赤と青とあなたとのこと

彼はいつだって立ち尽くしているように見えた。

でっかい人がいるなあ。第一印象はそれだった。入学式で同じ制服の大群がずらりと並ぶ体育館で、まるで壁のように後ろに立つ生徒の視界の邪魔をしていた大男。それが緑間だった。後ろに並ぶ生徒が迷惑そうにつま先立ちできょろきょろとしているのに気づかないのか、ピンと背筋を伸ばしてまっすぐに舞台を見ている彼の姿はいやでも印象に残った。切りそろえられた髪型とかっちりした眼鏡が余計に厳格な家庭で育てられたお坊ちゃんのような雰囲気に拍車をかけていて、話しかけるのも憚られるような今時の高校生には似つかわしくない緊張感を彼は漂わせていた。そんな緑間のちょうど斜め後ろに並んでいた私は、次々と紹介されていくお偉いさん方や学年主任、担任の先生なんかの顔を(緑間に視界を遮られているせいで)誰一人認識出来ずに高校生活最初の行事を終えてしまった。別にそれは悔やんだり嘆いたりするような重要な出来事ではなかったから特別気にする必要もなかったのだけれど、大事なのは緑間に対して私がどういう印象を抱いていたかということのほうなのだ。

校則通りにきちんと着用した学ラン、堅そうな眼鏡、にこりとも笑わない顔、滅多に変わらないトーンの声色。真面目そうな子だなあと思っていた私の勘はピタリと的中、真面目どころか生真面目すぎてこっちが気疲れしてしまいそうなくらい、緑間真太郎は融通がきかない男だった。




上下に交差した道路をまばらに通っていく何台もの車を見送って、私は緑間と一緒に帰り道を歩いていた。危ないからと送ってもらったりわざわざ一緒に帰っていたりするわけじゃない。たまたま同じ方角だったのだ。

『学級委員』なんて面倒くさいものに入学早々任命されてしまった私(じゃんけんで負けた)と、真面目そうだからなんていう単純な理由で押し付けられてしまった緑間。最初から協力する気なんてさらさらないとでも言いたげな態度の緑間を、無理矢理引っ張って会議室に連行した。私の腕の力なんてちょっと動けば振り払えそうなのに、結局会議が終わるまで抵抗らしい抵抗をしなかった彼に「ほんとは学級委員そんな嫌じゃなかったりとかする?」と聞くと冷ややかな目で見下ろされてぎくりとする。失言、の可能性。「……慣れているだけなのだよ」低いトーンで返された声に、やってしまったと思った。そして、なのだよって何なんだろうとちょっぴり思ってしまった。そういう口癖なのかもしれない。

会議室を出て靴箱でうわばきをスニーカーに履き替えてから校門に向かうと、チラシを持った上級生たちが一斉に近づいてきて思わず立ち止まってしまった。だけど緑間は上級生から次々と押し付けられるチラシを全く意に介していないようで、私を置いてずんずんと進んでいく。え、嘘でしょ、ちょっと待ってよ。
「緑間くん!」

一緒に帰る義務はないと言われてしまったらそれまで。だけど、追いかけないといけないと思ってしまった。適当にチラシを受け取りつつ小走りで大きな後ろ姿を追いかけて先回りすると、ようやく彼は止まってくれた。眼鏡のフレームを押し上げて何の感情も読み取れない顔で見下ろしてくる目の前の男に手で握りしめたせいで少しよれよれになっている紙の束を見せる。「チラシ、いらないの?部活しない人?」と聞くと「部活はもう決まっている」と短く返ってきた答えに意外だと思った。入りたい部活あったんだ。部活とか、委員会とか、そういうの好きじゃなさそうなのに。
「何部に入るの?文化系?楽器出来そうだよね」
「……おまえには関係ないだろう」
「え」

嫌がられている。もっと言えば、鬱陶しがられている。浴びせられた刺々しい言葉以上に、表情がそう語っていた。今まであまり人から冷たい態度をとられたことのなかった温室育ちの私は、その言葉だけで目の前の同級生に対して一気に萎縮してしまって何も話せなくなる。こんなにも心の中が穏やかじゃないのも小学校のときにした喧嘩のあとの帰り道ぐらいじゃないか。もういっそのことここで背を向けて一目散に走り去ってしまえたらいいのに、私の帰り道と緑間の帰り道はどうにも同じらしいのだ。歩けど歩けど道が分かれる気配もない。意を決して走り出そうとする度に、信号が赤に変わって立ち止まらざるをえなくなってしまう。

