この唇でよければどうぞ

教壇から見て一番左、向かって見ると右側、窓際、一番最後の列のはしっこ。そこが奴の特等席だということを私は知っている。

サッカーの授業っていうのは、ごく一部のやる気のある生徒以外にとってはただ突っ立っているだけの退屈な時間だと思う。ボールの動きをだらだらした走りで追いながら校舎のほうに目を向けると、ちょうど自分たちの学年の教室が目に入った。風に煽られてばたばたはためく開けっ放しのカーテンから覗く黒髪に向かって手を振ってやると、あくびの真似のようなジェスチャーが返ってきて真面目に授業受けなよと心の中で思う。人のこと言えないけど。

この時間の黒尾のクラスは何の授業なんだったっけ、古文の時間だって言ってたような言ってなかったような。毎回実施される単語テストで勘が全部当たって満点が取れたと自慢されたのは二週間前のことだ。今回はどうだったんだろう、満点だったのかな。あいつの場合満点とっても寝てるせいで授業態度マイナスされてるだろうけど、たぶん、良い点数だったら機嫌がいいんだろう。先生に当てられたのか、黒いトサカ頭が窓から姿を消す。立ち上がって何かを朗読しているらしい。それから何度かボールを追いかけるふりして校舎のほうに目を向けては見たけれど、結局審判役の子が吹く笛の音が運動場に鳴り響くまで黒尾がもう一度こちらを見る気配はなかった。

少しも汗をかいていない体操服を鞄に仕舞って、代わりにエプロンとバンダナ、それにお弁当を取り出してから隣りの教室を目指す。開けっ放しにされたドアから顔を覗かせると、一番奥の方で漫画を読んでいる黒尾の姿が目に入った。
「黒尾」

手招きされるよりも前に、わいわいがやがやと騒ぐ男子たちをかき分けて席へ向かうと黒尾は読んでいた漫画を閉じて「もうそろそろ一番後ろ飽きたわ。一番前とか行ってみてえ」とつまらなさそうな顔をした。席替えの話だな、とすぐにピンと来る。

月に一度は席替えが行われる音駒だけれど、黒尾鉄朗の席は決まって一番後ろの列のどこかだ。どうしてかって、そりゃあ、決まってる。その席が一番他の生徒の邪魔にならない席だから。190センチ近い人間が前の方の席に座るのは教室内においては公害に等しい。前もこうして不平を漏らす黒尾に「そりゃあんたが前に座ったら公害になるから仕方ない」と思わず言ってしまったことがあったけれど、それから放課後まで口を聞いてくれなくて焦った。さすがに公害呼ばわりは傷ついたらしい。あのときは晩ご飯を奢ることで許してもらえたけれど、育ち盛りの男子高校生の晩ご飯代を負担するなんてことは二度とご免被る。
のクラスもう席替えやった?」
「やったよ。前とあんま変わんなかった」
「廊下側三列目か」
「そう。今回はそっから一つ下にずれて四列目」
「寝れる席じゃねーか良かったな」
「黒尾なんか一番後ろだからもっと寝れるでしょ」
「いやあの席あれだわ、数学のとき絶対当たる」
「あの先生いつも窓際から当ててくもんね」
「たまには廊下側からやればいいのにな」
「もうおじいちゃんだからね仕方ない」

黒尾のクラスの数学の先生は確か来年で定年になる予定だったはずだ。私はあんまり窓際の席になったことないからほとんど当てられないし、寝ててもなんにも言わないから好きだけどな、あの先生。
「今日どこでご飯食べよっか」
「食堂にしようぜ。昼飯買ってくんの忘れた」
「了解。今日は何かあの、ほら、会議みたいなやつないんだっけ」
「キャプテン会議?だったら来週金曜だな」
「毎月やってるんだっけ。大変だね」
「まーな」

背中を丸めて歩いてもゆうに180を超えている黒尾の隣りを歩くのはすごく目立って、すれ違う人たちがのそのそ近づいてくる黒尾を見てぎょっとした顔をするのは学内でも学外でも日常茶飯事だ。おまけに目つきも悪いもんだから、後輩の女の子からはちょっとした畏怖の対象になっているらしい。髪型のせいもあるのかな。ただの寝癖なのに可哀想。実物こんなんなのに。
「怖がられてやんの」

からかってやると「うるせえな」口を尖らせた黒尾がそっぽを向いて歩くスピードを速める。途端にがばっと開く距離に、リーチの差を利用するのは反則じゃないかと抗議したくなった。
先に席取っといて」
「オッケー」

食堂に入るともうあらかたの席は人で埋まってしまっていて、なるべく黒尾に見つかりやすい位置を探してお弁当を広げる。ちょうど卵焼きに手をつけようとしたタイミングで、お盆にうどんと丼を載せた黒尾が向かい側の席に座った。二人で箸を動かしていると黒尾が箸を止めて、席を立つ。どこに行くんだろうと思って目で追うと一味を手に戻ってきた黒尾が「何か物足りなくなった」と言って一味をどばどばかけ出したものだから慌てて静止した。待って待って、そんなかけたら死んじゃうって。

「おまえ次のクラスなに?」
「家庭科。調理実習だって」
「あーだからエプロン」
「そうエプロン。この柄可愛いでしょ」
「………あーまあ、うん。可愛い可愛い」
「何か返し雑なんだけど」
「女子の可愛いの基準は俺には分からん」
「そんなこと言わずに!諦めないで!」
「これは諦めてもいいだろ」
「まあいいんだけどさ」
「いいのかよ」
「うん」

