Room Number 402

※捏造しかありませんので注意


警察官といえば、もっと厳格でおっかなくて近寄り難い――いうなれば軍曹のような、そんな人ばかりなのだと思っていた。今思えば完全に思い込みと偏見なのだが、世間一般からしても「警察官」と聞けばどちらかというとお堅い方の職業で、まさか彼のような人間のことを思い浮かべる人はいないだろう。不良警官と言われても仕方がないほど明るい色の髪に、ワハハと楽しそうに笑う大きな口、遠くからでもすぐに彼だと分かる大きな体躯。見紛うはずもない。スーパーからの帰り道、自分の部屋の玄関の前に蹲っている大きな人影を捉えた瞬間に「またか」と小さく呟いた声は、花楓くんが発した「ちゃん!」という声にかき消されてしまった。

私の姿を捉えるなりぴょんと立ち上がりドアの前から駆け寄ってきた花楓くんに「ずっとここで待ってたの?」と訊ねると、「うん!」と無邪気な声が返ってきて肩の力が一気に抜けた。……ずっとここで待ってたなんて、口で言うのは簡単だが実際そんなことはそうそうないと分かっていても、花楓くんの場合は本当にいつまでも待っているような気がするから心臓に悪い。連絡も入れずにドアの前に待ち構えられているこちらの身にもなってほしい。待っている間、もし今日は帰って来なかったらどうしようとか、そういう風に不安になったりはしないんだろうか。きっとないんだろうな。そんな風に考えながら私の後ろでドアに鍵が差し込まれるのをそわそわと待ちきれない様子で眺めている花楓くんを振り返ると、にかっと笑った花楓くんの、私よりもうんと高いところにある顔が鍵と反対の方の手に持った買い物袋の中身を覗き込んでくる。
「今日の晩メシなに?」
「キムチ鍋だよ」
「うまそ~! 食っていってもいい?」

ダメだとこちらが言わないことを分かっていてあえてこう聞いてくるのだから、花楓くんはタチが悪い。白い歯を見せてにかっと笑いかけられると文句も何も言えなくなってしまう。天然の人たらしだ。私が小さく頷いたのを確認するなり嬉しそうに笑って「喉渇いたな~!」と言いながらまるで自分の家かのように家主よりも先に玄関に入り靴を脱ぎ散らかしていく背中に向かって声をかける。
「もしかして今日もうち泊まるつもりだったりする?」
「うん! だって俺家ねーし」

そう、花楓くんには家がなかった。有り体に言えばホームレスである。住所不定、無職と言いたいところだが職業はれっきとした警察官だったりする。……こんな風に無邪気で無鉄砲で刺青まで入っている人が警察なんて、未だに俄には信じられない。初めて会ったときに警察だと自己紹介されてとても信じられずに「身分証を見せてほしい」と言って、差し出された警察手帳を偽造ではないかとしばらく疑ってきかなかったほどだ。手帳に記載された自分の名前を指差しながら「えーっとなんだったっけ、戸籍? そうそう戸籍だ、なんか手続きとかが色々あるらしくてさ。一応花形楓って名前になってるんだけど、みんな花楓って呼ぶからちゃんも花楓でいーよ」とあのお馴染みの笑顔で言われ、その勢いに押されるがまま二つ返事で了承したのはいいものの、後々考えると戸籍のくだりやら「一応」という口ぶりやら何やらと、怪しい箇所はいっぱいあった。しかし花楓くんが誇らしげに掲げた警察手帳は私が見る限りでは本物のようで、話を聞く限り仕事として何かしらの捜査に当たっているというのも本当のようだった。アカギさんというバディのような人もいるらしい。これはいよいよ信じるほかないのではないだろうかと思えてきてしまう。

