おねがいのつづき


「間抜け面はっけーん!」
「いった」

昼食を求める生徒でごった返す食堂で、自販機で買ったカフェオレに手を伸ばしたところで後ろからの衝撃。前によろけそうになった足をなんとか踏ん張らせて「何すんの」と後ろを向くと、案の定野球バカの倉持がいた。その後ろにはにやにやしながらこっちを見てくる御幸。安定の組み合わせだ。倉持とは高校に入ったときからの約1年以上の付き合いになるわけだけど、最初からこんな感じで廊下で会う度に小突かれたり野次られたりからかわれたり。ずーっとそんな感じなものだから、今ではいちいち反応するのも面倒になってきている始末だった。まったく一体私が彼に何をしたというのか。何もしてない。憎まれ口は叩いたりした、かもしれないけど。


それにしても女子に向かってタイキックって。本気ではないにせよだめでしょ。しちゃいかんでしょ。そう言うと「女子だって!」何がおかしいのかヒャハヒャハ笑う倉持に無性に腹が立った。なんだよもう、早くあっち行け。御幸のとこ行け。追い払うような仕草をしたのにも関わらず平気な顔して近づいてくる倉持は、緑がかった髪をおでこ丸出しの髪型にしてけらけら笑いながら私の隣りに立つと、自販機のボタンを指差しこっちに向かって「ん」と言った。物欲しそうな顔が目に映る。なに?奢ってほしいわけ?
「俺今日誕生日」
「知ってるよ。おめでとってLINE送ったじゃん」
「夜中の3時にな」
「昼寝してて起きたらあの時間だった」
「とか言って忘れてたんだろ」
「忘れてない。ほんとに起きたら3時でびっくりしたの」
「ヒャハハ、寝すぎじゃね?」
「寝る子は育つんだって」
「育ってねーみたいだけどなぁ」

そう言って身長差をアピールしてくる倉持にタイキックをお見舞いしてやると全然痛くなさそうな声で「いてー」と言われて余計に腹が立った。男子と違って女子の成長期は大体中学で終わるんだよ。同じように食べて寝て遊んで生活しているはずなのに未だにすくすくと成長し続ける倉持は、蹴られたのにも関わらず機嫌良く去っていった。てっきり奢れって言ってくると思ったのに拍子抜けだ。ほんとに今日誕生日って報告しに来ただけらしい。ちゃんとLINE送ってあげたのに、直接言ってほしかったんだろうか。言ってあげたらよかったかな。本当は今日の日付が変わる前から電話かけようか死ぬほど悩んで悩みまくった結果かけれずじまいであんな時間にLINEを送るはめになったとは口が裂けても言えなかった。

だって、電話って。今までかけたことないのにいきなり5月17日の12時ぴったりに電話かけるって、どう考えても気合い入れて誕生日祝うために待ってましたって感じがして、なんというか恥ずかしい。言い訳出来ない。好きだってだだ漏れになってしまう。いや、別に好きで付き合ってるわけだから別にいいんだけど。好きで当たり前なんだろうけど。でも、なんというか、二人で遊んだりもあんまりしないし(倉持が忙しそうだから)、毎日連絡取ってるわけでもないし(これも倉持が忙しそうだから)、案外倉持は私のこと友達の延長線にいるやつとしてしか捉えてないんじゃないか?私ばっかり好きなんじゃないか?そもそも何で付き合ってるんだ?って、考えてしまうのだ。そんな状況なのにわざわざ電話かけたりしたら鬱陶しがられないかなとも思う。話したいことがあるわけでもないし、いや、あるんだけど…。「誕生日おめでとう」の一言のためだけにわざわざ電話をかけるのって、倉持はどう思うんだろう。ベタベタすんじゃねえよとか言って、あんまり喜ぶタイプじゃなさそう。

