君の名に相応しい音

※FGO2部ネタバレあり


古来より中国には傾国の美女がいるとされていた。だが、国を傾けるのが美しい女だけとは限らない。現に今、私の部屋で椅子に腰掛け優雅にカップから茶を飲んでいる彼は生きた宝石かと見紛うほどの美しさを湛えていた。

名は体を表すと言うけれど、蘭陵王に関しては本当にその通りだと思う。初めて彼がカルデアに現れたときはそのあまりの美しさに腰を抜かした。カルデアに召喚されたサーヴァントは皆、人類史に刻まれるのも納得の素晴らしい武勇や功績を残しているものだけれど、彼は磨き上げられた剣技だけでなく佇まいや所作の一つ一つ、そしてかつての物語の終わりまで、そのすべてが美しかった。
「……私の仮面がどうかしましたか?」
「ううん、何でもないよ」

百戦錬磨の武将といえど、目の前の女に穴が開くほど見つめられればさすがに気になるのだろう。口元から離したカップをテーブルに置いてこちらに視線を寄越した彼の仮面の奥にわずかに困惑の色が滲む。同じようにカップをテーブルに置いてから口を開いた。
「蘭陵王は何をしても絵になるね」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。そのお茶、スーパーで売ってた普通のお茶なのに、蘭陵王が飲んでると高級玉露みたいに見えてくるもん」

私の例えに蘭陵王の端正な口元がふっと緩む。大袈裟だと思われているんだろうな、全然大袈裟じゃないのに。蘭陵王がいるだけで、そこに座ってお茶を飲んでいるだけで、無機質なスタッフルームがまるで高級旅館に様変わりしてしまったような錯覚を起こしてしまう。本来推奨されている量よりもかなり薄めて飲んでいるおかげでおそらく味は「美味しい」とは言い難いのだけど、それでも、人の身に刻まれた味の記憶というのはなかなかよく出来たもので、緑色に透き通ったお茶を一口含むとたちまち故郷に帰ったような気にしてくれる。もう故郷には自分以外の元いた人間は誰一人として残されていないのに、だ。

生まれた場所から遠く離れた異国に位置するカルデアでスタッフとしての仕事に従事することに何の不安も不満もなかったけれど、唯一心配だったのが食事だった。ホームシックにならないだろうか、和食が恋しくはならないだろうか、一歩カルデアに足を踏み入れてしまったら、次に味噌汁を口に出来る日はやってくるのだろうか。結局その心配はカルデアにエミヤが召喚されたことによって杞憂に終わったのだけど、人理もろとも地球が漂白されてしまった今となってはさすがのエミヤといえど物資を追加調達出来るような当てもなく、こうしてたまの息抜きに自国から持ってきたお茶を飲むことだけが唯一の楽しみだった。ちびちびと飲んでいるおかげで味はいつも薄いのだけど、薄い緑色をしたその液体を「美味しいですよ」と言って飲んでくれる蘭陵王がいるから、彼が連日のように部屋を訪ねてきてくれるからこそ、私はまだカルデア職員として前を向けているように思う。

本来サーヴァントは食事を摂る必要はないはずなのに、蘭陵王は度々私の部屋を訪れてはお茶の時間に付き合ってくれる。始まりがいつだったのかはもう忘れてしまった。元々私にはマスターや魔術師としての素質はあまりなかった。だから、自身の感情一つさえどうすることも出来ずにどうしようもなく気分が落ち込んでしまったり、塞ぎ込んでしまう日がどうやったってやってくる。幸いカルデアは「一人になりたい」という願望を叶えるにはうってつけの場所だったから特に不自由はなかったのだけど、そんな私を唯一気にかけてくれようとしたのが彼だった。

人理に刻まれるほどの素晴らしい武勲と美貌を持っているのに、蘭陵王はそれを驕ることなくいつでも親身になって私の話を聞いてくれて、決して助言や勧告などはしなかった。智略に優れ、勇猛さには事欠かず、されどその地位に胡座をかくことなく私のような一般人にもマスターや他の英霊たちと変わらぬ態度で接してくれる。それで舞い上がるなと言われた方が無理な話だ。だから、ひとしきり愚痴をこぼした後にお茶にしようと立ち上がって茶葉の入った缶を開けたとき、ふと馬鹿な考えが頭をよぎり、あろうことがそれをそのまま口に出してしまったのだ。
「あ、そうだ。蘭陵王も一緒に飲む?お茶」
「……ええ。頂きます」

