カフェオレの渦に飛び込めば

大人になったら綺麗な洋服を身にまとってお洒落なフレンチレストランでご飯を食べて、夜景を見つめながらプロポーズしてくれるようなお金持ちと結婚するのが小さい頃からの夢だった。その夢を赤裸々に綴った作文だって、今もきっと箪笥の奥で眠ってる。子供と呼べる年ではなくなった私はフレンチレストランでどこかの御曹司と豪華なディナーを食べる夢を破り捨て、銀髪の男を前にして麻婆豆腐の皿をつついている。『今日は給料入ったからご馳走食わせてやるよ』なんて、銀ちゃんの口から発せられた時点で信用できる言葉じゃなかったんだ。フレンチか、イタリアンか、はたまた和食か。回らないお寿司も捨てがたい。そうやって淡い期待を抱いていたのにどうしてこうなった。すっかり行きつけの店になってしまったここの麻婆豆腐は皮肉にも私の口にぴったり合って、フレンチやイタリアンなんて敷居の高い店なんてあんたには似合わないのよ、とどこかのセレブに言われてるように感じる。辛くて耐えられないらしい銀ちゃんが水をコップにどばどば豪快に注いでいくのを見つめながら黙々とレンゲを口元へ運ぶ。辛くて美味しいけど口の中が熱い。辛い辛いと言いながらも麻婆豆腐少しと餃子とご飯をかきこむ銀ちゃんに、「辛いの苦手なら頼まなきゃいいのに」と言おうとしたけれどやめた。銀ちゃんが毎回ここに来る度に麻婆豆腐を頼むのは決まっていることだから。理由は聞いたこともないけれど、大体察しがつくからあえて聞かない。銀ちゃんだって聞かれたら返答の仕方に困るだろう。


それはさておき、銀ちゃんが少し挙動不審であるから黙って食べてばかりだった私は箸を止めた。次々に喉へと流し込まれていく水に辛さに参ってしまったのかなと思っていたけれど、コップの水を飲み干してしまった銀ちゃんは右手と左手の指を組んで、その上に顎を乗せて「あー」とか「その、」とか「やっぱ何でもねえ」とか歯切れの悪い言葉ばかりを並べる。そういえばさっきから箸を進めるのは私ばかりで銀ちゃんはほとんど何も口にしていない。お腹が空いていないのだろうか。デザートメニューに落とされている視線は文字と写真の上を忙しなく泳いでいるだけで、やっぱり今の銀ちゃんは変である。最近仕事上手くいってないのかな。
「銀ちゃんどうしたの、何か悩みごとでも出来た?」
「出来てない」
「でも難しい顔してる」
「してねェよ」
「してるよ」
「してねェっつったらしてねェ。お前は黙って豆腐でも食っとけ」
「飽きた。銀ちゃん残った分食べる?」
「んな辛いもん食うくらいなら胡麻団子頼むわ」

そして本当に銀ちゃんは胡麻団子を頼んだ。一つ貰って食べると麻婆豆腐で辛くなっていたせいかとてつもなく甘い。胸やけがする甘さ。まだ少し水の残るコップに手を伸ばすとその上から銀ちゃんの暖かな手が重ねられた。先程のなにやら葛藤していたような様子から一転、何かを決意したような表情の銀ちゃんに心臓が跳ね上がる。こんな街中の中華料理店でそんな真面目な顔をされても、どうしたらいいか分からないじゃない。
「前から言おうと思ってたんだけどよ、」
「うん」
「そろそろ落ち着かねえか」
「え?」
「………俺んとこ来ないかってことだよ」

凛々しかった顔をまた眉を下げて不安そうな顔をしながら、銀ちゃんは聞こえるか聞こえないかくらいのくらいの声で言った。私の手を上から握っていた手も離されて、顔を隠すように俯いてしまう。お給料が入ったからなんて言って馴染みのこの店に連れてきたのも、もしかしてムード作りのつもり?だとしたら100点満点のうち50点もあげられないわ。あげられないけれど、ムード作りが下手な貴方と敷居の高いお店が苦手な私を合わせたら、きっと相性は100点なんだろう。
「餃子食べながら言う台詞じゃないよね」

玉の輿を狙っていた幼い私はとっくの昔に成長していて、フレンチもイタリアンも和食へも食べに連れていってはくれない男と長年連れ添っているのにもそれなりの特別な感情があるからで、お金がないくせに辛くて自分が食べられもしない麻婆豆腐を私が好きな味だからって「二人で分けりゃ安くつくだろ」なんて言いながら毎回頼んでくれてることも、結局辛くて食べられないからって私に全部くれることも、ちゃんと気づけてるんだ。俯く顔を覆っていた手をそっと握って、とびっきりの笑顔で頷いてやった。貴方は知らないかもしれないけど、甘党にも食べてもらえるようにこっそりあんまり辛くない麻婆豆腐の作り方を練習してたりもするんだよ。銀ちゃんのことだから「そんなのよりパフェが食いてェ」とか言うんだろうけど、そんな銀ちゃんもひっくるめてちゃんと大好きだから。
「明日はファミレス行こうか」
「外食ばっかじゃ体に悪いだろ、金もねェし」
「いいじゃんパフェ奢ってあげるから行こうよ」
「お前が気前いいと何か裏ありそうだから嫌」
「裏なんかないよ、ただ記念日のお祝いしたいだけ」
「はあ?記念日ィ?」
「だって婚約祝いの記念日でしょ?」

がちゃん、銀ちゃんが空になったコップを倒して決まりの悪そうな顔をした。自分から言ったことなのにそんなに照れるなんて、恋人の新たな一面を発見しちゃったみたいだ。ねえ、フレンチもイタリアンもお洒落なホテルもいらないから、今度はファミレスに二人で行って、甘いものをうんと食べて、美味しいって笑う顔を私にしっかり見せてね。