痛いの痛いの飛び出した


「アホなん?」

こう言われて「はいそうです私めがアホでございます」と返す奴がおるとしたらここまで連れてきてほしい。世界中探してもおらんと思うから。「怒んなや」……怒ってないわちょっとイラッとしただけや。

土曜の夜、JR西宮駅の駅前にある居酒屋は地獄の様相を呈していた。まるで怒号のように行き交う会話、中身が溢れ出しそうなほど傾けられたグラス、引っ切りなしに鳴らされるベル、大して美味くもないくせに財布から金だけ毟り取っていくアテの数々。地獄だ。私の心境も地獄だった。

先ほどまで稲荷崎男子バレーボール部OB(平均身長180センチオーバー)の面々でぎゅうぎゅう詰めになっていた居酒屋のテーブルは、食べた後の食器や飲み干されたビールジョッキ以外はもぬけの殻となってしまっている。未だ中身の減る気配のない自分の分のビール瓶を睨み付けている私を除いて。そしてテーブルの向かいでスマホを弄りながら「早よ飲め」と急かしてくるのは昨今のバレー界を騒がせている(自称)モテモテプロバレーボールプレーヤーの宮侑。ちなみに彼の片割れであるはずの治は「明日も仕込みで朝早いねん」とか何とかで我先にと5千円だけ置いて帰ってしまった。「田んぼは休ましてくれへんからな」と皆の中で一番に帰る素振りを見せた北さんとともに。2人揃って薄情なことこの上ない。……いや、嘘。やっぱり嘘。北さんは全然薄情じゃない。薄情なのは治だけ。そして、場合によっては侑もかもしれない。




北さんが好きだった。いや今も好きだ。めちゃくちゃ好きだ。
「プロポーズしよかと思ってんねん」

ーーーーめちゃくちゃ好きだったのに。10年温めた初恋だったのに。北さんが選んだのは私じゃなかった。そもそも選ばれるための土俵にすら立てていなかった。北さんが結婚してしまう。私以外の女と。高校最後の春高が終わってから付き合い出した、あの女の子と。
「アホなん?」

今にも頭を打ちつけそうな勢いで顔を覆ってテーブルに突っ伏した私のつむじに向かってハァーと大袈裟に溜め息を吐いた宮から本日二度目の「アホなん?」が飛び出した。アホちゃうわ、と普段ならすかさず返しているところだけれど、今日この日ばかりは自分でも認めざるをえない。今か今かとタイミングを伺ってばかりでとうとう学生時代から一度も想いを告げられたことのなかった私は紛れもなく今、世界で一番アホであった。でも、そんなアホにも落ち込む権利くらいは持たせてほしい。
「だってさぁ宮、結婚やで結婚。プロポーズやで。身も心もあの人のもんになるってことやん。法律で守られてるやん。そんなんもう一生手出しできひん」
「お前が早よ言わんからやろ」
「結婚式呼ばれたらどうしよう」
「まぁ、マネージャーやし呼ばれるかもな」

俺は確実に呼ばれるけど。勝ち誇ったような表情を浮かべる宮に心の中で舌打ちをした。人が落ち込んでるってときに慰めもせず自慢するとか、かわいくない。180越えた筋肉ムキムキの男にかわいいもクソもないと思うけど。マジでかわいくない。少しは北さんを見習え。

北さんが好きだった。もうめちゃくちゃに好きだった。私たちマネージャーの少しの怠慢も見逃さない『ただの怖い先輩』だった北さんが、初めてユニフォーム貰って泣いてるのを見たあの日から、もうずっとずっと北さんのことしか目に入らなくて。あの人に「いつもありがとうな」と言われるが為だけに毎日来る日も来る日もマネージャー業に精を出していた高校2年生の私と、大人になった今の私は学生という肩書がなくなってしまっただけで何も変わらない。そして、北さんも何も変わっていない。反復、継続、丁寧。私の大好きな北さんは、今日も明日も明後日も、ただそれだけをひたすらに繰り返していく。

北さんのことを好きな人が私以外にもいることはとっくの昔から分かっていた。でも、そんなのは全くと言っていいほど気にしていなかった。全国大会常連の強豪校、問題児ばかりの男子バレーボール部をまとめている縁の下の力持ち。目立ちたがりの宮兄弟ほどじゃなくても女子に注目される理由は揃ってたけど、でも、何もかもをちゃんと丁寧に丁寧にやろうとするあの人に着いていけるのは、ずっとずっと好きでおり続けられるのは、そんな物好きは私だけだと思ってたのに。彼女が出来たってそのうち「真面目すぎる」とか何とか言って愛想尽かされて別れると思ってたのに。結婚してしまうなんてあんまりだ。
「せめて告白だけでもしとけば良かった……春高終わったあのときに好きですって言うとけば良かった……そしたらせめてもの思い出くらいにはなったかもしれんのに」
「思い出なんかいらんやろ」

宮の言葉に男子バレー部の試合でいつも掲げられていた横断幕を思い出す。思い出なんかいらん。今となっては空で言えるほど脳裏に焼き付いた言葉だ。だけど、個人的な見解を言わせてもらえば、そんなわけあるかいと思う。

走ると床がギシギシ音を立てながら軋んでた体育館も、北さんが毎日毎日飽きずに磨いてたボールも、埃ひとつ残さず掃き掃除をするようになった更衣室も、私の高校生活はそこかしこにバレーボールと北さんとの思い出が溢れている。それを「要らない」なんて、口が裂けても言えない。言えるとしたらそれは、今もしっかりその全部を両腕に抱えて持っているような、宮侑のような数限られたバケモンたちだけや。

