なんにもわかっちゃいないくせに


「待っててくれなくても良かったのに」

ぎりぎりのところで保っていたはずのバランスを一気に崩してしまうきっかけとなったのは、部活動を終えてのそのそと歩いてきた黄瀬が校門のそばで自転車片手に立っている私を見つけるなり放ってきたこの一言だった。

普段なら何も気にしないはずの、たわいもない後輩からの一言。だけど今日ばかりは、今このときばかりは少しタイミングが悪かった。ツンと痛みを覚え始めた目頭を押さえられる間もなく潤みだした視界に、自転車のハンドルについたグリップを握っていた手に力を込める。すると「えっ」お馴染みのあのへらへらとした笑みを浮かべていた黄瀬の表情が一転ぎょっとしたような顔に変わったのが見え、内心『やってしまった』と思った。
「何で泣い……オレ何かしちゃったっスか!?」
「……ごめん、何でもない」
「でも泣いてるし」
「泣いてないよ」
「さすがにそれは無理あるでしょ」

最終下校時刻間際の校門は部活終わりの生徒でごった返している。ただでさえ他の人より頭一つ、いや、二つ三つは大きい黄瀬のことだ。おまけにこの容姿ときたら、嫌でも注目を集めてしまう。校門を抜けて駅へと向かって歩いていく生徒たちからの無遠慮な視線に晒された全身が強張るのを感じて、視線を足元のローファーへと落として鼻を啜った。

少し離れたところから「おい、黄瀬がマネージャー泣かしてるぞ」と誰かが言っている声が聞こえ、その声にはっとして俯いていた顔を上げると、端正な眉をへの字に曲げてただひたすらにおろおろとしている黄瀬の姿が目の前にあった。その向こう側に部室から慌てて出てきたらしい三年のバスケ部員達が遠巻きにこちらを見ているのが見える。さっきの声の主はきっと森山だろう。嫌なところを見られてしまった。
「ごめん、何でもないから」

繰り返した言葉は弱々しく震えていた。これで泣いていないというのは少し無理があるなと自分でも思う。そしてそう感じたのは黄瀬も同じだったらしい。「何でもないのに泣くわけないじゃないスか」と珍しく食い下がってくる黄瀬に「本当に何でもないから」と語気を強めたところで最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴ったのが聞こえた。
「……帰ろっか」

直に校門の鍵を閉めに先生がやってくる。こんなところでいつまでも泣いただの泣いてないだので不毛なやりとりを繰り返すわけにもいかない。ようやく涙の引っ込んだ目尻を出来る限り優しく見えるように下げながらそう促すと、唇を尖らせ納得のいってなさそうな表情を浮かべながらも渋々歩き出した黄瀬の後ろ姿を確認してから自転車に跨った。

自分の分と黄瀬の分、二つの通学鞄を前後に乗せて自転車を走らせる。風を切って進む目線の先にはタッタッタッタッと規則正しいリズムでランニングをする黄瀬の姿があった。いつも通りの帰り道、いつも通りこちらを振り返りもせずにどんどんと走っていってしまう黄瀬、いつも通りに吹き抜けていく夏の終わりの夕暮れの少し冷たくなった空気の中で、私の心のうちだけがいつも通りではなかった。いつも通りではいられなくなってしまったことの心当たりならいくつかある。

まず第一に、今日ちょうど返却されたばかりの模試の成績が思いの外良くなかったこと。前髪を切りすぎてしまったこと。朝起きるのが遅くて慌ててコンビニで買ったお弁当に箸がついていなかったこと。いつもお弁当を一緒に食べていた友達から「実は彼氏が出来た」と打ち明けられたこと。そして、インターハイで桐皇学園に負けを喫しウィンターカップを最後の目標に定めた笠松たち三年から「オマエは無理して部活続けなくていいんだぞ」と言われたこと。多分、これが一番心に引っかかっていた。前髪だとか模試の成績だとかは、本当はどうでも良かったのだ。

……いや、確かにショックだったのはショックだった。それは認める。だけど、部活終わりに三年生だけが集められたあの空間で神妙な顔をした笠松と森山と小堀からそう切り出されたときの衝撃に比べたらどうってことなかった。ウィンターカップという新たな目標を得てより一層バスケに打ち込む決意を固めた笠松達を残して自分だけが先に引退することなんて微塵も考えていなかったはずなのに、「じゃあちょっと考えとくね」と心にもない言葉を返してしまった自分に失望したというのもある。どうして言えなかったんだろう。そんなことするわけないじゃんって、ここまで来たら最後まで一緒にいるに決まってるでしょって、笑い飛ばしてしまえればそれで良かったのに。
「先輩やっぱ何かあったんじゃないっスか? 何かずっと心ここにあらず、って感じだし」

