ひたむきな天使たち

猛烈な勢いで降り続けている雨をじっと見つめて、降り止むのを今か今かと待ち構えている。放課後の教室には傘を握りしめたクラスメイトが溢れ返っていて、急ぎ足で部活へ駆けていく人、席に座って今日提出だったはずの課題を片付けている人、特に何をするわけでもなくだらだらと時間を潰している人、たくさんの人がいる中で私はそっと楽器の入ったケースを背負い直した。今日は、期末テストが終わった日ということもあって、教室も廊下もいつもの十倍は騒がしい。日直の名前の横にがたがたに歪んだ字で書かれた夏休みへのカウントダウンは、残り10日を切っていた。そこに書かれた10の0の字を消して、1を9に変えてから教室を出る。体育館へ繋がる渡り廊下を疾走する影山くんの姿が見えて、ぎゅっと傘を握りしめた。

影山くんは同じクラスのバレー部の男の子だ。朝は遅刻ギリギリで教室に入ってきて、放課後は一番に教室を出て体育館へ駆けていく。持ってるシューズケースは黒色。ブランドは不明。性格はちょっと話しかけづらい感じで、中学では王様って呼ばれていたらしいけれどそれを言うと物凄く怒るらしいから誰もそんなあだ名で影山くんのことを呼ばない。皆、影山か影山くんって呼ぶ。授業中あんまり騒いだりしないタイプだけど、大人しいって感じでもない。この前同じ係になったらしい女の子が影山くんに睨まれたと言ってべそをかいていたけど個人的には根は優しい人なんじゃないかなと思う。目つきが悪いせいできっとたくさん損をしてきているのだ。あと、とっても背が高い。4組の月島くんや山口くんと並ぶと、まるで通せんぼしてるみたいに廊下が占領されてしまう。それでも、女の子が通れずに困っていたのに気づいたときはちょっぴり申し訳なさそうな顔をしていたから、きっと根はいい人なのだ。そのあとからかってきた月島くんに向けた顔はものすごく怖かったけど、それを除けば、絶対にいい人だ。私の直感がそう告げていた。

だから、ケースから取り出した楽器を持って私がいつも向かうのは体育館のすぐ側にある校舎へ続く渡り廊下だった。ボールの音が響く体育館からは、たまに雄叫びのような声がする。それが楽器の音を丁度いい具合にかき消してくれるから、ここはまだ出来上がっていない曲の練習場所にはおあつらえ向きだった。周りへの迷惑を考えることなく思いっきり心置きなく練習出来る。とりあえず表向きの理由としてそう言っておけば、皆快く送り出してくれるから。簡単なことだった。本当は、ここから見える景色のほうが私にとって重要ってことは誰にも知られなくていい。聞こえてくる叫び声に耳を澄ませてみてもそれが影山くんの声かどうかは全然分からなかった。

皆は夏休みが楽しみだって口を揃えて言うけれど、私はちっとも楽しみじゃない。少し立っている場所をずらすと、ネットのすぐ傍に立ってボールをパスする影山くんが見えた。気づいたりしないかな。淡い期待を抱いてもう一度息を吸って、楽器に吹き込む。10分経っても20分経っても影山くんは気づくどころか一度もこちらを見ない始末で、潮時かと諦めた私は楽器を濡らさないように細心の注意を払いながら、校舎へと引っ込んだ。開け放たれた体育館の窓からは、影山くんとバレー部の打つボールの音がずんずん響いてきている。今日は何時までやるんだろう。沈んでいく日の光を見ながら、帰り支度を進めた。

影山くんがあそこの体育館で、朝と放課後に練習しているのを知ったのはたまたまだった。自主練なのか、部活全体での練習なのかは判別出来なかったけど、大抵影山くんとその補助をする人数人しかいないことから自主練だなと勝手に判断していたけど実際のところどうなんだろう。同じクラスのくせに、話しかける勇気が中々持てなくて影山くんとは二言ぐらいしか喋ったことがない。クラスの中心的存在ならまだしも、滅多に人と話さない影山くんに教室で話しかけたりしたらとんでもなく目立ってしまう。だから、こんなストーカーまがいのことしか出来ない。知られたら、きっと引かれる。夏休みはもう目と鼻の先だというのに、いつ影山くんがあそこで練習しなくなるか分からないのに、私は自分の消極性を恨めしく思った。

