ギャングエイジ

18年間、ここまで生きてきて、幼馴染がいて良かったと思ったことなんて一度もない。ただの一度も、だ。
「ほう。そんで?今度は何の映画見たん?」

やけに芝居がかった口調でそう言い放った彼女に、今吉は顔色を変えることもなくそう聞いた。映画だの漫画だのドラマだのに彼女が触発されるのは、いつも通りのことだったから。特に驚きもしなかった。
「映画じゃなくてドラマだけど、昨日の9時から8チャンでやってたやつ。見た?」
「いや。見とらんわぁ。面白かったん?」
「んー別に?ありきたりなやつだよ。幼馴染同士で恋に落ちるっていう」
「純愛やんか」
「それがそうでもなかったんだって」
「ふうん?」

今吉が特にこれといって興味を示した様子もなかったので、この話はやめにしようと思う。ところで、何で私が昨日の夜そんなに面白いわけでもなかった恋愛ドラマを最後まで観てしまったかというと、私にはドラマの中の登場人物と同じように幼馴染がいたからだった。同い年で、バスケが上手くて、黒髪の短髪で、チャラチャラしていなくて、熱血気味な幼馴染。名前は笠松幸男といって、中学までは同じ学校に通っていた。中学を卒業してからの消息は不明だったけど、どうやら海常高校に進学したらしい。小学校高学年あたりから疎遠になったおかげで、進学先はおろか、メールアドレスも、恋人の有無も、何が好きなのか嫌いなのかも、把握出来ていなかった。高校生になってからはもうその名前を思い出すことすら少なくなっていたし、たまに思い出したりしても、あぁ、そういえば小さいときはお互いに下の名前で呼び合ったりして仲良くしていたなぁ、元気にしてるかな、と思う程度だった。

それが今や週に一度は彼の話をするようになろうとは。おかしなこともあるもんだ。


事の発端は些細なことで、同じ学校に今吉というバスケ部の主将をしている男がいた。ただそれだけのことだった。今はもう引退しているから、正しくは主将をしていた男、と言うべきか。とにかく今吉という男が私の通う学校にいて、何か胡散臭い雰囲気を持っているし、常に薄ら笑いを浮かべてるし、関西弁を喋るし、正直そんなに仲良くなりたいタイプでもなかったんだけど、ある日、ついつい話しかけてしまったのだ。月バスと呼ばれる雑誌を読んでいた今吉に、「その雑誌ちょっと見せてくれない?」と。だって雑誌に思いっきり知り合いの名前が書いてあったら驚きもするし興味がわいたりもするじゃないか。


ありきたりな名前ではないけれど珍しい名前でもないと思う。笠松幸男。同姓同名の可能性も十分にあった。でも、バスケットボールをしていて、高校生で、男子で、しかも名前が笠松幸男だなんて、私には心当たりがありすぎる。あの人今何やってんだろう。軽い気持ちで雑誌を開いてみて、そこに載っている写真の中の笠松を見て懐かしいような、新鮮なような、何とも言えない感じを覚えた。そして今吉は予想以上にこの妙な縁に興味を示した。

「海常のキャプテンと知り合いなんか?」と聞いてきた今吉に「中学校まで一緒だったんだよ」と答えると「幼馴染ってやつか」と面白そうに笑った今吉は、私の知らない海常高校バスケ部としての笠松を色々と教えてくれるようになった。ご丁寧に月バスのバックナンバーまで持ってきて、それはそれは楽しそうに、だ。

そんな風に楽しそうに話されては無下にできるはずもなく、私は今吉に薦められるがまま笠松についての情報を着々と集めていった。全国でも屈指のポイントガードなんだとか、海常高校ではキャプテンを務めているのだとか、履いているバッシュの種類は何だとか、得意技はフェイダウェイジャンパー?とか何とか。知らなかったし、知る必要もないと思っていたし、遠い過去の人だと思っていた人物のことを本人の知らないところで覗き見ているようで少し後ろめたくなることもあったけれど、全ては今更言ったところで仕方ないことだった。
「うわ、マジだ。笠松なんか凄い人になってる」
「お前がまさか海常のキャプテンと知り合いやったとはなぁ」
「世間は狭いってよく言ったもんだよね」
「本間にな」
「今吉は戦ったことあるの?笠松と」
「インターハイでな。速かったで、もうちょいで負けるとこやったわ」

