夜が駆け出すよりも早く

恋の賞味期限は3年だというけれど、それが本当ならこの恋はもう少しで終わってしまうのだろうか。

高校3年生の夏というのはどうしたって感傷的になってしまう。勉学に集中するために体育のカリキュラムから外された水泳の授業しかり、せっかくの夏休みだというのに学校に足を運ぶはめになってしまった夏期講習しかり、あんなに毎日練習が嫌だ嫌だと言っていたのにいざ終わりとなると涙が止まらなくなってしまった部活の引退しかり。

大して執着していなかったはずのものが何だかとても大事なものだったような気がして、今更ながら一つ一つ確かめるように思い返してみても過ぎていってしまったものはどうやっても取り返せなくて、高校3年間で私が得られたものは一体何だったんだろうと振り返らずにはいられなくなる。振り返ったところで思いつくものはあの人の顔以外には何もないのだから仕方がないのだけど。

夏期講習中は授業終わりのチャイム鳴らないから、ついつい長く話しすぎちゃうんだよねえ。そんなことを言いながらパタンと教科書を閉じた先生が黒板に書かれた文字を消そうと背を向けた隙に、ふうと息を吐き出した。疲れた。朝9時にこの教室に来たはずなのに、もう時計の長針は11時の終わり頃を指している。あと15分もすれば昼休みの時間になる。そうすれば、がらんとした校舎と正門は部活終わりの生徒で賑わうようになるだろう。そうなる前に行かないと。

参考書と問題集が入った鞄を肩に引っ掛けて、正門ではなく裏手にある体育館をまっすぐ目指す。野太い掛け声がいくつも聞こえてくるコートをドアの向こうから覗き込むと、たくさんの部員に囲まれた笠松と目が合った。悪いと思いつつ手招きするとタオルで汗を拭きながらこちらへ歩いてきた彼に、鞄から引っ張り出したプリントを見せる。
「お疲れ様」
「おう」
「夏期講習で出たプリント、笠松が苦手って言ってた範囲だったから一枚もらってきたんだけどいる?」
「ああ。サンキュ」

にこりとも笑わずにプリントを受け取った仏頂面と、タオルで拭いても拭いても汗が滲んでくるらしい逞しい腕をまじまじと見つめながら思った。最初の頃は同じバスケ部ということで一方的に好意を持った私がどれだけ話しかけようと「ああ」と「いや」しか返してくれなかったのに、よくこうやって部活の合間にでも相手をしてもらえるようになったものだ。このお世辞にも爽やかとは言えない汗まみれの笠松の姿を見るのも、それに何故だか胸をときめかせてしまうのも、この夏でもう3度目になる。
「笠松たちは引退まだだっけ?」
「インハイあるし、冬になったらウィンターカップがあるからな。引退は当分先だ」
「受験もあるのに大変だね」
「まあな」

全然大変だと思ってなさそうに笠松が言う。その向かいでは3年生のいなくなった女子バスケ部が練習前の準備運動を始めていた。体育館の外から眺めている私に気付いてぺこりと会釈をしてきた後輩に小さく手を振って、タオルを首にかけて伸びをした笠松にもう一度声をかける。
「練習もう終わり?」
「あとストレッチしたら終わる」
「じゃあ待ってるから一緒に帰ろうよ」
「……いーけど」
「やった。このあと塾あるから駅行こうと思ってたんだけど中途半端に時間余ってたんだよね」
「まだ勉強するのかよ」

勉強するぐらいしかやることないんだよ、部活も引退しちゃったし残念ながらこれでも受験生なもんで。

ストレッチをしにコートへと戻った笠松の背中を見送ってから、スケジュールアプリを開いてぎっしり詰まった予定にため息をつく。来週の今頃は恒例の花火大会があるはずだけど、今年の花火はどうやったって見に行けそうにない。




花火大会の日は実力テストがあるし、せめてクラスの奴らで手持ち花火だけでもやらないか?そう声をかけてきた森山に二つ返事でオーケーしたのは、森山が言い出したってことはあの人も、笠松もついてくるかもと期待があったのに他ならない。そしてその期待は見事に的中した。

「受験はこの夏が勝負だ」と焚き付けられるがまま来る日も来る日も勉強漬けの毎日に、積もるものがあったのは私だけではないらしい。クラスの半数が集まっていようかと思われる公園はいつものあの寂れた姿とは全く違う賑わいを見せている。凄い。ここにこんなに人集まってるの初めて見た。ずらりと並べられた手持ち花火に目移りしてしまう。どれから始めようか悩んでいると、赤、青、黄、緑からピンクに至るまで、色とりどりの火花とそれを眺めてガヤガヤと盛り上がっているクラスメイトを遠巻きにするようにして、一人ぽつんと線香花火を見つめている笠松の姿が目に入った。

何でもないようなふりをして、花火を手に持った笠松に近づいていく。「きれいだね」なんて、ついありきたりなことを言いそうになってしまって口を噤んだ。

火花の散る手元がよく見えるように、笠松のすぐそばに腰を下ろす。いつもの練習着や制服じゃなくて珍しく私服に身を包んだ彼は、何を言うでもなくただ燃え盛る火を見つめている。こうして無言で二人で佇んでいると、まだピカピカの1年生だった頃、笠松にどれだけ話しかけてもろくに答えてもらえなかったあの時の気持ちを思い出した。手に持った花火がパチパチと爆ぜて燃え尽きた火がぽとりと地面に落ちる。その姿が自分と重なるような気がして、しゃがみ込んだ笠松の前に散らばる線香花火の一本に火をつけた。

