誰が為に鐘は鳴る

また性懲りもなく生き残ってしまった。そう思うのはもう何度目になるだろうか。

もうずっと、終わらない悪夢を見ているかのようだ。




ウォール・マリア奪還作戦を翌日に控えた夜。は大きな塊の肉を巡って小競り合いを繰り広げる後輩たちを尻目に、黙々とフォークを口へ運んでいた。向かいにはハンジ分隊長とリヴァイ兵士長、隣には班長のディルク、マレーネ、クラースが座っている。は調査兵団では『ベテラン』と呼ばれる兵士たちのうちの1人だ。新兵だらけの今の調査兵団では、特に巨人討伐数が多いとは言えない彼女ですら、歴戦の兵士扱いをされる。巨人との戦果に関係なく、数年前の調査兵団入団からただ今この瞬間まで生き延びているというその事実だけで、彼女はハンジやリヴァイと肩を並べるまでの位置に立っていた。

少し離れたテーブルでとうとう殴り合いを始めたエレンとジャンを横目で見やり、やれやれ、とはフォークを置いて呟く。
「ちょっと奮発しすぎたんじゃないですか?あれじゃ巨人と戦う前に怪我しますよ」
「さすがに2ヶ月分の食費をつぎ込んだのはまずかったか……」
「でも、ウォールマリア奪還の前祝いにしちゃ安いものだろう?」
「そうさ。明日からは、毎日肉が食べられるかもしれないしね」
「そりゃいい。芋ばかり食べるのは飽きてたところだ」

ディルク、マレーネ、クラースが口々に言う。巨人を相手に来る日も来る日も戦ってきた調査兵団の暮らしぶりは決して良いものではなかったが、今の彼らの瞳には光が映っていた。ウォール・マリアを自分たちの手で取り戻せるかもしれないという光が。
「あれ、リヴァイどこ行くの?」

ハンジの問いかけには答えず、兵士長のリヴァイはずんずんと進んでいき殴り合いを続ける104期生2人に近寄ると、双方の腹に蹴りと拳を入れて喧嘩を止めた。喧嘩両成敗。床に転がるエレンとジャン、「掃除しろ」の一言で大慌てで掃除を始める新兵たちを見て、はヒュウと小さく口笛を吹いた。
「エレンもジャンもですけど、……若いっていいですよねえ」
「なに、君だって私たちから見たら十分若いよ。リヴァイもそう思うだろ?」
「……」

席に戻ってきたリヴァイにハンジが問う。しかしその問いに彼は答えず、「さっさと寝ろ」とだけ言い残し自らのカップを持って席を立った。みな浮かれてはいるが、明日は人類の命運をかけたウォール・マリア最後の奪還作戦が控えている。ここにいる全員がもう一度こうして集うことはきっとないだろう。それでも、彼らは巨人を倒さねばならない。ウォール・マリアを取り戻さねばならない。その事実を今一度、彼らは思い出した。

夜風に当たってから眠ろう。がそう思って外に出ようとすると、リヴァイ兵士長の姿が目に入った。何してるんですか兵長、と声をかけようとしたそのとき、シーッと人差し指を唇に当てる仕草をしたリヴァイに遮られる。彼が顎で示した先には、それぞれの寝床へ帰ろうとするエレン、ミカサ、アルミンの姿があった。
「盗み聞きなんて趣味が悪いですよ」
「………」

104期生3人の足音が完全に聞こえなくなってから、は口を開く。人類最強の兵士は答えない。何も言わず、ただ目線を足元へと移した。
「海が見てえんだと」

酒が注がれたコップを口へ運びながらリヴァイは言った。
「海?」
「ああ。辺り一面に広がる塩水のことらしい」
「そんなのあるんですか」
「俺にも信じられんが……アルミンが言うんだ、あるんだろう」

にわかには信じられないが、兵士長がそう言うのなら、きっとそうなのだろうはリヴァイの隣に腰を下ろすと両手で膝を抱いて、明日から行われるウォール・マリア最終奪還作戦に想いを馳せた。

自分たちの生きる壁の中は狭すぎて、外がどうなっているのかを知りたくて調査兵団に入ったはいいけれど、外の世界を知れば知るほど分からないことが増えるばかりで、何も掴めやしなかった。友人も、家族も、上司も部下も何もかも失って、なのに私はまだしぶとくここに立っている。幾度も幾度も巨人と戦って、ああ死ぬかもしれないと思ったことは何度もあって、だけどいつも死ねなくて。何人もの仲間が巨人に食われるのを見てきた。いつのまにか先輩よりも後輩の方が増えていって、巨人と戦っていたはずなのに人間にまで手をかけるようになって。巨人の正体は人間かもしれないなんて言われて。私たちは一体何をしてきたのだろう。そして、これからどこへ向かうのだろう。いくら考えても答えは出ないのに、つい、一人になると考えてしまう。