そんなこと言いつつ微塵も思ってなさそうだな、とは思ったけれど言わないでおいた。
「強かったんだ?」
「そら月バスに載るくらいやし……かなり有名な選手やろ」
「ふうん」
「ウチも有名なやつ集めとる学校やけど、神奈川といえばこの笠松のおる海常やろな」

にわかには信じられない。確かにバスケは上手かったし、凄く上手な選手だと話には聞いていたけれど、まぁそこそこのもんだろうと思っていた。ちょっと舐めていたところもあったのかもしれない。それが、まさか全国区の選手とは。何かよく分からないけど笠松に憧れているプレイヤーも結構いるらしい。


つい最近まで、笠松が神奈川にいることもバスケを続けていることも知らなかった私は随分と物知りになった。私が今吉と話すときの話題はもっぱら笠松のことについてで、共通の友人、いや、共通の知り合いが一人しかいないもんだからそれはまぁ必然といっちゃあ必然だった。私は笠松の小さいときや昔話を知っていて、今吉は笠松の今を知っている。同じ人物なのに、笠松の話をしているのに、なんだか違う人の話をしているみたいで不思議な気分。「笠松と仲良かったん?」という質問にはどう答えるべきか迷って、正直に答えることにした。
「仲良かったけど、過去形かな」
「喧嘩でもしたんか?」
「別にした覚えもないけど、そうだな、かれこれ5年くらい喋ってないかも」
「幼馴染やのに?」
「いいや。幼馴染だからこそ、だよ少年」
「今度は何のマネや」
「今吉に借りた漫画だけど」
「そんな台詞あったっけ。何巻まで読んだん?」
「8」
「じゃあ明日続きのやつ持ってくるわ」

今の私は、幼馴染だったはずの笠松よりもただの同級生である今吉と仲良しであると言えよう。疎遠になってしまった幼馴染など、幼馴染といえるのか。私がこうして連日笠松の話をしていることなど、当の本人は知る由もないだろうし。
「好きになったりせんかったん?」
「何を?」
「笠松を」
「そりゃあ、まあ、初恋はユキちゃんだったよ」
「ユキちゃんて呼んでたんや」
「ちっちゃいときは、誰よりも近くにいたからさ。仲良かったし。いつのまにか好きでもなければ仲良くもなくなってたけど」
「何か夢ない話やなぁ」
「現実なんてこんなもんじゃないの。いいもんでもないよ、幼馴染なんてさ」

仲良かったはずの笠松は小学校高学年になると途端によそよそしく、他人行儀な態度ばかりになってしまった。私も私で、最初は戸惑いこそすれ、当時女の子といるのが楽しくて男の子と関わりを持つのを避けていたせいもあって、どんどん疎遠になっていく幼馴染を引き止める事もしなかった。いつしか食卓で彼の話をすることも、学校で会話を交わすことも、一緒に下校することもなくなって、気がつけば高校三年生。ユキちゃんじゃなくて笠松と呼ぶのにも何の違和感も感じなくなった。もう長らく声も聞いていない。どういう喋り方をする人だったっけ、そういや、声変わりした後の声を聞いたこともない気がする。
「そういうの、ウェスターマーク効果っていうらしいな」
「ん?」
「ちっちゃい頃から知ってるから、今更彼氏とかには考えられへんってやつ」

彼氏。考えたこともなかった。あの笠松が、彼氏。そうしたら私が彼女?……うーん。確かに初恋の相手は笠松で、大好きだった気もするけれど、それと今は違う。あの頃はただ一直線に笠松だけが好きだった。ユキちゃんが好きだったのだ。

