貴方がイヴなら僕は誰?

小さい頃から何度となく言われ続けて、頭にこびりついている言葉がある。
「リドルは何でも出来ちゃうね」

頭から離れないそれがいわゆる刷り込みだと気付いたのは、最近のことだった。まるで呪いだ。小さい頃から何でも出来た。でも、それだって全部持って生まれたわけじゃない。完璧を求める母親による分刻みのスケジュールに、毎日やってくる予習に復習、正しいものだけを受け入れるための数え切れないほどのルールの数々。ほんの少し息をつくことさえ許されない生活に、とうとう我慢ならなくなったのは今年の秋のことだった。

「……はあ」

スーツケースを引きながらお母様がボクの帰りを待ち構えているであろう家の門の前に立つと、盛大な溜め息が口から漏れた。かの偉大な女王の厳格な精神に基づくハーツラビュルの王たる自分に似つかわしくないほどの大きな溜め息だ。……やっぱり、トレイと一緒に帰ってくればよかった。冬が書き入れ時のケーキ屋の息子であるトレイに、そんなことはとても頼めないと分かっているけれど。いや、そもそもトレイとチェーニャはボクの家には立ち入り禁止なんだった。「気をつけてな、リドル」あえて何にとは言わず心配そうなそうな表情を浮かべたトレイの顔を思い出して、一歩だけ足を進める。エースやデュースが入ってきてからはより一層ガヤガヤとするようになったハーツラビュルの寮の談話室での風景に比べると、生家へと続く金属で出来た扉はとても近寄りがたいものに見えた。手を伸ばしてゆっくりと触れるとひんやりと冷たい。……まるでかつてのボクみたいだな、と思いながら、手をかけたままだったノブをひねり「ただいま」と小さく声を上げる。吸い込んだ空気はこれまた冷たく、中にいるはずの母からの返事は聞こえてこなかった。
「リドル?」

もう一度、今度は先程よりも大きく挨拶をしようと息を吸い込む。そのピンと張り詰めた糸のような空気を壊したのは、家の中からではなく後ろから聞こえた耳馴染みのある声だった。トレイでもチェーニャでも母親でもないまるで予期していなかった人物の登場に、少しだけ跳ねた肩と心臓をやり過ごすように深く息を吸ってから振り返る。「あ、やっぱりリドルだ。お帰りなさい。賢者の島は寒かったでしょ」と朗らかに声をかけてきたのは向かいの家に住んでいる自分と同学年の女の子のだった。見慣れた顔と変わらない声に少し安堵しながら「やあ。元気そうだね」と返事をすると、白い空気を吐き出して笑った彼女が息を弾ませながら門のそばまで駆け寄ってくる。
「ちょうどトレイの家までホリデー用のケーキ取りに行くところだったんだ。リドルは?今帰ってきたところ?」

問いかけに頷いてから、玄関のドアを開きっぱなしだったことに気付いて傍に置いたままにしてあったスーツケースのハンドルを握る。恐る恐る覗いてみた家の中からは何の物音も響いてこなかった。家人がいる気配もない。買い物にでも行っているのだろうか。
「……ちょっとだけ待っててくれる?」

何となくこのまま一人にはなりたくなくて、の了承を得ないうちから家の中へと引っ込んで、奥の方から飛んできた布がスーツケースのコマを拭き終わるのを見届けてからそれを自室へ置いて急ぎ足で玄関まで戻る。冬の冷たさがじんと伝わってくるドアノブに手をかけ押し開けると、寒さで鼻の頭を真っ赤にした彼女が笑顔でドアの向こうからボクを出迎えた。

「用事でもあったの?」と首を傾げたに尋ねられ、言葉を濁す。
「……久しぶりに帰ってきたし、せっかくだから散歩でもしようかと思ってね。良かったら、少し付き合ってくれるかい?」

この時期の街並みは、どこもかしこもホリデーの準備で慌ただしい。窓から漏れる灯りの奥で忙しなく動いているどこかの家の人を目の端で捉えながら、二人であてもなく歩いてたわいもない話をしているとまるで小さい頃に戻ったかのようだった。ホリデーは楽しみがいっぱいで嬉しいんだけど宿題さえなければなあ、と一頻り学校への文句を言い終えたが「リドルの方はどうなの?」とボクに向かって問いかけてくる。
「ナイトレイブンカレッジはどう? 楽しい?」
「ああ、うん。……楽しいよ、とても」

本心だった。ここ最近のナイトレイブンカレッジでの毎日はトラブルの連続でとても穏やかとは言えないけれど、同時に、これまで過ごしてきた学生生活の何よりも退屈しない日々だとも感じる。きっとこういうのを「楽しい」っていうんだろう。まさか自分が学校に対してそんな気持ちを抱くなんて、少し前までは思いもよらなかったけれど。

勉強することは好きだったし得意だった。誰よりも正しい母に育てられたボクは誰よりも正しくて、いつだって一番に優れていて、それは名門校と名高いナイトレイブンカレッジに入学してからも変わらない。……だけど、最近は、それだけではない何かを得られたような気もして。
「楽しいなら良かった!リドルは凄いね、2年生でもう寮長なんだって聞いたよ」

あ、寮長になったのは1年生のときなんだったっけ。お母さんに「あんたもリドルくんを見習いなさいよ」って言われたんだけど、私リドルとは違って寮長って器じゃないからさ、と喋り続けているの顔をじっと見つめる。ボクだって、本当はそんなに凄い人間じゃない。キミや他の皆と同じように、ホリデーや誕生日にだけ食べられる特別なご馳走に心躍らせるような、そんな、普通の子供でありたいと思うことだってある。すべてが正しくなんてなくっても、ルールで縛らなくっても、一番優れてなくっても、愛してほしいって。……今回のホリデーは、それをきちんとお母様に伝えなくちゃならない。
「……リドル?」

