エンドロールの後のこと


「ハイじゃあ今日及川の奢り~」
「ご馳走様でーす」
「ウソでしょ!?」

ウソで済めば警察はいらねーんだよ、なんて言いながら物騒な顔をしたマッキーが財布を出せとこちらに手を向けてくる。その顔が高校時代に試合相手に向けていたお馴染みのあの不敵な笑顔とそっくりで、「勘弁してよね」と言った自分の口元が引きつるのを感じた。




当たり前のように電車はもう動いてないし、雨は降ってるし、財布の中身は100円だし、ATMどころかコンビニもないし、口座に日本円は入ってないし、スマホの充電は切れそうだし。散々だ。飲み歩いているうちにかなり遠くまで来てしまった。真っ暗になった駅の入り口近くのベンチに座ってどうしたものかと途方に暮れていると、街灯に照らされ出来た人影が近づいてきて、そして目の前で止まったのを見て顔を上げる。そこにはスーツに身を包んだ一人の女性が俺の顔を覗き込むようにして立っていた。
「及川?……うわ、本当に及川じゃん。どうしたのこんなところで」

どうしたもこうしたもない。てっきり知らないお節介焼きの他人か、俺が超有名スター選手だと知っているファンの人に見つかってしまったのかと思ったのに、「何がよく分かんないけどとりあえずインスタ上げたいから及川の写真撮ってもいい?」と声をかけてきた彼女は高校の同級生だった。こないだあったらしい同窓会はシーズンともろに被ってたから欠席の返事を返したおかげで化粧をしてスーツ着てるところは初めて見たけれど、聞くからに快活そうな声とすぐに俺の写真を撮ろうとしてくるところは全く変わっていなくて彼女だとすぐに分かった。「写真撮るならちゃんとアポ取ってからにして」と力なく答えた俺に「そっか、もう及川って世界的スター選手なんだもんねぇ。勝手に写真撮ったりしたら怒られるか」と一人納得した様子の彼女が手に持ったスマホをスーツのポケットへと仕舞い込んでから口を開いた。
「それにしてもさ、何してんの?こんなところで。アルゼンチンにいるんじゃなかったっけ?」
「シーズン終わったし一時帰国中。一昨日みんなに帰国したよって言ったらマッキーに岩ちゃんのお祝いしようって声かけられてさ、久しぶりにバレー部の皆と飲んでたわけ。そしたら盛り上がりすぎて終電逃した」
「ダメじゃん」
「まあ、宮城は終電早いってことすっかり忘れてた俺もちょっと悪いよね」
「及川アルゼンチン行ってからもうしばらく経つもんね。ていうか岩泉のお祝いって何したの?あいつ今何かのトレーナーやってんだったっけ?それかインストラクターだったっけ?前の同窓会来なかったから何してんだろうねって皆で話してたんだけど」
「そうそうアスレティックトレーナーとして今アメリカで頑張ってるよ。……そんで、結婚するんだって。岩ちゃん」

「アメリカ!?」と素っ頓狂な声を上げた彼女にいやそこじゃないだろ、と思いながら「そう、アメリカ。岩ちゃんも隅におけないよね」と返事をする。「アメリカでアスレティックトレーナーで結婚って……相手どんな人なのかな?金髪美女とか?及川写真見なかったの?」と矢継ぎ早に繰り出された質問に思わず吹き出しそうになった。「あの岩泉が結婚かぁ、めでたいね」と続けられた言葉にこくりと頷く。……そう、昔からよく知る幼馴染の結婚なんて人生の中でもそうそう訪れることのない一大事で、おめでたいことだらけのはずなのに。どうして俺は、もはや親友と呼んでも差し支えないぐらいに超絶信頼関係を築いているはずの岩ちゃんからの報告を素直に喜べなかったんだろう。

青葉城西バレー部総出で祝われた張本人の岩ちゃんは終電も待たずに一次会で帰っちゃうし。「あいつ家で待たせてるから」だって。かっこいい。俺もそんなん言ってみたい。相手いないしバレーで忙しいしまだ当分結婚する気はないけど。