それきり黙ったまま喋りもしない私に、「勿体ないな」と言葉をかけた今吉は教科書類を片付け始めた。下校時間はとっくに過ぎていた。そうか。世間一般でいえば、私は勿体ないことをしているのか。……本当に、勿体ない、のかなぁ。いくらこうして成長して大人びた笠松幸男の話をしたところで、小学校かそこらで時間は止まっていて、私にとっての笠松は笠松でしかなくて、ユキちゃんでしかないんだけど。よく分からない。ただ、何の障害も隔たりもなく純粋に幼馴染への愛を貫くドラマの中の主人公には共感出来なかった。ずっと一緒にいようとか、永遠とか、幼馴染の絆とか。アドレス帳に載っているはずもない名前を浮かべて、ここから神奈川にあるというその高校までの距離はどのくらいだろうと思いを馳せてみる。あの人は、元気にしているだろうか。




初恋は実らないからこそ美しいのであって、実ってしまってはつゆほども美しくない。そんなことをぬけぬけと言ってみせる人間の気が知れないと心の底から思った。
「喧嘩した訳やないんやったら喋ったらええやん」

不思議そうに問いかけてくる男、今吉に向かって思いっきり顔をしかめてやる。喧嘩をしたから仲直りをする、長らく喋っていなかった幼馴染(他に当てはまる関係が思いつかないからこう呼んでいるだけで、実際そんないいもんでもない)に話しかける。そういう簡単な話でもないんだこれが、嘆かわしいことに。分かっていないんだか、本当は分かっているのにあえてこう言ってみせているんだか。わざとらしく頭を振ってみせると今吉は元々細い目をさらに細めて言い放った。
「そういうとこ、自分ら結構似たもん同士やと思うわ」

自分ら、とあえて複数形にしてみせるところがこの男のいやらしいところだと思う。だがしかし、そういうところってどういうところだとか、自分らって誰と誰の話をしているんだとか、そういう分かりきったことは口に出して問わないのが私のポリシーなので適当に受け流してやった。意外と鋭く突いてくるよなぁ、と内心苦笑しながらも。


実際のところ、自分でもよく分からないのが本音であった。喧嘩別れをしたから会話をしなくなった訳でも疎遠になった訳でもなくて、よく言うあの常套句と同じようなもの。気がつけば近くにいて、気がついた頃には好きになっていて、そしてまたもう一度気がついたときには手の届かない人になっている。いっそのこと、最後にしたのが喧嘩だったならまだ修復の余地もありそうだったものを、きっかけも何もないものにはもう手の施しようがない。今更興味を持ったところで、昔の話は美しい思い出にされたまま動き出しもしないし、幼馴染は幼馴染の枠を出ないまま、その思い出の中でどんどん美しくなるだけなのだ。美しいものをわざわざこの手でぶち壊してしまうような無粋なことはしたくない。あわよくば彼も同じようにありますようにと、彼の記憶の中の私も『幼馴染』として、遠い過去の思い出として、美しく着飾られていることを願う。それだけでよかった、むしろそれだけで済ましておきたかったのに、これは一体どういう思し召しだろうか。
「あ」

無視出来なかったのはきっと、連日のように今吉が一人の話題しか挙げてこなかったからだ。不可抗力、それならば仕方がないだろう。
「笠松」
「……よう」

本人の前で名前を呼んだのは、実に5年ぶり、いや、それ以上か。やっぱりユキちゃんとはもう呼べなかった。ユキちゃんと呼べなかった自分に、予想よりもかなり背の伸びた彼のたくましそうな肩幅に、やはり昔のままという訳にはいかないんだなと変に傷ついたりもした。割り切ったようで、割り切れていなかったのかも知れない。
「ちょうど良かった、これ、おばさんに渡しといてってうちのお母さんから」
「あ、……ああ。わざわざ悪かったな」
「ついでだからいいよ」

