銀河どこかで二人でいたい

薄っぺらい背中が丸められて普段はお目にかかることの出来ない背骨が浮き出ているのを眺めていると、腹の底から何かが込み上げてくるような気持ちになって、たまらず後ろから腕を伸ばしてしがみつくと「……今はちょっと」と咎めるような声が聞こえた。
「ダメ?」
「せめて顔を洗い終わってからにしてください」
「……えー。何か今、無性に抱きつきたい気分になっちゃったんだけど」
「ダメです」
「つれないなあ」

渋々彼の背中に回していた腕を離すと、パシャパシャと顔をすすいでいる音が聞こえてきた。一瞬だけでも甘い雰囲気になるかと思ったのに、本当につれない。せっかく恋人がスキンシップを取ろうとしてるんだから、もうちょっと動揺してくれたってよくない? とは思ったものの、まあ、こういう人なのだから仕方がないかと早々に諦めた。洗い終わった顔をタオルで拭いている彼と洗面台の鏡越しに視線が絡み合ったのを見て笑いかけると、「寝癖ついてますよ」と毛先が跳ねているであろう方向を指差したテツヤくんが言う。この辺りかな、とアタリをつけて少しでもマシにならないものかと撫で付けていると、顔を拭き終わった彼が横に身体をずらしたのを見て洗面台の前に立った。
「今起きたんですか」
「うん。テツヤくんは?」
「ストリートに行ってきます」
「ほんとにバスケ好きだねえ」
「……これだけはずっと好きですから」

知っていますとも。出会ったときから今までずっと、彼の色素の薄い手に触れているのはバスケットボールばかりだ。それか選りすぐりの文庫本。それだって、さすがにあのボールほどは擦り切れてはいない。高校生のときは誇張ではなく本当に毎日バスケをしていたらしいし、大人になって頻度は下がりこそしたものの、休日になると隙あらばこうしてボールと触れ合いに出かけていく。そして、随分と遅れて寝ぼけ眼でリビングに行った私を「おはようございます」と迎えた彼は大抵いつもバスケットウェアもしくはTシャツとジャージに身を包んでいて、「よく寝てましたね」と揶揄ってきたり「朝ごはんはそっちにありますから」なんて私に言ったあと、軽くキスをして「行ってきます」と言って笑うのだ。

洗面所から出て行った彼と入れ替わるようにして蛇口をひねる。よし、テツヤくんを見習って今日は私もさっさと顔を洗って寝癖を治すことにしよう。冷たい水で顔を洗ったらちょっとスッキリした気がする。相変わらず欠伸は止まらないけれど、ひとまず二度寝をする気分ではなくなった。キャビネットからタオルを取り出して顔を拭き、化粧水でパッティング、それが終わったら乳液を塗って、仕上げにたっぷりめのクリームで蓋をしてからようやくドライヤーを手に取る頃には家の中からは物音が一切聞こえなくなっていた。
「あれ!? もう行っちゃった!?」
「まだですよ」
「うわあ!」

ぬっとドアの向こうから姿を現した彼に「わざと気配消すのやめてよ!」と抗議すると「すみません」と謝罪の言葉が聞こえてくる。
「心臓止まるかと思った」
「それ毎週言ってますよね」
「毎週テツヤくんがからかってくるからでしょ」
「すみません」

この「すみません」は大して悪いと思ってないやつだ。私も別にそんなに怒ってないからいいんだけど、どうにもいつも彼の方が上手な気がする。テツヤくんの手のひらの上でころころと転がされている自分が見える。
「何時からやるの? バスケ」
「13時くらいですかね」
「ふうん。怪我しないようにね」

玄関でスニーカーの靴紐を結び直しているつむじを見下ろしながら声をかけているうちに、またもや丸まった背骨の方に視線が吸い寄せられていく。しばらく眺めているうちに、色々なことが思い返された。さっき腕を回したときに感じた腰の細さだとか、一回だけ会わせてもらったバスケ仲間の人たちに比べると随分と華奢だけどあんな人たちとバスケして一方的にこてんぱんにされてたりしないのかなとか、昨日寝る前に読んでた本はもう読み終わったのかなとか、靴紐を結ぶ仕草が私よりも丁寧だなぁとか、その細やかな指の動きであったりとか、でもこんなに華奢なのにテツヤくんはやっぱり男の子でその腕で抱きしめてくれる力は私よりも随分と強いんだよなとか。靴紐を結び終わって立ち上がった彼が言った「行ってきます」の言葉に意識を引き戻されるまで、私はただひたすらに彼とその皮膚の下の骨格について考えていた。
「どうかしましたか?」

