明けない夜があってもいい

クーラーの電源が切れるのと同時に目が覚めた。端のほうでしわくちゃに丸まっていたタオルケットを被り直して部屋を見回す。まだ仄暗い窓の外が目に入った。随分長いこと眠っていたような気がするけれど、まだせいぜい2、3時間しか経っていないらしい。

二度寝を試みてサイドテーブルの上のクーラーのリモコンを取ろうとしたけれど、届きそうで届かない距離に苛立って再起動させるのは諦めて目を閉じることにした。黒尾のやつまたこんなところにリモコン置いたな。寝転がったまま操作したいから私でも手の届く場所に置いてっていつも言ってるのに、何回言っても改善する気はないらしい。図体ばかり大きくなった恋人の背中にげんこつを一つ落としてやる。時計の針の音や外を走るバイクの音、クーラーが切れた瞬間の空気の振動すら気になって目が覚めてしまう私とは対照的に、黒尾の瞼は一度眠りに入ると叩こうが揺さぶろうが上に乗ろうが朝日でガンガンに照らされようがてこでも動かない。羨ましいように思いながらも、毎日叩き起こすはめになるこっちの身にもなってくれと願ったりもする。

1時間は経った気がしたのに時計を見てもまだ10分しか経ってなくて、ほうっとため息をついた。体は確かに疲れているのに、一度目が覚めたら中々もう一度眠りにつくことは出来なくて。寝返りを打つと枕に埋もれていびきをかいている大きい背中が目に入って、もう一度背を向けて元の位置に戻った。

黒尾の寝相は変だと思う。うつ伏せって寝辛くないんだろうか。君がそこで気持ち良さそうに挟まれてる左側の枕は私のなんだけどな。毎朝起きるといつのまにか黒尾が二つとも枕を使っているせいで私は寝るのに枕が必要なくなってしまった。床だろうが車だろうが平面でもどこでも寝られる。こうなったのも君のせいなんだぞ、といつか言おうとは思っているんだけど中々言いだせずに最近じゃあ言わなくてもいいかと思える始末なのだ。

190センチ近い黒尾と一緒に寝るためのベッドはとても広くて、肌が触れ合わないように出来るだけ離れてから上半身だけ起き上がった。そのまましばらく壁とにらめっこしていたけれど眠気がやってくる気配はない。何か飲み物でも取ってこようか。隣りの黒尾を踏んでしまわないように気をつけながら、そろそろとベッドから降りる。軋むベッドの音にも一切反応がなくてちょっとおかしかった。ホントに熟睡してるんだな。

ドアを開けた瞬間にクーラーをつけていた寝室とは全く温度の違う空気がむわっと漂ってきて、一気に背中に汗が伝った。なるべく足音を立てないように気をつけて、素早く冷蔵庫を開ける。飲みかけのペットボトルが目に入った。まだ半分くらい中身が残ってる。もう一回コップ洗うのも面倒くさいし、いいや。そのまま飲んじゃえ。キンキンに冷えたそれを首筋に押し当てながら来た道を戻る。そっとドアを開けると黒尾はクーラーの効いた部屋のベッドの上で相変わらず寝息を立てていた。ベッド脇に立ってペットボトルの蓋を開ける。半分くらい残っていた中身を一気に喉に流し込みながら窓ガラスを見やる。突然映った黒い影に口の中のお茶を吹きそうになりながら振り向くとゆるく寝癖のついた頭をかきながら黒尾が立っていた。黒髪に黒い寝間着を着ているせいでおばけみたいに見える黒尾はさっきまで汗一つかいていなくて何でそんなに涼しそうなんだよと恨めしく思いながらも向かい合って声をかけた。
「起きたの」
「喉渇いた」

会話になってない。眠そうに瞼を半分下げたまま、黒尾の手がペットボトルを奪っていった。三分の一も残っていなかった中身を一気に飲み干した後、口を拭った黒尾が物足りなさそうに空のペットボトルを振る。
「コーラ飲みてえ」
「買いに行ったら?」
「暑いからいいわ」

からん、と乾いた音を立ててペットボトルが床に転がった。「ちゃんと捨てておいてよ、それ」「ん。朝にやる」そう言って結局忘れたまま3日ぐらいずっと床に放置してたのはどこの誰だったっけ。厭味たらしく言ってやろうと思ってベッドの上から振り向くとそこに黒尾の姿がなくて焦った。きょろきょろと辺りを見回しても見当たらなくて、首を傾げる。あんな図体じゃ隠れようもないのにどこ行ったんだろう。がた、と音がしたほうを見ると黒い人影が窓の外で蠢いていた。ぎょっとして身構えると黒い人物が顔をこちらを向けた。外からちょいちょいと手招きをしたのは黒尾で、網戸越しに見える顔に「何してんの」早口で言って、隣りに立つ。生温い夜風が顔に当たった。空調で冷やされた部屋よりもずっとずっと高い温度の掌が肩に回る。払いのけようとしても案外強い力で掴まれていて引き剥がせなかった。「もうちょっと起きてよーぜ」小声で言われた言葉に首を振って「近所迷惑」と口の形だけで伝えてみる。すると黒尾はあからさまにがっかりしたような顔をした。……そんな顔されてもなぁ。
「いいじゃねーかちょっとくらい別に」
「ダメだよ黒尾の声響くんだから」