信号で立ち止まるなりすかさず自転車に跨る私の顔を覗き込んできた黄瀬から発せられた言葉に心臓がどきりとした。今日の黄瀬はやけに鋭い。普段のようにへらへらとした顔をしていない分、目鼻立ちの良さが余計に目について、耐えきれなくなった私は黄瀬から目線を逸らして「大したことじゃないよ」言葉を濁す。隣から「ちゃんとこっち見て言ってほしいんスけど」と文句を言っている声が聞こえたけれど、その言葉には返事をせずに前の信号に目線をやって「青だよ」と言うとまた唇を尖らせている横顔が見えた。

赤から青に変わった信号にもう一度視線を移し、どんどんと遠ざかっていく後ろ姿に引き離されないようにペダルを踏む足に力を込める。信号待ちをしている間は私を心配しているような素振りを見せたくせに、一度走り出してしまうと全くと言っていいほどこっちを振り返ってこないんだから、何だかなあ。思えば最初から、この後輩は私の都合など全く意に介さず自分の思うように事を進めてばかりだったから、今更といえば今更なのかもしれない。

こうしてロードワークを兼ねて家まで走って帰る黄瀬を後ろから自転車で追いかけるのが恒例となったのも、入部して一ヶ月近くが経った頃に黄瀬が放った「先輩ってチャリ通なんスよね? 帰り暇だったらオレのロードワーク付き合ってほしいんスけど」という言葉がきっかけだった。それも別に、私たちが特別仲良しだったとか、選手の指導に長けているから白羽の矢が立ったというわけではない。たまたま黄瀬と帰る方角が同じで、たまたま私だけが海常バスケットボール部の部員の中で自転車通学をしていた。きっかけなんてそんなものだった。


学力が届く範囲の学校のうちで家から一番近いからなんて安直な理由で進学を決めた私とは対照的に、海常に集まってくる生徒達は部活へかける情熱が人一倍強い人間ばかりで、全国大会常連の男子バスケットボール部なんてその最たるもの。学区外から通学している生徒も多い。その中で、駅へと向かって歩いていく生徒たちを自転車で追い越していく私の姿がたまたま黄瀬の目に留まっただけ。そこにそれ以上の特別なんて何にもなかった。

別に毎日一緒に帰ろうと約束したわけでもないし、後ろから自転車で追いかける私がいなくたって黄瀬がロードワークを怠ることもない。せいぜい通学鞄が少し邪魔だな、と思う程度だろう。だから、尚更ショックだったのかもしれない。「待っててくれなくても良かったのに」のたった一言でこれまで何とか上手く保てているような気がしていたバランスが一気に崩れてしまうくらいには、自分でも驚くほどに動揺してしまった。二人だけで帰るこの時間を少なからず特別に感じていたのは私だけだったんだと、コート上では力になれなくとも彼らにとって出来ることなら何でもやってあげたいと、そう思っていたのは私だけで、別に彼らには求められていやしなかったのだと思い知らされたような心地がして。

こんなこと、いくら心の中で繰り返し繰り返し考えたところで笠松達にはとても言えなかった。もちろん黄瀬にだって言えない。だから本当に大したことじゃないし、黄瀬は何も悪くないのだ。勝手に期待して勝手に裏切られたような気持ちになってしまっている私が悪い。たったこれっぽっちのことで情緒不安定になってしまう私は先輩としてもマネージャーとしても失格なのかもしれない。しかし、いくら黄瀬に勘繰られたところでこうした胸の内を上手く言葉にすることも今の私には出来そうになく、ただひたすらにペダルを回して前を行く黄瀬の背中を見失ってしまわないように追いかけることしか出来なかった。

春の誠凛との練習試合以来、黄瀬は変わった。乗り気でなかった練習にも真面目に打ち込むようになったし、『良いプレーをするためには技術とそれを使いこなす身体が出来ていないといけない』という監督の方針にも文句も言わず従うようになった。帰り道のロードワークだって、基礎体力作りに勤しむ彼が取り組んでいるメニューのうちの一つだ。

黄瀬、走るの速くなったなあ。スタミナもかなりついた気がする。初めの頃はもっと時間かかってたような気がするのに、あっという間に目的地はもう目の前へと迫ってきていた。
「あー疲れた!」

