サヨナラオマージュ

例えば、お酒が飲めるようになったことだとか、毎日きちんと鏡に向かって化粧をするようになったこと、移動の時間を惜しんでタクシーを使うようになったこと、ヒールを履いても転ばずに歩いていけるようになったこともそうだし、終電で帰ってきても何も言われなくなったことだって、そう。

大人になったことを喜ぶ瞬間はいくらでもあったのに、ろくに恩恵も受けず支配から解放されたことに有り難みも感じずにここまで過ごしてきた気がするのは私の気のせいじゃあないだろう。ほんの5年前まではあれほどなりたかった大人の女性っていうやつに、年齢的には追いついてしまっていた。年を重ねて何が変わったかと言えば、特に何も変わっていない。ただ強いて言うならば甘えることが下手になったくらいだ、とぼんやり思うくらいのことだった。


人っ子一人いない夜道を私はヒールを踏み鳴らしながら歩いていた。お子様なら怒られる時間である。だけど大人様になってしまった私がこんな時間に歩いていたとして、咎める人がどこにいようか。今日が夏じゃなくてよかったと心底思った。きっと暑くてパンプスを脱ぎ捨てているところだろうから。裸足で歩くにはこの道は石ころが多すぎる。傷だらけの足で街をすり抜けるわけにはいかない。いっそ傷だらけになってしまえば会社も休めたりするんだろうか。会社ごと休みにならないかなぁ、なるわけないよなぁ、なってくれよホントに。

誰も聞いちゃくれない独り言をひとしきり零してから、ポケットからスマートフォンを取り出してアプリを起動させ、タイムラインを指でなぞった。この間わずか20秒。街はひっそりとしているのに画面の向こうではたくさんの人が賑やかにそれぞれの時間を過ごしているのが見て取れて、何か変な感じ。文字の洪水にざっと目を通す。職場の後輩は二次会のあとはカラオケオールだなんだと言ってまだ飲んでいるそうだった。夜通し飲んで騒ぐつもりなんだろう。明日も仕事だってのに、よくやるよなぁ、私にはもうそんな若さは残ってない。まだ若いけど、若くないのだ。そうなのだ。自分で言ったことが自分に刺さって、元々冷えていた指先がさらに冷たくなった。やめときゃよかった。

私が中学生だったときは高校生になったら夢色の女子高生ライフが待っているのだと信じて疑わなかったし、高校生のときは大学へ進んだら薔薇色のキャンパスライフが待ち受けていると信じていたし、大学生のときは大人になったら何の制約もなくなって自由を手に入れられるのだと何の根拠もない自信と未来予想図を胸に秘めていた。そういう風に思い込める青さがあった。夢見がちな子供だったんだ、かわいいもんじゃないか。そして今、晴れて大人になった私に次はない。新しい環境は飛び込んできてくれやしない。青さが膨らんで頭でっかちになるばかりだ。

タイムラインを巡る手を止めた。たくさんのもやもやを何とかして文字に起こそうと回転させていた頭も止めた。一番上に表示された文をじいっと見つめる。『コンビニにでも行こうかな、と思える夜ですね』投稿された時間、1分前。これは、もしかして、何かしらのお告げじゃないか。行く当てのない夜に当てが出来たことを嬉しく思いながら、やっぱりパンプスは脱がなくて正解だと思った。寂しい夜道に似合わない煌煌と光るネオンへと私は足を向ける。

彼の家から駅までの間にあるコンビニは一軒だけ。それをよく知っている私と、そんな私をよく知っている黒子くんはそれなりに仲良しだった。声をかけたらあからさまに嫌な顔されたし家まで着いていくと言ったら無言で歩く速度を速められたけれど、それなりに仲良しだった。彼も私とおんなじように、甘えるのが下手なだけなのだ。きっとそうだ。そう思わなくちゃ、崩れてしまう。
「何買いに来たんですか」
「煙草」
「禁煙中って言ってませんでしたっけ」
「三日も続かなかった」
「そうですか」
「うん」
「……寒いですね」
「夜中だからね。黒子くんは何買ったの?」
「おでんです」

