あの物語の続きをどうか

町を歩いていて似たような背丈の人を見かける度、朝起きたときに窓から差し込む日の光を浴びて目を細める度にあの人を思い出してしまうのはきっと、この世界にはあの人に似たものがそこかしこに溢れているからなのだろうと思う。

火にくべた薪がぱちぱちと火花を散らしているのを見つめる度に、あの人の剣技のことを思い出した。さらさらと流れる川のせせらぎを耳にする度に、「そんな重いものは女子が持たなくていい」と言って水を汲んだ桶を私の手から優しく、だけど少し強引に持っていってしまった彼の大きな手のことを思い出した。歌舞伎の新しい演目が話題になる度に、自身のお気に入りだという演目を無知な私にも分かるように楽しげに説明してくれたあの人の顔を思い出した。秋が訪れて木の葉が赤や黄色に色付くのを視界の端で捉える度に、燃えるようなあの人の髪と溌剌とした声色を思い出した。

いくつ季節が巡っても、あれやこれやと理由をつけては顔や声を思い出す口実を探している私のことを、決して忘れることのないように心に刻みつけていることを、きっと彼は知らないだろう。もうずっとずっと遠くのところ、鬼殺隊の炎柱にまで登り詰めてしまった彼の心のうちに、私のことを留め置く隙間など残されてはいないだろうから。

もう会うことはないのだろうと思っていた。声をかけてもらえることなどないだろうと思っていた。よもや顔を覚えられているなどとは夢にも思っていなかった。使う呼吸が違うから鬼殺隊に入ったあとの私と彼が師を同じくすることはなかったし、階級が離れてからは同じ任務に就くこともめっきりなくなって、今や彼は柱、私は戊。鬼殺隊には二百人以上の隊士がいる。風の噂で彼が次々と鬼を倒していることや鍛錬が厳しいせいで継子が出来てもすぐに逃げ出されてしまうことは耳にしていたけれど、彼と顔を合わせることは数年前の任務を最後に今日までとうとう一度も訪れなかった。

ーーだから、藤襲山での最終選抜で背を共に預けあったことも、その後しばらくの間は二人で任務に赴いたことも、その合間にたわいのない話ばかりに花を咲かせたことも、それが今でも私の心の支えとなっていることだって、彼には知る由もないことだ、と。そう思っていたのに、せめて死ぬ前にもう一度あの人に会いたいという私の望みを天が汲み取ってくれた結果なのだろうか。私は今、あわや全滅というところで鬼と私たちの間に立ち塞がるやいなや華麗な剣技で鬼の頸を斬り落とした炎柱ーー煉獄杏寿郎の背におぶさりながら山を下っていた。
「傷は痛むか? 藤の家まではもう少しだ!」
「はい……」
「しかし君たちも無茶をするものだ! 俺が来るのがあと少し遅かったら皆死んでいるところだったぞ!」
「申し訳ありません……」
「いや、いい! 然るべき話は胡蝶やお館様がしてくださるだろう! 俺からは何も言うことはない! だがその胸の傷は致命傷になりかねんから呼吸で止血しておいた方がいいと思うぞ!」
「はい……そうします」

頭を下げたいところだが背負われているためにそれが出来ないことがもどかしい。言われた通り呼吸を整え傷口に意識を集中させた。血管がいくつも切れているのが分かる。右の指の先の感覚がない。ここから一番近い医者のところまでどのくらいの距離があるのだろう。炎柱様のこの足の速さなら瞬く間に着いてしまうのかもしれないが、なにぶん土地勘がないせいで彼の言う「もう少し」がどのくらいなのかも分からない。何も分からずただただ上官である彼に背を預けて揺られるがままとなってしまっている自分の至らなさが恥ずかしくなった。

この山に潜んでいた鬼の数が想定していたよりも多かったことと、負傷した隊士の数が生存者の数を大幅に上回っていたこと、それに対し駆けつけた隠の方の数が足りないということが重なって混迷を極めていた現場を見かねた炎柱様が「では彼女は俺が藤の家まで送っていこう!」と申し出てくださらなければ、いや、そもそも彼が鬼の頸を刎ねるために現れてくれなければ、私たちはきっと全員あの場で死んでいたはずなのだ。言いつけられた任務を完遂できず、その上、柱の手まで煩わせることになってしまって……。穴があったら是非とも入り込んで二日ほど夜を明かしたいところだが、背負われてしまっているためにやはり身動きを取ることは叶わず、ただ止血に集中することしか出来ない自分を恨めしく思っているところで前から「着いたぞ!」という彼の声が飛び込んできて目線を上げると、藤の家紋を掲げた家が一軒ぽつんとそこに立っていた。彼の「もう少し」は、本当にもう少しだったようだ。