ええい、もう、どうにでもなってしまえ。たかがクラスメイトの一人に嫌われようと好かれようと、今後の高校生活に出る支障なんてほんの少しなんだ。
「緑間くん」
「……」
「緑間」
「……」
「ねえ」

無視しないでよ。言おうとした言葉を口の中で噛み殺した。緑間は、一大決心をして勇気を振り絞って話しかけた私にはこれっぽっちも興味がなさそうな顔で一向に変わる気配のない信号を眺めている。だだっ広い背中をグーで殴ってやろうかと思った。信号はまだ青にならない。大通りでもなんでもない通学路は人通りも少なくて、私と緑間以外に歩いている人もいなかった。東京だって都心を離れれば他の県と何も変わらない、普通の街が広がっているのだ。

朝ここを通ったときは何とも思わなかったのに、やけに信号が長く感じられる。もう5分は待ってるんじゃないか。その間車は一台も通らなかった。今だって交差点の向こうから車がやってくる気配はない。右、左、そしてもう一回右。何度確認してみても、車がやってくる気配は全くといっていいほど感じられない。もういいか、と一歩を踏み出したとき横から突き刺さってくる視線を感じた。
「赤だぞ」

知ってるよ。だからさっき車来てないか確認したでしょ。咎めるような緑間の口調に少しぎくりとしながら人気のない道路を指で示した。
「でもさ、緑間。車全然来てないよ」

だからいいじゃん別に、と心の中で付け加える。それでも緑間は眉間に皺を寄せた怖い顔のまま口調を強めて言った。
「ルールはルールだろう。きちんと待て。信号無視をするな」
「……そりゃそうだけど」

正論だ。ぐうの音も出ないほどの正論だ。まさしく学級委員にふさわしいような模範的な回答。だけど、私にはそんな風に正しいことを並べ立てる緑間が心底堅苦しくて仕方ないように思えた。堅苦しくて、融通が利かない。なおも突き刺さる視線に居心地が悪くなり、踏み出した一歩のその先まで足を進める気にはもうなれなくて、すごすごと緑間の隣りに立つ。その様子にふんと鼻を鳴らした緑間はそれ以上何も言わずにまるで私など視界に入っていないかのようにまっすぐ前へと視線を戻した。さっきよりもうんと大きな気まずさが私を襲う。反対側の歩行者信号がようやく赤に変わったのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。




ああいうことがあってから、私は緑間に対して完全に苦手意識を持つようになってしまった。女子校育ちでもあるまいし、男子と会話するだけで緊張するなんて今まで一度も経験したことがなかったのに、緑間と話すときだけどうにも張りつめた糸のようなものを感じてしまう。失礼があったらどうしようとか、機嫌を損ねてしまわないだろうかとか、またあんな冷たい視線を送られるのはやだなあとか、小さなことが気になって冗談の一つも言えなくなってしまうのだ。

そんな緑間に友達が出来たと知ったときは心底驚いた。あの緑間と友好な関係を築こうとするなんてどんな物好きか、はたまた罵られるのが好きなドMか。なんにせよ普通じゃない輩だろうと思っていたのに授業中も部活も一緒だというその友達がクラスでも一二を争う人気者の高尾だと聞いたときは椅子からひっくり返るかと思った。よりにもよって高尾って。一緒にいるとき何話すんだろう。共通の話題あるのかな。真逆のタイプに見えるのになあ。
「あー真ちゃん?あいつバスケすっげえからさあ」

あと何か面白くね?ラッキーアイテム持ってんだぜ?と高尾はけらけら笑う。何の気なしに聞いてみたつもりを装って緑間について伺うと、それはそれは楽しそうに緑間についてのあれこれをぺらぺらと喋り出すものだから驚いた。毎日欠かさずおは朝の占いを見ているとか、指のテーピングは怪我じゃなくて怪我しないための予防線なんだとか、コートの反対側からでもシュートが入るとか。冗談か本気か判断しかねるその楽しそうな語り草を眺めているとどうやら緑間と高尾が友達というのは本当らしいと納得せざるをえなかった。友達であり、相棒であるらしい。パスする人とシュート打つ人だから?とかなんとか。あのとき緑間が部活はもう決まってるって言ったの、バスケ部のことだったんだ。そんなバリバリの運動部だと思ってなかったからびっくりした。文化系じゃなかったら将棋部とかそういう頭を使う方の部活だと思っていたのに、ちょっとイメージ変わっちゃいそうだ。


