微笑みはあなただけのために

理系か文系かとか、慎重派か行動派かとか、几帳面かズボラかとか、私と彼の違いを挙げ出したらキリがない。キリがないけれど、結局のところは惚れたか惚れていないか。私たちの違いを示すのにはその言葉だけで十分だったように思う。

数学と化学は生まれてこの方ずっと得意だった試しがなかった。理系科目は早々に諦めて文系の道を進むと決めた私が最終的に職業として選んだのは高校教師で、夢に燃える若人を導く聖職者として邁進するべく意気揚々とキメツ学園の門をくぐったのももう数年前の話だ。中高一貫校であるこの学園には、そういう人間ばかりをわざと集めているのではないかと疑いたくなるほどに癖の強い生徒ばかりが集まってくる。いつも礼儀正しく真面目なのに頑なに校則違反を続けようとする石頭の少年や、毎日フランスパンを咥えて登校してくる次期学園三代美女候補ナンバーワンの女の子に、猪に育てられたとか何とかで靴も履かずに弁当だけは持ってくる男子生徒などなど、挙げ始めれば枚挙にいとまがない。極めつけは三年の素山くんと一年の素山さんだ。なんと学生の身でありながらもう既に結婚しているそうじゃないか。悔しい。私なんてまだ結婚のけの字も自分の人生に登場する気配がないというのに。

……個人的な恨み節はともかく、キメツ学園には幸か不幸か個性豊かな生徒たちが集まっている。そして変わり者揃いなのは生徒だけではなく先生たちも同じだった。スパルタすぎて保護者からの苦情が尽きない冨岡先生や、「芸術は爆発だ」が信条でしょっちゅう美術室をダイナマイトで破壊しようとする宇髄先生に、普段は割と理性的なのに数学のことになると途端に周りが見えなくなる不死川先生など、こちらも挙げ始めればキリがない。この学園で私を癒してくれる存在と言えばカナエ先生ぐらいのものだ。しかし最近はそのカナエ先生の姿を見かける度に胸が締め付けられるような心地がして、おちおち心も休まらなくなってしまった。何故かというと、答えは簡単。最近のカナエ先生の傍にはいつだって彼がいるからだ。
「冷静に考えてみてくださいよ。敵うわけなくないですか?」

ビールジョッキを片手に虚空を睨みそう言った私に「おいおい出来上がるの早ェな」と宇髄先生が呟いた言葉には聞こえないふりをして、向こうのテーブルに座っているカナエ先生へと目線を送る。全人類が見惚れてしまうのではないかと思ってしまうほどに可憐でたおやかな笑みを浮かべて煉獄さんの話に何やら相槌を打っているカナエ先生は、同性の私から見ても魅力的だと思う。在学中は学園三大美女としてその名を学園外にまで轟かせ、教師として戻ってきた今でも生徒や保護者からの絶大な人気を誇っているだけのことはある。容姿の美しさもさることながら、性格も穏やかで優しく非の打ち所がない。完璧だ。そんな人と職場の同僚として晴れの日も雨の日も風の日も一緒に過ごしていて、好きになるなという方が無理な話なのかもしれない。それが例え私に対しては鉄壁のガードを誇る不死川先生であったとしても。はあ、と特大の溜め息をついた私の様子をまじまじと見つめていた宇髄先生が私の視線の先に座るカナエ先生と私を交互に見てから不思議そうに首を傾げた。
「冷静に考えなくてもド派手に負けてるって思わねェか?」
「今それ言われると洒落にならないんでやめてもらえます?」

ド派手に負けてるって宇髄先生、それ日本語としてちょっとおかしいですよと普段なら一介の国語教師としてすかさず突っ込んでいるところだけれど、残念ながら今日の私にはその元気ももう残されていない。既に致死量のダメージを食らってしまっているからだ。もう一度溜め息をついてから、楽しそうに談笑し続けているカナエ先生と煉獄先生から視線を離し、二人の向かい側に座ってちびちびと焼酎を飲んでいる不死川先生へと移す。どれだけ見つめようと一瞬たりとも目線は交わらない。打てど響かず、叩けど鳴らず、当たれども当たれども砕けず。そんな彼のつれない態度に痺れを切らして「やっぱり外堀から埋めていくしかないと思うんですよね」と宇髄先生や煉獄先生に向かってこの居酒屋でビールジョッキ片手にそう宣言したのはもう一年以上前のことで、その結果がどうなったかなんて聞かなくても分かるだろう。見ての通りのこの様だ。難攻不落の城どころではない。もはやあれは要塞だった。
「不死川先生この映画気になるって言ってましたよね。ちょうどチケット二枚あるんですけど観に行きません?」
「あァ? ……それなら先週弟たちと観に行ったから他当たれェ」
「あっ不死川先生ちょうど良かった。ふるさと納税で買っためちゃくちゃ良い肉が今日家に届くんですけど、すき焼きにしようかと思ってて。一人で食べるのも勿体ないんで、良かったら食べに来ませんか?」
「今日ォ? ……妹の誕生日だからパスだなァ」
「奇遇ですね不死川先生。私も帰り道こっちなんですけど、ご一緒してもよろしいですか?」
「よろしくねェ。生徒どもに見られたら騒がれんだろォ」

