Puppy love

軽薄。不真面目。生意気。博愛主義。

そのどれもが黄瀬に当てはまる言葉だった。


休日はいつも違う女の子とのデートの予定が入っていて、部活は平気でサボるわ遅刻するわ、なのに練習試合になると「オレいないと勝てないっスよね?」なんて平気な顔で言い出して、たとえ相手が先輩であろうと自分がこのチームのエースだと言って憚らない。どんなときも女の子からの黄色い歓声は笑顔で受け止めるし、当たり障りなく誰とでもチームを組めるけれど、その中の一人に目を向けることは決してない。そんな男だった。

誠凛との練習試合を経て少しは真面目に練習に取り組むようになったようだけれど、いくら心を入れ替えたからといって人の性質はそう簡単には変わらない。バスケ以外の部分では、相変わらず黄瀬は軽薄で、不真面目で、生意気で、そして博愛主義な男だった。


黄瀬の恋愛遍歴は聞かされずともよく知っていた。別れるだの付き合うだの浮気しただのやっぱり好きだのと、毎日毎日飽きもせずに繰り広げられる黄瀬と女の子との痴話喧嘩は、大抵男子バスケットボール部の部室前で行われていたからだ。
「どうせ私のことなんて好きじゃないんでしょ!」

そう甲高い声で叫ぶ女の子に、グーでポカポカと殴られている黄瀬の姿を見かけたのも一度や二度ではない。何度目かの光景が、今日も部室前で繰り広げられている。見てるこっちが気まずいし、ここでやらないでほしいんだけどなぁ、と思いながら遠巻きに黄瀬と女の子との痴話喧嘩を眺めていると、ワッと泣き声を上げた女の子がバタバタと足音を立ててどこかへ走り去ってしまった。ようやく静かになった部室の前で、私に気付いたらしい黄瀬が困り顔を浮かべながら言う。
「なんで女の子って、『好き』とか『愛してる』って言わないと怒るんスかね?」
「知らないし。私に聞くよりあの子に直接聞いてきた方がいいでしょ。……もうすぐ部活始まるから、顔冷やしてきたら?」

そう促した黄瀬の頬には真っ赤な手の跡がついていた。遂には頬まで殴られてしまったらしい。曖昧な気持ちで女の子と付き合っていた黄瀬にも責任の一端はあるとはいえ、せっかくの綺麗な顔にくっきりともみじの跡をつけているのはどうにも締まらないなと思ったものだった。

――話を戻す。そんな来るもの拒まず去るもの追わずだった黄瀬がいつからか、女の子からの告白を「好きな人がいる」という理由で断るようになった。これまでは交際相手がいない場合は二つ返事で受け入れるか、断るにしても「今は考えてないんスよね。そーゆーの」とか「気持ちはありがたいんスけど……」とか、遠回しな表現を用いて相手が余計に傷つかないようにやんわりと断りを入れていたのに、あるときを境にはっきり意中の相手がいることを理由に挙げるようになったのだ。

そんなことが数回続いたものだから、当然、その相手は誰なのかということで海常中の女子の話題はもちきりになった。けれど、告白してきた女の子はもちろん、私たち先輩相手であっても黄瀬はまったく口を割ろうとしなかったから、ついにその相手を知ることは出来なかった。
「帝光で一緒だったって言ってた、マネージャーの桃井さんって子いるじゃん。あの桐皇のめちゃくちゃ可愛い子。あの子じゃない?」
「ブー。外れっス」
「モデル仲間の子は?」
「それも外れ」
「……えー、じゃあもう海常の子ぐらいしか候補いなくない?」
「さあ? どうっスかね」
「あ、分かった。クラスで隣の席の子とかでしょ」
「いや、その子にはこないだ告白されて断ったんで違うっス」