イメージが変わるどころの騒ぎじゃなかった。秀徳のバスケ部といえば、都内でもベスト3に入る強豪だっていうじゃないか。しかも、一年生なのに緑間と高尾はユニフォームを貰って試合にも出ずっぱりらしい。にわかには信じられなかったけれど、試合を見に行ったらしいクラスメイト全員が口を揃えて「緑間と高尾は凄い」と言うんだからどうも本当みたいだ。これで学級委員の会議に行こうと誘っても部活を理由に断られていたわけが分かった。サボりの口実とか、面倒くさいとかじゃなく、本当の本当に真面目に練習に打ち込んでいるからだったんだ。

そう思い至った途端、今まで非協力な緑間に腹を立てていた自分が恥ずかしくなった。ワガママで邪魔をしていたのは私の方じゃないか。もしかしたら入学式のときもバスケ部の見学に行きたかったのかもしれない。なのに、渋々といった感じではあったけれど着いてきてくれた。「慣れているのだよ」と言ったあの言葉は、そうやって事情を考えずに何かを押し付けられるのに慣れてるってことじゃないのか。あのとき諦めの入ったような声色で言った緑間は、もしかすると私が思っているよりも冷徹な男じゃないのかもしれない。きっとその逆で、表現が下手くそで回りくどいけれど真面目で律儀なところのある人なんだろう。

そう思うと今までの緑間に対するあれこれについて申し訳なさでいっぱいになってしまった。二週間に一回程度の頻度で開催される会議にも、緑間を引っ張っていく気はなくなって彼のほうから「会議はもういいのか」と聞かれる始末だ。そんなこと気にせず部活に打ち込んでもらえたらそれでいいのに、どうも緑間は私の態度の豹変ぶりを不審に思ってしまうらしい。なるべく優しく聞こえるように「部活忙しいんでしょ」と言うと、「それはそうだが」と答えが返ってくる。
「私部活やってないし、代わりに出とくからいいよ。意見あったら言ってもらえれば助かるけど」
「……そうか」
「うん。今日も高尾とじゃんけんして帰るの?」
「ああ」
「どっちが勝つかな」
「オレに決まっているだろう」
「すごい自信だ」

秀徳に入学して三ヶ月と少し、張りつめた糸のような緊張感はもうさほど気にならなくなっていた。むしろ、私は緑間を不器用で辛辣な物言いをすることもあるけれど(高尾のことを下僕呼ばわりしたり)、一度親しくなった相手にはきちんと世話を焼く義理堅い良いやつだと評価していた。学級委員の件は抜きにして、もっと仲良くなれたらいいのにと思うけれど結局教室以外で緑間と一緒に話したのは最初の会議終わりに一緒に帰ったあのときだけ。高尾と友達になってからというもの、緑間は徒歩じゃなく高尾が引くリアカーで通学しているから。一度リアカー通学してる姿を目撃して「めちゃくちゃ目立ってたよ」と言ってみたけれど、「当然なのだよ」と得意げに返してきたのを見て高尾が言ってた面白いって多分こういうところのことなんだろうなぁと何となく思った。ズレてるし、偏屈だし、真似しようとは思わない個性だけれど、不思議と嫌な感じはしないのだ。




さすがに一学期最後の日まで視界を塞がれるはめになる後方の生徒が可哀想だと思ったのか、終業式では緑間は出席番号順の本来の立ち位置じゃなく一番後ろに移動させられていた。そのほうが本人も周りも気を使う必要がないからだろう。いそいそと一番後ろに向かって歩いていく姿を、少し前の方から振り返ってけたけた笑う高尾と一緒になって茶化しながら見ていると、ちらりと目線を下げた緑間と目が合ったような気がした。どきりとする胸の内を隠して、さっさと行きなよと口だけで伝える。緑間は上機嫌とも不機嫌とも取れない何とも言えない顔をしながら、最後列の黒い行列の中へと消えていった。
「いやー、最高だったわ。あのときの真ちゃんの顔」
「まだ笑ってんの高尾」
「とーぜん。お前もめっちゃウケてたっしょ」
「そりゃウケるよあんな顔されちゃ」
「ウケ狙いじゃないのがすげーよマジで」

式が終わって解散の声がかけられるやいなや一直線に向かってきた高尾はまだ笑い足りないのか口の端を釣り上げながら言った。心底感心したかのような高尾の様子にまたおかしさがこみ上げてくる。そうして二人でひとしきり笑ったあと、「真ちゃん戻ってこねーな」と高尾が呟いた。いつもとは違う場所に並んだせいで、式も終わって体育館から出るときに合流し損ねてしまったのだ。先に教室に戻っているのかもしれないと思って教室へ向かってみても緑間はまだそこにはいなくて、鞄も机の横に置かれたまま。高尾は緑間の席に座って「早く帰ってこいよ緑間ー」と言いながら足を上下にばたばたさせていた。退屈らしい。子供みたいだ。
「高尾部活行かないでいいの?」
「今日は昼から練習。あ、昼飯一緒に食う?」
「お弁当持ってきてない」
「学食で買えばいいじゃん」
「今日お金持ってきてないんだよね。奢ってくれる?」
「ふざけんな」
「じゃあ食べない」
「お前早くバイトしろよ」