しかしそうとは言っても何かと物騒なこの時代、どう見ても信頼出来るタイプの人間ではない花楓くんの言うことを手放しで100%信じるわけにもいかず、警察って確かプライベートで人と会ったときに「警察です」とは自分から言わないんじゃなかったっけ、と聞き齧った記憶を元にまだうっすらと彼の素性を疑っていた私がそれとなく聞いてみても「そうなんだっけ?」とすっとぼけた返事が返ってくるばかりで、そうこうしているうちに「つーか腹減った! なんか食うもん持ってない?」と聞かれたのに「簡単なものしかないけど……」と答えたのが運の尽きだった。それからというもの花楓くんは思い出したかのようにふらりと玄関の前に現れては冷蔵庫の中身を平らげていき、終いには「もう今日俺ここに泊まる」と言い出す始末。「断られるかもしれない」なんて懸念は、初めから彼の頭の中には存在していないのだ。自由なのにも程がある。


買い物袋を床に置いて中身を取り出し冷蔵庫へと詰め込んでいると、それを遮るようにして「喉乾いた!」と後ろから冷蔵庫のドアを開けて中を覗き込んできた花楓くんは誇張ではなく本当に、欲望のままに生きていた。お腹が空いたら食べるし、眠くなったら寝るし、人肌恋しくなったら誰かの家を訪れて、そして翌朝になると一人機嫌良く楽しげに去っていく。こちらに少しの名残惜しさを残して。
「コーラしかないけど飲む?」
「うん!」

炭酸は喉元につっかえるような気がして苦手だが、これを飲ませておくと花楓くんがしばらく静かになると分かったときから冷蔵庫脇に何本かはコーラの缶をストックしておくようになった。ペットボトルでは彼が次に訪れてくるまで炭酸が持たないことは分かっているからせいぜい350mlが限界なのだが、このサイズが彼にとってもちょうどいいらしい。ぷしゅ、と缶に空気が吹き込まれた音を後ろで聞きながら白菜を切っている途中でコップを渡していないことを思い出して振り返ると、お馴染みの人懐こそうな笑顔を浮かべてソファの上からはみ出した足を退屈そうにぶらぶらさせている花楓くんがリビングからぶんぶんと勢いよく手を振ってきているのが見える。先週買ったばかりのカーペットにコーラこぼされたりでもしたらたまったもんじゃない、と「すぐ出来るから大人しく待ってて」と言うとまたあの威勢の良い返事が返ってきた。……コップ渡さなきゃと思ったけど、別にいいか。缶から直接ごくごく飲んでるし。

夕食前によくそんなもの飲めるなと感心しながら作業に戻り、白菜とネギとニラ、そして豆腐を食べやすい大きさに切っていく。面倒だがこれは必要な作業だ。なにせ細かく切り分けておかないと全部まとめて花楓くんに食べられてしまいかねない。実際、大口を開けた彼に一口であらかた平らげられてしまって泣く泣く秘蔵の冷凍食品を冷凍庫から引っ張り出してくる羽目になってしまったことだってある。そう考えると、彼が私の部屋を訪れる回数も随分と増えたものだ。初めは月に一度程度だったのが徐々に馴れてきたのか二週間に一度になり、3日に一度になり、この冬は何度彼にこうやって鍋を振る舞ったことだろう。片手で数えるほどでは足りないはずだ、なにせ自分の分の食事を確保するための対策を練れるようになったぐらいには、何度も何度も繰り返しているはずなのだから。

「腹減った」と連呼されるのに耐えきれず、とにかく手早く作れるものをと考えた末に導き出されたのが冬の定番料理、鍋だった。一人よりも二人で囲んだ方が美味しいし、なにより、洗い物があまり出ないのがいい。しかしそれが出来るのもあと少しになってしまった。桜が舞い始めたこの季節、直に鍋のベストシーズンも終わってしまう。人によってはもう終わっているのかもしれない。あれだけお世話になった鍋つゆの素も、所狭しと並べられていた特設コーナーは跡形もなく消えてしまってスーパーの売り場の端の方へ追いやられているのを目にするようになってしまった。春になって鍋が食べられなくなっても、花楓くんはまたここを訪れてくれるだろうか。……自由気ままな彼のことだから、現れるのも突然だったが去っていくのも突然のような予感がする。ふいに「飽きた!」と言われて、もう二度と連絡が取れなくなることとか普通にあり得そうで怖い。一応職場は教えてもらってるけど警視庁になんてそうそう連絡出来るものではないし、スマホだっていつ解約されてしまうか分からないし。それぐらい、花楓くんは悠々自適で傍迷惑で掴みどころのない男の人だった。しかしどこか可愛げがあるために見放す気にもなれなくて、迷惑をかけられている自覚はありつつもこうして家の敷居を跨ぐことや共に食卓を囲むことを許してしまう。……彼の周りでそんな風にしている女はきっと、私一人ではないのだろうなとうっすら勘づいてはいながらも。
「準備出来たよ」