人の――ましてや後輩の恋愛事情を詮索するなんて趣味が悪い。そう思う反面、ここまでひた隠しにされると逆に気になってしまう。どうにかして相手を当ててやろうと躍起になってみても、どんな候補を挙げようと黄瀬は否定し続けるものだから、とうとう実在する人物なのか疑わしくなって「本当にいるの? 好きな子って。応援してるアイドルのこととかじゃなくて?」と訊ねると「失礼な! ちゃんといるっスよ!」と憤慨されてしまった。ちゃんと実在する人物らしい。
「え、ていうか隣の席の子に告白されて断るのってさ、次の日から席替えまでめちゃくちゃ気まずくない?」
「別にもう慣れてるから平気っスよ。それに、同じ部活の子にされたときよりマシだし」
「あー……」

黄瀬のその言葉を受けて、黄瀬に振られたからという理由で入部してすぐに辞めていった一年や二年のマネージャーの子たちの顔を思い出す。あまりにも立て続けに退部希望者が出るものだから、三年生の間で「黄瀬がいる間だけでも部内恋愛は禁止した方がいいんじゃないか」という提案が持ち上がったほど、この男のモテっぷりは凄まじいものだった。

人気があるのは結構なことだけれど、モテすぎるというのも考えものだ。何事も程々が一番いい。たくさんの異性に好かれなくても、世界でたった一人、自分が好きな人に自分のことを好きになってもらえたら。それだけで十分幸せなことだと思うのに、黄瀬の異次元のモテっぷりを前にしてはそんなことを易々と口にすることさえも憚られる。

黄瀬ほどのモテ男だったらきっとその『好きな人』とやらともいずれは恋人同士になるのだろうなと思いつつ、彼の想う相手は一体どんな人なのだろうと考えを巡らせる。知っている限りの女の子の名前を挙げてみてもついに黄瀬が首を縦に振ることはなく、そしてそんなときには必ずといっていいほど主将の笠松から「オマエら練習集中しろ!」と文句が飛んできていたから、それ以上追及することは出来ないでいた。



黄瀬の様子がおかしいことに気が付いたのは、好きな子がいるという黄瀬に対しての告白の数がめっきりと減った秋口のことだ。インターハイが終わって、私たち三年に残されたのはウィンターカップだけになった。それが終わればすぐに、センター試験と入試本番が待っている。

部活終わりに本格的に塾に通うことになった私は、これまで放課後はなんだかんだと理由をつけてバスケ部の面々と過ごしていたけれどそれが出来なくなってしまった。とは言っても毎日部活で顔を合わせるわけだし、その部活の予定も相変わらず朝から夕方までびっしり入っていたから、ただ部活終わりにハンバーガーを食べに行ったりカラオケに行ったりすることがなくなったというだけの話なのだけれど、これに予想外の反応を示したのは黄瀬だった。

部活に来てマネージャーの仕事をこなし、本練習が終わると居残り練習をしているチームメイトを横目にそそくさと荷物をまとめて塾へと向かう。そんな私に黄瀬は、部活が終わった夜や休みの日の昼間、朝練のない日の朝なんかにメールを寄越してくるようになった。「ちょっとぐらい息抜きした方がいいんじゃないっスか?」なんて言って、遊びに誘われることも増えた。何かと理由をつけては三年の教室にやってきて、やれ今日の部活のメニューがどうだの他校の選手(主に黒子っちとかいう元帝光のチームメイト)がどうだとか、世間話のようなものをしてはチャイムと同時に一年の教室へと戻っていくことが2日に一度のペースで起きるようになった。

こんなことが続けば、嫌でも思い出してしまう。

「好きな子がいる」と言っていたあのときの黄瀬の言葉を。


週に3回通っている塾の授業がない日には、前のように部室でダラダラすることにしている。とは言っても最終下校時刻までのほんの少しの間だけれど、部誌を書いたり備品の在庫チェックをしたり三年同士で次の日の練習メニューの話をしたりテスト結果を教え合ったり最新のお菓子を分け合ったりと、刻一刻と迫る受験に向けての勉強ばかりに追われる日々の中での束の間の休息のようなその時間を、私は存外気に入っていた。前のように三年全員で下校のチャイムが鳴るまでダラダラするとまではいかなくても、ほんの少し、やるべきことに追われる時間から解放されて安らぎを感じられる時間があるだけでも、今の私には有り難かった。