「及川、スピーチやってくれるか?」なんて。何なのそれ。勝手に結婚決めたくせに勝手に依頼してくんじゃないっつーの。真剣な顔しちゃってさ、いつもみたいにクソ及川って言いなよ。今更幼馴染感出してくんじゃねーよ寂しくなるじゃんどうしてくれんの。またセンチメンタルな気分に浸りそうになり、慌てて下を向いて自分のスニーカーへと目線を移した。何も言わずに黙ってじっと座っていると、タキシード姿の岩ちゃんとウエディングドレス姿の名前も知らない金髪美女が腕を組んで微笑み合っている想像で勝手に頭の中が埋め尽くされていくようで、それをかき消すように頭を振って呻き声を上げる。
「うう~……」
「ちょっと、吐くならここじゃなくて家着いてからにしてよ」
「違うし」

我ながら情けない声が出た。吐くわけないじゃん及川さんだし。ただ、ちょっと、ほんのちょっとだけ、寂しいなって思うだけ。……そうか俺は寂しいんだ。だって、あの岩ちゃんが結婚するんだから。ガキ大将をそのまま表したみたいな岩ちゃんが。俺のたった一人のエースだったあの男が。20年近くも付き合いがあったのに、何も言わずに俺を置いて一人で大人になってしまうなんて、寂しいに決まってる。
「俺さぁ、色々あったけど人生のピークって18歳だったと思うんだよね」
「急に何言ってんの」
「ここから先はもう下るだけだよ」
「オリンピック選手にまでなったくせにそういうこと言っちゃう?」
「……そりゃ俺のバレー人生のピークはまだまだこれからだけど。んー、何か、そういうことじゃなくてさぁ」

部活の延長線上に、バレーを続けたその先に、これからの人生があるのだと思っていた。活動する場所が日本からアルゼンチンに変わっても、俺の生活がバレーを中心に回っていることに変わりはない。これまでもこれからも、きっと俺は生きてる限りバレーボールを諦めることはないんだろう。あの日、岩ちゃんやブランコ監督が俺をバレーに繋ぎ止めてくれたように、きっとこれから何度でもああいう瞬間はやってきて、その度に俺はまたコートに立ちたいと、立って全員この手で倒しに行きたいと思ってしまうんだろうなと容易に予想がついた。そしてこの予想は多分、外れないし俺を裏切らない。

ハア、と大きなため息を吐いた。高校生のときの俺はどれだけやっても足りない練習メニューや絶対倒したかったウシワカや澄まし顔がムカつく飛雄のことやたまに出来る彼女とのあれこれで頭がいっぱいだったけど、それから10年近くが経って大人になった今でも悩みが尽きないことに変わりはないみたいだ。18歳だったときの自分が、今の俺を見たらなんて言うだろう。「大人の俺も案外大したことないね」とか、そういうことを言うんだろうか。……自分で考えておきながらちょっとムカついてきたんだけど。どれだけ体格が大きくなろうと遠く離れた外国へと舞台を移そうと、結局俺は俺のままで、与えられたものと勝ち取ったもの全部を使って前に進んでいくしかない。そんなことは百も承知の上、これが自分の選んだ道。そう、そのはずだったんだけどなあ。
「なに及川、もしかして落ち込んでんの?」
「……うん。もしかしなくても落ち込んでる」
「めっずらしい。及川が人の心へし折ってんじゃなくて折られてんの初めて見た」
「お前俺のこと何だと思ってたの?」

えー何だろ、とりあえず高校のときから性格良い奴だとは思ってなかったよ、なんて言葉が返ってきて思わず乾いた笑いが漏れてしまった。勝つか負けるか、結果が全てのプロスポーツの世界で生きてる人間を捕まえて「性格良いとは思ってない」なんて、よく言えたものだ。叩くなら折れるまで。バレーボールを始めたあのときから、そしてアルゼンチンに行くと決めたあの日から、俺の座右の銘は何も変わっていないというのに。俺だけがあのときのまま何も変わらずにコートでずっともがき続けて、そうしているうちに置いていってしまったのか、置いていかれてしまったのか、今となってはもう分からなくなってしまう。

