歩いて帰ろう

そうだなぁ。玉ねぎ、じゃがいも、人参…は昨日使った残りがまだあるはずだから、デザートのりんごに、あぁうん別にりんごじゃなくてもいいんだけど、何かデザートになりそうなものでお願い。お肉……は豚肉でも鳥肉でもどっちでもいいよ。安い方買ってきてくれる?ルーは赤い箱のやつ。青いやつはやめてね、辛すぎるから。

あぁ、今夜か明日の夜あたりの献立はカレーなのか。液晶画面に表示された1分47秒というひどく短い通話時間を眺めながら、笠松はそっと息をついた。その上にある名前を指でなぞる。付き合い始めた頃は他愛ない話、それこそ森山が寝ているところを教師に起こされてした言い訳がツボにハマってしばらくは森山の後頭部を見るだけで笑いがこみあげてきただとか、黄瀬の写真集が本屋に並べられているのを見かけたのはいいけれど買うのは気恥ずかしくて馬鹿らしくなってやめたとか、笠松の好きな食べ物は肉じゃがって言ってたけど肉は豚肉はなのか牛肉はなのかそれとも肉とじゃがいもを醤油とみりんと砂糖で煮込んでいれば何でもいいのか、そういった話で朝まで盛り上がったというのに今はこの様だ。電話越しに伝えられるのは用件のみになってしまった。月日が流れるのは早い。これを良い変化だと受け取るか悪い変化、いわゆるマンネリだと受け取るかは人それぞれである。笠松は高校三年生ではなくなったし、バスケットボールを毎日追いかけ続ける生活も終わった。それは彼女も同じことで、もう少し寂れたにおいのする校舎に制服を着て足を踏み入れることもない。

二人はもう大人と呼べる年齢になっていた。今頃、好きな俳優が出ているからという理由だけで毎週録画しているドラマを見ているであろう彼女の姿を思い浮かべる。いや、もしかしたらまだ家に向かう電車の中かもしれない。電話の向こうで車掌の吹く笛の音が聞こえたし、きっとそうだ。彼女が家に帰ってくるのは笠松よりも遅い時間なのかもしれない。だからこそ、こうして買い物についての電話を寄越したんだろう。あぁ、そういえば、今シーズンのドラマはイマイチ彼女の心には響かないらしい。笠松は風呂上がりに不意につけた深夜ドラマが予想外に面白く、かつそのストーリーの巧妙さと演出の過激さが気に入っていたが、彼女はゴールデンタイムに放送している恋愛ドラマが好きなのだと言った。他人の恋愛を盗み見て何が面白いのか。バスケの試合を見ている方がよっぽどスリリングで迫力もあるだろうに。そうは思っても口に出さないのが笠松のいいところだよね、と言われたのはもう二年前のことだ。毎日のように長電話をしていたのは確か四年前の話で、そうか、もうそんなに長く一緒にいるのか。今歩いている場所から行きつけのスーパーまでの距離を計算し、歩いた。20時半には家路に着けるだろう。スーパーに向かう足取りは軽い。




困った。閉店間際のスーパーの野菜売り場で野菜を買い、特売のシールが貼られた豚肉を籠に放り込み、デザートのシュークリーム(二個で百円)をその上に載せ、ルーを買おうとしたところで笠松は足を止めた。赤がある。青もある。しかし、何だこの黄色は。彼女はどれを気に入るだろうか。あいつは電話で赤にしろっつってたけどなぁ。オレはこの黄色いやつがいいと思う。さて、どうしたものか。ポケットから取り出したスマートフォンの一番上に表示された名前。親指でボタンを押し、コール音が鳴るのを聞いた。あいつ風呂入ってたりしなきゃいいんだがな。

彼女は思いのほかすぐに電話に応対した。
「何どうしたの」
「カレーのルーなんだけどよ、赤と青と黄色いのも見つけたんだがお前どれがいい」
「赤。幸男は?」
「オレは別になんでも」
「いや電話してきたってことは黄色気になってるんでしょ」

いつからそんなに察しがよくなったんだ、と言いたくなったが答えは既に彼が持っていた。これだけ一緒にいるのだから、思考は分かるものだ。似てこなくとも、一致しなくとも、自然と分かるようになってしまう。
「期間限定のプレミアム仕様なんだと」
「何辛?」
「中辛」
「中辛なら許す。買っていいよ」
「分かった。あと欲しいもん何かあるか?」
「ハーゲンダッツ食べたい」
「自分の給料で買えよ」

恋人にはシュークリームで我慢してもらわなければ。黄色い箱を籠に放り込み、レジに向かいながら笠松は考えた、食事に関しては彼女は安いものを吟味し悩み抜いた末に購入するが、笠松は期間限定やプレミアムといった言葉に少しばかり弱かった。財布の紐は固く締めているつもりだが、どうしても目がいってしまう。たった数十円の差だが、無断で購入すると後で買い物袋を開けた彼女に怒られることを知っているので、こうして電話をかけることにしている。二人の暗黙の了解のようなものだ。通話時間は2分と少し。何だ、オレも似たようなもんじゃねーか。月日が変えたのは何も彼女に関してのことだけではない。早く帰ろう。暖かい風呂と、可愛らしいエプロンはつけていないだろうが料理をする準備をしているであろう可愛い恋人と、昨日干したばかりの布団が帰りを待ちわびている。