そして、その安寧の時間に最後まで付き合ってくれる相手といえば、ここ最近はもっぱら黄瀬だった。部誌のトレーニングメニューの欄を書いていた手を止めて、すぐ近くのベンチの上で寝転がって漫画を読んでいる黄瀬に向かって声をかける。
「好きな子がいるって、前に言ってたじゃん」
「そうっスね」
「……それってさ、私のことだったりする?」

とんだ自惚れだと自分でも思う。けれど、一度そう考え出したら止まらないのだ。黄瀬の一挙手一投足が、私を好きだと言っているように思えてくる。家にいても学校にいても塾にいても、どこにいたって頭から離れない馬鹿げた考えを否定してほしくて、私は半ばヤケになっていた。

どうか否定してほしい。お願いだから、いつもみたいな調子で「何バカなこと言ってるんスか?」って、「そんなわけないじゃないっスか」って、笑い飛ばしてほしい。

けれど、黄瀬の反応は私の願いとはまったく異なるものだった。
「そうだったらどうするんスか?」

分厚い漫画雑誌を読んでいた手を止めて、ベンチから起き上がった黄瀬の瞳が私を捉える。
「どうする、って言われても……」

てっきりイエスかノーで返事が返ってくるものだと思い込んでいた私は、想定外の黄瀬の返しに狼狽した。そうだったら、どうする?だって。そんな風に返されるとは思ってもみなかったから、返事に困ってしまう。

もしも黄瀬が私のことを好きだったら。少女漫画でもあるまいし、そんなことあるわけないでしょと笑い飛ばしてしまうには、黄瀬はあまりにも真剣な顔で私の顔をじっと見ていた。これでは、直接肯定されなくたってますます疑いを深めてしまう。

どうしたらいいのかなんて、私が聞きたいくらいだ。あの黄瀬が、女の子にモテてモテて仕方のない黄瀬が、よりにもよってただの2つ上の部活のマネージャーでしかない私のことを好きだなんて、一体誰が想像しただろうか。もしも黄瀬から、ただ部活の先輩だからという理由ではなく、――異性として好かれているとしたら。こういうとき、どういう風に答えるのが正解なんだろう。

狼狽えながら見た黄瀬は、いつになく真面目な顔をしてこちらを見ていてさらに困った。こんなにも真剣に見つめられては、いつもの私たちがしているくだらない会話のように”冗談”ということにして煙に巻くことも出来なくなってしまう。
「えっと、じゃあ……付き合う?」

悩んだ末に私の口から出た言葉はこれだった。こう言ったときの黄瀬の、まるで萎んでいた花が一気にパァッと開いたような表情は、今でもはっきり脳裏に焼き付いている。

そんな顔、バスケの試合で強い相手――特に誠凛や桐皇といった因縁のあるチーム――と戦うことになったときにしか見られないと思っていたのに。黄瀬にそんな表情をさせたのが自分だということにも、これまで生意気な後輩でしかなかった黄瀬と恋人同士になるというのも、なんだか実感が持てなくて、ふわふわと身体が地面から浮いていくような変な心地がした。



黄瀬涼太が取り乱したところを、私は見たことがない。冷静沈着とはまた違うけれど、常にヘラヘラとしていて、掴みどころがなくて、軽口ばかりを叩いては笠松を始めとする年長者にどつかれている。私が見るのはそんな黄瀬の姿ばかりで、例えばこの男が落ち込んだりとか、思い悩んでいる姿とか、声を荒げているところとか、そうした場面をここ半年の間に目にしたことはなかった。実際になかったのかもしれないし、本当はあったとしても見せないだけなのかもしれないけれど、とにかく私の知る黄瀬は軽薄で、不真面目で、生意気で、女の子には誰にでもいい顔をして、そのくせ誰のことも特別扱いしたりしない。

――そんな男だったはずなのに。

「そろそろ私たちも帰ろっか」

練習終わりにどんどん部室から人がいなくなっていくのを見送った後、とうとう二人だけになった部室でそう促した私に向かって「もうちょっとだけ一緒にいたいっス」と答えた黄瀬のその表情は、私のよく知る彼のものとは似ても似つかない憂いを含んでいた。
「もうちょっとだけ、って言われても……」
「ダメっスか?」
「学校閉まっちゃうし」
「別にいいっスよ」
「よくないでしょ。早く帰れって武内先生に怒られちゃうよ」