この一年で彼へとかけたアプローチの数々を思い返せば思い返すほど、つれなさすぎて逆に笑えてくる。私だって別に百戦錬磨の恋多き女ってわけじゃない。見た目だって特別美人ってわけでもないし、男なら誰でも虜にしてしまうような色気があるわけでもない。だけど、それにしたってここまで靡かないものなのだろうか。弟や妹を大切にしている家族想いなところは彼の好きなところの一つだけれど、一回くらいは私に付き合ってくれてもよくない?と思わずにはいられない。体よく断るための言い訳という線も勿論あるけれど、それを認めてしまえば今度こそ一縷の望みすらも消え失せてしまうような気がして。

諦めた方がいいんだろうなと薄々気付いてはいながらも、職員室で隣に座って書類を片付けている彼の姿を目にする度に心臓が暴れ出すのを止められなくて、私には目もくれない彼の瞳がカナエ先生を映しているのを見る度に、嫉妬に焼かれて居ても立ってもいられなくなる。……あーあ。もし私が他の誰かに生まれ変われるのなら、カナエ先生になって一度でいいからあんな風に不死川先生と話してみたかったなあ。どれだけ羨んだところで私がカナエ先生になれる日など逆立ちしたってやってこないことは重々承知の上だけれど。

そうだ。カナエ先生といえば、最後の台詞は聞き捨てならない。カナエ先生とは帰り道だろうが職員室だろうが廊下だろうがいつだって仲睦まじく話しているじゃないか。それこそ生徒たちの間で不死川先生の暗殺計画が立てられるほど親密に。スマッシュブラザーズ事件以来その計画もぱったりと消えてしまったらしいけれど、……話が逸れてしまった。ええと、つまりその、私と噂を立てられるのは嫌で、カナエ先生ならいいってこと?あんな風に澄ました顔をしておいて、やっぱり美人が好きってことなんだ。そりゃそうか、私だって自分が男で、目の前に私とカナエ先生がいたら迷わずカナエ先生の方を選ぶ。綺麗で可愛くて優しくて、ちょっと天然なところもあるけどそこもまた魅力的で、その上、心まで綺麗ときた。完璧だ。何一つとして敵わない。宇髄先生の言う通り、元から勝負にすらなってないってことはそりゃあ分かってはいるのだけども。

気分の落ち込み具合と酒の飲みっぷりは反比例するというのが私の持論だ。今日は特にその傾向が強い。不死川先生とカナエ先生がいつまた仲睦まじく談笑し始めるのかと思うと気が気じゃなくて、次々と運ばれてくるつまみとビールを流し込むことでしか鬱屈とした気分を紛らわせなくて、そんな調子で一時間もすれば見事にへべれけになってしまっていた。すっかり出来上がった私を前に「誰が送っていく?」「俺こいつの家知らねェ」と男性陣が小声で話し合っている声がガヤガヤとした喧騒に紛れて聞こえてくる。送迎なんていらない、今日は一人になりたい気分だから私のことはどうか放っておいて……と悲劇のヒロインよろしく断りたいところだったけれど、この覚束ない足取りでは家まで辿り着くのは一体いつになることやらと回らない頭で考え至った末に、彼らの好意に甘えることにした。てっきり煉獄先生か宇髄先生が送ってくれるものと思い込んでいたからだ。
「じゃあな、気つけて帰れよ」

……何で?

ひらひらとこちらに向かって手を振ってから意気揚々と二次会の店へ歩き出した煉獄先生と宇髄先生、そしてカナエ先生の後ろ姿を呆然と見つめる。途方に暮れ繁華街の道の真ん中で立ち尽くしている私の隣には、これまた無表情で腕を組んでいる不死川先生がむっつりと立っていた。
「あ、あの、不死川先生」
「……帰るぞォ」