「カレー出来るまで散歩しに行こう」
「今食ったらダメなのか」
「寝かせた方が美味しいって幸男も知ってるでしょ」

彼を待つ恋人はやはりエプロンをつけていなかったが、部屋は片付いていたし玄関には新しい猫の置物が一つ増えていた。時刻は夜の21時を回ったところだ。キッチンにはカレーの入った鍋がある。これから寝かせるとなると、夕食ににありつけるのはせいぜい23時といったところだろうか。そんな時間に食べてしまっては、もはや夕食とは呼べないだろう。彼女には知らせていなかったが、笠松は昼食に豚カツ定食を平らげていた。それも、12時の昼休憩ではなく15時という昼食にしてはとても遅い時間に、だ。今日の仕事は忙しかった。それこそ、ろくに昼休憩も取れないくらいには。彼女に悪いと思いながらも、笠松は心のうちで呟いた。オレは別に今日食えなくてもいいんだけどな。豚カツめっちゃ食っちまったし。

腹の虫が鳴いているのは彼女のほうだろうに。笠松は連れ出されるがまま街灯の下を歩いていた。学生時代は定食を食べようが山盛りの米を食べようが部活をすればすぐに腹が減っていたのに、今となってはさほど腹も減らなくなった。明日は仕事が休みだ。この様子だと、彼女もきっと。路地の裏を抜け、公園のわきの細い道を通る。わざと回り道をしているな、と気付いてはいたが口に出さなかった。高校生のときの自分ならおそらく「そっちは遠回りだろ」と言うし、彼女も彼女で「でももうちょっとだけ一緒にいたいでしょ」などと甘い言葉を並べたはずだ。余熱であのじゃがいもは溶けてしまっただろうか。静かな道に小枝を踏みしめる音が響く。

揺れる恋人の手を掴む回数が減った代わりに買い物袋をぶら下げる回数が増えた。星も見えやしないと呟く唇に対して笠松が口を開くことはなかったし、プラネタリウムに行こうと彼女が言葉を続けることもなかった。星を見に来たわけでもないだろうに、今更ロマンチックを気取ってどうする。また少し歩く。星が見えなくとも静かな夜だ。また立ち止まった彼女の目線はコンビニの前に立てられた肉まんの旗に向けられていた。続いて腹の虫が鳴く。自分のものではない。つくづく分かりやすい女だ、自分の恋人は。
「食うか?」
「え?」
「肉まん。腹減ってんだろ」
「うん。……いや、でも帰ったらカレーが」
「明日の昼に食べりゃいいじゃねーか」
「それもそうか」
「寝かせたほうが美味いんだろあれって」
「うん、たまねぎも人参も甘くなるからね。そしてそして明後日の夜はー」
「カレーうどんな」
「よく分かってるじゃん」
「何回このパターン繰り返してると思ってんだよ」

彼女はお世辞にも料理が上手いとは言えなかったが、下手とも言えない微妙なラインを行ったり来たりしていた。恋人がカレーを作った日には、翌日にはもう一度カレーが食卓に並び、その翌日には片栗粉と水を加えたまねぎと人参が溶けて甘くなったカレーうどんが出てくることを笠松は知っている。得意料理は肉じゃがだ、と胸を張る彼女が作る味の薄い料理が好きだった。一人で使うには少し狭いキッチンは二人で使うともう身動きの出来る幅もないほどで。手を繋がずとも距離の詰め方が分かるようになったのはいつからだったろうか。
「あのルーさぁ、どの辺がプレミアムなのか気になる?」
「気になる」
「限定ものとか弱いもんね幸男」
「お前もだろ。何だあの猫の置物」
「可愛いでしょ?残り一個だったから買っちゃった」

肉まんを包む袋をめくりながら、彼女は言った。早く家に帰ろう。引き止めたのはお前だろ、とは言わなかった。季節は変わる。落ちるものは小枝から雪に変わるし、彼女が食べるものもアイスから肉まんへと変わっていく。そうしてまた同じ季節がやってくる。期間限定のものが発売されるたびに着信履歴は埋まっていく。片手で掴んだ自分より小さい手は暖かかった。この手を握ったのは何日ぶりだ。隣りに立つ彼女の周りの空気が揺れた。
「深夜にやってたあのドラマあるだろ」
「あーうん、幸男が好きな刑事ドラマね。ちょっとマニアックなやつ」
「それが今日最終回なんだと」
「恋愛シーンがあるなら見たいなってちょっと思うかも」
「刑事ドラマでそれはないだろ」
「あるかもしれないじゃんかー」

電話の時間が短くなってそっけなくなったのは、直接こうして話すことが多くなったからだ。話すことは何も変わらない。明日の献立はなんだろうと考えて、思い至った。カレーだ。蓋をされたままのカレーの鍋がキッチンで自分たちを待っている。そうだ、早く帰ろう、二人の家に。




「うーん、やっぱり特に変わったところのない普通のルーだったに一票」
「名前でちょっと特別な感じ出てるからいいんだよ別に味はどうでも」

かちゃかちゃと食器を合わせる音が鳴った。カレーは、思ったよりも特別なところのない普通のカレーだった。溶けた人参のかけらを一かけら掬う。何も、溶けたのは野菜だけではない。同じになれなくとも共に過ごした時間は二人を似通わせていく。何年前に買ったかも思い出せないお揃いのスプーンに目線を落としながら、笠松は冷蔵庫に眠るシュークリームの存在をいつ彼女に知らせようと頭を巡らせていた。