つい先程まで厳しい顔をして練習を眺めていた顧問の名前を出してみても、黄瀬は折れる様子を見せない。その綺麗な黄色い瞳は真っ直ぐ私だけに向けられていて、逸らそうにも逸らすことが出来ずに困ってしまった。付き合うことになったあの日もそうだ。黄瀬にこうした顔を向けられると私は、どうにも落ち着かない気持ちになる。心臓がどきどきしてこの場から一刻も早く逃げ出したいと思うのに、地面に根が生えてしまったかのように一歩も動くことは叶わなくて、つい及び腰になってしまう。
「先輩」

いつもより少しトーンの低い黄瀬の声が私を呼ぶ。
「どうやったらオレのこと好きになってくれる?」

そう訊ねてくる黄瀬の後ろには、垂れ下がった尻尾が見えるみたいだ。
「どうやったら、って言われても……」

とても返事に困る質問だった。黄瀬は私のことが好きで、私も黄瀬のことが好きで、だから交際しているわけで、それなのに。付き合うことになってからというもの、黄瀬はいつも不安そうな表情をしている。
「黄瀬は、私が黄瀬のこと好きじゃないって思ってるの?」
「違うんスか?」
「好きじゃなかったらこうやって皆に内緒で付き合ってたりしないでしょ」
「……それ! そういうとこっスよ!」

優しくフォローを入れたつもりだったのに、余計に黄瀬は憤慨してしまった。「いつもそうやってちゃんと言ってくれないじゃないっスか!」とこちらを指差しながら大きな声を出す黄瀬の姿に「どうせ私のこと好きじゃないんでしょ」といつかの部室前で見たあの女の子の甲高い声が頭の中をよぎる。
「そんなに私に好きって言ってほしいの?」
「言ってほしいっス」
「何で?」
「……何か、オレの方がすげー好きみたいだから」

そんなはずはないのに、しゅんと丸まった黄瀬の背中はとても小さく見えた。

要するに黄瀬は、不安になっているのだ。私から向けられる愛情の度合いがどれほどのものか分からず、自分ばかりが好意を抱いているような気がして、不安になっている。ちょうど、黄瀬のことを好きだと言っていたあのたくさんの女の子たちのように。
「……付き合ってからの黄瀬ってさ、ちょっと変だよね」
「変!?」
「うん、変だよ。なんか全然違う人みたい」
「ひどくないっスか!? オレは真剣に話してるのに!」

今にも泣き出してしまうのではないかと思えるほど不安そうな表情を浮かべていたかと思えば、今度は心外だと言わんばかりに「ひどいひどい」と騒ぎ始めた黄瀬の言葉を遮るようにして続ける。
「だってさ、前はあんなに『女の子って何であんなに好きって言ってほしがるのか分かんない』って言ってた人とは思えない台詞だったから。びっくりして」
「はぐらかさないでほしいっス」
「はぐらかしてるつもりはないんだけど……」

黄瀬の機嫌はまだ直らない。それどころかますます機嫌を悪くしてしまったようで、口をへの字にしてそっぽを向いてしまっている始末だ。

どうやら黄瀬は、部活と勉強ばかりでろくに恋人らしい時間を作れていないことに不満を持っているばかりか、そもそも付き合っていることを部活のメンバーには秘密にしている今の状況そのものが気に入らないらしい。

軽薄で、不真面目で、生意気な彼のことだ。いくら部活の先輩相手と言えど、付き合ってみれば「やっぱりなんか違った」なんて言ってすぐに関心をなくしてしまうかもしれないし、もしそうならなかったとしても、特別な間柄だと知れることでチームメイトに余計な気を遣わせてしまうかもしれない。そうなったらこれから引退するまでの間、どんな顔をして毎日部活に行って皆と顔を合わせればいいのか分からなくなってしまう。だからせめてウィンターカップが終わるまでは、二人だけの秘密にしておこう。

