ビタミン

体育館の淵に置かれたたくさんのペットボトルと、ベンチに山積みにされたタオル、汗でほとんど色が変わってしまっているTシャツ。部活をしている人というのは、どうしてこうも夏が似合うのだろう。

学校が終わって、さあ帰ろうとカバンを背負ったところで気づいた違和感に私は顔をしかめてカバンのファスナーを開けた。途端に沸き出すローズの匂いに慌ててファスナーを締めてカバンを自分の机の上に置く。見れば、背負っていた方とは逆側の角がほんのり湿っている。嫌な予感がして恐る恐るもう一度ファスナーを引っ張ってみれば、カバンの中身は悲惨なことになっていた。うーわ、最悪だこれ。
「笠松ー」

今まさに教室の外へ出ようとしていた後ろ姿を呼び止めて、こっちへ来るように手招きした。「何だよ部活遅れんだろ」とでも言いたげな顔で寄って来た彼は面倒くさそうな雰囲気こそ出すものの、呼べばこうしてちゃんと来てくれるんだからなんだかんだで優しいと思う。
「今日男バスの練習早めに終わるんだよね?」
「おう」
「教室で暇つぶししとくからさ、一緒に帰ろうよ」

なるべく周りに聞かれないようにこっそり耳打ちするようにして言うと、「近い」そう言いながら笠松は離れていった。その様子にむっとしながらも「言ったよ!待ってるからね!」教室から出て行く背中に言葉を投げつけてやる。まったく、皆がいる前で二人きりで話したり必要以上に親密にしたりすると変に噂を立てられたりして恥ずかしくなるからやめてほしいと言ってきたのはそっちのくせに、照れ屋なのも大概にしてぼしいもんだ。

すっかりしわしわになってしまった現国の教科書をカバンから救出しながら部活へと急ぐ後ろ姿を見送った。誰もいなくなった教室で一人教科書を広げて、匂いを嗅ぐ。きつく香るローズのにおい。あーあ、これどうせ乾いても染みいっぱい出来てるんだろうなあ。笠松の机に置いたら匂いうつって怒られるかな。まあいいや。あとで拭いたら多分、大丈夫だろう。空っぽになった机の中身を見て、笠松の教科書にこっそり仕込んだ手紙の存在を思い出しながら、早くバスケ部の部活終われと心の中で念じた。




「ビニール袋破れそうになってるぞ」
「ぎりぎり耐える計算だから大丈夫だって」

部活終わりの笠松は制汗剤なのかワックスなのか何なのか知らないけれど、いい匂いがする。バスケ部のむさ苦しい練習風景とは似ても似つかない、女の子みたいな匂い。片手でアイスを持ってそれをかじりながら歩く笠松の半歩後ろを私は何も入っていない通学カバンを胸に抱えて教科書と財布とバスの定期が入ったコンビニのビニール袋をぶらさげながら歩いていた。ビニール袋の持ち手の部分は、重たい荷物に引っ張られて限界まで伸びきっているという感じで、多分、あと少しでも重いものを入れたら途端に切れてしまう。
「重くねぇのか、それ」
「すっごい重い。持つ?」

隣りでほとんど肩からずり落ちてしまっているカバンの肩紐を直しつつ笠松が言った。撫で肩気味の肩に申し訳程度にしか掛かっていない笠松のカバンだって私と同じくらいに重そうで、いつもぺらぺらで水筒と着替えとタオルとウォークマンくらいしか入っていないくせに今日だけはパンパンに膨れ上がっていたものだから思わず噴き出してしまう。じろりと目だけで訴えてきた笠松にわざわざ理由を聞かなくても分かる、担任から置き勉禁止令が出たせいだ。
「教科書置いて帰ったりすんなよー捨てるからなー」

