電気を消して待っていて

※大学生設定


「嫌いだ」なんて口が裂けても言えないけれど、「好き」なんてそれ以上に、それこそ口が裂けて喋れなくなってしまったとしても言えそうにない言葉だった。それをあの男は分かっていない。だから易々と口に出来るんだろう。言われたところで今更どうってことないんだけれど、少しモヤッとしてしまう。

机の上に並べられたビールの缶と、脱ぎ捨てられたままハンガーにかけられることもなくしわくちゃになってしまっている上着と、部屋の隅へ追いやられた教科書の類いが視界に飛び込んでくる。床に転がる男を見つめてため息をついた。ビールはあんまり好きじゃない。これが好きなのは私でなく、黄瀬だ。今日は一体何から逃げてきたのか、それとも逃げられたのか、私はまた風呂を貸すことになるんだろうか。断るに断れないのは、いわゆる惚れた弱みというやつ。こんな奴に弱みを握られるなんて、腹立たしいったらありゃしない。首筋にかかる色素の薄い髪をぐしゃぐしゃに乱してやった。それでも起きる気配を見せない黄瀬は、...私のことを何とも思ってないようにしか思えない。ここはあんたの家じゃないんだぞ。聞いてんのか。おい。おい黄瀬。おいモデル。別にいいんだけど、期待するだけ無駄なんだけど、夜中に突然電話かけてきて「今日泊まっていいっスよね?」なんて言われるのも慣れたし、飲み会終わりに潰れた黄瀬の介抱をするのもいつの間にか私の役目になっていたし、叩き出されても懲りずに何度も電話をかけてくるのも、一緒の部屋で寝ることにも、慣れた。さも当たり前かのように我が物顔で居座られるのはさすがに腹が立つけれど。わざと大きく音を立てながら部屋の片付けを始めると、ようやく黄瀬が目を覚ました。なんと遅いお目覚めだろうか。
「……あれ??」
「おはよう黄瀬」
「んー……」
「………」
「………」
「二度寝の体勢に入るイコール顔にビールぶっかけてもいい、と見なすけど」
「それだけはやめてほしいっス」

この男を客としてもてなすつもりは毛頭ない。半身を起こした黄瀬にまだ少しだけ中身の残っているビールの缶を押し付けて、掃除を再開した。中身の入っていない缶を潰して、ビニール袋の中に放り込む。まだ寝ぼけているのかぼーっとしたまま動こうとしない黄瀬に一瞥をくれてやると、のろのろと動き出した。まずは顔を洗いにいくらしい。説明しなくても真っすぐ洗面所へ向かっていく背中を見つめてもう一度ため息をついた。タオルを顔に当てた黄瀬が戻ってくる頃には、この掃除もあらかた終わってしまっているだろう。帰る前に食器洗いでもさせてやらないとな……。さっき私が渡した飲み残しの入っているビールの缶を片手で掴み、缶を握りつぶしながらそれを飲む黄瀬の喉仏が動くのを何とも言えない気持ちで見ていた。髪についた寝癖もなくなっている。「ぬっる」当たり前だ、あんたが昨日全部飲みきらなかったんだから。
「今度は何したのあんた。また二股?」
「二股じゃないっスよ。そもそも付き合ってなかったし。あとまたって言うのやめて」
「じゃあ何だっての」
「勝手に期待されて勝手に泣かれた感じって言ったらいいんスかね?」
「その言い方は女の子が可哀想だと思うけど」