玄関で突っ立ったまま動こうとしない私を見た彼が怪訝そうな表情を浮かべているのが見える。

――今日、まだキスしてない。いつもなら「行ってきます」って言うのと一緒にしてくれるのに。でもそれをわざわざここで呼び止めてまで言うのはちょっぴり恥ずかしいような気がするし、催促するのもなんだか違う気がして、ようやく捻り出したのは「何か忘れてない?」というなんとも回りくどい言い回しだった。一体何のことやら、と首を傾げている水色の瞳に射抜かれると途端に居た堪れない気持ちになってくる。
「……いや、ごめん、何でもない。行ってらっしゃい。気をつけてね」
「はい。行ってきます」

もう一度さっきと同じ言葉を呟いてから、テツヤくんは玄関の扉を開けて出て行った。――結局何にも言えなかった。キスなんてもう数え切れないくらいしているはずなのに、たった一回願ったタイミング通りにしてもらえないだけでこんなにもやるせない気持ちになってしまうとは。
「……掃除でもするかぁ」

彼を見ていると、いつだって何かをしていなくちゃいけないような気がした。理性的な人だった。ソファに座ってじっと本を読んでいるときも、ご飯を食べているときも、彼がその表情を崩すことは滅多になくて、ましてや浮き出た背骨に触れられる機会なんてもっての外だ。組み敷かれているときでさえも、私の目に触れるのは彼の正面を向いた身体だけ。そして、次の朝に私が目覚めるときには大抵いつも、ベッドの左隣は空っぽになっている。それがたとえ今日のような特に予定のない日曜日であっても。だから余計に触れたくなってしまったのだ。無防備にさらけ出されていた背骨に。……あーあ、滅多にないチャンスだったんだけどなぁ。


ガーガーとけたたましい音を立てる掃除機をカーペットに沿って動かしながら、今頃テツヤくんが到着している頃であろうバスケットコートへと思いを馳せてみる。ストリートでやるバスケットボールに厳格なルールというものはあまりそぐわないらしい。気が向いたときにふらりと足を向けてその場にいる人とバスケをするのもよし、誰かと誘い合って行くのもよし、一人で黙々とシュート練習をするのもよし。ゴールリングは来るもの拒まず、去るもの追わずで、その自由さが彼にとっては心地良いらしかった。もちろん体育館を予約してチーム形式でやるバスケも好きらしいけれど、各々が限られた休日で色々な用事を済まさないといけない社会人となった今では、こうしてストリートで気が向いたときに落ち合うくらいの関係がちょうどいいそうだ。そうやって学生ではなくなった今でも失くならない繋がりがあるのって、時折ものすごく羨ましく思う。だけど私にはバスケのことはさっぱり分からないから、こうやって彼が帰ってくるのを家事をしたり友達と電話したり動画を観たりして待っていることしか出来ない。家が綺麗になってテツヤくんが少しくらいでも喜んでくれたらいいんだけどなぁ。

よし、こんなもんでいいだろう。前に掃除をしてからそんなに日が経っていないせいか、思っていたほどの成果は得られなかった。ひと段落ついたところでソファに寝転ぶと、その向かいでひっそりと佇んでいる本棚と所狭しと並べられた本の行列が目に入る。テツヤくんとこの部屋に引っ越してくるときに買った本棚だ。

理性的な人だった。そして、特定のこと(例えばバスケとか、お気に入りの作家の新刊とか。私のこともそうだったらいいなとも思うけれど真意は確かめたことがないから分からない)以外にはあまり興味を示さない人でもあった。そんな彼に「一緒に住みたいんだけど」と持ちかけたとき、私はさながら博打打ちの気分だった。さてこれが吉と出るか、凶と出るか、その運命は私ではなく彼の方が握っている。運命を委ねられた彼の方は、私がずばりその言葉を口にするまで顔色ひとつ変えることなくソファに座ってぺらぺらと一定のリズムでページを捲っていた。