このときほど汎人類史、特に他国の歴史に造詣の深くなかった自分を恨んだことはない。魔術の歴史ばかりを学んで過去の英雄物語や偉人譚に毛ほどの興味を示さなかったツケが回ってきたのだろう。知らなかったのだ。彼の最期を。名声が高くなるあまり主君から疎んじられ、最後には送られた毒を自ら呷って死んだという、最後まで美しかった彼の物語の結末を。あのときの彼の少しの沈黙が一体何を示していたのか、今となってはもう聞き出せないけれど、きっと良い気持ちはしなかっただろうことは容易に予想がつく。それでも嫌な顔一つせず、考えなしの能天気な私が言った「味薄くてごめんね」の言葉に「私はこのくらいの方が好きですよ」と返してくれた彼の見た目だけでなく心まで何と美しいことか。本来使役するべき存在のサーヴァントの言動一つ一つに心救われていると知ればきっと、魔術師仲間は正気の沙汰じゃないと揶揄するだろう。

今日も今日とて蘭陵王はマスターではなく私の部屋を訪れてはひとしきり私の話を聞いてくれた後、お茶を飲んで帰っていく。人格者なサーヴァントはカルデアにも数え切れないほどいるけれど、彼のそれは格別だ。どうしてそんなに他人に優しく出来るのかがどうにも気になって、「何で蘭陵王は私のこと気にかけてくれるの?」と訊ねてしまったことが一度だけある。質問には答えず「ご迷惑でしたか?」と仮面越しでも分かるほどに顔を曇らせた彼に、むしろそれがどうしようもなく嬉しいと伝えると、少し驚いた後にはにかむように笑った蘭陵王の顔はこの世のものとは思えないほどに美しかった。
「こうして同じ茶を飲んで語らっていると、昔、部下や仲間たちと同じようにしていたことを思い出すんです」

懐かしむようにして宝石のような目を細めた蘭陵王の姿に思わず見惚れてしまったことを今でも覚えている。一番最初に彼が訪ねてきてくれたときお茶を飲むように勧めた後の反応が気になって、後から調べた彼の物語には、彼は果物一つでさえも決して独占しようとはせず部下たちと分け合ったということが書いてあった。綺麗な人だ。そのあまりの麗しさに、物語には終わりがつきものだということをつい忘れそうになってしまう。缶の蓋を開けてもう残り少なくなってしまった中身に目線を落とした。後生大事に取っておこうと思っていた故郷の味も、蘭陵王と過ごせる時間も、やっぱり永遠には続かないみたいだ。
「ちびちび飲んでたけど、これが最後のお茶になりそうだね。私、蘭陵王と飲むお茶が一番好きだったなあ」
「ふふ、ありがたき幸せです」

蘭陵王は、マスターではない私にも丁寧な態度を崩さない。主従関係ではないのだから敬語は使わなくていいと伝えたこともあるが、「こうした性分ですので」と断られてしまった。たまに考えてしまうことがある。もし私が人類最後のマスターで、彼がそのサーヴァントだったのなら、こうはいかなかったのかもしれないと。偉大な人類史では名もないただの一人の凡人だった私だからこそ、彼がかつての部下や仲間たちに重ね合わせることが出来たのかもしれない。そうしたふわふわのしたまとまりのない考えを巡らせながら、テーブルの上に置いたカップへと指を伸ばす。
「蘭陵王」
「はい」

彼の名を口にするとき、いつもわずかにこの胸に走る緊張に、彼は気づいているだろうか。上擦りそうになる声を抑えるべくカップの持ち手をいじり回しながら、一つ深呼吸をする。
「……もし、これから私たちがやることが全部上手くいって、元通りの世界が戻ってきたらさ。今度は私、蘭陵王が飲んでたのと同じお茶を飲みに行きたいな。中国茶って烏龍茶ぐらいしか知らないんだけど、蘭陵王が飲んでたならきっと美味しいと思うから」

仮面の奥の蘭陵王の瞳が見開かれたのが分かった。少し間を置いてから「もちろん。そのときは好みのとっておきを用意しますよ」と言って微笑んだ彼が、ゆっくりとした所作で仮面を外し、隠されていたその美しい顔が現れる。

古来より中国には傾国の美女がいるとされていた。だけど、国を傾けるのは本当に美しい女だけだったのだろうか。事実、ひとりぼっちの私の国は、彼の瞬き一つでいとも簡単に揺らいでしまう。

仮面を外した彼の宝石の瞳が私を捉え、そしてその眦がゆっくりと細められたのを見て再びカップへと口をつけた。出来ることならこれからも、ずっとずっとそうしておいてほしいという願いはまだ言えない。だけど、私たちと人類最後のマスターの旅がちゃんと終わったら、失くしたすべてを取り戻せたその暁には、薄めた茶なんてなくっても語り合える関係になりたいと、部下でも仲間でもなく貴方にとって特別な何かになりたい、と。そう言ってしまってもいいのだろうか。誰に宛てるでもない問いをわずかな苦味と一緒に飲み干すと、テーブルの上に置かれた彼の仮面がきらりと光ったのが見えて同じように目を細める。一段と明るくなったように感じる部屋の中で目にした蘭陵王は、やはり何者にも代え難いくらいに美しかった。

きみはポラリス様へ提出
素敵な企画をありがとうございました!