満月学

客人はいつも唐突にやってくる。ハンディモップを片手にテレビ台の掃除に勤しんでいた身体をぐっと上に伸ばしてから脱力すると、ベッドの上に放り投げたスマホの画面が目についた。ほんの10分前に『今から行きます』という簡潔にも程がある一文が表示されたきりうんともすんとも言わなくなってしまったメッセージアプリの表示を横目で睨みながら、もう一度伸びをして大きく息を吐き出す。手に取ったスマホの代わりに埃のついたモップを床に放り投げて画面を操作し、送信ボタンを押した。『今どの辺にいる?』と負けじと簡潔に送り返したメッセージには全く既読がつく気配がない。七海が何時くらいにこっち着くかによってこれからの私の家事の予定が変わってくるんだけど、あの人一回スマホ鞄にしまったら家に着くまで見ない人だからなあ。

仕方がないか、と重い腰を上げて床に転がしていたハンディモップについた埃を軽くゴミ箱の上で払ってからケースにしまう。ひとまずのところ、第一関門だった掃除は終わらせた。ハンディモップでその辺一帯を拭いただけだけど、まあ、床に埃は落ちていないし及第点だろう。いくら多少の防音効果はあるとはいえ、わざわざこんな夜に掃除機をかけてどんな人かも分からない隣人の心証を悪くしたくないし、きちんと掃除機をかけるのは明日の朝になるまでお預けだ。このやっつけぶりがバレようものならきっと七海はまた「ちゃんとしてください」とか言って嫌そうな顔をするんだろうけど、ここはあくまで私の城。私が私のためだけに手入れをしている部屋だから、勝手に上がり込んでくるあの男にとやかく言われる筋合いはどこにもない。何か小言を言われようものなら今日こそガツンと言ってやろうと密かに決意を固めつつ、軽快な足取りでキッチンへと向かった。

扉に手をかけ冷蔵庫の中を覗き込む。明日買い出しに行こうとしていたせいで中はほとんど空っぽだ。えーと、今あるのはじゃがいもと玉ねぎ、使いかけの人参、あとはいつのものなのかもう分からなくなってしまっている得体の知れない肉が冷凍庫に少し。多分鶏肉だったと思うけど確証がない。もうスーパーもやってないし、今ここにあるものだけで作れそうなものといえばカレー、肉じゃが、シチューぐらいだろうか。今日はまた一段と冷え込むそうだし、シチューがいいだろう。せっかくだから謎の暫定的鶏肉もシチューに入れてあげようかな、具沢山の方が美味しいし。付け合わせは何にしようかとキッチンを物色している時にはたと気付く。しまった、食パンを切らしていた。パックのご飯ならある。でも、パンは今この家のどこにもない。確か前に七海にシチュー出したときもパン切らしてて、「ご飯ならあるけど一緒に食べる?」って聞いたらめちゃくちゃ嫌そうな顔されたんだっけ。信じられない、と言いたげな顔でグラサンを押し上げた七海の圧に負けて次回から彼が来るときは必ずパンを用意しておくようになったのに、今回に限って切らしているとは。すこぶるタイミングが悪い。

クローゼットからコートを引っ張り出して部屋着の上に羽織ってから玄関ドアを開ける。途端に肌を刺してくる冷たい夜風が骨の髄まで沁み入るようだ。街灯に照らされた道路を足早に駆けるようにして誰もいないコンビニに駆け込み、5枚切りの食パンを引っ掴んでレジへと向かう。レジ袋を受け取って自動ドアをくぐり外へ出ると、またもや冷たい夜風が肌を突き刺した。
「さっむ!」

どうせすぐ近所しか行かないし、とうっかり手袋をつけずに玄関ドアを開けた数分前の自分を恨めしく思いながら両手を擦り合わせ、元来た道を急ぐ。財布を持っていなくともスマホ一つで買い物が出来るようになったんだから、世間も随分と便利になったものだ。高専のときはよく財布忘れてレジのところで灰原に小銭借りたりしてたんだっけ。七海は「自業自得でしょう」とか言って中々貸してくれなかったんだよな。あの時代にこのシステムが出来てたら私も同級生にあんな風に呆れた顔をされることも少なかっただろうに。まあ、今更言ったところでどうにもならないことだけれど。