高校生になって、バスケ部に入って、決して愛想が良いとは言えない笠松に恋をして、それからもう2年が経とうかというのに、一向に隣にあるこの手も握れた試しがないなんて。私の高校生活って何だったんだろうと思わずにはいられなくなる。一緒に恋をしたはずの友達が次々と幸せを掴んでいく間も、同じように部活に打ち込んでいたはずの笠松たちが念願叶って全国大会への切符を手にしたときも、ただひたすらに時間が流れていくのを眺めていただけだ。…あーあ。こんな風に思うならもういっそ、私のこの胸にしまっておいた想いも、このまま爆ぜて消えてしまえたらよかったのに。

一番初めに線香花火が地面に落ちるのなんかを見てしまったせいで他の手持ち花火をやる気にもなれなくて、気付けば私と笠松は二人でその場の線香花火のほとんどをやり尽くしてしまっていた。「花火の締めは線香花火だろ」と抗議するクラスメイトに適当な理由をつけて謝っておく。本当ならこのままカラオケでもファミレスでも行って引き続き皆で盛り上がりたいところだったけど、明日も朝から練習があると言って笠松と森山が帰る素振りを見せたから便乗してこちらも帰らせてもらうことにして、家までの道を三人で歩く。

途中の分かれ道で「じゃあオレこっちだから」と私たちとは違う方を指差す森山に手を振って、再び二人で歩みを進める。森山がいたときの3割ぐらいしか喋らなくなってしまった笠松の後ろで、必死に会話を途切れさせまいと知恵を振り絞る私に気づかないままどんどん歩いていく笠松に引き離されてしまわないように早足で歩いた。
「明日何時から部活なの?」
「8時半だな」
「早っ。私もうそんな時間に起きれないよ」
「現役の頃はオマエもやってただろ」
「そうだけど、もう現役じゃないし。男バスって皆ほんとにバスケ好きだよね」
「まあな」
「毎日練習して嫌になったりしない?」
「しねえよ。オマエだってバスケ好きだっただろ?」

毎日飽きずに練習してたじゃねーか。言われた言葉に足が止まった。急に立ち止まった私に不思議そうな顔をした笠松が「どうした?」と問いかけてくる。やめてよもう、そんな目で見てくるの。バスケ好きだっただろ?なんて、よりにもよってあんたに言われるなんて笑っちゃうんだけど。

笠松に言われるまでもない。どれだけ口では面倒くさいだの辛いだのと文句を言うふりをしてみせたところで、私はバスケが好きだった。笠松みたいにたくさんの人から称賛されるようなプレーはとうとう最後のときまで出来なかったけど、チームの皆でボールを追いかけるあの瞬間が好きだった。隣のコートでプレイする笠松の姿を、たくさんの部員に囲まれながら何故だか誰よりも輝いているような気がしたこの広い背中を、一番近くで見られるあの場所が学校中のどの場所よりも好きだったんだ。

どうせ何も残すことが出来ないならこんな想いも、成し遂げられなかった部活への執着も、全部まとめて爆ぜて消えてしまえればいいと思っていたのに。この男のことだからどうせ何の気なしに思ったことを言っただけだろうと分かっているのに、どうしようもなく胸が締め付けられる。そうだ。私は笠松の、どうしたってバスケばかりで、一向に私にはバスケ以上に興味を示さなくて、返ってくる言葉はいつも私よりも短くて、だけどそんなところが1年生の頃からずっとずっと好きだったんだ。

止まっていた足をもう一度前へ向ける。「何でもないよ」と笑顔を作って言ってやると「ならいいけどよ」と返事が返ってきた。本当は何でもないわけないけれど、それを言うのは今じゃない。日付が変われば、笠松達はまた相も変わらず部活で汗を流すんだろう。それを一番近くから見ることはできなくなってしまったけれど、それでもまだ、消えずにいてもいいというのなら。もう少しだけ、諦めさせないでいてほしい。
「ねえ笠松、来週の水曜空いてる?」
「……来週の水曜?」

鞄からスマホを取り出して予定を確認した笠松が「部活あるわ」と答えたのに「知ってるよ」と返す。全国でも屈指の強豪校の海常男子バスケ部の練習が毎日あることなんてとっくの昔から知ってる。私が聞きたいのはその後だ。
「部活終わりでいいからさ、駅前に出来たラーメン屋さん一緒に行こうよ」
「おう。また学校来るのか?」
「今度は数学の講習あるみたいだからさ」
「オマエも勉強ばっかして飽きねーのな」

勉強なんかとっくの昔に飽きてるし、何ならその数学の講習の範囲はこないだ塾の夏期講習で勉強したところだし、部活も引退したのにこうやって飽きずにろくにクーラーも効かない高校の教室に足を運んでるのは来る日も来る日も体育館で一生懸命練習してるあんたがいるからだし。
「笠松」
「……なんだよ」

夏休みが終わっても、毎日会える口実だった部活がなくなっても、せめて3日に1回、いや、週一だけでもいいからこうしてまた一緒に帰ってくれる?

振り返った仏頂面に向かって言いかけた言葉は、来週の水曜日、7月29日まで取っておくことにする。

たとえ恋の賞味期限が3年しかなくたって、私は大丈夫。これ以上長い間、片思いに甘んじるつもりはさらさらない。だってこの夏は、…私の高校最後の夏は、燃えるような想いを秘めたこの恋は、まだ始まったばかりなんだから。

Happy Birthday 2020
笠松先輩おめでとうございます!
あなたが私の永遠の推しです