蝉の声に参っているうちに2桁だった数字はあっという間に1桁になって、そして0になった。夏休みの到来だ。黒板の隅っこに書かれていたカウントダウンを消して、始業式とだけ書いた。数歩下がって眺めてみると、暑さで気が滅入っているのがよく分かる力のない字だった。しばらく眺めたのち、新学期早々こんなやる気のなさそうな字を見せられるクラスメイトが可哀想だと思って黒板消しを手に取る。出来る限りきれいな字になるように心がけながら、浮かない表情をしているだろう頭を振った。やっぱり、夏休みなんて来てほしくなかったのになあ。




ひょっとしたら偶然に偶然が重なって会えるんじゃないか、なんて期待していなかったといえば嘘になる。夏期講習終わりの疲れた体を引きずりながら、部室へと向かう。部室があるのはもう2つ上の階だというのに、そこかしこから演奏の音が漏れてきていた。静まり返った校舎をずんずん進みながら、体育館のほうへ目を向けた。今日は影山くんは自主練をしていないらしい。いや、もしかしたら自主練をする場所を変えたのかも知れないけれど。よくよく考えてみれば、あの影山くんが進んで勉強をしに講習に参加するとは考えにくい。テスト返却のときの影山くんの顔はいつも暗かった。あれが勉強好きな人の顔なわけないじゃん、夏期講習に来るわけないじゃん、私のばか。そもそも影山くんが夏期講習の存在を知っているかどうかも怪しい。考えれば考えるほど単純な自分がばからしくなった。本当に、馬鹿げているとは自分でも思うけれど、それでも、学校に来る理由さえ出来れば十分だ。部活がない日は夏期講習を受けに、夏期講習がない日でも部活をしに行くという名目さえあれば夏休みでも制服を着ることが許される。いつか起こる偶然を夢見て、私は今日も渡り廊下を歩いていた。

偶然というのは突然やってくるからこそ偶然と呼べるんだろうけど、もう少し、心の準備をさせてくれたっていいんじゃないか。そう思えるくらいに、突然に、影山くんと私は出会ってしまった。

部活中の声だけ聞いている私にしたら、そこで活動しているのがバスケ部なのかバレー部なのかバドミントン部なのかどうかなんて判別がつかないし、せいぜい影山くんがいるバレー部とそれ以外の運動部、という区切りでしかない。体育館の近くで練習しているせいか、外へ転がってきたボールを拾って部員の人へ渡してあげることはしょっちゅうある。今回も、ころころと転がってきたボールを拾って、投げて返してあげればいいだけの簡単な話だった。転がってきたのがバレーボールじゃなくて、さらにそのボールを追いかけてきたのが影山くんじゃなければ、もっとスムーズにいくはずの話だったのだ。「ちょっと、」と声をかけてきた運動着姿の影山くんに、私はすっかり固まってしまった。
「あ」

体育館の外に出てきた影山くんは、固まったままの私と、その足下にころんと転がったボールを見て、短く声を上げた。気づかれたのか。クラスメイトだって、勘付かれてしまったのか。だから何だっていう話だけれど、楽器も何も持っていないただの女子生徒Aの今の私は、こんな体育館しかない空間にいることが恐ろしく不釣り合いで、不自然以外の何物もない。そこに突っ込まれてしまったら、どう返事をしよう。
「……お前」
「あ、えと、ごめん、夏期講習で。教室に行くのここ突っ切って行ったほうが早くて」

特に何も聞かれていないうちから必死になって弁解した。何となく、視線が何でここにいるんだって言っていたような気がしたから。いっそ白々しいくらいの勢いで喋っていたら、影山くんがバレーシューズのまま降りてきて、私の足下に転がるボールを拾った。思わぬ形で縮まった距離に大げさなくらい肩が跳ねる。しかし影山くんはそんなこと気にせず、私の頭の先から足下までじろりと視線をやると口を開いた。
「勉強出来るのか?」
「えっ?」
「それ、プリント」

影山くんの視線が注がれているプリントには、でかでかと夏期講習という文字が書かれている。これを見て、どういう順を辿ったのかは知らないけれど、影山くんは私が勉強が出来ると思ったらしい。発言がえらく突飛だな、と思ったけれど、気にしないでおくことにした。これは多分、影山くんの知らなかった一面だ。質問に答えあぐねて、頭を捻った。私の成績はずば抜けていいというわけでもないし、ダントツに悪いってわけでもない。同じクラスだけど、多分、影山くんより少し良いくらいだろうなと思う。
「一学期にやった古文が全然分かんなかったから、それで」