あの台詞のせいで、私たちは夏休み初日から重い荷物を抱えてこの暑い中家まで帰る羽目になってしまった。どうせ夏休みは遊んで過ごして予習や復習なんてろくにしないんだから、宿題のワークやプリント以外は学校に置きっぱなしでも何の問題もないというのに、うちの学校は変なところで規則に厳しい。置き勉のことを言うなら黄瀬の金髪にも注意くらいしたらいいのに。

隣りの笠松が暑そうに汗を拭って、食べ終わったアイスの包みをごみ箱に捨てた。氷を頬張っても制汗剤を撒いても服を一枚脱いでも暑いものは暑い。陰も何もない炎天下を歩きながら、私は少し遠くに見える海へ視線を向けた。人肌に触れるのが億劫で、半歩先を行く笠松のシャツを掴む。
「海行こうよ」

暑いから、涼みに。振り向いた笠松のこめかみあたりを汗が伝う。ぶわっと吹いた風からどことなくレモンのような香りがした。




「笠松なんか香水つけてる?」
「つけてねぇよ」

でもやっぱりいい匂いするんだけど。海沿いの道を二人で歩きながら首を傾げると、笠松は「お前こそあれだ、なんかビオレっぽい匂いする」と言った。
「ビオレ?石けんみたいってこと?」
「いや、何つーか森山が使ってた汗拭くやつみてえな匂い」
「汗拭くやつ?あ、もしかしてこれかな」

ローズの匂いでいっぱいになったカバンからほとんど空になったピンクの容器を取り出すと、笠松は納得したように「それだわ」と一人で頷いた。汗拭きシートみたいな匂いって、ローズの匂いだよバカ。そういうの疎そうだから仕方ないかもしれないけど。
「ていうか森山汗拭きシート使ってんの」
「いい匂いする男がこれからはモテる!とか言ってたぞ」
「なにそれ」
「どうせまたネットで見てきた知識だろ」
「へー。笠松は使わないの?汗拭きシートとか。モテるらしいけど」
「オレはこれ使ってる」

そう言って笠松がパンパンになったカバンから取り出したのは黄色のボトルで、私が持ってるピンクのと同じデザインのもの。「暑いからちょっと貸してよ」そう言うと、笠松は私の手に持ったボトルと私の顔を不思議そうに見比べた。
「自分のは?」
「さっき全部カバンの中でぶちまけちゃった」

結局乾ききらなかったせいで教科書も財布も全部ビニール袋に避難させる羽目になってしまった。自業自得だけど。手に持ったままだったほとんど空の容器を振って、勿体ないと呟く。「ん」差し出された黄色いパッケージからは、私が使っているピンクのとは全然違う爽やかな匂いがした。さっきレモンみたいな匂いがすると思ったのは、多分この匂いだ。レモンっていうよりグレープフルーツかもしれないけど。
「これ塗ったあと扇風機の前行くと涼しいっていうかむしろ痛いんだよね。知ってた?」
「いや」
「塗ったまま海入ったらどうなるんだろ。痛いのかな」
「入るなよ?」
「ちょっとぐらいいいじゃん」

靴下を脱いで、ローファーを脱ぎ捨てようとしたら止められた。短い前髪を揺らして、凛々しい眉を上げたまま私を制する笠松は、なんていうか真面目っていう感じ。すん。鼻を鳴らして空気の匂いをかいだ。潮の匂いと、ちょっと遠くの海の家から漂う焼きそばの匂いと、かすかに香るシトラス。夏が来たんだってことを実感する匂いだった。




手のひらに残った液を両手を合わせて擦り込むようにして伸ばす。首筋を風がすっと通り抜けていく。笠松にもこの涼しさをお裾分けしてやろうと両手を広げて腕を掴むとぎょっとした顔で振り払われた。え、そこまで嫌がることなくない?
「塗ってあげようと思ったのにー」
「…いい。自分でやる」
「ほんっとに照れ屋さんだね」