それに倉持は寮暮らしだから先輩と後輩と一緒に住んでるわけで、彼女がどうこうってからかわれたりするの嫌がりそうだからもういいじゃん電話じゃなくてLINEでいいじゃんって結論に至った。もし寝てたら起こしちゃうの嫌だし。LINEなら起きたときに見ればいいし。既読つかなかったら寝てるってことだし。そう思ってスタンプと一緒に「おめでとう」と送った午前3時、当然既読はつかず。30分くらい待って、やっぱり起きてないかと諦めて寝た。翌朝起きるともう朝練に出かけた時間らしく「サンキュー」とだけ返ってきていた。こいつ、悩みまくってた夜中の私の気も知らないで。だけどおめでたいことには間違いないので、余計なことは言わないでおいた。私だって好きで憎まれ口を叩いているわけではないのだ。だけど、ここでなんかハート送ってみたりとか好きって言ってみたりとかそういう可愛いことが出来るキャラでは決してない。


そうは言っても向こうの誕生日まで喧嘩腰でいたくないし、自販機で何か買ってあげなくても本当はプレゼントだってちゃんと用意してあるから渡さなきゃいけないし、おめでとうって面と向かって言えてないし。だから、倉持の部活が終わるまで待ってることにした。いつもは「待っといてあげようか」と言うと微妙そうな顔をする倉持も、今日ばかりは「おー」とだけ返事を寄越したので勝手にオーケーなんだと判断させてもらった。同じユニフォームを着て同じように練習をしている部員の中でも倉持の高めの笑い声はよく響いてくる。楽しそうに野球するなあ。好きなんだろうな。グラウンドの上でやたらめったら動き回る倉持がピンクの髪の人に向かって何かを言っている。あの人が、多分倉持の話によく出てくる「亮さん」だろう。一個上の先輩。優しそうな顔してほんとは部員の中で一番怖いって倉持も御幸も口を揃えて言う人だけれど、残念ながら顔までは見えなかった。誰とも目が合わないのが退屈になって携帯を触る。あと、どのくらいだろう。毎日こんな遅くまで練習をして、皆と同じように学校に来て授業を受けて、ほんとに忙しい毎日なんだろうな。辺りが薄暗くなってボールが見えにくくなった頃ようやく練習が終わって、選手は皆ちりぢりになっていく。そろそろかと思って顔を上げたら、フェンスの向こうで倉持が立っていた。
「倉持」
「おう」
「お疲れ。部活大変だね」
「まあな。………お前さあ」
「倉持先輩ー!」

何かを言おうとした倉持の言葉が突然でかい声に遮られ、肩が跳ねる。何事かとあたりを見回すとタイヤを背中にくくりつけて一心不乱に走り回る野球部員の姿が目に入った。え、なにあれ。誰?倉持の知り合い?先輩って言ってたし後輩?倉持のと同じユニフォーム着てるし野球部だよね?あんなとこから大声で呼んで倉持のこと怖くないのかな。そう思いながら倉持を見ると、先ほどの後輩らしき人の声に負けず劣らずの声量でグラウンドに向かって「沢村ー!」と叫んだものだからこれまたびっくりして肩が跳ねた。倉持は続けて「お前今日ゲームすんだから早めに帰ってこいよ!」と言って、「えー!」と嫌そうな声を上げた後輩(沢村くんというらしい)に向かって楽しそうに笑った。その顔がなんだか私に向かってちょっかいかけてくるときの顔と似ていて、あーいつもの顔だなんて思いながら見ていると後輩を追い払った倉持がこちらを向いて眉間にしわを寄せて言った。
「……なんだよその顔」
「あの後輩いじめたりしてない?」
「するかバーカ。毎日可愛がってるっつの」

倉持の言う「可愛がってる」っていうのは甘やかしてるってことなのか先輩として洗礼を浴びせているということなのか積極的にいじっているという意味なのか果たしてどれが一番近いんだろう。とりあえず一番最初のではないと思う。倉持と部活どころか部屋まで一緒とかあの後輩も大変だ。私ならきっといくつ身体があったって足りないだろう。