「ありがとうございました」と言って彼の背中から降りようとすると腰に回された手でがっしりと固定され、頭の中に疑問が浮かぶ。藤の家に着いたのにどうして離してくれないのだろう。
「その怪我で動こうとするんじゃない。鬼と戦ったばかりで麻痺しているのかもしれないが、出血多量で死んでしまうぞ!」

そう言った彼の羽織は私の血で赤黒く染まってしまっていた。止血したはずの場所からまたじわじわと血が滲み出しているようだ。自分で思っているよりも多くの血を流してしまっているためか、段々ともやがかかったようにぼんやりとしてくる頭に彼の快活な声が響いてくる。
「申し訳ありません」
「うむ! ではしばらくこのままでいてもらおう!」

対する私の声は弱々しいものだった。いつもそうだ。清く正しく強い彼の光には誰も敵わない。何の光も発することが出来ない路傍の石ころのような存在の私は、彼の発する強烈な光に当てられて焼け焦がれるのをただただ待ちわびるだけなのだ。
「いつも苦労をかける!」
「ああ、彼女なら俺が見ておくから大丈夫だ!」
「問題ない! そこに置いておいてくれ!」

瞑った瞼越しにでもぼんやりと感じられる部屋の灯りと、藤の家の人間と思わしき者の声に力強く答える彼の声、そしてそこまでの重量はないはずなのに何故か鉛のようにずっしりとした重さを感じる身体にかけられた布団。段々と感覚を取り戻した頭で状況を整理する。「着いたぞ!」と彼に言葉をかけられてからの記憶がない。藤の家に着いて安堵したせいか気絶してしまっていたようだ。うっすらと目を開けると「起きたか!」と私の顔を覗き込んで言った炎柱の顔が至近距離にあり身体がびくりと跳ねる。跳ねた拍子にいつの間にか包帯の巻かれていた胸の傷が痛んだ。
「寝ている間に医者が手当をしてくれてな、縫合した傷が治ればまた任務に出てもいいそうだ! まずはこれを食べて力をつけるといい!」

そう言って匙を差し出してきた炎柱の大きな目をじっと見つめる。食べろ、ということなのだろう。しばらく迷ってから恐る恐る口を開いて彼がよそってくれた粥を飲み込んだ。こうと決めたら人の話を聞かないところがある彼のことだ。断ってもおそらく聞き入れてくれないだろう。だが、いくら自身が怪我人で彼が怪我人ではないと言っても、炎柱である彼にこれ以上面倒をかけるわけにもいかない。次の一口が差し出されるよりも先に、ゆっくりと身体を起こしてそれを制するように頭を下げた。
「ありがとうございます。後は自分でやりますので、お手を煩わせてしまって申し訳ありません」
「気にすることはないぞ! その怪我ではろくに手も動かないだろう。俺のことなら今日は任務も入っていないから案じなくていい」
「そ、それはそうですが……」

怪我をした隊士が運び込まれたとき、食事の世話や着替えなどは基本的に藤の家の者がやってくれる。初めの頃は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる彼らに申し訳ないと引け目を感じることもあったが、藤の家を出るときに「彼らには良くしてもらった! 俺たちは多くの鬼を斬って少しでも彼らに返さないといけないな!」と溌剌とした顔で言って私をはっとさせたのは紛れもなく今目の前で匙を構えている男ーー煉獄杏寿郎だった。もちろんそんな数年前の些末なことは彼自身ももう覚えてはいないだろうけど。

匙を持ったまま「さあ!」とまんまるの瞳で急かされ、諦めて大人しく口を開けることにした。匙の中の粥はまだ温かい。先程作ってくれたばかりなのだろう。後で家の人の姿が見えたら一言お礼を言わなければ。
「ところで、その、あそこにいた他の隊士の皆はどうなったのでしょうか……? ここにはいないようですが」
「蝶屋敷に運ばれていったぞ! 君より重症な者も多かったから他の病院に移ったものもいるかもしれないが、胡蝶に聞けば分かるだろう」

気になるなら鴉を飛ばすか?と尋ねてくる彼に首を横に振った。蝶屋敷にいるのなら傷が治った後に足を運べば良い。わざわざ鴉を飛ばすようなことではない。……本当は、あそこにいた誰が生きていて、誰が死んだのかを尋ねたかったのだけど、彼もそれを分かった上でのこの返答なのだろう。優しさは素直に受け取るべきだ。「ありがとうございます」と口を開くと「礼には及ばない!」と答えが返ってきた。そしてまた差し出された匙にたじろぐ。
「炎柱様、あの、もう本当に結構ですから……」
「何故だ? これは俺がやりたくてやっていることだ! は何も気にしなくて良い!」
「ですが、お忙しい煉獄様のお時間をこれ以上頂戴するわけには……」