「何かよく分かんないけどさ、せっかく日本帰ってきてるんだし元気出しなよ」と俯く俺の肩を叩いた彼女がずいっと差し出してきた水の入ったペットボトルを、握りしめすぎてうまく力の入らなくなった左手で受け取った。試合中のメンタルケアとモチベーション維持の方法なら耳にタコが出来るくらいに岩ちゃんに聞かされてきたし、もう今では空で言えるくらいだってのに、まさかその岩ちゃんにここまで心乱されるなんて。バレーボール選手としては良いところまでやってこれていると自負している俺も、人間としてはまだまだということなのかもしれない。ペットボトルの蓋を回して中身を口に含むと、それを眺めていた彼女がおもむろに口を開いた。
「及川ってさぁ、高校のときからバレーは凄かったけど他のことは全然ダメだったよね」
「ちょっ……今の流れで何でそういうこと言うわけ!?完全に慰めてくれる流れだったよね!?」

至って真剣な顔をした彼女の口から飛び出した予想外の発言に、口から吹きこぼれた水がぼたぼたと顎を伝って地面へと落ちる。「慰めてほしいって言われてもなあ」と腕を組んで考えるような仕草をしている彼女を横目で睨んでから、半分くらい地面へ溢してしまったペットボトルの中の水へと視線を移す。からからに乾き切った喉を潤すべく再びペットボトルを口元へと運びごくごくと水を飲み干している俺をじっと見つめていた彼女が、やっと俺を慰めてくれる気になったらしくしたり顔で言った。
「確かに及川はバレー以外のことは大体ダメだったけど、ダメなことが悪いって言ってんじゃないよ。こないだの同窓会でもさぁ、皆、及川が出るからアルゼンチンのバレーの試合観てるって言ってたし。前に及川がテレビでインタビューされてた動画もネットに上がってたから皆で観てたんだよね」

「だから元気出しなよ、青城が誇るスターなんだからさ」と続けられた言葉に喉の奥の方が詰まる。「それに」と畳み掛けるようにして吐き出された次の言葉に、ペットボトルから離した顔を彼女の方に向けてゆっくりと瞬きをした。
「こんなダメな及川でも、好きだっていう物好きもいるかもしれないし」

「まだ決めつけるのは早くない?」と彼女が笑う。やだかっこいい。さりげなくまたダメ呼ばわりされた気がするけど、それすら腹が立たないくらいにはかっこいい。もしかすると岩ちゃんよりかっこいいかもしれない。俺の周りってこんな奴ばっかりだ。鞄から車の鍵を取り出した彼女が手に持ったそれを俺の前にかざして首を傾げながら尋ねてくる。
「私駅前に車停めてるんだけど、及川どこまで帰んの?実家?こんなとこで風邪引いたら可哀想だし送ってあげようか」
「……お願いしまーす」

「お礼はオリンピックの金メダルにしてもらおうかなぁ、人生で一回でいいから本物触ってみたいんだよね」と言いながら車に乗り込みハンドルを握った横顔に向かって「それだと日本代表負かすことになっちゃうけどいいの?」と返すと『しまった』という顔に変わったのを見て思わず吹き出してしまう。

あーあ、せっかく皆と別れて一人で感傷的な気分に浸ってたってのに、この同級生が登場してから全部台無しだ。さて、次に岩ちゃんに会うことがあったらなんて言ってやろうか。「嫁の写真見せてよ」かな。本当に金髪美女だったら面白いのに。そういや結婚式のスピーチのこと、まだ「やる」って返事してなかったかもしれない。……まあ、俺がやらないわけないって岩ちゃんだって分かってると思うけど。だって俺のたった一人の幼馴染で、そしてたった一人のエースだった男だ。この俺を差し置いて他の誰かに岩ちゃんの友人代表が務まるとは到底思えない。生暖かいカーエアコンからの風を頬で受けながら、いつか遠くない未来でタキシード姿の岩ちゃんが超感動的な俺のスピーチに感涙している姿を思い浮かべてにんまりと笑う。言いたいことはたくさんあるけど、次に岩ちゃんに会ったらまずは真っ先に「おめでとう」と言ってやろう。

楽しそうにハンドルを握りカーナビに入れた俺の実家までの道のりを目指している、ついさっき本人の知らぬところで図らずも俺の三人目のヒーローとなってしまった彼女の横顔を眺めながらひっそりと決意を固めた。

45巻発売おめでとうございます!ずっとずっと大好きです
titled by 約30の嘘