それにしても寒い。信号が青に変わるのを待っている間、はあ、と長めに吐き出した息が白く染まるのを少し眺めてから手に持ったスマホの画面を確認する。既読がついていた。……これはタイミングがまずかったかな。より早足で家路を急ぎ、見慣れたアパートの階段を登る。すると、部屋の前には見慣れた顔の男がヨレヨレのコートとネイビーのマフラーに身を包みその大きな身体を縮こませながら佇んでいた。
「……凍えさせるつもりかと思いましたよ」
「ごめんごめん。ちょっと野暮用で」

野暮用の言葉とともに手に持ったレジ袋をかざしてみれば、少し俯きがちだった七海のグラサンが鈍く光を反射する。ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込みながら「こんな早く着いてると思わなくてさ」とさりげなくメッセージへの反応をろくに返さない彼を非難してみれば、「今から行く、と送ったでしょう」なんて素気無い返事が返ってきて肩をすくめた。もしも私たち二人がそんな一言ぽっちで全て分かり合えてしまえるような関係性だったなら、私も七海もきっと今こうして呪術師と補助監督としてだけではない何者かになれていただろう。……これもまた、今更言ったところでどうしようもないことだけれど。

有難いことかどうかはともかく、呪術師は暇とは無縁の職業だった。いつ如何なる時でも呪いは年中無休、人の生きる暦など彼らには関係ないからだ。七海のような一級呪術師ともなれば、その忙しさは私たち補助監督とは比べ物にならない。呪霊との戦いでヨレヨレになってしまったコートとジャケットを受け取ってハンガーにかける間、後ろに立って待っている彼を振り返って「着替えてきなよ。スーツ着たまんまだと寛げないでしょ」と声をかけると頷いた七海の後ろ姿がリビングへと消えていく。 ハンガーにかけ終わったジャケットに視線を戻し、これだけヨレヨレになってしまったら明日クリーニングに持って行かないとダメそうだな、と思いながらシワになってしまったところを軽く叩いてみる。近所のクリーニング屋、何時からだったっけ。後で調べておかないとな、と思いながらもう一度おまけにとジャケットについたシワを伸ばし、廊下を歩いてリビングへと続くドアを開ける。ちょうどスーツを脱いで用意しておいたスウェットに着替え終わったらしい七海と目が合った。かっちりとしたスーツとは正反対の、カジュアルなグレーのスウェットに身を包んだ七海のそのあまりのアンバランスさに思わず吹き出すと、脱いだスラックスを畳んでソファの端へと置いてサングラスを外した七海が分かりやすく眉を釣り上げた。
「何笑ってるんです」
「いや、前から思ってたけど七海って本当にスウェット似合わないよね」
「……似合わないも何も、貴女が買ってきたんでしょう」
「うん。七海にこれ着せたら面白いだろうなと思ってさ。そこまで似合わないと本当に買った甲斐があるってもんだよ」

にっこり微笑んでやると、揶揄われたことがどうにもお気に召さなかったらしい七海はさっきまでの草臥れたオーラとともに「不機嫌です」とでも言いたげなオーラを無言でこれでもかとばかりにこちらへと漂わせてきた。いけないいけない、こんなことしてる場合じゃないんだった。コンロの上に置いた鍋の中身を一度かき混ぜてからソファへと座る彼に声をかける。
「お腹空いてる?シチューならあるけど」
「ええ。戴きます」
「今回はちゃんとパンも用意してあるからね」
「まだあのときのこと気にしてたんですか?」
「気にするでしょ、そりゃ」

さっき慌てて買ってきたから七海が普段食べてるような美味しいパン屋さんのパンじゃなくてコンビニで売ってる普通の食パンだけど、まあ、パンはパンだし。シチューにトーストした食パン浸して食べるの美味しくて好きなんだよね。身体の芯まで凍えてしまうような冬は嫌いだけれど、温かい食べ物を食べてほっこり出来るところは好きだ。この男がシチューを食べたくらいでほっこりしてくれるのかどうかは微妙だけど。

さっきスウェットを似合わないと揶揄ったせいか、居心地の悪そうな顔をしてソファに座っている七海から離れ、食事の用意を進めていく。煮込んですっかり柔らかくなった人参、じゃがいも、玉ねぎと肉(溶かしてみたらやっぱり鶏肉だった)が入った鍋にルウを割り入れ、食パンの入った袋を破く。「七海」呼び掛けるとキッチンカウンター越しに視線がかち合った。
「食パン何枚食べる?五枚入ってるやつ買ったけど」
「二枚で」
「オッケー了解」

二枚ね、と繰り返しながらトースターにパンを載せてスイッチをひねる。ソファの方へ目線を移すと彼は何をするでもなくぼんやりとキッチンの様子を眺めていた。客人なんだから、もっと寛いでくれたっていいのに。隙のない男だ。手持ち無沙汰そうだし珈琲でも淹れてあげようかな。