夏期講習通ってるの。半分嘘で、半分ホントだ。分からなかったことは少しだけあるけれど、分からないままでも別に良かった。それでも参加しようと思ったのは、影山くんの存在が大きい。

影山くんは、相槌なのか何なのかよく分からない言葉を呟いてから体育館へ戻っていってしまった。しっとり汗ばんだ手がプリントを湿らせているのに気づいて、どっと疲れが体を襲う。もう夏期講習はさぼりたい思いでいっぱいだったけれど、体育館の中に戻る前にちゃんと靴の裏を拭いている影山くんを見ていると、何だかしゃんとしなければいけない気持ちになってしまって教室への道を急いだ。退屈な先生の話を聞きながら、こんな大したことない私でも、影山くんにクラスメートとして認識されているという事実に今更ながら嬉しくなったりもした。夏期講習も終わって部室へ入るとそこにはまだ何人かの部員しかいなかった。先輩に挨拶をして、楽器をケースから取り出して二、三回吹いてみる。そこで喉が渇いていることに気づいて、飲み物を買いに行くことにした。ここからなら、食堂か、体育館の傍にある自販機が一番近い。そうなれば、どちらに買いに行くかなんて分かりきったことで、私は小銭をポケットに入れて楽器をケースに戻した。そのまま自主練場所にまで行けばいいか、と思い直して、ケースと楽器を手に取る。まだ時間は十分にある。自主練をしていたって合奏の時間までに戻ってくればいいし、それに、もしかしたらまだバレー部があそこで練習しているかもしれない。そう思うと夏期講習の疲れなんてへっちゃらなように思える。冷房のかかっていない廊下は湿気がひどくて蒸し暑いけれど、自動販売機までの足取りはものすごく軽かった。




残念ながらバレー部はもう体育館にはいなくて、代わりに他の部活が練習を始めていた。がっくりと肩を落としかけたけれど、あれだけ念願だった影山くんとの出会いを果たせたんだからいいじゃないかと思い直して自販機を目指して歩く。今日は暑いから、炭酸にしようかな。スポーツドリンクとか野菜ジュースもいいけれど、でもこれからの部活を考えるとお茶が妥当なところかもしれない。とにかく冷えていれば何でもいい。ポケットの中で小銭を鳴らしながら、ずんずん進む。だけど、自販機の前に先客がいて、さらにその後ろ姿が影山くんのように見えた私は凍り付いたようにその場から動けなくなってしまった。地面を踏みしめる音が聞こえたのか影山くんらしき人が振り向いて、また「あ」と言った。こちらからも息が漏れる。そこにいたのはやっぱり、影山くんだった。

首にタオルをかけた影山くんと目が合って、気持ち悪い汗が吹き出た。散々会えたらいいなと願った相手だけれど、まさかこんな短時間で二回も会うなんて。これじゃあまるでストーカーじゃないか。手に汗握る私をよそに、スポドリのボタンを押してペットボトルを取り出した影山くんは、数歩横にずれて私に場所を譲る素振りを見せた。でも地に根が生えてしまったようにそこから動けない私は、訝しげに眉をひそめる影山くんの顔から目が離せない。万事休すとはこういうことかとぼんやり思った矢先、私の手にぶら下げた楽器のケースに目を留めた影山くんが「吹部か?」と言った。ふっと緊張が解けたみたいに、足が動くようになる。影山くんは、相変わらず自販機の前に少しスペースを開けたまま立っていた。
「うん、そう、吹奏楽部。これ吹いてるんだ」

楽器のケースを地面に置いて、早口で答えた。早く飲み物がほしい。その一心でポケットを探りながらお金を押し込んでいく。焦っているせいかなかなか小銭が入っていかない。それでも何とか全部押し込んだ私は、一番安いお茶のボタンを探し出すと勢いよく押して、冷たいペットボトルを取り出す。隣りの影山くんは涼しい顔で喉を鳴らしながらスポドリを飲んでいた。会話がないのが辛くて、よせばいいのに私はペットボトルを握ったまま影山くんのほうを向いた。
「あの、いつもごめんね五月蝿くて」
「別に、五月蝿くねぇけど」
「……本当?」
「おう」