徐々に減速した黄瀬が立ち止まったのは私の家の玄関の前だった。ストレッチがてらグッと伸びをしている黄瀬の隣に自転車を停めて、背負っていた二つの鞄のうちの片方を渡す。鞄からタオルを取り出して汗を拭いている黄瀬の姿を確認してから玄関のドアの前へと向かう。そのあとすぐに「じゃあね」と言おうとした言葉は、目の前にやってきた黄瀬によって遮られてしまった。
「やっぱり何かあったんでしょ」

今日の黄瀬はやっぱりいつもとは少し違う気がする。ドアを掴もうとした手を引っ込めて振り返るとじっとこちらを見ている黄瀬と目が合った。まただ。また黄瀬があの、私を居心地悪くさせる真剣な表情をしている。
「さっきも言ったじゃん。別に大したことじゃないって」
「でも泣いてたじゃないっスか」
「しつこいなあ。たまにはそういう日もあるってだけだよ。別に黄瀬のせいじゃないし」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「じゃあ理由くらい教えてくれたっていいでしょ」

首にかけたタオルを風に靡かせた黄瀬が一歩こちらへと距離を詰めてくる。「それとも、オレには言えないことなんスか?」と投げかけられた言葉に喉の奥が詰まった。

言えないよ。だって、失望されたくない。一人で勝手に期待して、勝手に舞い上がって、勝手に裏切られたような気分になって、勝手に傷ついてるような面倒くさい奴だって、黄瀬にだけは知られたくない。情けない奴だって思われたくない。せめて笠松達と一緒に引退の日を迎えるまでは先輩らしくいたい。それも当の笠松達にあんなことを言われてしまった今となってはもう、叶わないことなのかもしれないけれど。
「先輩」

玄関の前から一歩も動けずに押し黙っている私に向かって黄瀬が再び呼びかけてくる。その黄色い瞳に上から見下ろされるとどうしようもなく居心地が悪くなって、沈黙が二人の間を包んでいった。お互いにしばらく押し黙っていると、ふいに黄瀬が言葉を発する。
「オレってそんなに頼りないっスか?」
「そ、そういうわけじゃないけど。なに、そんなに私のこと気になるわけ?」
「だって先輩がちゃんと教えてくれないから」

視線を合わせていられなくなって、たまらず目を逸らした。でも、逸らした先にもまた黄瀬の顔が現れるものだからほとほと困ってしまう。なるたけ早く話を切り上げようとする私の態度がお気に召さなかったのか、黄瀬はむっつりとした表情でこちらを見下ろしていた。こうやって黙ってたら本当に、顔だけはいいんだけどなぁ。
「……何でそんなに気にかけてくるの」

放っといてよ、と続けようとした声がまた震えた。今日の私はもうだめだ、どうにも平常心ではいられない。こんなところ見られたくないのに、一刻も早く家に帰ってしまいたいのに、通せんぼをするかのように目の前に立ちはだかってくる黄瀬のせいでどこにも動けなくなってしまう。先輩、とまるで黄瀬じゃないみたいな声で優しく呼びかけられるとまた涙が出てきそうだった。そんな私をしばらく黙ってい見ていた生意気な後輩は、ふと鞄から取り出した携帯を見て「まだ門限過ぎてないっスよね」と確認するような言葉を投げてくると、返事も聞かずに私の肩に背負った鞄の端を引いてずんずんと歩いていってしまう。振りほどく気にもなれなくて項垂れながら着いていくと、しばらく無言で歩いていた黄瀬は近くの公園まで来るとようやく足を止めた。入り口近くの自販機で買ったらしいジュースのペットボトルをずいと差し出してきた黄瀬を見上げると「奢りっス」へらりと笑った顔が見えた。葡萄味だ。
「……放っといてよって言ったじゃん」
「放っといてほしい人はそんな泣きそうな顔しちゃダメでしょ」
「……いつからそんな優しい後輩になったわけ」

これまで私の都合なんて微塵も考えてくれやしなかったくせに。今日の黄瀬はどうにも変だ。確かにさっき校門の前で、この後輩の前で涙を堪えられなくなってしまったのは失態だったと思う。だけどそれがどうだっていうんだ。この男が海常バスケ部に入ってきて数ヶ月、黄瀬の無神経な発言や言動の数々に泣かされた女の子の名前を挙げ始めるとキリがない。今更女子の涙程度でどうにかなるような人間でもないくせに、中途半端に関心を抱いて踏み込んでくるような真似をしてこないでほしい。


