夜明け前には

高校三年生、冬。スポーツ推薦で誰よりも早く進学先を決め受験とは無縁の高校生活を送るのだろうと思われていた笠松たちバスケ部の面々は、バスケから離れた後それぞれの目指す学校に向けて本腰を入れて勉強を始めた。センター試験の日は今でも覚えてる。雪が降っていて、道路は踏みしめた足跡がはっきりと分かるほどで、ポケットに手を入れて隣りを歩く笠松は「さみーな」なんて言いながら早足でずんずんと歩みを進めていた。私はそれを見ながら、昨日覚えたばかりの英単語を頭の中で反芻して笠松の背中と揺れるマフラーをぼんやりと見つめていた。ような気がする。このとき笠松が何かを言っていた気がするけれどそれはもう思い出せない。「頑張ろうな」とか「緊張しすぎじゃねえの」とかそういう感じの言葉だったような、まったく別のことを口にしていたような。記憶はいつだって曖昧だ。かつての風景を頭に思い浮かべるとき、それが本当にあったことなのかなかったことなのかなんてもう誰にも判断出来やしない。笠松幸男と過ごした時間は確かにあるはずなのに、ぼんやりとした霧がかかったまま、あのとき彼が何を思っていたのか、私はそれに何と応えたのか、反芻出来ないでいる。目に痛い辺り一面まっしろの雪景色は今でもはっきりと思い出せると言うのに。

センター試験が終わり寒さに震えながら家路についたあと、なんとなく連絡を取る気分にもなれなくて、ただただ勉強に没頭するしかなかった私と笠松の距離が開いていったのは至極当然のことで、ろくに挨拶も交わさなかった卒業式の次の日、風の噂で笠松の進学先が決まったと聞いた。そしてそれから少し遅れて無事に大学へのチケットを手にした私は、笠松とは別々の大学を選択した。神奈川を離れて地方に行くと言った私に、久方ぶりの連絡を寄越した笠松は「おう」と言うだけ。そんなもんなんだろう。慣れていたのか、予想がついていたのか、あまりショックは受けなくて。しばらくの沈黙の後、「別れようか」と言ったのは、私の方だった。

『海常高校OBOG集合!』なんて題名とともに同窓会の知らせが舞い込んできたのは、高校を卒業してから1年と半年。ようやく新生活にも馴染んできた頃だった。卒業してからさほど年月も経っていないというのに、もう同窓会を企画した気の早い人物がうちの学年にはいるらしい。参加予定者は手を挙げろと言われて、スマートフォンを片手に一人困った。神奈川から離れて知り合いもろくにいない私にとって、これは一度に多くの懐かしい面々と再会を果たすまたとないチャンスだ。だけど迷った。気がかりが一つだけある。

だって、海常高校にはあの男がいる。

笠松幸男は私の元カレだ。いや元カレと呼べるものだったのか、今となってはそれすら怪しい。だって恋人らしいことなんて何一つしてこなかった。今向かいのテーブルでビールのジョッキを掴んでいる笠松のその手に触れたことは一度もないし、彼から触れられたことだって一度もない。どうせ別れてしまうならキスの一つでもしてしまえばよかったのに、そうしたら少しでも思い出に残ることが出来ていたのにと今なら思う。でも私はどうしても笠松の領域に踏み込んでいくことが出来ず、また彼を自分の近くに置いておくことも出来ず、結局は独り相撲のような形で終わりを迎えることとなってしまったのだ。




一次会がお開きになって、二次会のカラオケボックスに移動するまでに参加者の人数は半分近くになっていた。一人二人と駅の方角へ消えていく人ごみに紛れ込んでしまおうと試みるも失敗に終わり、仕方なくマイクを握って歌うはめに。というより酔っぱらった友人数人に離してもらえなかったのだ。強制的に連れられてきた形に近い。時刻はとっくに夜中の12時を回っていて、もう3時過ぎだ。「朝まで歌うぞ」と意気込んでいた主催者数名はアルコールが回ったのか開始後2時間も経つと全員ソファに倒れ込んでしまった。…だから来たくなかったのに。まだ始発の時間まで2時間はある。どうしたものかととりあえず部屋の外に出てみると、ちょうど隣りの部屋で歌っていたはずの笠松幸男と出くわした。空になったコップを手に持っている辺り、ドリンクの補充をしにきたんだろう。すこぶるタイミングが悪い。無視するのも変だと思って軽く会釈をすると、笠松は小さめの声で「……起きてたのか」と言った。私も同じように小さな声で「うん」とだけ返事をする。
「寝ねえのか?」
「周りの音うるさすぎて寝れない」
「だよなあ」
「笠松も?」
「ああ。あと2時間どうするかだな」

何となく皆が寝こけているであろう自分の部屋には戻りづらくて、ドリンクをコップに注ぎ終えた笠松の後ろを着いていくと自分の部屋と同じように何人もの人間が眠りに落ちていた。どうやらこっちの部屋で起きていたのは笠松だけだったらしい。ソファに転がる人たちを踏みつけてしまわないよう気をつけながら、笠松の隣りに腰を下ろす。部屋が狭いせいで距離が近い。皮肉なことに、かつて付き合っていたどの瞬間よりも近い距離から私は笠松の横顔を眺めることとなってしまった。