私の言葉を聞いて納得していないながらも渋々匙を置いてくれた彼の様子にほっと息をつく。良かった。こんな風にされてしまっては、粥を食べきる前にいつ心臓が燃え尽きてしまうかも分からない。彼が置いた匙に手を伸ばすと、腕を組んで何かを考えていた彼が「一つ気になっていたんだが」と口を開いた。
「もう杏寿郎とは呼んでくれないのか?」
「え?」
「鬼殺隊に入った頃はよく俺の名を呼んでいただろう。いつの間にか他人行儀な呼び方になってしまっていたが、のことは今でも同期の友人だと思っているぞ!」
「そんな、炎柱様の友人だなんて……私にはとても勿体ないお言葉です」
「そんなことはない! も俺も同じ鬼殺隊の仲間だ。何年経ってもそれは変わらないだろう」

曇りのない瞳を向けてくる彼に、同じなわけがないでしょうと思わず口をついて出てしまいそうになった。違うの、友人や仲間なんかじゃなく異性として貴方が好きなの、大好きなの。寝ても覚めても貴方のことばかり考えてしまうくらい、ずっとずっと貴方だけが大好きだったの。どれだけ遠い人になってしまっても、出会った頃のようにいつまでも変わらずその瞳に私だけを映し続けていてほしいと願ってしまうほどに、最終選抜で鬼を前に足を挫いてしまった私を助けてくれたときからもうずっとずっと、貴方のことだけを考えて生きてきたの。

だけどそんなことはとてもじゃないが上官の柱である彼に言い出せるはずもない。押し黙っていると、私の葛藤を察したのか察していないのか「では俺はこれで失礼する!」と立ち上がった彼の服の裾を思わず掴んでしまい、ハッとしたときにはもう遅かった。
「どうした?」
「あ、あの、……いえ。何でもありません」

つい身体が動いてしまったとは言えない。
「何でもない人間はそういう顔はしないと思うぞ!」
「い、いえ、本当に何もありませんので……申し訳ありません」

居た堪れなさに頭を下げる。本当は、何でもない訳がない。離れないでいてほしい。ずっとそばにいてほしい。私のことを覚えていてほしい。……もう忘れてしまっていると思っていた彼が、私のことを覚えていてくれただけで叫び出したいほどに嬉しいはずなのに、一度欲が出るとその先を求めずにはいられなくなってしまう。

右へ左へと目を泳がせるしかない私の名前を呼んだ彼がしゃがみ込んで目を合わせてくる。その瞳から逃れるように目線を逸らすと、「どうして俺がここに来たか知っているか?」と尋ねられぱちぱちと瞬きをする。彼の行動の理由など私が知っているわけがない。こういう言い方をするということは、鴉に呼ばれたから来たというわけではないのだろうか。
「隠は、……いや、鬼殺隊には男が多いだろう」
「? はい。やはり刀を持ったり人間を運んだりというのは力が必要なことですので……」
「そうだ。だが、彼らはそれが仕事とはいえ、傷ついた君を他の者が運ぶのはどうにも我慢ならなくてな」
「が、我慢ならないとは……」
「他の者に不用意に触れられたくないと思ったということだ!」

「分かるか?」と問いかけられ閉口する。触れられたくない。我慢ならない。彼の言った言葉を一つ一つ思い起こす。……分かったような気になっていいの? 貴方も私と同じだと、同じように思ってくれていると、期待しちゃっていいの?
「……先程は友人だって言ったじゃないですか」
「そうだったな! しかし君もその物言いを変える気はないようだから、これでお互い様だろう?」
「お互い様、とは……」
「俺たちは存外似合いだということだ!」

まさかそんな言葉が彼の口から飛び出してくるとは夢にも思わず目をぱちくりとさせていると、「風呂に入ってくる!」と言って立ち上がった彼がもう一度顔を覗き込んで「顔色もずいぶん良くなったようだな! その調子で回復に努めるように!」と言って部屋を出ていくのをただじっと見つめるしかない。足音が完全に聞こえなくなってから、床に置かれたままになっている匙へと手を伸ばす。……私の頬が赤みを帯びる理由になど、貴方は一生気付かなくていい。

無限列車凄かったですね。また観たいです
titled by コペンハーゲンの庭で