明日になれば、全てが変わるのだろうか。ウォール・マリアさえ奪還することが出来たなら。もう二度と巨人に蹂躙されることのない未来を、この手で手に入れることが出来たのならば。
「……明日の作戦が終わったら、兵長はどうしますか?」

蚊の鳴くような声で呟いた女の声に、男は眉根を寄せて「さあな」と短く答えた。
「詳しいことはエルヴィンが考える。俺たちはただ、それに従えばいい」

自分たちは調査兵団だ。壁の外を駆け、巨人のうなじを削ぎ落とし、人類を守ることが仕事だ。その“巨人“がいなくなった後、自分たちは一体どうなるのかを女は聞きたいのだと、リヴァイは分かっていた。分かってはいたが、自分が昼間エルヴィンにしたように真っ直ぐにこちらを見つめて問う女の眼を彼は見つめ返すことが出来ない。沈黙が流れる。目の前の男が何を思っているのか、彼女には分からなかった。

このまま明日が来なければ良いのに。

骨ばった手が足元に置かれたコップへと伸びる。「もう寝ろ」と人類最強の兵士が小さく呟いたのを聞こえないふりをして、目の前の男がコップに残った酒を喉元へ一気に流し込む様を見つめながら、はそっと瞼を閉じた。




さすがに今回ばかりはもうダメかもしれない。

ウォール・マリア最終奪還作戦決行の日。は、まるで掌に掬った砂つぶのように超大型巨人の手からこぼれ落ちてくる家々を見つめながら、ただ立ち尽くしていた。

鎧の巨人をあわや討ち取れるかもしれないところまで追い詰めた後、超大型巨人ことベルトルトが入った樽が投げ込まれ、爆風に巻き込まれ散り散りになった調査兵団の仲間をは見失ってしまっていた。リヴァイ兵長は一体どこだ。エルヴィン団長、ハンジ分隊長、ディルク、マレーネ、クラースは無事なのだろうか。爆風が起きた瞬間、ちょうど104期生の近くにいたは少し髪と服を焼かれた程度で全くの無傷だったが、104期生以外の調査兵団の姿が見えないことに焦りを覚えていた。考えたくはなくとも、『敗北』の二文字が頭に浮かぶ。

もうダメなんだろうか。リヴァイ兵長は獣の巨人を倒すために向こうへ行ってしまったし、壁の上に立っていたはずのエルヴィン団長の姿は見えなくなってしまった。超大型の近くにいたハンジ分隊長たちは無事だろうか。何も分からない。何も分からないのに、巨人はどんどんこちらへ向かってくる。私はこれから奴らに食われるのか。ああ、こんなことならば先輩風を吹かしたりせず、昨日のうちに肉をお腹いっぱい食べておくんだった。それとも、人生最後の晩餐が肉だっただけでマシだと思うべきか。

大きな口を開けて、巨人が迫ってくるのが見える。数えられるだけで、ざっと4体はいるだろうか。

ああ嫌だ。いつ死んでもいいと、人類のために心臓を捧げたと、そう思っていたはずなのに。この期に及んで『死にたくない』と願ってしまうのはきっと、昨日見たリヴァイ兵長の顔が、骨ばった手が、頭に焼き付いて離れないからだ。

こんなことならば、もっとたくさん話をするんだった。思えば私は、兵長にまだ何も伝えられていない。好きだっていうことも、私だって本当は『海』を見てみたいということも、あわよくば調査兵団の仲間とともう一度酒を飲み交わしたいということも、もう今は思い出せもしない巨人のいない平和な世界をもう一度見てみたいということも、そして、家族も友人も仲間も上司も部下も何もかも失って、それでもまだ自由の翼を背中に掲げ続けていられたのは、他でもないリヴァイ兵長がいたからだということも。

まだ私は、何一つ伝えられていないのに。

巨人の手がこちらに迫ってくる。口を開けて、私がそこへ落ちてくるのを今か今かと待ち望んでいる。

死ぬのか。終わるのか私は。呆気ない最期だった。何もない人生だった。少しは調査兵団の役には立てたのだろうか。それももう分からない。巨人の手が、まるで赤子の手をひねるかのように私の体を掴んだ。

このまま明日が来なければ良いと願った昨日に戻りたい。……ああでも、せめて死ぬ前にもう一度、兵長に会いたかったなぁ。
「ーーーーーー……!」

あまりにも胸の中でその姿を思い浮かべすぎたせいかもしれない。巨人の腕に握りつぶされるその刹那、確かに兵長が自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。




エルヴィン団長を始めとするかつてないほどの甚大な被害と、超大型巨人の奪取と地下室の調査という僅かながらも大きな成果を出し、ウォール・マリア奪還作戦は終わりを告げた。

巨人に握り潰されるすんでのところでリヴァイに助け出されたは、ベッドに横たわりながらウォール・マリアでの出来事に想いを馳せていた。

巨人の腕に握りつぶされたあの時、幻聴だと思ったあの声はリヴァイ兵長本人から発せられたもので、腕と肋骨を折られながらも、私はまたしぶとく生き残ってしまったらしい。そして、腕の痛みに眩暈を覚えながらも視界に捉えたリヴァイ兵長の顔は、巨人の返り血に塗れながらも目だけは爛々として、鋭く眼光を放っていた。
「雑魚が諦めてんじゃねえ」