重いから先に寮に荷物を置きたいという倉持の希望を汲んで、一旦寮まで付き添うことになった。晩ご飯でも食べようかって話だったけど、さっきの倉持の発言によると夜は後輩とゲームをするらしい(おそらく自分たちの部屋でだろう)し、いいのかな遊んでて。寮帰った方がいいんじゃないかな。さっさとおめでとうって言ってプレゼント渡して帰ったほうがいいんじゃないの私。長くいると喧嘩しちゃいそうだし。そうは思ってもいざ「帰れ」と言われるのを想像すると虚しい気持ちになるから言わないでだらだら歩いていると、いつの間にか寮のすぐ目の前まで着いてしまった。「ちょい待ち」とだけ言うと倉持は物凄いスピードで寮の方へと走っていって、また凄いスピードで戻ってくる。ほんの数分の間に着替えまでしたらしい。さすがスピードを売りにするだけのことはあるなあ。別にそんな急いでくれなくてもちゃんと待ってるからいいんだけど。…ここで素直に早く来てくれることに対して喜んだり可愛くお礼を言えない自分がだめなのだとは思っても、どんな風に言葉をかけていいのか分からず黙っているうちに倉持が歩き出したので、結局何も言えないまま商店街のほうへと足を進めていく。歩いている間、倉持は今日の亮さんのスーパープレーについてだとか御幸の授業中の発言について機嫌良さそうに話していて、私はいつもこうやって機嫌良く話してくれれば可愛いのにと思いながら相槌を打った。こうして二人で歩くのも、滅多にないことだ。学校のときと違って少し穏やかなトーンで話す倉持の口調がなんだかすごくむず痒いように感じた。




商店街の奥まったところにあるちょっとおしゃれな雰囲気のお店で食べる晩ご飯。パスタとサラダをあっという間に平らげた倉持に「食うのおっそ」と言われたけれどぐっと堪えてフォークを回す。「……倉持が早いだけじゃない?」いつもならもっとトゲトゲした返事を返す私が珍しく大人しいのが意外だったのか、倉持は目を少し見開いたあと「そうかもな」と返事したきり何も言わなくなってしまった。私もそれからは何となく話しかけづらいような心地がして、黙々とパスタを食べる。あんまり味がしないせいでなかなか進まないけれど、一刻も早く食べきってしまいたい思いに駆られた。だって、意識してなかったけど、今日、二人っきりだし。デートじゃん。倉持はそういうつもり全くないかもしれないけど、デートじゃん。そりゃちょっとかしこまったりもしてしまう。今更、と言われるだろうけど、今更もなにも。付き合ってからこうして学校の外で会うのも久しぶりすぎて、最後はいつだったかもう思い出せもしないのだ。本当にこれで付き合ってるって言えるのかな、とか、倉持はもしかしてもう友達のつもりで私と関わってるんじゃないのかな、とか。どういうつもりで今日晩ご飯に誘ってくれたんだろう、とか。考えずにはいられなくなってしまう。

結局倉持をめちゃくちゃ待たせてパスタを平らげ水まできっちり飲み干してから商店街を出た。なりゆきで決まった店だから倉持の前にロウソクが17本刺さったケーキが出てくるようなサプライズなんて用意していたはずもなく、ただ普通にそれぞれ食べたい物を頼んで当たり障りのない話をした。今日あったこととか宿題のこととか野球部の新入部員には骨のある奴が何人いるかこれから楽しみだとかさっきの後輩の沢村くんが同室でまだ青道の雰囲気に馴染みきってないから色々教えてやってるんだとか以下省略。話したのはそんなことばかりで、私は授業の愚痴からチームメイトの自慢話まで表情を変えながら喋り続ける倉持の話に耳を傾けながら、どこか上の空で皿の上でフォークを回していた。


店を出て少し冷たい初夏の夜風を受けた倉持が伸びをする。
「っは~~~~、明日からまた練習かよ」

練習メニューが多いとか、日差しが暑いとか文句を言う格好をする割に部活のことを話す倉持の口調はいつもどこか楽しそうだ。真上まで両腕を伸ばして、首を左右に傾ける背中が部活終わりのストレッチをする野球部員たちの姿と重なる。ドレッシングのかかったレタスを口に運びながら「ちゃんとストレッチしねーと怪我したら元も子もねえからな」とクールダウンの重要性について語ってきた倉持に、「意外と真面目に野球やってるんだ」と言ってつま先で小突かれたのを思い出してどうして私はこういう風な物の言い方しか出来ないんだと倉持の背中から目線を逸らし空を仰いだ。