火にかけた鍋がぐつぐつと音を立て始めたのを見て牛乳を追加する。よし、シチューはこれで完成。あとはトーストが焼き上がるのを待つだけだ。焦がしてしまわないように時折トースターの様子を見ながらシチューをよそっていると、ちょうどトーストが焼き上がったことを知らせる音がキッチンに鳴り響き、我ながら手際の良さに感嘆のため息が漏れた。流れるようにスムーズな動作でシチューの入った器とパンを置いた皿をダイニングテーブルの上に並べていく。「出来たよ」と促すよりも先に、立ち上がってソファから移動してきた七海が椅子を引いて席についた。「いただきます」しっかりと両手を合わせてからスプーンに手を伸ばす彼には一分の隙もなく、育ちの良さをひしひしと感じさせる。そしてやっぱりスウェットが恐ろしいくらいに似合わない。もう一度弛みそうになる頬をなんとか抑え、向かいに座った七海がシチューを掬ったスプーンを黙々と口へ運んでいるのをぼんやりと眺めつつコーヒーカップに口を付ける。空腹だというのは本当だったようで、二枚も焼いた食パンもあっという間に平らげられてしまった。
「美味しかった?」
「ええ。ありがとうございました」

小さく頭を下げられ「どういたしまして」とこちらも頭を下げ返す。せめてこれくらいはやらせてください、と洗い物を買って出た七海の言葉に甘えてソファへと向かうと、きっちりと折り畳まれたスラックスとその側に置かれたチョコレートの箱が目についた。……高専のときから数えると軽く10年は越える付き合いになるというのに、相も変わらず律儀な男だ。そういう呪術師らしからぬところが気に入っていて、だからこそ「今から行く」なんて唐突な申し出もついつい了承してしまうんだけど、七海はそういうの、どう思ってるんだろう。心を許してくれているのかそうでないのか、呪術師と補助監督以外の関係になる気があるのか、そもそもどうして私の孤城に度々足を運んで来てくれるのか、分かりそうになる度に分からなくなる。だからこそ、確かめたいと思ってしまう。
「何で今日突然来る気になったの? 近くで任務だったりした?」

黙々と洗い物をしている七海に向かって声をかけてみるも、返事はない。シンクの前で作業をしている七海の斜め後ろに回り込みもう一度同じ問いを投げてみると、観念したのかだんまりを決め込んでいた彼が最後の皿を洗い終えたところでようやく口を開いて言った。
「……夢に、貴女が出てきたので」
「えっ、なにそれ。会いたくなっちゃったってこと?」
「…………」

無言は肯定と受け取るけどそれでいいのかな。きゅっ、と音を立てて蛇口を閉めタオルで手を拭き終わった七海がこちらへ向き直る。こうやって正面から対峙してみると、背の高い七海と視線を合わせるために上へ向けた首がすぐに痛くなってしまう。ちょっとぐらい、こっちに合わせて背を屈めてくれるくらいの可愛げを持ち合わせてくれていたっていいのに。
「ねえ、答えてよ」

相変わらず無言を貫いたままの七海を見上げてもう一度確認するように問いかける。七海の夢に私が出てきて、それで会いに来てくれたってことはさ、七海も同じ気持ちかもしれないって、ただの昔馴染みの関係をいつまでも繰り返していなくてもいいんだって、自惚れちゃってもいいってことなんだよね?

普段はサングラスで覆い隠されている緑の瞳が珍しく少し揺らいでいるのが見て取れて、それだけで満足してしまう私はなんて安い女なんだろうと思いながらキッチンから離れる。だけどいいんだ、『今から行く』のだった一言でこれからの夜が待ち遠しくなるような、喜んでもらいたい一心でパン一つのためだけに飛び出していくような、そんな安い女で。それっぽっちのことでクタクタのヨレヨレになった七海が会いに行きたいと思ってくれるのなら、私はいくらでもコンビニへだってと駆けていける。だから、もしまたうちに来てくれるようなことがあったなら、今度こそは甘い言葉の一つでもかけてもらいたいな。

知らぬ間に紅茶の入ったカップを二つ手に持っていた七海がゆっくりとした動きでこちらへ向かってくる。スリッパから漏れるパタパタという音に紛れ込ませるようにして彼の唇が紡いだ「察してください」の言葉に、ちょうど手を伸ばしたところだったチョコレートの甘さが口の中いっぱいに広がった。

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