そろそろまだまだ青々と

ピカピカでパリパリの皺ひとつない制服に腕を通し青葉城西高校の門をくぐったのも、もう半年ほど前の話だ。自分で言っておいてなんだけどもう半年になるのか。長いようで短いような不思議な時間の流れだった。校舎の向こうに浮かぶ月を見上げながら息を吐いた。サポーターをつけたままの足を曲げ、膝を抱える。汗のにおいが染み付いた体を抱いたところで何の慰めにもならないし腹の足しにもならないことに気付いて余計に虚しい気持ちになった。半年前、ピカピカの新入生だった私はまさかこんな仕打ちが待ち受けているとは思いもよらなかっただろう。昨日ですら、まさか自分がこのような目に遭うなど考えつきもしなかった。事実は小説よりも奇なりという言葉が一昨日の国語の時間で出てきたけれど、こんな話、ギャグ漫画でもお目にかかったことがない。事実はときにギャグ漫画をも凌駕する。つい一週間前まで生暖かった風が体温を奪っていった。もしや私はここで日の目を見ることなく死んでしまうのではないか。部での言いつけをきちんと守り携帯電話を携帯していなかった自分の真面目さが今は恨めしい。太陽が沈んでいった向こう側を見つめ、もう一度ため息をついた。


事の次第を説明しよう。私は青葉城西高校に通う高校一年生である。青葉城西高校はバレーボールで名の知れた高校だった。中学でバレーボールに惚れ込み虜になってしまった私はかねてより憧れだった女子バレーボール部に入部し、それからというもの、スパイク、アンダーハンドパス、サーブ、オーバーハンドパス、速攻、ありとあらゆる練習においてボールを拾い続けることを生業としてきた。要するに下っ端部員だった。新入生なのだから当たり前といっちゃあ当たり前だ。この半年足らずで私は一度にボールを8つ同時に運ぶ荒技を習得した。ボール拾いのスペシャリストと言ってもいい。こうして来る日も来る日もボールを拾い続け、先輩たちのプレーを見ては技術を盗んでやろうと目論み、わずかな練習の時間でボールに触れる喜びを噛み締めていた私にとんでもない不幸が降り注いだ。神様、私が何か悪いことをしましたか。こうして慎ましく真面目に部活動に勤しんできたというのに何という仕打ちだ。シナリオライターがいるならどうして私にこういう役しか回ってこないのか問いただしてやりたい。

さて、我が青葉城西高校には男子バレーボール部がある。むしろこちらの男子バレー部の方が女子よりも有名で、強豪であると言える。それ故に私と同い年の一年生諸君、大多数の新入生は来る日も来る日もボール拾いや掃除や片付けやネットの組み立てに勤しんでいた。そんな彼らに密かに親近感を抱いていたのはここだけの秘密だ。そんな強豪揃いの青葉城西男子バレー部の中でも特に上手いのが、部長の及川先輩。一見何故ここの部長を務めているのか疑問に思うほどの美貌と優男風な雰囲気を持ち合わせているが、誰もが認める凄腕のプレーヤーだ。特にサーブの威力が半端じゃない。手から真っすぐに放たれたボールが生み出す威力は凄まじく、そして恐ろしい。よくあんなものレシーブ出来るなと隣りのコートで扱かれている男子たちを見ては思っていた。

そんな及川先輩だが、女子バレーボール部内ではとても人気がある。文句なしのぶっちぎりナンバーワン。皆が皆、及川先輩とお近づきになりたいと思っているのだ。先輩も先輩でそういった女子からの人気に悪い気はしていないようで、この前の練習試合では積極的に黄色い歓声に応える姿が目撃されていた。話が逸れてしまったが、つまるところ男子バレーボール部の実力と人気は名実共に及川先輩のものなのであるのだけれど、私はこっそり同級生諸君を応援していたりした。健気な彼らの姿に、胸を打たれたり励まされたりもした。いやしかし、今回ばかりは 応援出来そうにない。むしろ、募るのは恨み言ばかりである。