あのときはああ言ったけど、…ほんとは、意外だなんてこれっぽっちも思っていなかった。休日も昼休みも朝の時間も返上して休まず御幸や川上たちと一緒に野球に打ち込んでる倉持をずっと見てきたんだから、ほんとうはちっとも意外じゃないのに。話しているうちに喧嘩みたいになってしまうのも、こういう言い方ばかりをしてしまう私に問題があるのは明らかだ。「いつも頑張ってるよね」とか、「応援してるよ」とか、そんな感じでもうちょっと可愛らしいことを言えないものか。いくら倉持が友達のような接し方をしてくるからと言って、私の態度がこれじゃ何も変わらない。ほんとうに友達になってしまうし、また喧嘩になって愛想つかされるのも時間の問題だ。それは困る。ものすごく困る。素直に言えたらどれだけいいか。素直に、倉持のことが好きだって、誕生日おめでとうって、これからもよろしくねって、言えたらどんなにいいだろう。だけど、せっかく勇気振り絞って何か可愛らしいことを言って、それで倉持の反応が微妙だったらと思うとどうしても言い出せずじまいになってしまうのだ。だって今までバカとかアホとか顔合わせたらそんなことばかり言ってきたのに、急に彼女っぽく可愛いこと言いたいだなんて言ったら引かれるに決まってる。下手したら嫌われるかもしれないし、万が一気持ち悪がられなんてしたらもう一生立ち直れそうにない。

そんな風にぐるぐると考えているうちに倉持の話は野球部の話から今週あるらしい席替えの話へと話題が変わっていた。あれ、いつの間に。私いつから考え事してたんだっけ。いつから倉持ばっかり喋ってたんだっけ。そんな考えが通じたのかこちらを振り返って「聞いてるか?」と聞く倉持に「聞いてるよ」慌てて返事を寄越した。「ほんとか?」「ほんとほんと」「ふーん」……納得いってなさそう。上の空で返事してたの、ばればれだったかな。手に汗が滲んで、それをごまかすようにスカートのポケットに隠す。ポケットから携帯を取り出して、画面を光らせた倉持が「8時半か」と呟いた。

「お前んち何時門限だったっけ」
「9時くらいかな」
「……んじゃそろそろ帰るか」

そう言ってポケットに携帯をしまった倉持がゆっくりと歩き出す。その歩き出した方向を見て、あれと思った。帰るかと言ったはずなのに、倉持が向かっていくのは寮とは反対側だ。帰る前にコンビニでも寄るのかと思って「どこ行くの?」と聞くと、「お前んち」予想外の答えが返ってきて足が止まった。
「なんだよ」
「……いや、別に、その」
「門限9時なんだろ?」
「うん」
「送る」
「えっ」
「なに」
「いいよわざわざ、1人で帰れるし」
「は?」

言った途端、倉持の声が不機嫌そうな声色に変わる。ほんのついさっき、10分くらい前まで機嫌良さそうに喋っていたのに。なんという変わり身の早さだろう。そんな怒るようなことはまだ何も言ってないはずだ。とりあえずは、まだ。なのに、倉持はいらいらした様子を隠す素振りもなく「1人で帰らせるわけねーだろ」と言った。え、でも、まだそんな遅い時間じゃないし暗い道ばっかり通って帰るわけじゃないから1人でもほんとに全然平気。倉持明日も練習あるんだろうし、迷惑じゃない?そうやんわり伝えると、「迷惑ってなんだよ」私の言い分が気に入らなかったらしく、眉根にしわを寄せた倉持にずいっと距離を詰められて言い訳めいたことを並べ立てた声が上擦る。
「あ、えと、帰ったらあの後輩の子とゲームするんでしょ?倉持のこと待っててくれてるんじゃないかなー…って。あと、あの、明日も朝早いんだろうし部活の邪魔にならないかなって、思っ、て……」

黙って私が言い終わるのを待っていた倉持が顔をしかめた。普段から愛想がいいやつなわけじゃないけれど、ここまで機嫌が悪いのを露わにしているのも珍しい。…この場合は機嫌悪くさせてる原因は私なんだけど。目つきが悪い倉持に睨まれると、どうしても縮こまってしまう。どうしよう。余計なこと言わずにさっさと解散しとけばよかったのかな。あ、でもまだプレゼント渡せてない。鞄の中に入ったままだ。どうしよう。このタイミングで渡せるわけないし、倉持はずっと黙ったままだし、この男の機嫌を一瞬で直してしまう魔法の言葉なんて知らないし。あれこれ頭を悩ませていると、ふいにもう一歩距離を詰めてきた倉持が「なあ」と口を開いた。
「前から思ってたんだけどよ」
「う、うん」
「お前マジで気ぃ使うのへたくそ」
「え!?」
「迷惑とか、邪魔じゃねーかとか、ごちゃごちゃ考えるより他にやることあんだろ」