しばらくの沈黙、こちらを見つめる丸くて薄いブルーの瞳、開かれたままページの捲られる事のなくなった文庫本。そして――ゆっくりと口を開いた彼はただ一言、「ボクは本棚があればいいです」と言った。てっきり何の反応も示されないであろうと思っていた私は、彼の主張が聞けたこと、同棲を断られなかったこと、そして、彼個人のスペースに踏み入ることを許可されたような気がしたことにそれはそれは喜んだ。「インテリアは君に任せます」という言葉のままに勢い余って物凄く大きな本棚を買ってしまって、届いた段ボールの大きさに目を丸くした彼に「どこに置くんですか」と言われてしまったほどだ。置くスペースの確保はもちろん、組み立てだってそれはそれはもう大変だった。届いたのは朝だったのに、本棚がようやくその役目を果たせるようになった頃には日もとっぷりと暮れてしまっていて、とても完成した本棚に本を並べるような気力は残っていなかったその日は二人で珍しく買い置きしておいたカップラーメンを食べた。思い返してみると、珍しい彼の姿ばかりを目にすることが出来た一日だった。あれほどまでに額に汗を浮かべて息を切らしたテツヤくんの姿を私は後にも先にも見たことがない。――いや、本当にあれが最後だったんだっけ? たとえば今日の彼はどうだっただろう。思い起こそうとしているうちにどんどんと瞼は重くなっていって、気がついた頃にはもう何も考えられなくなっていた。



柔らかな刺激で目が覚めた。飛び起きたと言ってもいい。寝ぼけ眼をこすりながら顔を上に上げると、細められた視界の中で「おはようございます」と言ってTシャツ姿のテツヤくんが笑っていた。おはようございますって、もう窓の外は真っ暗だ。何時から寝てたんだっけ。いつテツヤくんは帰ってきてたんだっけ。いや、いやいや、それよりも、気にしないといけないことがもっと他にある気がする。唇を触って何か変わったことはないかと確かめてみたけれど、朝にリップクリームを塗ったきりだったそこは潤っているとも乾いているとも言い難い感触がして、果たしてさっきのあれはこんなものだっただろうかと首を捻った。
「……え、何今の? 夢?」
「さあ。どうでしょうね」
「いやその言い方絶対夢じゃないじゃん! もう一回して! 今度はちゃんと起きてるから」
「だめです」
「何でよ」
「忘れ物は一回だけでしょう?」
「……気付いてたの?」
「はい」
「じゃあもう一回忘れたことにしない?」
「今日はもう出かけませんよ」

ちゃんと帰ってきましたから、と続けた彼が口の端をふっと緩めて笑う。私の好きな笑い方だ。予定のない日曜日に私を放って出かけて行っても、何も言わずとも晩ご飯の前には帰ってきてくれる、私の好きなテツヤくんだ。無性に抱きつきたくなって手を伸ばすと、本棚に置かれた時計に目をやったテツヤくんが「そろそろご飯にしましょうか」と言いながらちょうど手を差し出してきたものだから、その手を握って立ち上がった。掃除機をかけた後は冷蔵庫の中を整理しておこうと思っていたことを思い出したけれど、それはまた来週にすればいいかと思い直しながら。

テツヤくん越しの視界に映った本棚には私が最初の誕生日にあげた手袋と、彼が読んでいる(もしくはこれから読まれる予定の)たくさんの本と、中身を飲み干した後も捨てられなくてどうしようもなくなってしまった選りすぐりの紅茶の缶が並べられている。私たちの歴史がたくさん詰まった私たちだけの本棚だ。これだけ多くを積み上げていくのは大変で、たくさんのことがあったけれど、こうやって歴史の断片を眺めている時間は世界で一番楽しい。
「テツヤくん晩ご飯何食べたい?」
「麺類の気分です」
「麺類か。うどんまだあったかなぁ」

冷蔵庫の中身を思い浮かべながら彼に続いて冷蔵庫へ向かう。その途中、また白いTシャツに包まれた背中に目が止まった。そうだ、この後二人でうどんを食べてシャワーを浴びてベッドに潜り込む時間になったら、今日は彼のこの薄い背中に手を回してみよう。きっとびっくりされるんだろうけれど、それもまた歴史になって積み上げられていくだろうから、いつの日にか当たり前になっていくはずだ。視界に入る度に「大きいなあ」と思っていた本棚も、いつの間にか自分たちにとってベストなサイズのように思えてしまっている今のように。

私の後ろから冷蔵庫を覗き込んだ彼が「うどんありましたよ」と示した指を絡め取ってそのまま後ろを向いてキスしてやる。珍しく目を丸くしている表情が見えた。その可愛い表情を見ていると無性に問いかけたくなってしまう。ねえテツヤくん。こうやって二人で色んな歴史を積み上げていくのって、ともすれば世界でいちばんの幸せなのかもしれないって、テツヤくんもそう思わない?

20210906 Happy Birthday to SHIKI(KASHMIR)

Live Long And Happily Ever After!

titled by 失青