ごくごくと凄い勢いでスポドリが影山くんの口の中へ消えていく。あっという間に空っぽになったペットボトルをごみ箱に押し込むと、影山くんは涼しい顔を少し崩して「お前、いつもあの辺でフルート吹いてるだろ」と言った。あの辺、と指差されたのは体育館の向かいの校舎で、いつも私が自主練に励んでいる場所だった。なんと答えるべきか迷って、頷く。別に頷いたって、何か起こるわけじゃない。分かって入るけれど、大げさに頷いておく。
「バレー好きなのか?」
「うん。あんまり上手に出来ないけど、見るのは好きなんだ」
「……そうか」

本当は、バレーよりもバレーをしている影山くん見たさで毎日のようにあの場所で練習してるんだけど、とは言えなかった。少しだけ嬉しそうな顔をした影山くんは、もう一度「そうか」と呟いて、背を向けて、歩き出そうとして止まる。なんだろうと思っていたら、ぐるんと効果音がつきそうな勢いでこちらを向いて、数秒置いて「……プリント!」と声を張り上げた。予想外に大きな声を出されてびっくりしてしまった私を見て、ばつの悪そうな顔をした影山くんは、ぼそぼそと言葉を続ける。
「この前の古文赤点だったから、プリント、その」
「……取っておいてほしいの?」

まさに言わんとしていたところだったのか、言い当てられた影山くんは目を丸くして私を見た。そして何とも言い難い顔で頷く。私は、あれだけ遠い人だと思っていた影山くんとこうして普通に話せていることに自分で驚きながらも、にっこり笑ってみせた。影山くんの表情が少しだけ緩んだのを見て、やっぱり私の直感に狂いはなかったと確信した。見た目は確かに怖いけれど、彼はこんなにも魅力に溢れている。それに気づけない人たちが、大損をしているだけなのだ。

いつの間にか夏休みの終わりが近づいてきていた。カレンダーに小さく書き込まれた始業式へのカウントダウンも、残すところあと一桁しかない。あれだけ足しげく通った夏期講習が終わってしまったように、憂鬱だった夏休みだって終わりを告げる。そうしたら、また、朝と放課後に練習をする影山くんを見ることが出来る。わざわざ遠回りをして夏期講習の教室へ向かわなくても、影山くんに会うことが出来るのだ。色んなものが無造作に詰め込まれた通学バッグの端っこに入れられたファイルには、影山くんに渡す予定のプリントが何枚も入れられていた。

楽器を構えて息を吸う。夏休み中ずっと練習していたおかげでかなり音程が取りやすくなった曲は、影山くんが私が演奏する中で一番好きだと言っていたものだ。あれから何度も顔を突き合わせた影山くんは、私が思っていた以上にバレーボール以外のことはからきしダメな人らしく、色んなことに頭を悩ませていた。そんなことを考えているうちに、コートの中に立っている影山くんと目が合ったような気がして、つい演奏に力が入る。楽器から離した顔をもう一度コートのほうへ向けると、もう影山くんはこちらを向いていなかった。もう一回こっち向いてくれないかなあ。楽器をケースに仕舞って、校舎を後にする。すっかり癖になってしまった体育館への回り道も、後少しだけなのだと考えると何だか切ない。ボールが床に叩き付けられた音の後に聞こえてきた声に、私は足を止めた。最近分かるようになったことだけれど、これは影山くんの雄叫びだ。隙間から覗いてみると、案の定影山くんがガッツポーズをしながらコートに立っていた。少しだけ絡んだ視線に嬉しくなって手を振ってみる。すぐに逸らされた顔は、教室にいる普段の影山くんとは比べ物にならないくらい、うんとかわいい顔をしていた。

非常に気分をよくした私は二段飛ばしで階段を駆け上がる。しっかり抱きかかえた鞄の中でひっそり息をしているファイルの中身を渡すようになる頃、私と彼はきっともっといい関係になれているはずだ。直感がそう告げていた。少し目つきが悪いだけで、誤解されやすいだけで、口べたなだけで、本当に影山くんはいい人なのだ。自然に鼻歌が漏れる。ついでに、私があそこで毎日のように吹いていたのはフルートじゃなくてピッコロだと教えてあげたらどんな顔するだろう。考えるだけでおかしくてたまらなくなって、私は彼の部活が終わるのを今か今かと待ちわびた。誰かに言いたいという気持ちがはやる。だけど、水を飲むときに喉仏が凄く動くところとか、ペットボトルを握る手のたくましさだとか、からかったときにあんなに可愛い反応をするということ、意外に悩みが多いところとかも、今もこれからだって、彼の良いところをたくさん知っているのは私だけでいい。新学期が始まるのがたまらなく待ち遠しくなった。