あるのだろうか。私としては、精一杯気を回してめんどくさいなこいつって思われないように必死なつもりだったんだけど、全部空回りだったってことなのかもしれない。だって、現にこうして倉持は機嫌を損ねているわけだし、気使うの下手くそって言われるし。気使うの下手くそってなんだよ。私は、…倉持が好きだから、嫌われないようにしたいって思ってただけなのに。迷惑かけないようにしなきゃって思ってたのに、全部無駄だったってことなのか。
「分かんないよ」
「……」
「私、倉持じゃないから。倉持がどうやったら喜ぶのかとか、分かんないし」

そう、分かるわけがない。だけど、分かりたいとは思ってる。だから、
「言ってくれなきゃ分かんないよ、倉持」

きっと倉持が言うように私は気を使うのが下手くそなんだろう。誕生日だっていうのに倉持を怒らせちゃうし、おめでとうの言葉もろくに言えなければ憎まれ口ばかりで可愛らしくプレゼントを渡す勇気もない。でも、それでも愛想をつかさずにいてくれるというのなら。私だって、倉持が喜ぶことをしてあげたいって思ってるから。
「……じゃあ一個だけ言っていいか?」

一個と言わず五個でも十個でもなんなりと言ってくれたらいいのに。私は、倉持がしてほしいってことなら、何でも出来る自信がある。出来る出来ないは別にして、倉持が望むことなら何でもしてあげたいって、本当に心の底から思っているのだ。そう伝えると、倉持は少し考え込むような仕草をしてから真っすぐにこちらを見て言った。
「それ」
「ん?」
「その、倉持ってやつ。そろそろやめねえ?」

や、やめるって?聞き返すと、「分かんねーふりしてんじゃねーよ」と凄まれて口をつぐんだ。…なんとなくは分かる。倉持の言葉の、意図だって。名字で呼ばないでくれって、そういう意味だよね?てっきり何か買ってくれとか宿題がどうこうとか言われるのではと期待していた私はすっかり面食らってしまい、足下に視線を落とした。まさかそんなことをお願いされるとは。倉持。……の、下の名前。勿論知ってる。実はこっそり呼ぶのを練習したことだってある。だけど実際本人を目の前にして呼ぼうとしてみると、なかなか照れてしまってどうしようもない。勘弁してくれと思った。煮え切らない態度の私にまたいらつき始めたのか、倉持がまだかまだかと急かしてくる。
「おい」
「あ、えと、……ちょっと練習していい?」
「ふざけんな」
「ふざけてない大真面目なんだけど」
「なんだよ練習って」
「心の準備とか」
「いらねえだろ」
「で、でも、倉持も私のこと呼ばないじゃん」
「呼んでる」
「呼んでるけど、おいとかお前ばっかりでしょ」
「……」

言った。言ってやったぞ。完全に言い負かしてやったぞ。言い負かされた倉持はというと、思い当たる節があるのか口をつぐんで気まずそうに頬を掻いていた。言い返してくる気配のない倉持に向かって「帰ろ」と声をかける。そのあとすぐに倉持と言いそうになって、口をつぐんだ。たった4文字なのに、それが倉持の名前なのだと思うとどうにも喉元から言葉が出てこなくなってしまう。結局名前を呼ぶことは出来ずに「ねえ」と呼びかけて倉持を促した。しかしいつまで経っても動く気配のない倉持を不思議に思って振り返ると、その瞬間倉持のほうに引き寄せられて息が詰まった。
「なあ」