それが、付き合うことになった日に真っ先に私から提案したことだった。

ただの先輩と後輩以上の関係だと思われないように、これまでと変わらない距離感でよろしく。休憩時間とか部活中とかも極力二人きりにならないようにするし、部活終わりに二人で帰るのも偶然会った風ならいいけど、何回もあると怪しまれるかもしれないから程々にね。最近は部活ない日でも塾があったりするからあんまり休みの日には会えなかったりするかもだけど、その分電話とかメールとかは出来るようにするから。

この提案が、どうにも黄瀬は気に入らなかったらしい。部内恋愛が明確に禁止されているわけでもないし、色恋沙汰にかまけてプレーの質が落ちるようなことは黄瀬に限ってはもちろんないし、悪いことをしているわけでもないのに、どうして隠そうとするのか。まったく理解が出来ないといった様子で、今も彼は不平不満を口にしている。

黄瀬の主張も一理ある。けれど、私だって、何も黄瀬に意地悪がしたくてこんなことを言っているのではない。ただでさえキセキの世代として世間からの注目を集めているこの男のことだ。黄瀬と付き合いたい女の子なんていくらでもいるだろうし、これまで黄瀬が付き合ってきた女の子たちと比べて取り立てて美人というわけでも抜きん出た長所があるわけでもない私が黄瀬の彼女だと知れたらそれを快く思わない人だっているだろうし、そうでなくともウィンターカップに向けて部員全員が緊張感を持って練習に取り組んでいる今の部の雰囲気をバスケ以外のことで乱すようなことはしたくない。ましてや、それがエースに関わることなら尚更。

懇切丁寧にいくら説明したところで、黄瀬がこちらの意見に納得することも首を振ることもなく、いつも平行線を辿って終わりだった。それでも、最後には「先輩がイヤっつーんなら、まあ……我慢するっスけど」と渋々ながらも従ってくれているのは、ひとえに彼が私のことを好きだからだ。

黄瀬はどうやら、私が思う以上に私のことを好きなようだった。おはようやおやすみといった朝晩のメールは毎日欠かさずに送ってくるし、塾の授業が終わったと言うとすぐに「声聞きたいっス」と言って電話をかけてくるし、たとえほんの少しでも時間が空いたと言えば「会いたいから」と言って電車に乗って会いに来る手間を厭わないし、辺りが暗くなるのが随分と早くなった最近では私が一人で家に帰ろうとするのを快く思っていなさそうな顔をするし、何かにつけてすぐに髪や手に触れてきては私のことを「可愛い」と言う。

そのくせ髪や手のひら以外のところに触れてくる様子は中々見せることはなく、こちらの顔色を伺ってか手を繋ぐときに指を絡めるのも別れ際にハグをするのにも随分と時間がかかっていたものだから、この人は本当に私の知るあの黄瀬涼太なのだろうかと不安に思ったほどだった。

今だって、ろくに好きだと言ってくれた試しがないだの手を繋ぐのはいつもオレからだのメールの回数が少ないだの今日の練習では一度も目が合わなかっただのと騒いではいるものの、黄瀬の身体は私が立っているドア付近から二メートルは離れたところにある。感情任せに距離を詰めて、私から拒絶されてしまうことを恐れているのだ。

黄瀬にそんな臆病なところがあるなんて、恋人になるまで知らなかった。あの黄瀬をそうさせているのが自分なのだということにも、いまだに実感は湧かない。みんなが知っている黄瀬と、私だけが知っている黄瀬。それはあまりに違っていて、本当に同じ人物なのだろうかと不思議に思うくらいだ。

肩に掛けていた鞄を床へと置いて、黄瀬の方へと近づいていく。私の顔と同じくらいはありそうな大きな手を取って見上げると、普段あまりこちらから近づくようなことはしないからか、黄瀬はその大きな目をこれでもかとばかりに見開いて驚いていた。
「ごめんね黄瀬。機嫌直して」
「……別に、怒ってはないっスけど」
「怒ってるじゃん」