今しがた倒したばかりの巨人の上に立ち、ふらつきながらも立ち上がった私を見下ろしながら兵長が言う。獣のような鋭さを持つ瞳に、ただ首を縦に振ることしか出来なかった。

彼はまだ私に、諦めることを許してくれはしないのだ。
「オイ、入るぞ。掃除の時間だ」

ノックもなしにリヴァイが病室へと入ってくる。は肋骨に走る痛みを堪えながら、上体を起こし上司を迎えた。

今や10人足らずとなってしまった調査兵団では、掃除も炊事も巨人の討伐も何もかもに手が足りていない状況で、こうして兵士長自ら掃除をするまでに人手不足は深刻だった。もっとも、掃除に関しては他の者が担当したところで結局はリヴァイがやり直してしまうのだから、人手不足であろうとなかろうと彼が掃除の担当を外れることはないのだが。も肋骨の傷が癒え次第、また馬に乗って壁の外へ出るつもりだった。
「傷の痛みはどうだ」
「かなり治ってきてます。来週ぐらいにはまた馬に乗れるかもしれません」
「ああ。……ケガ人に鞭打つようなことは言いたくねえが、今は少しでも人手が欲しいところだ。おちおち休んでもいられねえ」

ウォール・マリアを奪還した後、リヴァイはいつにも増して考え込むことが多くなった。そうした上司の様子に、部下である#名字は気づいてはいれど何も声をかけられずにいた。

団長であるエルヴィンが死んだ。巨人に食われたのではない。巨人が投げる石に体を抉られ瀕死の重傷を負い、巨人になる薬を打たれずに死んだ。他の誰でもない調査兵団と、リヴァイ兵士長の手によって。彼女がその事の顛末を聞いたのは、巨人の掌の中から助け出された後、獣の巨人を追って飛び出したリヴァイが再び戻ってきたときのことだった。

聞きたいことは山程あった。それは調査兵団の皆も同じだ。だが、横たわるエルヴィンを前にして、彼を休ませてやらねばならないと言うリヴァイの顔を見てしまっては、もう何も言えなくなってしまった。

どうして彼ばかりがこんな選択を迫られなければならないのだろう。そして私は、いざという時、兵長と同じことが出来るのだろうか。天秤にかけられるのだろうか。兵長と、……兵長ではない誰かとを。もし、もしもの話ではあるけれど、そんな未来がやってきたとしたら。……私は、どうしたら良いのだろう。

巨人がいなくなった後の世界で自分たちは一体どうなるのかと不安に思ったあの夜のことを、は思い出していた。
「リヴァイ兵長、私があのとき言ったこと、覚えてます?」
「……」
「ウォール・マリア奪還作戦さえ上手くいけば、私、もう何もやることはないって思ってたんです」

人類最強の兵士は答えない。あの夜と同じように、何も言わずに目線を足元へと移した。

あの夜。人類最強の男は目の前の女に向かって「詳しいことはエルヴィンが考える」と言ったが、そのエルヴィンはもういない。失ってしまったものは、もう戻らない。戻らないけれど、いや戻らないからこそ、彼らは進んでいかなければならない。諦めるわけにはいかない。ウォール・マリアを取り戻しても、調査兵団はまだ歩みを止めるわけにはいかないのだ。そのことを、もリヴァイも理解していた。
「ねえリヴァイ兵長。兵長には、やりたいことはありますか?」

いつかの彼がそうしたように、彼女は彼に問う。人類最強の兵士は答えない。微動だにせず、ただ白いシーツに寄せられたシワを眺めている。それを気にも留めず、彼女は続けた。
「私、兵長と海が見てみたいです。あと、グリシャさんが残した手紙にあった飛行船と写真も。何年かかったとしても、見てみたいと思ってます。この目でちゃんと見るまでは死ねないですね」

俯いていた兵士長が顔を上げた。目の前の女を真っ直ぐに見つめた彼はフンと鼻を鳴らすと、今しがた告白とも取れるような発言をした部下に向かって吐き捨てるように言葉を投げる。
「……巨人に食われるより俺と生きる地獄を選ぶのか?」
「そうだって言ったら、兵長はどうします?」

質問に質問で返すんじゃねえ。女の返しにリヴァイは苛立ったが、そんな上司の様子を気にも留めず、彼女は上機嫌だ。リヴァイと生きる道が地獄であることを否定する気はないらしい。変わった女だと彼は思った。巨人もろくに倒せやしない雑魚のくせに、目だけは爛々と輝いている。まるでかつての誰かのように。
「……クソガキが」

病室に夕日が差し込み、彼女はその眩しさに目を細める。日に照らされ、白いベッドにゆらゆらと揺れるリヴァイの口元が、の目にはうっすらと微笑んでいるかのように見えた。