ぐるぐると奥底で渦巻いていく気持ちを誤魔化すように一つ咳ばらいをしてから手に持ったペットボトルのキャップを捻ると「オレずっと先輩に対しては優しくなかったっスか?」と隣から投げられた言葉に思わず苦笑が漏れてしまった。まったく、どの口が言うんだか。
「優しい後輩は先輩に荷物持たして自分だけ走って帰ったりしないから」
「あれはトレーニングじゃないっスか!」
「分かってるって。最近は文句も言わないでちゃんとロードワークやるようになったじゃん」
「ウィンターカップで今度こそ黒子っち達に勝たなきゃなんねーっスからね」

黄瀬の言葉にうんうんと頷きながら葡萄ジュースを口に含む。酸っぱいようで甘い人工的な味は今の感傷的な気分も相まって身体に染み込んでいくようだった。
「黄瀬がバスケ楽しそうにやってくれるようになってよかったよ」
「急にどうしたんスか?」
「……私やっぱり黄瀬がみんなと一緒にウィンターカップで勝つとこが見たいなあと思って。でも見れないかも。笠松達にはオマエまでウィンターカップに付き合わなくてもいいんだぞって言われちゃった」

言い終わる前にまたじわじわと視界に涙が滲んでいって鼻を鳴らした。笠松達が善意から言ってくれているのはもちろん分かっていたけれど、同じになれないことがどうしようもなく寂しかった。いっそのこと男に生まれていたら、そうしたら、笠松達とも、そして黄瀬とも、同じところにいられたのだろうか。こんな風に勝手に距離を感じて打ちひしがれてしまうこともなかったんだろうか。 私が性懲りもなくまためそめそとしている様を見ても、もう黄瀬は慌てふためいたりはしなかった。それどころか二人の間に置いていた通学鞄を地面に置いて、その分空いたスペースでさらに距離を詰めてこようとする。想定外の距離から名前を呼びかけられると大袈裟に肩が跳ねてしまった。
「先輩」
「な、なに」
「今先輩のことめちゃくちゃ可愛いと思っちゃったんスけど。抱きしめてもいい?」
「……や、やだ。黄瀬さっきすごい汗かいてたじゃん」

百年に一度の逸材として目覚ましい成長を見せるこの男の前では、抵抗なんてあってないようなものだ。あっという間に詰められた距離に、背中に回された腕に、また目頭がじんと熱くなってしまう。顔が押し付けられた胸は想像以上に大きくて、やっぱり黄瀬はちゃんとバスケ選手なんだなあと今更ながら感慨深く思ってしまった。あと汗かいてたくせに何かちょっといい匂いするのがムカつく。
「大丈夫っスよ。オレ死んでも勝つんで」
「物騒な言い方しないでくれる?」
「だからちゃんとウィンターカップまで見ててほしいっス」

私の都合なんてこれっぽっちも考えていないくせに、私の一番欲しい言葉をくれるのはこの男だった。それがどうしようもなく嬉しいやら悔しいやらで、胸板に押し付けられていた身体を少し離して空になったペットボトルでこつんと頭を叩いてやる。
「いてっ」
「……さっき、校門のとこで黄瀬に待っててくれなくてもよかったのにって言われたのもちょっとショックだったんだからね」
「えっもしかしてそれで泣いてたんスか?」
「別にそれだけじゃないけど」

それだけじゃないけど、それもちょっとぐらいはあるよ。そう言ってやると黄瀬がまた背中に回した腕に力を込めてくるものだから、私は手に持ったペットボトルをそっと地面に置いて同じように黄瀬の背中に腕を回した。
「待たなくていいって言ったのは、その、……待っててくれなくてもオレの方から迎えに行こうかなと思ってたって意味だったんスけど」

誤解させてたみたいっスね、と歯切れの悪い言葉を並べる黄瀬の頭をまた叩いてやる。叩かれたというのに黄瀬は笑った。勝手に距離を感じてしまっていたのは私だけだ。だって黄瀬は私が手を差し出したらちゃんと握り返してくれる。星の数だけ女を泣かしてきたであろうくせに、ほんの少しの私の涙に取り乱してくれる。一度も振り返ってこないくせに、いざ寂しいとこぼしたらこうやって抱きしめてくれる。それで十分だと思った。

夕暮れの風がさらさらとスカートを揺らす。もう直に秋が来て冬が来る。そうしたら、私たちのウィンターカップはすぐそこだ。それまでこの想いは大事に大事に温めておこう。いつかきっと、そう遠くないうちにちゃんと出番が来るはずだから。

ワードパレット「包む、葡萄、暮れる」より

Titled by すいせい