先輩からの評価というのは後輩として、そして運動部として大切な一つの要素だと私は思う。私たち一年生は明くる日も明くる日も限られた時間でどれだけ迅速に片付けを終わらせられるか、ということに命をかけていた。顧問の話が終わるや否や速やかに持ち場につき、ある者は床をモップで拭きながら全力疾走し、ある者はボールを一つ一つボールケースに仕舞い込み、またある者はネットを外し支柱を引っこ抜いて自分の体より大きな棒を抱え小走りで駆け回っている。そんな光景が繰り返されるなか、私に課せられた仕事は開け放たれた窓を閉めるため階段を駆け上がり時折入りこんだらしい虫と戦うことと体育館の外のベランダのドアを閉めること、そして干していた雑巾を回収することだった。どうしてその仕事を割り当てられたのかは分からない。気付いたらこれが私の仕事になっていた。追い払った虫の数は13、転がった蝉の亡骸に心臓が飛び上がった回数は5。なかなかの数字だと思う。




さて、事件は常に体育館で起きている。日常で起こる出来事なんて取るに足らない微々たるものなのがほとんどだが、これは間違いなく私史上最大最悪の事件といえよう。

いつもと同じように二階へ続く階段を登り、全ての窓を閉め、下り、ボールの片付けやゴミ捨てを手伝い、ベランダへ出て洗って干しておいた雑巾を回収。ここまではいつも通り、何の変哲もない放課後のルーチンワークだった。あえて通常とは違うことを挙げるとするならば、男子バレー部の方が私たち女子バレー部よりも先に片付けを終わらせていたことぐらいだろうか。ぱらぱらと帰っていく男子部員たちの声に耳を傾けながら私は手早く雑巾を回収し、そしてベランダを駆けた。毎日のことだが今日も今日とてお腹がすいた。ハンバーグが食べたい気分だ。帰り道に買い食いしていくのもアリだな、唐揚げとか。いいかもしれない。

早く帰りたい。そう思ってドアノブに飛びついたその瞬間だった。ガチャン、ガタ、という音を立て、ドアが開き…はしなかった。開かなかった。えっ、嘘、開かない。私は一瞬でパニックに陥った。

ドアノブを回し、押し、捻り、引っ張り、また押してみるもドアは開かないまま手首だけが痛む結果となった。透明なドアの向こうに見える体育館に目を向ける。明かりは消えていた。誰もいない。先程帰ったのだろう男子バレー部員たちどころか女子バレー部の姿も見当たらなかった。冷や汗が伝う。

閉じ込められたのだ。嫌でも気づくしかない。どこの誰の仕業かは分からないけれども、ドアに鍵をかけられたおかげで閉じ込められてしまった。全身からサッと血の気が引いていく。
「開けてー!出してー!」

ガラスが割れるんじゃないかってくらいの勢いでドアを叩きまくった。ベランダのドアは内側から鍵がかかる仕様になっている。いくら外側から押したところで開くはずもない。振り返り、早くも日が暮れ始めている空を見上げ絶望した。そして冒頭へ戻る訳である。

目の前には三つの選択があるように思えた。

一つ、このままここで助けが来るのを待つ。今が何時なのかは分からないが、下校時刻が迫っていることは叫んでも歌っても返事が全くないことから推測出来た。朝まで待てば、また朝練をしに来た何かしらの部員に見つけてもらえるかもしれないし、朝まで待たなくともここでじっとしていれば教員や警備の人に見つけてもらえるかもしれない。ただし、夜を越せるかどうかの確証はない。凍えてしまう可能性もある。恐ろしい選択と言えよう。

二つ、ここから見えている渡り廊下の屋根に飛び移り、屋根の上を歩いて柱を伝って安全な場所で地上に降りる。目測でベランダから屋根までの距離を計算し、非現実的な案ではないという結論に至った。寒さでバキバキになってしまった身体をほぐす。いけるか、やれるのか。やらなければならない。自分の運動能力を信じるのだ。しかしまあこうなるともうギャグ漫画どころではない。アクション映画だ。しかもスタントなしの、体当たりのアクション映画。骨折、粉砕、打撲、その他諸々の危険とスリルが伴う。下手したら顔に傷を負ってしまうかもしれない。でも、火事場の馬鹿力という言葉があるようにひょっとしたらここが火事場で、奇跡的に無傷に終わるいうこともありえる。私は自分の可能性に賭けてみたい。ハイリスクハイリターンどころかハイリスクノーリターン、大博打なのは百も承知だった。