短く呼びかけた倉持が、息が少し混ざった小さい声で私の名前を呼ぶ。ほんとに小さい声だったけど、ちゃんと聞き取れてしまうくらいには近い。だめだ。声、近い。あと顔も。死ぬ。沸騰しそう。ねえ倉持、熱すぎて死んじゃう。ほんと死ぬ。なんとかして離してもらおうと必死で距離を取るもあっという間にもう一度詰められてさっきよりも強く引き寄せられて参った。熱い。暑い。まだ5月だっていうのに服の中にこもった熱気で溶けそう。もう一度、勿体ぶって名前を呼ぶ声に熱くて仕方ない頭と身体がいよいよ爆発しそうになる。私の必死の抵抗をよそに全く腕の力をゆるめる気配のないこの男はとんだ鬼畜野郎だと心の中で毒づいた。

だって、そうでもしなきゃやってられない。

倉持、倉持、倉持。同レベルだと思っていたのに、野球バカだと思っていたのに、タイキックとからかうことでしか人とコミュニケーション取れないお調子者だと思っていたのに、それでもいいやって思ったから付き合っていたのに。今更なんというか恋人のようなことをされて、さっきまで身近に感じていた倉持が急に遠くに行ってしまったような気がして、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。それでも離してくれない倉持に「倉持」と呼びかけると「違うだろ」と返されて、何が違うんだよ!と言いたくなった。本当は、分かってる。どうしたらいいのかも、倉持が、どうしてほしいのかも。だけど出来ない。出来るわけない。だって、そんなの、恥ずかしくて死んでしまう。
「呼ばねーの?」

催促するように倉持が腕に力を込めて言った。呼ぶよ。呼ぶ。呼ぶから、お願いだからそんな風にしないでほしい。
「……洋一」

言ってるそばから恥ずかしくてもうだめになりそうだった。ん、と短く返事をした倉持が、続けて「おっせーよ」とヒャハヒャハ笑う。少し身体を離して。満足げな顔をした倉持を見て心底好きだと思った。うん、今なら言える気がする。「誕生日おめでとう」続けざまに伝えた言葉に少し目を丸くした倉持が目を細めて離した距離をもう一度詰めてきたのを見て、私はまた倉持の胸に頭を擦り付けた。


やべ、もう9時過ぎてる。そう言った倉持の声で我に返った私は慌てて身体を離して早足で家路へと歩く。本当は門限を少し過ぎたくらいでは怒られたりしないんだけど、こうして倉持が私のことをちゃんと考えてくれてるって分かるのが嬉しくて何も言わないでおくことにした。
「……部活終わりんとき、言おうと思ってたんだけどよ」

いつもより口数が少なくて、少し前を歩いていた倉持が、ふいに振り返って言う。 「今日寒くなかったか?外。グラウンドのとこで待ってただろ」
「見てたの?」
「見てた。教室で待っときゃよかったのに」

練習中、一度も目が合わないと思っていたのに倉持は私が来ていることをちゃんと分かっていたらしい。なんだか少しむず痒い心地だ。

「じゃあ今度から教室で待ってるから」そう言うと、「おう」短い返事が返ってくる。断られなかった。やだって、言われなかった。今度、また、待っててもいいんだ。そのときも一緒に帰ってくれるのかな。たまにでいいから、こうやって一緒にいてくれるといいなあ。今なら言えるかもしれない、といつもより何倍も柔らかい雰囲気を放っている倉持に思ったことをそのまま伝えると、「当たり前だろ」という言葉が返ってきて少し面食らう。立ち止まった私の腕を掴むと、そのまま少し力を込める倉持が頬をちょっとだけ染めながら言った。
「俺はな、……あいつ、後輩の。沢村。……あいつだけじゃなくて、お前のことも可愛がってるつもりなんだよ」

この場合の「可愛がってる」というのは、甘やかしてるってことなのか積極的にいじっているという意味なのか果たしてどちらが正しいんだろうって、考えなくても分かる。倉持が優しいことなんてずっと前から知ってるから。
「ありがと。ちゃんと分かってるよ、倉持のこと」
「……調子のんなっての、バカ」

そう言った倉持が繰り出したのはタイキックのための足じゃなく一度私の腕から離して宙ぶらりんになっていた左手で、私は家に着いたらようやく出番が来そうな鞄に仕舞いっぱなしだったプレゼントを渡して、それからちゃんと好きだと言おうと決心しながらその手を握った。

Happy Birthday Yoichi Kuramochi