一口大に切り分けた肉と野菜を空の鍋に突っ込んでつゆを注ぐと途端に食欲をそそるいい匂いがして、寝そべっていたソファから飛び起きるなり駆け寄ってきた花楓くんから歓声が上がった。人の家に上がり込んでおいて奪っていくばかりでちっとも手伝いやしない(何かしらの働きを期待するのももう諦めた)彼だが、この笑顔一つで全て許してしまいたくなる気になってしまうのだから私も大概おめでたい頭をしているなと思う。ようやく煮立ってきた鍋から立ち上る湯気と一緒に具材をかき混ぜながら、口を開いて言った。
「もう鍋の季節も終わりだね」
「そーなの?」
「そうだよ。スーパーに鍋つゆあんまり並ばなくなったでしょ?」
「そうだっけ。あんまり行かねえからそういうの分かんねえなあ」

確かに花楓くんがスーパーで自主的に買い出ししているところなんて想像つかないな。誰かのために料理を振る舞ったりするのも、まったくもって想像が出来ない。いかにも食べるの専門です、って感じがする。「終わりかあ」と呟いた花楓くんが空になったコーラの缶を握りつぶしながら珍しく名残惜しそうな顔をして「ちゃんの鍋、もっと喰いたかったのに」と呟いたのが聞こえて目を見開く。
「……また来年の冬になったらやると思うから、食べたくなったらいつでもおいでよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」

それまで花楓くんが私のことをちゃんと覚えてたらだけどね、と言いたくなるのをぐっと飲み込んで「そろそろ食べれそうかな」鍋の蓋を開ける。途端に立ち上ってきた湯気で眼鏡が曇っていくのを見た花楓くんがキャハハと楽しそうな笑い声を上げた。
「うまそー! もう喰っていい?」
「うん。熱いから気を付けてね」

言っているそばから口の中を火傷したらしい花楓くんが「あっちー!」と言いながら舌を出してひいひいと言っているのを横目に箸に持った白菜を口の中へと運ぶ。よく飽きないなあ、彼も私も。それから少しの間、鍋の中で目当ての具材を求めて箸を泳がせる時間が続いた。あっという間に豚バラ一パックとニラ三把と大玉の白菜一個と豆腐2丁を平らげてしまった彼が「うまかった!」と言って満足げな顔をして寝転んだのを見て、さて後片付けでもするかと立ち上がろうとすると「ねえねえ」花楓くんの大きな手に服の裾を掴まれ引き留められる。
「もっと喰いたい」
「……じゃあシメでも食べる? 今日ラーメン切らしてるから雑炊しか出来ないけど」

確か冷蔵庫の中に昨日炊いたご飯の残りがあったはずだ。一旦消した卓上コンロのスイッチをもう一度ひねり、あれだけ食べたのにまだお腹が空いているのかと半ば呆れながらも問いかけると、「ちがうよ」と返ってきた返事に首を傾げる。
「ちがうって?」
「ほんとはずっとメシじゃなくてちゃんが喰いたかったんだ」

そう言い放った花楓くんのきらきらとした瞳にえっと思う間もなく、大きな身体に覆い被さられ勢いよく視界が反転した。最後のシメにと雑炊を用意するつもりで火にかけておいた鍋がぐつぐつと煮立った音を立てているのが聞こえる。……放っておいたら焦げてしまうことなんて分かってるのに、まるで御馳走を前にした小さな子供のようにあの無邪気な顔で目を輝かせ舌なめずりをしている花楓くんの顔から目が離せない。どうしよう。……そんなつもりは微塵もなかったはずなのに、どうやらとんでもないところにまで火をつけてしまったみたいだ。