もはや禁欲的とも言える恋人の姿に苦笑をもらした。確かに気温よりもはるかに熱い人肌と触れ合うのはあまり気が進まないことかもしれないけれど、私だって笠松だってきっともっと開放的になったっていいはずなんだ。だって、季節は夏だから。笠松はこれからもずっとしばらくは部活で忙しくて、次はいつこうやって過ごせるのかも分からない状況にいる。どこの部活にとっても夏は試合の季節で、引退の季節で、勝っても負けてもいつかは終わってしまう季節で、誰もが多分、一度くらいは、終わらないでほしいと思う季節なんだと思う。だけど、この夏はもう二度と来ない。笠松とこうやって過ごす夏は、あと一度だって来ないんだ。

秋が来たら、カバンに染み込んだローズの匂いも消えて、濡れてぼろぼろになった教科書も新品になって、アイスも食べなくなって、もしかしたら夏休み早々に笠松とこうやって海に来たことも忘れちゃうくらいに他の楽しいことで埋め尽くされてしまうのかもしれない。文化祭もあるし、ハロウィンもあるし、クリスマスもあるし、きっと、早々に思い出になってしまうんだろう。

思い出として終わらせられるなんてそんなの嫌だ、絶対に嫌。懐かしがられる存在でいたくない。体の至る所から香るシトラスを、忘れないようにしたい。そのためだったら、多少のバカなことだって言えちゃうし、無理なお願いだって分かってても口にしたくなってしまう。
「ねー来週の火曜もここ来ようよ」
「火曜?」
「火曜。誕生日でしょ笠松。そんときに水着で来て泳いだら楽しそうじゃない?」

夏満喫してるって感じでさ、いいよね、海水浴も。濡れてしわくちゃになった教科書やプリントは新しいのを買うか貰えばすれば終わりだけれど、こうやって一緒に過ごす夏の代わりは何にだって出来やしないから。
「部活夜まであるぞ」
「いいよ別に。夏の日は長いんだからさ」

夏の日は長いけれど夏の季節は短い。18年生きてきて、ここまで終わりが来てほしくないと思った季節は初めてだ。「お前がいいならいいけどよ」渋々といった感じで了承した笠松は、きっと一週間後も変わらない仏頂面でここにシトラスを連れてくる。砂浜に放り投げたカバンから漂ってくるはずのローズの匂いは潮の匂いに消されてちっとも存在感を放っていなかった。




「そうだ、笠松に言い忘れてたんだけどさ、数学の教科書」

黄色のボトルをカバンに仕舞う笠松の動きを止め、カバンの中を覗き見る。綺麗に並べられている教科書の中から数Cを指差して、取り出すように促した。
「笠松いない間に教科書に手紙入れといたんだけどさ、言うのすっかり忘れてたわ」

教室で待ってる間はちゃんと覚えてたんだけどなぁ。しばらくカバンをがさごそ漁って、教科書をぱらぱらめくっていた笠松が折り畳まれた一枚の紙切れを指に挟んでつまみ上げる。笠松へ、と色ペンで書かれた文字は間違いなく私の字だ。
「これか?」
「そうそうそれ……ってうっわ。最悪。しわくちゃになってんじゃん」
「読めるから大丈夫だろ」
「待ってここで読むのはやめて」

不服そうな顔をした笠松が手紙をポケットに仕舞うのを見て、ちゃんと読んでくれるのかと不安になった。今度は洗濯したりしないだろうな、と冷や冷やしながらもう暗くなりつつある帰り道を急ぐ。笠松が心配していたビニール袋の紐は、とっくに限界を迎えて使い物にならなくなってしまっていた。胸に抱えた教科書が跳ねて音を立てる。

帰る間際で呼び止めた笠松が振り向きざまにキスをしてきたせいで、そのときにやっぱり香ったシトラスのせいで、肩越しに見えた沈んでいく夕日のせいで、始まったばかりの夏を終わらせたくないと改めて思ってしまった。