心臓が少しだけ痛くなった。大方予想もつく。こうして宿代わりにされたんじゃ、私のこと好きなんじゃないの、とか思ってしまう人がいても仕方ない。ただでさえルックスがいい黄瀬のことだ。勝手に期待されて、って言っても期待させてしまうような振る舞いをするこの男にも非があるんじゃないのか。そのつもりもないなら期待させるようなことしないで、と、言ってやりたい気分だった。言わないけれど。私だって本当はその女の子たちと一緒なんだよ、と言ったらどういう顔をするだろうか。おおよそ予想はつくけれど、もう来てくれなくなるんだろうなぁ。
「黄瀬の好きってやつはさぁ、薄っぺらいんだよ。だからいざこざが起こるの」
「へ?」
「ほいほい簡単に好きって言うじゃん、昨日とかもそうだったし。勘違いされても仕方ないよ」
「でもオレのこと好きだし」
「はいはい」
「あーその顔。信じてないっスよね?」
「大学一のプレイボーイが何を言うんだこのバカ」

嫌いじゃない。むしろ好きだ。とても好きだ。無表情を保つのが大変なくらいには、好きだったりする。たとえ本人はタダで泊まれてラッキーくらいにしか思っていなかったとしても、たくさんいる中で私を選ぶ理由が大学から一番近いからだという理由だけだったとしても、会いにきてくれて嬉しいとか、少しは特別に思われているんだろうかとか、いちいち期待したくなってしまう自分を呪った。ついでに黄瀬も呪いたくなった。多分私は恋愛に向いていない人間なんだ。小さいことで振り回されてばかりで、自分でも馬鹿みたいだと思う。やめられたら楽なのになぁ。黄瀬が薄っぺらい「好き」を口にする度に心臓に針が刺さる。聞きたくない。そんな風に、言ってほしい言葉じゃないのに。また黄瀬が口を開こうとしているのを横目で見ながら、缶を集める手を休めることなく動かしていく。叩き出すタイミングを完全に見失ってしまったことに気付いて心の中で笑った。やっぱりこれも、惚れた弱みというやつか。形のいい唇が考えを巡らせているかのように形を変えるのを、何も言わずにじっと見ていた。
「そういやから聞いたことってなかったっスよね」
「何を?」
「好きって」

驚きすぎて言葉も出なかった。噴き出しこそしなかったけれど、持っていた缶を中身ごと握りつぶしてしまったせいで手とテーブルに飛沫が飛んだ。うわ、こんなことなら早く片付けとけばよかった……。ティッシュどこだったっけ。探すよりも早く、タオルが差し出された。視界に入った手はとても綺麗な手をしていた。黄瀬の手だ。未だに一度も触れたことのない、まっさらな黄瀬の手だった。「ありがとう」とりあえずお礼を言ってみたけれど、ふと思い至る。ここは私の家だ。私だけの城なはずだ。でも、タオルの置いてある場所まで把握されているとなると、いよいよここは本当に私の城なのかと疑いたくなる。馴染みすぎだろうに。手とテーブル、そして濡れた缶を拭く間、黄瀬は何も喋らなかった。握ったタオルから少しだけ香る酒の匂いに、顔をしかめる。さっき黄瀬は何て言ったっけ。好きって、いや、好きって、うん、まぁ、好きなんだけど。好きでしょうがないんだけど。
「え、あ、……どうしてそうなった?」
「だってオレのこと好きでしょ」

開いた口が塞がらないとはまさしくこのことか。私が黄瀬を好きだというのはこの男の中での決定事項のようで、疑いのない瞳ですらすらと出てくる言葉に反論の余地もない。正解だ。大正解だ。文句なしの花丸パーフェクト。……でも、認めたら、ここで終わってしまうような気がした。
「何とも思ってないどーでもいい男を家に上げるほど馬鹿じゃないでしょ?はさぁ」
「……あ、当たり前でしょ。あんたとは違うんだから」
「オレだって違わないっスよ」
「違うよ」