隣人との関係はなるべく友好に保ちたいの。なるべく音を立てないように引き開けた網戸の向こう側から俺との関係はいいのかよとぼやく声が聞こえて笑った。図体ばかりでかいくせして子供みたいなことを言う。

あー暑かった、独り言のように言いながらタオルケットにくるまって目を閉じる。後ろで黒尾が同じようにベッドにもぐり込んでくる気配を感じた。目が覚めてから随分と時間が経ったような気がするけれど、今は何時くらいなんだろう。部屋の空気はすっかり生暖かくなってしまっていて、せっかくもう一度眠りにつこうとしていたというのにまた汗が噴き出してきそうになる。たまらずタオルケットを放り投げた。もうダメだクーラーもう一回つけよう。そうしよう。そう思ってリモコンへと手を伸ばしたのと、黒尾がその伸ばした手を掴んでベッドへ引き戻したのはほとんど同時だった。何すんだトサカヘッド!抗議しようと振り向いた体を捕まえられて、もう一度後ろを向かされた。動くなとでも言いたげに両足でしっかり膝から下を固定されて、身動きも取れそうにない。触れた足から黒尾の体温が伝わってきて、背中をじんわり汗が伝った。何もこんな暑い夜にくっつかなくても。せめてクーラーつけるまで我慢しようとは思わないんだろうか。だけど別に嫌って訳でもないし、不快に思っている訳じゃないからやめろとも言えないし、とりあえずやりたいようにさせておけばいいかと諦めてベッドに体を預けることにした。ここまで近くに来ておいて、黒尾の手は私を抱きしめるでもなく、キスするでもなく、ただひたすら背中をずっとなぞっている。くっつけられた掌の温度がとんでもなく熱いように感じられた。

パチン。背中にぴっとり押し付けられていた黒尾の手が不意にブラをつまんで、離した。汗でじんわり湿った背中からゴムの音が鳴る。思いの外いい音がして、満足そうに黒尾がくつくつ笑う。がっちり絡めとられた足を何とか抜き取って、弱く蹴りを入れた。小さく笑い声をあげた黒尾が懲りずに背中を撫でる。また指を引っかけようとしたものだから今度は腕を引き抜いて、さっきよりも強い力で肩を叩いた。黒尾に言おうとして言わずじまいになっていることはたくさんあるけれど、これも地味に痛いからホントはやめてほしいんだけど中々言い出せずにいることのうちの一つだったりする。私に叩かれようが蹴られようがちっとも痛くなさそうな顔をする黒尾は、こめかみに汗を伝わせながらまたブラのラインをなぞって言った。
「……お前寝るときもブラしてんの」
「してるよ。悪い?」
「別に悪くはねーけど」

気に入らないんだな。黒尾がこういう言い方をするときは大抵気に入らないことがあったときだ。私の首筋にはりついた髪を払いよける黒尾の手が怪しい。お前汗かきすぎ、なんて抑揚のない声で言われていらっとした。そう言う黒尾だって汗かいてるじゃん。ていうか誰かさんがくっついてくるから余計に暑くなってるんだよいい加減クーラーつけようよ。小声で呟いてみると、聞こえたのか聞こえてないのかは分からないけど突然私の顔を自分の胸に押し付けるようにして近づけた黒尾が少しだけ体を起こして何やら動き出した。続いてリモコンのスイッチの音が鳴って、頭上のクーラーが動き始める。黒尾がスイッチを押したんだと理解すると同時に、何でその距離からリモコンに手届くんだよと起き抜けに頑張って手を伸ばしていた自分が馬鹿らしくなった。上から流れてくる涼しい空気を受けて上機嫌な黒尾は、さあこれで満足だろうと言わんばかりの顔で絡めていた足を離すと私の頬を軽くつまんでキスをした。ホントに、こんなに暑いのにクーラーつけてまでくっつきたいなんてどうかしてる。そう思いながらもがっしりした背中に腕を回した。

向かい合わせの状態で、黒尾の寝間着に顔を埋めた。うつ伏せでない状態で寝ようとする黒尾を見るのも久しぶりかもしれない。今日は枕に埋もれなくてもいいのかな。明日起きて髪ぺたんこになってたらどうしよう笑っちゃうかも。顔を上げて、無造作にベッドの隅に放られた二つの枕に視線を向ける。その視線に気づいた黒尾が「腕枕してやろーか?」なんて言ってニッと笑ったからとりあえず「明日腕痺れてバレー出来なくなっても知らないよ」と返しておいた。真顔で「それは困る」なんて呟いた黒尾はホントにバレー馬鹿でどうしようもないと思うけど、これは別に直さなくてもいい。むしろ好きなポイントの一つ。釣られて笑った私に気を良くしたのか、またもや背中に回された手を払いながら、明日起きたときにペットボトル捨てるの忘れてたらどうしてやろうかと考えた。とりあえず、朝一でコーラ買いに行かせるのは決定にしとこう。