拗ねていると言った方が正しいかもしれない。入部したての頃はたまに見せることもあったものの、最近ではすっかりエースらしくなったこともあってかめっきり見かけなくなっていた表情を浮かべている黄瀬の顔をじっと見つめる。黄瀬本人はきっと「格好いい」と言ってほしいのだろうけれど、こんな風に私のことで思い悩んだりへそを曲げてしまったりしている彼の姿を見て”可愛い”と思ってしまう私は、さすがに恋人の欲目が入りすぎだろうか。黄瀬の手を握った手のひらにぎゅっと力を込めながら、ゆっくりと語りかけるように思ったままの言葉を口にする。
「私さ、ちゃんと好きだよ。黄瀬のこと」
「ほんとっスか?」
「ほんとほんと」

うんうんと頷いてみせる私を前に黄瀬は、それでもまだ信じきれないという顔をしている。複雑な表情を見せる黄瀬を前に、これは一体どうしたものかと首を捻った。
「困ったなぁ。どうやったら信じてくれる?」
「チューしてくれたら信じるっス」

沈黙が流れる。
「……マジのやつ?」
「マジのやつ」

間髪入れずに返ってきた答えに面食らうあまり、握っていた手を離して一旦黄瀬から距離を取ろうとするも反対にがっちりと固定されてしまってそれは叶わなかった。
「ちょっと待って、えーっと」
「……嫌っスか?」
「嫌っていうか、その」
「嫌ならいいっスよ。そーいうの、先輩に無理強いしたいわけじゃないし。さっきのやっぱナシで」
「むっ、無理強いとかそういう話じゃなくてさぁ……」

しどろもどろになる私に、いつになく真剣な顔をしていた黄瀬がふっと表情を緩めて「冗談っスよ」と言って笑った。うそつき、冗談で言ってるトーンじゃなかったくせに。そう言ってやりたかったけれど、さっき黄瀬が言った言葉が頭の中から離れなくて黙り込んでいると、ぱっと離されてしまった手にまずいと思った。いつも通りの明るいトーンで話しているように見えても、そこにいつものような軽薄さはない。実際、私がこうしてあたふたしている間にも、黄瀬の表情はみるみるうちに曇っていってしまう。
「ごめんね」

離された手をもう一度繋ぎ直して、ことのほか臆病で繊細なところがある恋人の顔を見上げてみる。顔を背けられているのと、見上げたこちらの目線よりもうんと高い位置に黄瀬の頭があるせいで、彼が今どんな表情をしているのかを窺い知ることはできない。それでも、今、目の前の恋人がどんな気持ちでいるのかぐらいは分かるつもりだ。

また早とちりで誤解されてしまうことのないように、じっと黄瀬の目を見ながら言う。
「私、黄瀬と違ってファーストキスだから。……その、初めてくらい好きな人からしてもらいたいなって思っただけなんだけど」

だめだった?と、そう続けたかったのに、強い力で抱き寄せられたせいでそれ以上言葉に出すことは叶わなかった。痛いくらいに抱きしめられて、いつもなら「痛いよ」とやんわり窘めるところだけれど、今日ばかりはこちらからも黄瀬の背中に回している腕にぐっと力を込める。するとまたさらに抱きしめてくる力が強くなって、いよいよ苦しさを感じた私が「……ごめんちょっとだけ苦しいかも」と小さく口にすると、慌てて身体を離した黄瀬があまりにも焦った顔をしていたせいで思わず吹き出してしまった。

軽薄で、不真面目で、生意気で、博愛主義な後輩だったはずの黄瀬がまさかこんな風になるなんて、一体誰が予想しただろう。あの黄瀬をこうしたのが自分なのだと思うと、未だに信じられない気持ちになる。きっと今だって黄瀬は、自分の方がものすごく相手のことを好きなのだと思っているのだろうけれど、今日これから初めてキスを交わすことになるのだとして、それからあと何回キスをしたらその考えを改めてくれるだろうか。それは五回かもしれないし、十回かもしれないし、もしかすると一回でいいかもしれない。彼が私を求めてくれる限り、その気持ちには最大限、応えてあげたいと思う。いつか、同じくらいの”好き”の気持ちをこの男が感じてくれるまで何度でも。

お題:恋に悩む黄瀬

モテてモテてモテまくってきたからこそ自分から惚れた相手には奥手な黄瀬、あると思います

Inspired by Perfume/Puppy love