「ええ加減しょぼくれんのやめーや。おもんないで」と水分が抜けてカラカラになった枝豆をつまみながら言った宮の顔をキッと睨み付けてやる。面白いか面白くないかで10年越しの片想いがやってられるか。……片想いしたことなさそうやし、こいつに言ってもしゃーないなとは思うけど。すっかり塩味の薄くなってしまった枝豆を一口放り込んでから口を開く。
「それが10年間一途に温めた初恋に破れたばっかりのマネージャーにやる態度なん?」
「……何やねん、俺にどうしてほしいんや」
「ちょっとだけでもいいから慰めてほしい」
「男なんか星の数ほどおるやろ。一回振られたぐらいで死にそうな顔すんなや」
「……その星の中から自分が好きになれる人を探すのが大変なんやんか」
「ほんならちょうどええのがおるやんここに。お前には勿体ないくらいのええ男が」

ここ、と自分に向かって恥ずかしげもなく指差した宮に向かって瞬きをする。渾身のボケのつもりだろうか。だとしたらタイミング最悪やと思うけど。ブラックジャッカルに入ってから周りがド天然ばっかりで全然ボケ拾ってもらえんし、アランくんのツッコミが恋しいとか何とか言いながら尾白さんに絡んでいたさっきの宮を思い出して「何言うてんの」と答えると、全然ふざけてなさそうな真剣な顔をした宮と目が合った。口に入り損ねた枝豆が、ぽろりと一粒テーブルの上を転がっていく。
「北さんやなくて俺にしたらええ」

さっき食べた枝豆の塩味はとっくに消えてしまっているはずなのに、向かい側からじっと見つめてくる宮の瞳に、無性に喉が乾いていくのを感じた。テーブルの奥にあったはずの宮の手が枝豆の皿に伸ばしたまま固まっている私の手をぎゅっと握り込んだのに気付いて一気に体温が上がっていく。
「俺がいつからお前見とったと思てんねん」
「……い、いつから?」
「お前が北さん北さんって喧しなったときからずっとや」
「嘘やん」
「こんなときに嘘つくわけないやろ」
「こんなときってどんなときよ」
「……愛の告白をしてるときや」

自分から言ったくせに照れるのだけはやめてほしい。こっちもどういう顔したらいいんか分からんようになるやんか。私から視線を離して鼻の頭を掻いている宮は言いたいことを言って満足したのか押し黙ってしまって口を開く気配がない。沈黙が痛い。心なしか宮の顔が赤い気がする。えーっと、こいつ今日ビール何杯飲んどったっけ。酔いが遅れて回ってくるタイプなのかもしれない。私が知らんかっただけで、酔うと前後不覚になって誰彼構わず人に触りたくなるタイプなのかも。うん、そうに決まってる。だって、そうでもないとこの状況はとても説明がつかない。
「お前なぁ、せっかく超人気バレーボール選手の宮侑くんが告白したってんのにもっと可愛く照れたり出来ひんのか」
「……照れてないように見えんの?」

バレーボールばかりを触っているはずの硬くて大きな手に枝豆の殻ごと掴まれた私の手の温度がどんどん上がっているのに気づいた宮が機嫌良さげにほくそ笑んでいるのが見える。
「可愛いな」
「宮のそういうチャラいとこ嫌い」
「高校の頃からずっと一途に一人だけ追いかけとった俺のどこがチャラいんや」

……マジで?言いたいことがそのまま顔に出ていたらしい。「冗談とか言うたらしばくからな」と宮が釘を刺してきた。分かってるよと答えるよりも先に、ぐうと腹の音が鳴る。
「…………」
「ごめん」
「空気読めや」
「……枝豆食べてたらお腹すいてきちゃって。何か今無性にめちゃくちゃ美味しいお米が食べたい」
「俺も」
「枝豆死ぬほど食べてたやん」
「米と枝豆は全然別物やろ。明日朝一で治のおにぎり食いに行こうや」

山盛りに積み上げられた枝豆の殻越しに宮が笑う。続けられた「治にお前とのこと報告せなあかんし」の言葉に「え?」と思わず聞き返した。まるで小一時間前の宮(治の方)が言ってた「明日も仕込みあるから早よ帰らなあかんし」ぐらいのさらっとした言い草だったけど、何か今、とんでもないことを言われたような気がする。
「報告って?」
「付き合うようになったで、っていう報告」
「え」

ここまで来て嫌とは言わさん、と次に続けられた宮の言葉に耳を疑う。
「タイミング伺っとったんはお前だけじゃないからな」

怒涛の展開に一切ついていけていない私に全く構う様子がないまま、スマホで時間を確認した宮が「もう店出るから残ってんの早よ飲め」と急かしてくる。言われるがままグラスを傾けすっかり気の抜けてしまったビールを一気に飲み干した。宮はその様を最初とは打って変わって楽しそうな様子で眺めている。

ーーーーもし今、宮がしているこの顔が、今日言われた全部が嘘じゃないとしたら。成人してからしばらく経っても未だに慣れないこの苦味をいつか受け入れられる日が来たら、叶わなかった10年来の初恋も、これから宮を好きになるかもしれない大人になった自分の流されやすさも、すべて乗り越えていけるだろうか。グラスの底に残っていた柔らかい泡が口の周りにあごひげのようについてしまったのを見て、もう一度「アホや」と言った宮が笑う。

あんなに地獄だった居酒屋の喧騒が、今となってはもう、やけに遠くに感じられた。

20201005 宮誕おめでとう!
Twitterに上げたものの再録です
titled by にこごり