三つ、これも力技だが弁償覚悟でこのドアを突き破る。これもまたドラマでよく見る石を使ってとか腕を使ってとか蹴破るとか、まぁそういう感じで。腕や足が血まみれになるであろうことは想像に難くない。が、やるしかない。ここまで真剣に考えたのち、私はそこまで考えねばならないほど追い詰められてしまったのかと改めて絶望した。どうして私がこんな仕打ちに合わねばならないのか。惨めすぎて泣けてきた。あんまりである。

それにしても、女子バレー部の皆さんは私を置いて帰ってしまったのだろうか。あの子もあの子もあの先輩も、帰ってしまったのだろうか。誰の声も聞こえてこないということは、放っていかれたということなんだろうけど。そのときだった。階段に明かりがついた。誰かが、いや、何者かが足音を立て階段を登ってくる。固唾を飲んで見守った。誰だ。一体誰が、こんな時間に体育館に何の用だ。しかし今はそんなことは大した問題ではないことは分かっている。胸の内で祈った。天は私を見捨ててはいなかったのだ。さあ助けてくれ。助けてくれるのならば、この際人間でなくてもいい。妖怪だって幽霊だって構わない。足音が止み、とうとうその影が姿を現した。

階段を登りきったその人物は、窓越しに私と目が合うとえっという顔をした。そして私は「えっ」と言った。及川先輩である。どこからどう見ても、前から見ても斜めから見ても後ろから見ても正真正銘、男子バレーボール部キャプテンの及川徹、その人である。私はまた先程とは違う意味で焦りを覚えた。そしてほっと胸を撫で下ろした。人間で良かった。それにしても、どうしてこのタイミングで及川先輩が。女子バレー部の憧れの的が……。しかし今は驚いている場合ではない。私は再び一心不乱にドアを叩いた。
「及川先輩!あの、すみませんがここ!開けてください!!」

呆気にとられたままの及川先輩であったが、必死でドアを叩く私の姿にただならぬものを感じたのかドア越しに目の前まで素早くやってきて怪訝そうな顔をした。
「何してるの?」
「閉じ込められてます!」

何をしているのか、そんなの私が聞きたいくらいだ。間髪いれずにそう答えた私に対し、きょとんとした及川先輩はそののちに、額に手を当て、助けてくれるのかと思いきや……あろうことか笑い出した。あはははは、と端正な顔の口の端っこを吊り上げて笑う。微笑むとかくすりと笑うとかそういう生易しいものではなく、大笑いしている。今度は私が呆気に取られる番だった。
「ちょっと一年生ー!女バレの子閉じ込められちゃってるんだけど誰だ今日ここの鍵閉めたの!」
「いいから早く開けてください!とりあえず!開けて!早く!」

階段の下に向かって声をかけケラケラと笑っている先輩に死に物狂いで訴えた。握りしめた拳が痛い。私の両手はドアを割れんばかりに叩くためにあるのではなくボールを弾くためにあるものなのに。もう数えきれないほどガラスに打ち付けた手は熱を持っていた。
「分かった分かった、ごめんね今開けるから」

目尻に浮かんだ涙を拭いながら及川先輩の手がドアノブを捻る。いとも簡単に開かれたガラスのドアに頭を打ち付けたくなった。閉じ込められてから右往左往していた今までの時間は一体何だったんだ。
「一年生かな?怖かったでしょ、もう大丈夫だよ~」

よしよしと頭を撫でられた。及川先輩の手が、つむじあたりを往復していく。この大きな手がいつも隣のコートであんな強烈なサーブを繰り出しているのかと思うと不思議と安心感があった。そしてどっと疲れが襲ってくる。しかし、まずは目の前の恩人に感謝の言葉を述べなければ。
「あの、及川先輩」
「んー?」
「ありがとうございました、あの、……助けてくれて」