部活もしていなければバイトもしていない私のことを高尾は超絶暇人間だと思っているらしく、事あるごとにバイトしろバイトしろってうるさいけれどいまいち乗り気になれなくて、私は万年金欠だった。あんなに勧誘のチラシを貰った部活も結局入るタイミングを逃してしまったし、練習がきついと言いつつ部活で忙しそうにしている緑間や高尾を羨ましく思うことは多くある。口には出さないけれど、私もそういう風な高校生活を送ってみたいなって、思うときはたくさんあるのだ。こんなこと言うと「今からでも部活入ればいいじゃん」って言ってくるだろうから言わないけど。私が言いたいのはそういうことじゃない。そろそろ帰ろうかと鞄に教科書を詰め込んでいると、ドアの方を見ていた高尾が声を上げた。
「あ、真ちゃん」

言いかけた高尾が口をつぐんだ。目線の先には、教室のドアの向こうで少し困ったような顔をする緑間。と、その正面に女の子が一人。こっちに背を向けているせいで全然顔は見えないけれど、緑間よりもうんと小さくて髪の綺麗な女の子だ。…緑間が女子と二人で話してるの初めて見た。というより、あれってさ。あれだよね。うん。
「ありゃ告白だな」

言いたいことを高尾に言われた。無言で頷く。視線は女の子の後頭部に吸い付いたままだ。わざとらしくヒュウと口笛を吹いた高尾が、にやついた顔を隠さずに言う。
「真ちゃんもモテるねー」
「高尾も似たような感じでしょ」
「オレなんか全然だっつーの」

いっつも友達で終わるからな~なんて茶化して言う高尾の話は右から入って左から抜けていってしまいそうなくらい、私の目は緑間と女の子に釘付けだった。告白だ。あれは誰がどう見たって告白だ。緑間が、告白されている。なんて、言われたんだろう。緑間は、あの子に、なんて返事したんだろう。付き合うのかな、あの子と。彼女がほしいとか好きな人がいるとかそういう話はしたことがなかったけれど、緑間も他の人と同じように、恋人がほしいって、思う人なのかな。……たとえ緑間に好きな人がいなくたって、緑間のことを好きな人はいくらでもいるかもしれないんだってことに初めて気づかされた。現にあの子は緑間のことが好きなんだ。……私、緑間のこと何にも知らなかったのかもしれない。

話が終わったのか女の子に背を向けて教室に入ってきた緑間を見つめる。女の子の表情は見えない。緑間の背中にすっぽり隠されているからだ。どうなったんだろう。上手くいったんだろうか。視線に気づいた緑間が、眼鏡のフレームを押し上げて鼻を鳴らした。
「何を見ているのだよ」
「別にー?真ちゃんも隅に置けねえなあって思って」
「茶化すな」
「茶化してねーよ。な?」

突然話を振られてびっくりして緑間と高尾を交互に見ると、二人とも怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。
「具合でも悪いのか」

どうしよう、答えられない。緑間の声を正面から聞くだけで胸が苦しい。
「あ、えっと、……私帰るね」
「え」
「部活がんばって!また二学期に!」

机の上に置いていた鞄を引っ掴んで教室を飛び出した。後ろから高尾が私の名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返らない。廊下へ向かってずんずんと進んでいく。すぐそこに緑間がいるというのに、振り返れるわけない。
「何やってんだよ真ちゃん、追いかけるとこだろ」

ドアを開ける手前で高尾の声が聞こえた。だけど、それに答える緑間の声は聞こえてこなくて、俯いて歩く私は一度止めた足をどんどん速く動かして階段を駆け下りる。少しの期待を込めて振り返ってみたけれど追いかけてくる人影はなかった。ああ、やっぱり。急がないと涙が出てきそうだ。あれもこれも全部あんなタイミングで緑間に声をかける高尾が悪いのだ。ちくしょう高尾め、あのお調子者め。余計なことを言って、緑間が勘ぐってしまったらどうするっていうんだ。私の態度もバレバレだったと思うけど、ああもう、最悪だ。二学期になったら絶対とっちめてやる。


