君の街まで

反対側のホームへと流れていく人混みを見つめ、最終電車の出発時刻が表示された電光掲示板へと視線を移しながら笠松幸男は少し離れた街に住む恋人のことを考えていた。


終電間際の横浜方面行きのホームは家路を目指す人たちでごった返しているが、笠松が立っている東京方面へ向かう電車のホームには人はまばらにしかいない。ほどなくして各停電車がやって来て、誰も座っていない4人掛けの椅子へ腰を下ろした笠松は閉まったドアにほっと一息をついた。

弱冷房車はほんのりと涼しい風が吹き、そして、先程までのホームの生暖かい空気が少しだけ残っていた。風呂に入って汗を流した体が再び汗ばんでいくのを感じ、首元を掴んでぱたぱたと煽いでみたものの、最終運行となった列車の冷房が強まる気配はない。これから向かう部屋に着替えは何着置いてきただろうと想いを馳せてみたが、何如せん最後に訪れたのは三ヶ月前だ。もう記憶は朧げだった。長袖のパジャマは一緒にショッピングモールに行ったときに買ったものがあった気がするが、半袖はどうだっただろうか。いささか不安になり彼女に連絡を入れようと思って正面に抱えたバッグからスマホを取り出しかけて、やめた。

ホーム画面に表示された時刻は7月29日の0時5分を示している。

モデルとしてもバスケットボールプレイヤーとしてもノリに乗っているあの後輩とは違って、笠松は誕生日や記念日などには特に頓着しないどちらかといえばドライな男だと自負していた。もう25回目の7月29日が訪れても、スマホが震える度に受信するメッセージをいちいち確認したりはしないし、貰えるかどうか分からないプレゼントに一喜一憂したりもしない。キリスト教徒ではないからクリスマスは恋人と会わなくても何とも思わないし、その恋人と初めてキスをした日付は忘れてしまった。告白をされて付き合った日のことは何となく覚えているが、改めて確かめる機会もないのできちんとした日付までは定かではない。これで彼女がそうしたことにこだわるタイプであれば大きな軋轢を生む原因になっていたかもしれないが、きっと彼女も同じだろうと思った。現に7月29日を過ぎても彼女からのメッセージは笠松のスマートフォンには届いていない。

いつも通勤で使っている快速電車に比べて、各駅停車で進む電車に乗っている時間は随分と長く感じられた。窓の向こうの家々の明かりがゆっくりと通り過ぎていく。ガタガタと音を立てる電車に一人揺られながら、彼女の住む街はこんなにも遠かっただろうかと笠松は考えた。それから、これから会いに行く恋人と初めて付き合った日のことを思い出していた。

部活終わりの二人きりの部室でグレーの制服と正反対の真っ赤な顔をしながら笠松の瞳をじっと見つめて「好きです」と言ってきた彼女は今よりも幾分か幼く、髪はいつもポニーテールにしていて、まだ化粧もしていなかった。ぼんやりと頭に浮かんだその顔とアイコンに写っている顔を見比べてもう随分と一緒に同じ時間を過ごしてきたのだと思い知る。高校生のときは日付が変わるまで携帯を握りしめて0時ぴったりにメールを送ってきていた彼女とも、社会人となった今では誕生日当日であっても仕事を優先して会わないこともあるほどに二人の関係は大人びたものに変わりつつあった。後輩に言わせれば「マンネリ」なのかもしれないが、笠松は決して彼女のことが嫌いになったわけではなく、むしろ大切に思っていた。彼女もそれを分かってくれた上でのこの距離感であればいいのだが。

5駅分駅を通り過ぎたところで、通知が一件増えた。さっきまで眺めていたアイコンの隣に『誕生日おめでとう』のシンプルな文字が表示されている。すぐに既読を付けると不審に思われるだろうかと少しだけ考えてから、数秒置いてトークルームを開いた。
『まだ起きてるか?』

さっと文字を打ち込んでから再び窓の外に目線を移す。ちょうどスマホを見ていたところだったのか、彼女の返信はとても速かった。
『起きてるよ! どうしたの?』
『今から行く』
『えっ!?』

笠松の打ち込んだメッセージによっぽど驚いたのか、クマのキャラクターが慌てたスタンプだけが返ってきて思わず笠松は少しだけ笑みを漏らしてしまった。無理もない。これまで誕生日を祝われようとあまり喜ぶ素振りを見せなかった笠松が、甘い言葉や態度を取るのが苦手な笠松が、『誕生日に一番に会いたくなったから』という理由で10駅は離れた彼女の家まで、こんな夜中に会いに行こうとしているのだから。

ゆっくりと進んでいくほぼ無人の電車に揺られながら、自分と彼女の家を行き来するために電車に乗る以外の手段がないことを笠松はもどかしく思った。もう少し貯金が貯まったら、それを元手に車を買おう。彼女も運転できるようにあまり大きすぎない車がいい。そうしたら、終電の時間を気にせずに恋人に会いに行ける。時折やってくるどうしようもないほどの衝動を押し殺さずとも、二人で朝まで温め合うことができる。まさか自分がこんな風なことを考える日が来るなんて、と感慨に耽りながら、笠松は彼女の住む家の最寄り駅のホームへと降り立った。