話を聞いてばかりで何も言わないボクの顔を覗き込んだが不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? 何か調子悪いみたいだけど」
「……何でもないよ。それより、トレイのケーキ屋にボクもついて行っても構わないかい?」
「もちろん!」

「珍しいね。何かトレイと話したいことでもあるの?」と訊ねられて「……いや」と口を噤んだ。家に帰ってきたのに宿題もせずに寄り道をしに行ったなんてことがお母様に知られたら、きっと良い顔はされないだろう。も遠回しにそれを心配してくれているのだと分かった。……当たり前か。ボクが夢中になってイチゴのタルトを食べていたおかげで自習の時間を大幅に過ぎてしまって、そのことでお母様がひどく怒ってボクに今後一切友達と遊ぶことを禁じたあのときも、は向かいの家にいたんだから。心配するのも無理はない。……お母様は、もうすぐ家に帰ってくるだろうか。帰ってきたらまず何から話そう。考えるだけで胃が重くなってくる。ずしんとのしかかってくる緊張を振り切るように大きく足を一歩踏み出してから、口を開いた。
「ケーキって、何を買うかはもう決まってるの?」
「うん! この時期限定で売ってるホリデースペシャルフルーツタルトだよ」
「……ホリデースペシャルフルーツタルト? そんなもの、トレイの家のメニューにあったかな」
「あれ、リドル知らないの? 去年から出た新商品でね、リンゴとかイチゴとか旬の果物がいっぱい載ってて、見た目も可愛いからマジカメで凄い人気なんだよ! 遠くから買いに来る人も増えてるんだって。人気すぎて予約しないと買えないから、今日受け取るのすっごい楽しみにしてたんだ」
「そうなんだ」

ホリデーの時期限定のタルトか。しばらくトレイの家のケーキ屋はショーウィンドウを覗くこともしていなかったから、新商品が出ているなんて知らなかった。ケイト曰く、マジカメで一度バズった食べ物には少なくとも一週間はそれを求めた人たちの長い行列が出来るらしい。ただでさえ忙しいこのシーズンにそこまで話題になっているようじゃ、今頃トレイは厨房やレジで忙しなく飛び回ってそうだ。ホリデーが終わってハーツラビュルに戻ったら「ホリデーはどうだった?」とトレイに聞いてやろう。きっと楽しそうな顔はしないんだろうな。その顔を見るのが今から楽しみだ。

ーーああ、そうだ。学校はもう、ボクにとっては勉強するだけの場所じゃなくなってしまった。ルールだけを守ってさえいれば心安らいだかつてのような場所でもない。こんなこと、お母様が聞けば嫌がるだろう。だけど、ボクももう、ハートの女王やお母様の言う通りにしておけば全てが上手くいくわけではないと知ってしまった。だから、せめて一年の終わりのこの時期くらいは、少しくらい自分の意思でワガママを言ってしまってもいいだろうか。

呼び止めたの服の裾をぎゅっと握る。どうしたの?と振り返ったの肩越しに、ケーキ屋の入口に列をなしている人達の姿が見えた。
「お母様と、……話をしてみようと思うんだ。ホリデーのうちの一日くらいは、勉強も宿題も全部忘れて、とーー……友達と一緒に、ええっと、その、ホリデースペシャルフルーツタルト?を食べてみたいって」
「……本当に?」

タルトって、めちゃくちゃ甘いんだよ?お砂糖いっぱい入ってるのに大丈夫なの?お母さんに怒られるでしょ?と心配そうに言うに向かって「大丈夫だよ」と頷く。フルーツがたくさん入ったタルトが甘いことなんて、トレイや寮生たちが何度も作ってくれたおかげでもう十分に知っている。何せボクの大好物なんだから。

頷いたボクを見たの顔がパッと華やいだ。その白い顔についた小さな鼻が寒さで赤くなっているのを見て、ナイトレイブンカレッジで美しく咲き誇るバラの園を思い出す。そうだ。いつだってボクは、本当は、にこうして側にいて笑っていてほしかった。どこにいても、何をしてても。どれだけ他人をルールで縛り付けても、一番であり続けても、何でも出来るボクを昔から唯一気にかけようとしてくれたたった一人のこの女の子に、もう一度ボクの前でこうやって笑ってほしかったんだ。
「あっそうだ。ねえねえ、タルト食べるときなんだけどさ、トレイとチェーニャも誘っちゃおうか。そしたら一番大きいホールのタルト買っても全部食べ切れるよね。私、ホールケーキ買うの夢だったんだ。予約してたやつ、今からホールに変えたいって言ったら作ってくれるかな」と瞳を輝かせたに「それはいいね」と相槌を打ってから「でも、……ボクはキミと二人がいいな」と小さく呟く。

せっかくのホリデーなのだから、無事に一年を終えられたことを、そして、また新しい年が始まることを大事な人と一緒に祝いたい。……ボクの場合は、それがお母様と、だったというだけだ。そしてこのボクの我儘は、きっと二人ともに聞き入れてもらえるだろう。意気揚々とケーキ屋へと向かおうとしていた足を止めてボクの言葉に勢いよく振り返ったの顔は、まるで林檎のように真っ赤になっていた。