ふと思い立って、右手に握っていた箸を置いた。ひざに掛けていたバンダナを二つ折りにして三角の形にしてから黒尾の頭に巻いてやろうと身を乗り出す。
「うどん食ってんだけど。邪魔」

振り払うような仕草をする黒尾に構わずバンダナを髪に押し付けてみた。待って黒尾の髪硬すぎてバンダナに刺さりそうなんだけど。笑える。
「つうかお前、調理実習前に弁当食って大丈夫?唐揚げ食ってやろうか」

押し付けられたバンダナを掴んでテーブルの上に置いた黒尾が私のお弁当箱の中身を覗きこんで言う。
「唐揚げ食べたいだけじゃん」

別にいいけどね唐揚げもう一個あるし。二つ並んだ唐揚げのうちの一つを箸でつまんで黒尾の方へ差し出す。つまんだ箸をうどんの器のほうへゆっくり近づけてやると「汁物はやめろ」制止の言葉がかかった。なんだつまんないの。そう思いながら唐揚げを丼のほうへ落としてやるとちょっと嬉しそうな顔をするのが見えた。うーん、今の顔はちょっと可愛いかも。
「今日はね、何かデザート作るらしいよ」
「クッキーとか?」
「多分もうちょい難しいやつ」
「………何だろうな」
「カップケーキとかだったらあげるね」
「俺あれがいい。杏仁豆腐とか」
「混ぜて固めるだけじゃん」
「デザートって大体そういうもんだろ」
「確かに。何作るんだろ今日」
「さあ」
「サンマ出たら黒尾もテンション上がるだろうにね」
「家庭科でサンマはねーよ」

ごちそうさま。同じように会話をしながらご飯を食べていたはずなのに、いつのまにか黒尾の丼はからっぽになっていた。待って、あと半分残ってるんだけど席立とうとしないでってば。

結局黒尾には5分ほど待ってもらって、私はお弁当の中身を平らげた。もう一度お弁当袋に弁当箱を入れてから、一緒になって席を立つ。
「お前もうすぐ行く?」
「うん。早く行って準備しないとだめらしいし」
「先に言っとくけどカップケーキ失敗したら要らねえから」
「いやいや。失敗してもあげるよ」
「要らん」
「愛情こもってるよ」
「愛情だけ込められてもな」
「どんなんでも美味しいよって言って食べるのが彼氏の役目でしょ」
「どこの少女漫画だっての」

何でもいいけど一番良いやつ食わして、なんて生意気な口を利く黒尾の腕を小突いてやると上から笑い声が響いた。馬鹿にしやがって。絶対美味しいの作ってやる。覚えてろよ、なんてどこかの悪役のような台詞を吐いたあと家庭科室を目指して歩く。途中まで着いてきた黒尾はやっぱりすれ違う女子生徒に少しだけ避けられていて、いい気味だと思った。


結局作ったデザートはクッキーでなくババロアで、失敗するも何も混ぜて冷やして固めるだけの代物だった。配分さえ間違えなければおいしいはずだ。部活帰りの黒尾にそれを差し出すと「俺ババロア食ったことない」と言いながらもその場で食べてくれてほっとした。なんだかんだ言いながらも、こういうところがあるから離れられないのだ。

いつもふざけてばかりだけれど、黒尾のいいところはきちんと把握出来ているつもりだ。一部からは怖がられながらも女子から人気があることも、格好いいと言われてることも、一緒に食べようと約束をした昼休みには私が来るまでちゃんと待っていてくれていることも、ああいう風に口では言いながら私があげたものを決して粗末にしないことも、ちゃんと知っている。黒尾の方はどうだろう。何か一つでも、好きなポイントがあるなら嬉しいんだけど。 「何見とれてんの」

にやにやしながら黒尾が言う。しまったと思った。見とれてたというか、見つめてたというか。
「お口に合ったかなと思って。美味しい?」
「まあまあ」
「そこは嘘でも美味しいって言いなよ」
「だからどこの少女漫画だって」

空になった容器をずいっと返してきた黒尾の手を握る。容器じゃなくて、黒尾の手のひらの方を。無言で握る手に力を込めた私を見て、さらに口角を上げた黒尾が「珍しいこともあるもんだ」と言って繋いだ手を見せびらかすように高く掲げて歩き出した。ちょっと、それは恥ずかしいからやめてほしい。
「手繋ぐのあんま好きじゃないって言ってなかったっけ」
「言ってた。けど、…何か、繋ぎたくなったから」
「ふーん。じゃあこのまま俺ん家行く?」
「ばかじゃないの。行かないよ」
「残念」

あんまり残念そうじゃない声色。行くって言ったら、どんな顔するのかな。気になるけれど、ちょっと見てみたいような気もするけれど、博打を打つにはまだ勇気が足りない。特に何も言わず私の家の方に歩き出した黒尾を見て、握る手に力を込める。いつもふざけてばかりだけれど、肝心の好きって気持ちだけはなかなか言えないけれど、何となくでもいいから伝わってるといい。そんな気持ちをこっそり込めながら、黒尾のぴょこぴょこ跳ねるトサカ頭に熱い視線を送った。