思わずきつく言ってしまった。私だって同じなんだ。勝手に期待して、勝手に失望して、勝手に笑って、勝手に泣く黄瀬の周りの女の子たちと、何も変わらない。受け容れられずに悲しみに暮れる女の子を何人も見てきた。受け容れることができない自分が悪いのかと少しだけ思い悩む黄瀬の姿も、何度も見てきた。その度に、プレイボーイというのは噂が一人歩きしただけなのかなぁ、本当は真っ直ぐな奴なのかなぁ、と思ったりもした。それでも到底言えっこなかったのは、やっぱり受け容れられないことが怖かったからで、
「オレは好きじゃない子の家に頻繁に上がりこむほど無神経な男じゃないっスよ」

こうして関係が崩れるくらいなら最初から何もしない方がいい。何もしないで、このまま黄瀬が私を必要としてくれるなら、好きになってもらえなくてもいい。なのに黄瀬はそれを壊そうとする。やっぱり呪っておくべきだったし起きた瞬間に叩き出しておくべきだったか。今更遅いんだけども。
「……またそんな調子のいいことばっかり言って」
「でも本心だから。も嫌々オレに付き合って飲んだりしてるわけじゃないでしょ?冷蔵庫にいつもビール置いてたりタオル一人分多く用意してたりするのがその証拠っスよ」
「や、あれはあんたがビールないとテンション下がるとかタオルがどうのこうのってうるさいから……!」

しまった。これじゃあ生活の主体が黄瀬ですと言っているようなものじゃないか。「勝った」と言わんばかりに口角を上げた黄瀬が距離を詰めてくる。片耳につけたピアスが目に入った。わ、私に興味がないからこそ毎週のように訪ねてきているんじゃなかったのか。ひょっとしてからかわれてる?確かめたいのに、声が出ない上に視線もそらせそうにない。黄瀬相手に緊張してるって、何の力も入らないって、そんな馬鹿な。
「ね、。言って?」
「……口が裂けるから言わない」
「裂けないって。別に何ともならないから大丈夫っスよ」

もう逃げることもできなさそうだ。私は、黄瀬みたいに軽く好きだと言葉にできるような人間じゃない。とても重いのだ、受け止められないかもしれないくらいには。何でこうも執拗に言わせようとするんだ。なんかもう涙出てきた…。からかうんなら別の子にしてよ。言ってやりたいのに、「」こんな近くで呼ばれたら、……なし崩しだ。後でひたすら食器洗いさせてやる。
「好き」

目を瞑って、両手を握って、歯を食いしばって、次に来るであろう衝撃に耐える覚悟を決めた。しかし何も起こらない。何秒経ったって黄瀬が私にトドメを刺そうとする気配がないことを不思議に思い、ゆっくりと瞼を押し上げる。確かに何も起こらなかった。何も起こらなかったけれど、何も無かった訳でもないみたいだ。そこにあったのは、目を細くして馬鹿みたいにくしゃくしゃな顔で笑う黄瀬、それこそ、とてもモデルとは思えないくらいに破顔する黄瀬と、馬鹿みたいに全身に響いてうるさい心臓の音だけだった。
「ね?別に何ともなかったでしょ」

何ともなかったわけあるもんか。こんな気持ちにさせておいて、何ともなかったはずがないじゃないか。そう言ってやりたいのに何故だか何も言葉が出てこなかった。まさか本当に口でも裂けてしまったのか。確かめたくて仕方がないのに指先がしびれてどうしようもなくなった。黄瀬は頬を緩めたまま「オレも好きっスよ」なんて言って、私の頬に手を伸ばしてくる。黄瀬が名前を呼んだ。「」聞き慣れているはずだったのに、黄瀬の声なのに、心臓はずっとずっとうるさいままだ。あんまり腹が立ったので、緩んだままの頬をひっつかんで左右に引き伸ばしてやった。部屋から叩き出す必要はもうないだろう。冷蔵庫に残ったビールは後何本だったかと考えを巡らせて、途中で面倒くさくなって、無駄に広い胸板に頬をくっつけてみた。じんわり顔が熱くなる。聞こえてきた鼓動が少し速い理由が私のものと同じであることを、ただただ願うばかりであった。