通い慣れた道のりを月明かりが照らしている。彼女の住むアパートまでの道を脇目も振らずにずんずんと進んでいった。階段を登ってドアの前に立ち、呼び鈴を鳴らしかけて手を引っ込める。今が深夜だということに改めて思い至り、近所迷惑になってしまうのではないかと考えたからだ。

『着いたぞ』とメッセージを送るとその瞬間にドアの向こうからバタバタと慌ただしい音がして、見慣れた顔がひょっこりと顔を出した。そのまま玄関へと迎え入れられ、開け放たれたリビングのドアの向こうから吹いてくる冷たいクーラーの風が身体を冷やしていくのを感じる。笠松の首筋を伝う汗を見た彼女が「暑かったでしょ。シャワー浴びる?」と言った言葉に「ああ」と頷いた。
「珍しいよねぇ幸男がこんな時間にうち来るなんて。残業とかしてたの?」
「……いや、今日は家から来た」

どうしても会いたくなって、と言いかけた口を噤んでそそくさとバスルームへと向かう。電車に揺られながら何度もシミュレーションをしたはずなのに、いざ口にしようとすると気恥ずかしさが勝ってしまった。後ろで彼女が「ええっ」と驚いた声を上げているのが聞こえる。珍しいことをしているという自覚はもちろんあったが、改めて意識してしまうと彼女の顔を真っ直ぐに見れる自信がなかった。

シャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かして、ついでに歯磨きも済ませてから脱衣所を出ると、既に時計の針は25時のあたりを差していた。夏服は一着だけ彼女の部屋に置いてあったようで、それに袖を通すと彼女が使っている柔軟剤の匂いがした。既に風呂を済ましていたらしい彼女はもう眠ってしまっているだろうか。寝室を覗いてもクーラーの効いた部屋に彼女の姿はなく、リビングへと足を向ける。すると彼女はソファに座って雑誌を読んでいた。ソファの空いた方のスペースに腰を下ろし麦茶の入ったコップへ手を伸ばして、ごくりと喉を鳴らして流し込む。それからそろりと手を伸ばして雑誌を持っていない方の彼女の指を握った。

隣に座る彼女の指や肩は驚くほど頼りなく、華奢で、それでいて触れ合った指は暖かかった。この暖かさが好きだと思った。笠松は元来恋人相手であろうとも甘い言葉を頻繁にかけるタイプの男ではなかったが、今日ばかりは、いや今日だけは、そうしてやりたいと心から思った。手を握られたまま機嫌良さげに笑った彼女は笠松が今日一番に聞きたいと思っていた言葉を口にする。
「誕生日おめでとう」
「ああ」
「もう寝る?」
「おう。……オマエは?」
「私も歯磨きしたら寝ようかな。幸男先にベッド行ってて」
「分かった」

どうして訪れてきたのかをあえて聞いてこない彼女の、こうしたときの察しの良さが何よりも有難いと思った。そういった彼女だからこそ、笠松は会いに行きたいと感じたのだ。少しの心細さと愛おしさを抱えて。
「せっかく幸男が来てくれたんだし、今日仕事休んじゃおうかなぁ」

いそいそとベッドへと入ってきた彼女がからからと笑う声がする。どう返答すべきか迷って、彼女の背中に腕を回して肩に頭を埋めながら、笠松はそうなったらどれだけいいだろうと考えた。実際は今日も明日も仕事は山積みになっていて、とても当日になって休めるような状況ではないということは笠松ももちろん承知の上ではあるのだが。
「会議入ってるって言ってなかったか?」
「来週に延期になったんだよ」
「……そうか」
「言ってくれたら先に有休取っといたのに。来年はちゃんと最初から休み取っとくからね」
「ああ」

当たり前のように来年の7月29日を約束されたことを嬉しく思った。そして、これまでろくに愛の言葉を口にしてこなかった自身の経験値の少なさを恨めしく思った。こうしたときにスラスラと気持ちを口にして伝えることが出来ればどれだけ良かっただろう。まあ、きっとそれはそれで彼女は『幸男らしくない』とおかしそうに笑うのだろうと考えを巡らせながら笠松は布団の中でこっそりと決意を固めた。

朝が来て眩しい光に目が覚めたら、今日くらいは、照れずにちゃんと「好きだ」と言ってやろう。好きだからこそ会いに来たのだと、出来ればこれからはもっとこの街に慣れていきたいと、各停に揺られて恋人のことを考える時間は決して悪いものではなかったと、目を見てきちんと伝えてやりたい。その言葉を伝えたときの彼女の反応を思い浮かべるだけでくすぐったいような気持ちになって、回した腕の力をぎゅうと強める。「苦しいよ」と笑う彼女の声に聞こえないふりをして、涼しい布団と彼女の暖かさを感じながら、笠松は通算25回目の7月29日の眠りへと落ちていった。

0729 HAPPY BIRTHDAY Yukio Kasamatsu

Inspired by ASIAN KUNG-FU GENERATION/君の街まで