子供たちの知らないところで、親同士の繋がりは続いていたのだという。笠松はカサカサ音を立てながらその包みを受け取った。視線があっちこっちに泳いでいる。久しぶりに会った幼馴染に話しかけられて、どう反応したらいいのか分からない。そう顔に書いてあった。
「久しぶりだね」
「ああ」
「元気だった?」
「まあ、な」

元気なのは分かりきっていたから聞かなくてもいい質問だったのだけれど、これ以外にかける言葉が思いつかなかったのだ。私は笠松の知らないところで今吉と笠松の話をしていたおかげで、今の笠松の動向を知っている。その大部分がバスケに関する話だったとしても、だ。だけど笠松はおそらく、私が桐皇に進学したことすら知らないだろう。
「私、今桐皇に行ってるんだけど、笠松は海常でバスケやってるんだってね」
「……なんで知ってんだ」
「今吉から聞いた」

予想通り、笠松は驚いた顔をした。そしてすぐに苦虫を噛み潰したような顔になった。何でそんな顔をするんだと訊ねる前に、はたと気づく。そうだ。笠松率いる海常高校男子バスケットボール部は、今吉率いる我らが桐皇学園にインターハイで惜敗したのだと。私は今吉本人からそう聞いていたじゃないか。
「最後に話したのっていつだったっけ」
「…………忘れた」
「小学校5年の花火のとき以来じゃない?」

そうなると5年どころか7年はろくな会話もしてこなかったということになるなと気づいて無性に寂しさを覚えた。
「ねえ笠松、本当に久しぶりだね」
「さっきも聞いたぞ」
「改めて言うと重みが増すかと思って」

繰り返したところで増したのは侘しさだけだった。失敗した。言わなければよかったのに。
「知ってる?花火、今年は凄かったらしいよ」
「さあ……今年は見に行かなかったからな」
「勿体ない。10年に一度の大傑作だって散々テレビでも特集されてたのに」

本当に言いたかったのはここから先でまだ続きがあったのに何故だか口に出せなかった。10年に一度のはずなのに、華やかさも規模も何もかも上回ってたはずなのに、今年じゃなくて昔見た景色の方がずっとずっと綺麗だったと思えるなんて、そう思ってしまったなんて。一体全体どういうことなんだろう。笠松には答えられないはずだ。笠松の家の前を何度通ったところで、そこに自転車が停まっているかとか、窓の向こう側から話し声が聞こえるとか、ましてや近所に住んでいるんだからもしかしたら通りすがりの笠松に会えるかもしれないなんてこれっぽっちも意識していなかった私が、こんな風に声をかけて、考えを巡らせて、言葉を選んでいる今の時間がある。

それはつまり。
「ユキちゃん」

忘れられないのはきっと私だけで、私だけが覚えていることがたくさんあって、それがたまらなく辛いと思った。
「……どうした?」
「18年間、ここまで生きてきて、今日初めて幼馴染がいて良かったと思った私がいるんだけどさ」

ユキちゃんのほうはどうかな。勇気を持って言い切ってしまわないから、勢いを失った言葉が尻すぼみに消えていってしまった。額縁に入れられて美しく着飾られた初恋がそこにあった。置いてけぼりにされた思い出にコーティングされた初恋と、一人歩きの果てに抜け殻同然になってしまった幼馴染の関係に爪を立てられた私がそこにいた。
「花火。来年はもっと綺麗だといいね」

そして初恋は繰り返す。何度でも、何度でも。

頷いた笠松の短く切られた黒髪の下の瞳を見据えて、その美しさに触れて、本当に似た者同士になれたならよかったのにと苦笑した。

ギャングエイジ
小学校後半くらいの年齢の子供が、同性だけの閉鎖的集団をつくって、いたずら、遊び、乱暴な行為などをする成長過程の一時期。徒党時代。(大辞泉より引用)