何を言われたってどんな顔をされたってお酒で気が大きくなっている私には痛くも痒くもなくて、おでんから出ている湯気は暖かそうだけど黒子くんの吐く息は真っ白であぁ本当に寒いんだなぁと他人事のように思った。

黒子くんの部屋は狭い。だけどその狭さが私には居心地がよかったりする。座布団をクッション代わりに抱いて腰を下ろしながら聞いた。
「泊まっていってもいい?」
「ダメです」
「ホントに?」
「……」

無言で枕を放られた。それでも抱いて寝てろってことだろうな。遠慮なく甘えさせていただくことにする。
「黒子くんは優しいね」
「早く寝てください」
「明日は7時に起こしてほしいな」
「起こしません」
「ね、煙草吸ってい?」
「……うち禁煙なので。外でお願いします」
「冷たい」

びゅうびゅう吹いてる夜風にさらされたせいですっかり目も覚めてしまった。一本目が短くなるのを待って、火をもみ消す。黒子くんはもう寝てるだろうか、寝てるだろうな。明日何時に起きるんだろう、放っていかれたら嫌だなあ。二本目に火をつけた。煙がゆらゆら上がっていく。……あんまり美味しくない。三本目を吸うのはやめにして、床に寝転がる体を踏まないようにそろりとベッドに潜り込むと暗闇の中で目が合った。なんだ、起きてたんだ。
「…寝れないんだけど」
「うちのベッドは堅いですから」

それだけが理由じゃないって分かってほしいからわざわざ口に出して言っているのだというのに、どうして私ばかりこういう風にやきもきしなくちゃいけないんだ。背中を小突いてやろうと身を乗り出したらベッドから落ちそうになった。慌てて手をついたせいで大きな声を立ててしまいあからさまに嫌そうな顔を向けられた。酔いが醒めてきた頭にその目線はツラいぞ、黒子くん。
「暴れると落ちますよ」
「もうほとんど落ちてるよ」

少しでも笑ってくれたら可愛げがあるのにちっとも笑わないんだから。きっとこの人は私がお酒を飲んでも終電で帰っても何も気にしやしないんだろう。部屋の向こう、玄関に転がるバスケットボールが目に入った。私よりもあのボールの方が何倍も、もしかしたら何十倍も、彼と触れ合っているのだと考えるとやるせなくなった。やってられない、ボールはあんなに擦り切れているというのに。夜明けなんてずっと来なければいいんだ。明るくなんてならなければ、きっとこの人を独り占めできるのに。視界の悪い中で冷たい手を探す。
「寝ないの?」
「寝させてくれないのは貴方でしょう」
「そうかも。ごめんね」

はっきり断られないのをいいことにさらに接近しようと試みる私に黒子くんは無言で背を向けた。むき出しのつむじにキスしてやる。さらに調子に乗って滑り込ませた手でなぞった背中は思いの外熱くてびっくりした。ここまでやったって、黒子くんはてこでも動かない。でも、やめろとは言わない。言わないだけで本当はどんな風に思っているのか知らないけど。
「暑いです」
「何言ってんの、寒いよ」

あぁ、やっぱりなんだかんだ言って、大人になってよかった。青臭いままの私じゃこういうことは出来ないだろう。体温の残る布団の下で足の先をすり合わせる。酒を飲もうが終電を逃そうがヒールで転ぼうが心配しないだろう彼だけど、最後に甘いのは久しぶりに会えた嬉しさからだって、私だけが好きじゃないんだって、お願いだからそう思わせてほしい。やっとこっちを向いてくれた唇に向かってキスのひとつでもしてやろうと思ったのに、さっき吸った煙草の苦味が消えなくてほとほと困った。