何かドリンク持ってくればよかったかなぁ。ストローから飲み物を啜る笠松を見てそう思った。私の視線に気づいた笠松が「何か歌うか?」とリモコンをこちらに寄越す。それを受け取りつつも「やめとく」と断りを入れた。こんなところで歌ったら、絶対誰か起きるに決まってる。そうなると面倒だ。仮にも私と笠松は女と男で、しかも一時とはいえ付き合っていた間柄なんだから。勘ぐられると後々に響くだろう。そんなこと微塵も考えてなさそうな笠松は、少し酔っぱらっているんだろうか。うっすら頬を染めて無言でストローを啜る笠松は私が思っていたよりも饒舌で、そして少し距離が近い。私は気づかれないように笠松から少し距離を離して、一曲も入力されずひたすら誰か知らないアーティストのPVを流し続けるテレビ画面に目をやった。笠松は、コップをテーブルの上に置くと相変わらず無言のままカラオケの機械をいじくり回している。
「オマエさあ」

ああでもないこうでもないと機械をいじくり回していた笠松がおもむろに声を上げた。
「彼氏、いるんだろ。向こうに」
「うん」

何で知ってるの、という顔をしてたんだろう。私が口にする前に、振り返って私の顔を見やった笠松は「森山から聞いた」と付け足した。
「……どんな奴だ?」
「どんな奴って」
「そのまんまの意味だよ」
「……んー。分かんない」
「はあ?」
「優しい人だよ。多分」
「なんだそりゃ」

なんだそりゃは私の台詞だ。
「笠松は?彼女。一人や二人出来たんじゃない?」
「いねえよ」
「嘘だ、モテるでしょ」
「別に」

実際高校生のときから笠松の女子人気は密かではあれ確固たるものであったことを私は知っている。笠松自身が女子とあまり関わらないせいで表立ってアプローチをしかける女子生徒がいなかっただけだ。そこにたまたま森山を介してよく話すようになった私が現れて、隣りのポジションに納まったというだけの話。私でなくとも、黄瀬くんの絶大な人気の裏でキャプテンとしてバスケ部を引っ張っていた笠松幸男の隣りに立つことを熱望する女子はたくさんいたのだ。あの人気が大学に入って衰えるとは到底思えない。

知らなかった。笠松がこういう風に、クラスや学年の行事にきちんと参加するタイプだってことも、女子がいる場でも普通に振る舞えるようになっているということも、バスケ以外の話でも饒舌になれるっていうことも。笠松はこの1年と半年で大きく変わった。じゃあ、私の1年と半年は?勉強して、バイトも始めて、好きだって言ってくれる人だって現れて、彼氏になって、お酒も飲める年になって、オシャレもメイクも頑張ってる。だけどそれが一体何だったっていうんだろう。

だって私の町に、私の隣りに笠松幸男はいないのに。

あれだけ真面目に勉強してやっとの思いで入学した大学は思い描いていたほど新鮮な場所というわけでもなく、ただバイト先と大学とを行き来するだけの味気ない毎日だった。思い出されるのは高校三年生の夏、ボールばかり追いかけて私を置いてけぼりにした笠松の背中ばかりで。そういうところが好きだったけど、そういうところが一番嫌いでもあった。私を捕まえておいてほしかったし、笠松をずっと繋ぎ止めておきたかったのに。今更未練がましくて笑える。だけど、忘れられないものはもうどうしようもないじゃないか。
「……先に帰らねえか?」

沈黙を破ったのは、またもや笠松の方。ぽつりと呟いた言葉に首を傾げると、笠松は狭い部屋をぐるりと見回して「他の奴ら起きる気配ねえし、代金置いといたら大丈夫だろ」と続けた。つまりは、二人だけ先に帰ってしまおうと言っているのか。
「でもまだ始発出てないじゃん」
「どっかで時間潰せるだろ」
「……本気?」
「冗談に見えるか」
「全然」

首を振ると、「またすぐ向こう帰るんだろ」とぽつりと呟いた笠松に目を見張った。「……寂しい?」ほんの少しふざけたつもりで聞いてみたのに、「まあな」と返ってきて椅子から転げ落ちそうになる。けれど、笠松の表情は真剣そのもので。どくどくと鼓動が早くなっていくのを感じる。
「……別れよって言ったときあんなにあっさりしてたくせに」

思ってもみない言葉をぶつけられ、頭での処理が追いつかずつい責めるような口調になってしまう。心臓を押さえつけて、精一杯平静を保つ。だけど笠松は頬を掻くとぶっきらぼうにこう言った。
「オレだってオマエのこと何とも思ってなかったわけじゃねえよ」

じゃあどういう風に思ってたの、教えてよ。早くなりすぎた鼓動でいよいよ胸が張り裂けそうになる。思い出ばかりを胸に抱いて生きるのは、もうたくさんだ。そう続けたかったのに、突然引かれた手に気を取られて何も言えなくなってしまった。

記憶はいつだって曖昧だ。かつての風景を頭に思い浮かべるとき、それが本当にあったことなのかなかったことなのかなんてもう誰にも判断出来やしない。高校生の笠松が私のことをどう思っていて、どんな風に接してくれていたか、もう今更分かることなんて出来ない。だから大切なのは今のこのときで、今の私が、今の笠松に、どうしてほしいか。どういう風にしてあげたいか。それがすべてだ。分かってる。分かってるけど、あと一歩だけを踏み出すことがどうしたって出来そうにない。カラオケ店のドアを開けた笠松が目線を寄越す。凛とした目は高校生のあのときと何も変わっていない。……始発の時間まで、あと1時間だ。
「笠松」

呼ばれた彼が振り返る。手はまだ握り返せそうもないけれど、名前を呼んで、目を合わせて、そしてあと一言。あと一言だけが、ほんの二文字が、喉につっかえて出てこない。言いたいことはたくさんあるのに、思い出したいことも、覚えておきたいこともたくさんあるというのに。どうにもうまくいかなくて全部を飲み込む。
「笠松」

もう一度名前を呼んで、大きく息を吸い込んで、そして。決定的な一言を、これから私を攫ってくれるであろう彼に、渾身の一撃をお見舞いするために息を吐き出す。……どうしてだろう、朝日がやけに目に染みた。