたい。そして何度目かがやってきたときに、また、誰のものか分からなくなってしまった私の骨を拾って彼は泣いてくれるだろうか。私だったらきっと泣けないだろう。骨だって拾ってやれない。花だって手向けられない。だけど確かに、彼は私の英雄だった。私だけが知っている、どこまでも人間らしい人間が彼だった。
「私たちは今、自分が何をすべきか考えなくちゃいけないと言ったでしょう」
「……ああ」
「バカだねあんた、6位なら憲兵団だって選べたのに。ここまで愚かだとは思わなかったよ」
「だから、気が変わったんだって」
「知ってるよ」

ついでに言うと、何があんたの気を変えたのかも、ちゃんと知ってる。一緒に行くとは口が裂けたって言わなかった。言えなかった。第一、私とキルシュタインはそんな間柄じゃないことくらい百も承知だ。
「私は駐屯兵団に入るよ、あんたたちみたいな人間にはどうやったって敵わないから」
「…………?」
「でも、最後に地獄を見るならあんたみたいな男とがいい」
「道連れに死ねってか?」

キルシュタインは片方の口の端を引き攣らせながら言う。私は静かに首を振った。
「違う、逆。最後になったら迎えにきてほしいっていう話」
「……何で今そういうこと言うんだよ」
「将来有望株には媚びを売っといても損はないと判断したからかな」
「さっき散々超人じゃねぇとか言ったくせにか」
「だって事実なんだもの。キルシュタインは、キルシュタインだ」

それはきっと私たちが骨になったって変わらない。燃える炎に照らされたキルシュタインの目つきの悪いところだって変わらない。背中を押したのが彼なら、私はその手の温度をずっと捉え続けてやりたい。精神的な鍛錬を怠ってきた私も、それさえ軸にあればまた歩けるような気がして、まだ火を見つめたままのキルシュタインに背を向ける。特別に強い訳でも、特別に聡い訳でもないあの男だからこそ、届く言葉があるのを知った。きっと彼は誰よりも優れた理解者となる。立体起動装置がなければ空を動き回ることも出来ない自分の靴底が踏みしめた地面はひどく硬かった。

死にたくなけりゃ自分で飛べ。

20131109
Imaged by ♫Take My Hand/Simple Plan