少しだけ君を困らせたい

鉄壁とも言える笠松の心の壁をこじ開けるのに、実に1年と半年の歳月を要した。全国レベルのバスケの選手だとか、ばりばりの熱血体育会系男子なのだとか、女の子が苦手なのだとか。笠松に関する噂のあれこれはかねがね多方向から聞かされていて、一方的に抱いた親近感から、親密な関係になりたいと思っていた。初めて彼と言葉を交わしたのは一年生の夏。女の子が苦手で根っからのスポーツマンな彼は最初はどう対応したらいいのか分からなかったらしく、「ああ」と「そうだな」しか返事を寄越さなかった。だがしかし、だがしかしである。それでもめげずに挨拶し続け、隙あらば教科書を借りに行き、森山を味方につけ、バスケの試合の応援に行き、不断の努力を続けた結果、私と笠松の関係は遂に彼から「おはよう」の言葉をもらえるまでに発展したのだ。そこから更に関係は発展し、お付き合いをすることになったのだけれど、……なったのはいいのだけれど。出会ってからもうすぐ1年半が経とうとしているというのに、一度も二人で出掛けたことがないとはこれいかに。笠松は本当に私と、こう…どうにかなるつもりがあるんだろうか。あの笠松のことだから、そんな心積もりは全くないんだろうなあ。

このままじゃだめだ。笠松に私とどうにかなる気がなくても、私には彼とどうにかなりたい気持ちがあるのだ。そりゃもう四六時中バスケばっかりの笠松には想像出来ないくらい、自分の胸がはちきれそうなくらい、色々と、あるのだ。
「ねえ今日の部活何時に終わるの」

いつもなら「じゃあな」「うん」の言葉で手を振るはずの、校門へと続く曲がり角。緊張のせいか、ちょっと早口気味になってしまった。だけど笠松にはきちんと聞きとれていたようで、少しだけびっくりしたように目を見開いて、それから小さな声で「6時」と返事をした。6時か。いつも教室に遅くまで残って他愛ないお喋りに興じている友達に混ざって話をして、図書室で本を読んで、部活に明け暮れる生徒の声に耳を傾けていたらきっとあっという間に過ごせてしまうはず。
「待ってるから一緒に帰ろう」

さっきよりもさらに大きく笠松の目が見開かれた。ここまで驚いた表情をされるとは思わなかったので、もしかしたら言っちゃだめなことだったか、今まで全然そんなことしなかったのに急に待ってるとか言いだして迷惑になってしまったかな、と自分が言い出したことなのに不安になる。やっぱり訂正しようともう一度口を開いた言葉は、「……帰り、バッシュの靴紐買いてーんだけど」視線をそらして口ごもりながら言う笠松の言葉で遮られた。それって。それってもしかして、
「部活の後で付き合ってくんねーか」

デートのお誘いじゃないですか。


笠松はそういうつもりで言ったんじゃないのかもしれない。本当にバッシュの靴紐を買うのに付き合ってもらいたいだけなのかもしれない。だけど、恋人と一緒に二人でどこかへ出掛けるっていうのは私からするともう完全にデート以外の何物でもないわけで。相手が笠松ならそりゃお洒落をしてちょっとでもいいから可愛いって思ってもらいたいわけで。仲の良い友達の延長からはそろそろ脱却したい訳でして。思えばさっきの私はものすごく素直だった。何か今日なら何でも出来る気がする。

教室に残ってお喋りをしていた女の子に頼んでコテを借りた。いつもは後ろでまとめている髪をほどいて、ゆるく巻いてみる。これだけで少しはあか抜けたような印象になるんだから驚きだ。首にかかる髪がくすぐったい。それ以上に浮ついた自分の気持ちがくすぐったくて仕方なくて、しきりに時計を確認する。「気持ちは分かるけどそわそわしすぎじゃないの」なんて言って、笑われた。笠松は今頃キャプテンとして部活を仕切ってるんだろうか。今度は、……『今度』がちゃんとあるんなら、邪魔にならないようにすることを前提で部活を見に行ってもいいか聞いてみよう。時間が経つのが恐ろしくゆっくりに感じた。

部活を終えて、通り過ぎていく部員たちに一通り挨拶をし終えた笠松は、強豪海常バスケ部のキャプテンの顔からバスケが好きなただの男の子に戻る。普段と変わらない調子で受け答えしているように見えてどことなくそわそわしているのに、後輩に声をかけられると途端にキリッとした表情になるのには少し笑ってしまった。笠松も私と同じように緊張してくれてるんならいいのになあ。

スポーツ料品店に着くと、色とりどりのバッシュが棚にずらりと並んでいるところで笠松は足を止めた。素人の私でも知っているような有名メーカーのものばかりである。当然お高い。バッシュを手にとっては戻して、値段とにらめっこしながら唸っている姿を隣りで見つめていて私が思うことは一つ。本当にバスケが好きなんだなあ。そんなバスケ好きな笠松が好きだから私はこうして生き生きした顔で靴を眺める笠松を見ているだけで楽しいのだけれど、何を勘違いしたのか笠松は私の視線に気づくと「悪い」気まずそうな顔をしてバッシュを棚に戻した。そそくさとバッシュの靴紐を選ぶとレジへと並びに行ってしまう。「その…悪かったな、放ったらかしにして」気を遣われてしまった。
「笠松さ、今日は何かぎこちなくない?」

私も人のこと言えないんだけど。笠松の様子はどこからどうみても不自然であると思う。ぎくしゃくしてるというか、かちんこちんだ。たどたどしく話す様子と堅い表情は初めて話しかけた一年半前の夏を彷彿とさせる。
「あー……いや、お前が、いつもと違う感じだから……」

違う感じ、とはおそらく髪とかスカートとかその他もろもろのお洒落のことを言っているんだろう。喋っている間も笠松の視線は宙を彷徨いっぱなしだ。
「……やっぱりこういうのって変かな?」
「いや、違う。その……、可愛い」

期待しなかった訳じゃない。可愛いって言われたくて背伸びしてみたのは事実なんだけれど、思った以上にはっきり「可愛い」と言われてびっくりした。嬉しい。だけど嬉しいのよりもびっくりした気持ちの方が強くて、驚いたその顔のまんまで笠松を見上げたら、言った本人もびっくりしてたみたいで目が合った途端に思わず吹き出してしまった。
「笑うなよ」

笑うなと言った方が無理な話だ。だって笠松、顔背けてるけど耳も首も真っ赤なんだもの。
「ね、ちゃんとこっちに顔みせてよ」

バッシュの紐を握りしめたままだった手にそっと指を近づけると、春だというのに燃えるように熱い掌の温度を感じた。