おそらく入学してから歴代ナンバーワンの速さでうわばきをスニーカーに履き替えて校舎を出た。校門をくぐって、人気のない通学路をどんどん進む。赤信号で止まる度に、もしかしたらと少しの期待を込めて後ろを振り返る自分を情けなく思った。バカだなあ、追いかけてくるはずないのに。あの緑間が、そんなことするわけない。あの人は目的の達成のためにはどんなに些細なことでもやろうとする人だけれど、反対に目的と関係のないことには大した興味を示さないのだ。恋愛感情とか、仲間意識とか、そういうものを意に介さない。無くたって気にしない。それでもそんな緑間のことを好意的に思っていたのは他の誰でもない私自身だ。バスケと勉強に真摯なところが好きだった。打ち解けるにつれて高尾みたいに愛想はよくなくてもきちんと返事をしようとしてくれるところが好きだった。私だけが好きであればいいと、思っていた。でも、そうじゃない。緑間のことを見ている人は私だけじゃなくて、他にもたくさんいて、そして緑間が選ぶのはきっとそのうちの誰かなんだ。私じゃない。どうでもいいことばかり話して肝心なことは何一つ言えない、私なんかじゃない。

一緒に帰ったあの日から、なんとなく胸がざわつくような心地がして例え車が全然通っていない赤信号でも私はきちんと足を止めるようになっていた。信号が変わるまでの時間なんて大した時間じゃないし、余裕を持って待てばいいだけの話。でも、あのときまでの私は何故かそれが出来なかった。しようとも思わなかったし、ルールを守れと言う緑間のことをなんて生真面目なんだと小馬鹿にまでしたほどだ。そんな私が、今では信号が変わる度に律儀に立ち止まっては後ろに誰かいないか確認しているなんて、滑稽としか言いようがない。

あんな態度を取ってしまって、緑間はびっくりしただろうか。なんて失礼なやつだと気に障ったかもしれない。まったく気にしていないかもしれない。それはそれで少し寂しいけれど、緑間のことだから十分に有り得る。高尾が余計な話してなければいいけど。

緑間は、あの人は、こうして信号にことごとく足を止める私をどう思うんだろう。意外だと感じるんだろうか。それとも、入学式のことなんてもう忘れてしまってるのかな。まさか、自分の影響とは夢にも思わないだろうなあ。五回目の赤信号で立ち止まる。涙を拭いながら歩いているせいか、今日はやけに立ち止まる数が多い。無駄だって思いながらも、ゆっくり後ろを振り向く。

私がさっき通ってきた交差点の、一つ向かいのほうで、学ランのまま律儀に信号を守っている緑間真太郎がそこにいた。

最初見たときは幻想かと思った。瞬きをして、涙の流れる目を擦る。だけど遠くからでも分かる大きな身体は消えなくて、もう一度涙がこぼれた。なんでいるの。どうして来てくれたの。私に期待させたいの?それとも高尾に追いかけろって言われたから?部活は?行かなきゃダメなんじゃないの?聞きたいことは山ほどあるのに、なかなか変わらない信号に痺れが切れそうになる。
「緑間」

大きく名前を呼ぼうとした声が掠れた。呼びかけても緑間は応えない。ただひたすらに、信号が青に変わるのを待っている。微動だにしないその姿はまるで道の真ん中で立ち尽くしているようだ。私は興奮と期待と恐れがごちゃまぜになったぐちゃぐちゃの気持ちを抱いて、どんな顔をしたらいいのか分からずに下を向いた。早く青になれ。いやでも、ずっと赤のままでいてほしい。どっちつかずの私は、前にも後ろにも進めないままただ緑間が動くのを待った。

信号で止まるとき、隣りに立つ彼はいつもまるで立ち尽くしているかのように見えた。でもそうじゃない。立ち尽くしていたのはきっと、私の方だ。

向かい側の信号が青になって、緑間が一歩を踏み出す。規則正しいリズムで体を揺らして、地面を踏みしめながらまっすぐにこちらへと歩いてくる。あの手に捕まってしまったら、もう元には戻れないと思った。目の前の何もかもを無視して、ひたすら走る私にはもうなれないのだ。頭ではそう分かっているのに、どうしてもあと一歩が踏み出せない。緑間が一体どういうつもりでこっちへ近づいてきているのか、知りたいけれどまだ怖い心地がする。あれだけ緑間のことを生真面目だの何の面白味もない男だのとなじってきたというのに、いざというとき動けなくなってしまうんじゃ私も同じだ。ねえ、緑間。もし嫌いじゃないというのなら、この手を掴む優しさがあるというのなら、地面に根が生えてしまったかのように立ち尽くす私を、どうか意気地なしと笑ってほしい。