ひとしきり笑い転げ満足したらしい及川先輩は今度はにこやかな微笑みをたたえながら「いいよいいよ、それよりほら、寒いでしょ」と言った。その言葉ではたと気づく。確かに。蒸発した汗が体温を着々と奪っていったせいで少し肌寒い。さっきまでは決死の状況すぎてそこまで気が回らなかったのに、一度寒いと認識してしまうと身体が震え始めた。こくりと頷くと、及川先輩は「着替えておいで、送っていくよ」と続けた。そしてまた噴き出す。いつまで笑ってるんだ、私は至って真剣だったのに。口を尖らせたが、先輩に急かされたこともあって猛スピードで階段を駆け下りた。先程とはまた違う意味で心臓が跳ねまくっている。どうしようどうしよう。なんだか大変なことになってしまった。

少しくたびれつつある制服を猛スピードで見にまとい、校門へ急ぐと及川先輩はそこで美しく佇んでいた。立ってるだけなのに、イケメンだというそれだけでこんなにも絵になる人物がいようとは不公平である。先輩はもう一度「送っていくよ」と言った。緊張、してしまう。ぽつぽつと話しながら歩いている間も、流れでコンビニの唐揚げを買ってもらっている間も、それを頬張っている間も、何だかむず痒い気持ちに襲われてどうしようもなかった。
「でもあんなところで一人で待ってて、怖かったでしょ?」
「本気で死の一文字が頭をよぎりましたね」

まだ笑えるだけの元気が残っていたのか。神妙な面持ちの私とは対照的に、先輩は面白くてたまらないという顔をしながら歩いている。これが他人の話なら確かに面白いだろうけど、自らの身に降りかかった話となればそういうわけにもいかない。
「先輩が来るのがあと5分遅かったら私、渡り廊下に飛び移ってるところでした」
「えっ!?」

ヘラヘラと笑みを浮かべていた先輩が素っ頓狂な声をあげた。今みたいな声、試合中は絶対聞けないんだろうな、と少しだけ優越感を感じる。
「飛び移るって、あの渡り廊下に?え?どうやって?」
「いや、だからこう……ハリウッドスターのように。バッ!って。飛んでやろうかなと」
「無理でしょ馬鹿じゃないの女の子なのに!」
「無理だろうが女の子だろうがやるしかない状況だったんですよ!」

あのときの私はまさしく生死の分かれ目に立っていた。デッドオアアライブ。すんでのところでアクション映画にならずに済んだだけマシであるが、もしもあの瞬間に及川先輩が来てくれなかったらどうなっていたことやら、考えただけでゾッとする。とりあえず、こうして先輩と肩を並べて歩くことは絶対に出来なかっただろう。幸か不幸か、私はこの人に助けられたのだ。「びっくりしました」と言うと、及川先輩はまた笑った。
「俺もびっくりしちゃったなぁ、サポーター取りに行ったらベランダの向こうで女の子が閉じ込められてるんだもん」
「好きで閉じ込められたんじゃないんですから笑わないでください」
「いやー、ごめんごめん。でもねぇ、囚われの身のお姫様みたいだったよ」

日常はいとも簡単に崩壊する。例えば、そう、今みたいに。
「私も先輩が現れたときは王子様かと思いました」
「あはは、王子様か~そう言われるのも悪くないね」

及川先輩が隣にいて、私の話を聞いて笑っている。それだけでも信じられないというのに唐揚げまでご馳走してくれるとは。これは夢なのか。どうせ夢を見させてくれるならあんな目に遭わさずともこの部分だけ見させてくれればいいものを、それをしないあたり、ここは現実である。名実ともに私の王子様となってしまった先輩、及川徹氏に「どこまで行くんですか」と問いたくなって、やめた。こちらは私が利用している駅へ向かう道筋だ。ボールを拾い続けた半年間で培った洞察力を存分に発揮し、私は一つの仮説を導き出した。もう少しだけ先輩といられる。少なくとも、私が電車に乗るまでは、おそらく。しつこいようだが昨日はまさか明日こんな展開が待ち受けていようとは夢にも思わなかったと弁解しておきたい。事実は小説より奇なりという言葉があるが、事実は時としてギャグ漫画よりも奇を衒っていて、少女漫画よりもドラマティックなのだった。

閉じ込められて救出されたところまで実体験です