帰るって一体どこへ、なんて野暮なことは聞けない。男性陣のうち誰が私を家まで送っていくかの会議をしている最中、興味なさげに欠伸をしていた不死川先生とその横顔を穴が開くほど見つめている私を見て「そういやお前ら家近くなんだってな」と、閃いたとでも言いたげな顔をしながら両手を叩いて言った宇髄先生のあのしたり顔が頭に浮かんでくる。「頑張れよ」と、ぱくぱくと口だけを動かして形だけの激励を送ってきた宇髄先生を心の中で恨んだ。この状況で一体何を頑張れというのか。どうせ不死川先生はカナエ先生と帰るんでしょ、とたかを括っていた私は突然の不死川先生と二人きりというこの状況に心の準備も何も出来ておらず、前を歩く背中にとぼとぼと着いていくことしか出来ない。身体の大きな不死川先生の歩幅は私よりもうんと大きい。転びそうになりながら必死に追いかけているうちに、あっという間に近くの交差点に差し掛かってしまった。全く振り返る様子のない彼の背中へと向かって「あの」と口を開く。
「この辺でいいですよ。家、もう少しのとこですから」
「……家の前まで送る」
「大丈夫です。……あの、本当にもうすぐですから。それに、不死川先生も二軒目行きたかったんじゃないですか?」
「別に」
「で、でも、今戻ったらまだカナエ先生いるかもしれませんし……」

そこまで言ってから思い至った、失言の可能性。顰められた眉が、何も言わずとも明らかに彼が不機嫌であることを示している。な、何でそんなに不機嫌なんだろう。不機嫌オーラを全身からこれでもかと放ちながらも何も言おうとはしない彼に真正面から対峙している気まずい雰囲気に耐えきれず、あわあわと辺りを見回してみても誰かが助け舟を出してくれるような気配もない。冷や汗を背中いっぱいにかきながら精一杯これ以上彼を刺激しないように回らない頭で必死に言葉を探した。
「えっと、その、カナエ先生も宇髄先生達と二次会行く感じでしたし、今から戻ればまだお話出来るチャンスもあるんじゃないかなぁとか、思ってみたんですけど……」

伺うように発した言葉が尻すぼみになって消えていく。彼から発せられるぴりぴりとした緊張感が肌を突刺してくるようだ。どうしよう今すぐにここから逃げ出したい。しかし目の前の彼の三白眼気味な双眸に捉えられた私の身体はまるで蛇に睨まれた蛙のようにこの場から動けなくなってしまう。

たっぷりの沈黙ののち、「チャンスってなんだ」と不死川先生が小さく呟いた。「えっと、その、カナエ先生とお近づきになるための第一歩というか……」言い終わらないうちに彼の眉間の皺がますます深くなっていく。
「だって不死川先生、普段全然飲み会来ないし、来たとしてもカナエ先生とばっかり話して私とは全然話してくれないじゃないですか」
「はァ?」
「だから、不死川先生ってカナエ先生のこと好きなんだろうなって思って……」

最後の方はもうほとんど独り言に近かった。地面に落としていた視線を少しだけ上げて表情を伺うと、不死川先生は何とも言えない顔をしていた。ただの同僚の私に「カナエ先生が好きなんでしょ」と言い当てられて少なからず動揺しているのだろうか。先程まで深く刻まれていた眉間の皺が少しだけ薄くなっているのを見てほっと一息ついたのも束の間、彼が「なァ」と発したのを聞いて顔を上げると一歩こちらへと向かって踏み出した彼がとんでもない爆弾を落としてくる。
「お前俺のこと好きなのかよ」
「は?」

今度は私が聞き返す番だった。アルコールの回り切った頭が彼の一言の衝撃によって一気に覚醒していく。今更何を言っているんだ。まさかあの数々のアプローチは全く意に介されていなかったとでもいうんだろうか。じゃあ、私のあの一年間の努力って一体何だったんだろう。身体の力が一気に抜けて脱力する。
「……好きです」

もうどうにでもなってしまえと半ばヤケクソで呟いた言葉は不死川先生に届いたかどうかも分からないくらいに小さな声だった。一瞬にも永遠にも感じられる静寂の後、「そうか」と呟いた彼がもう一歩さらに距離を詰めてくる。
「じゃあ、付き合うかァ」

何がどうなって「じゃあ」なのかさっぱり分からない。酔いが回るあまりに都合の良い幻覚でも見ているのだろうか。しかし、アルコールに浮かされていたはずの火照った頭はこの時にはもう完全に覚醒していた。こくこくと頷いた私の手首を弱い力で掴んだ彼の体温までしっかりと感じられるほどに。

それからの帰り道はお互い無言だった。どうやって自宅にまで辿り着いたのか、正直なところ全くと言っていいほど覚えていない。ただ、宣言通り玄関の扉の前まで送ってくれた彼に向かって「夢じゃないですよね?」と呟いた私に「……さァな」と少しだけ笑って返した不死川先生の顔がめちゃくちゃ格好良かったことだけは鮮明に覚えているのだけど。




しかし驚くべきなのはここからだ。何と不死川先生は「恋人」という肩書がついても私の手を握ってくるどころか指一本たりとも触れようとはしてこなかった。粘りに粘ってようやくふるさと納税で届いた二つ目の和牛のすき焼きは食べに来てくれたけど。それだって「あんまり遅ェと家の奴らが心配しやがるからなァ」とか何とか言って、二人ですき焼きを食べ終わって使ったお皿や鍋を洗ってくれるなり日付が変わる前にそそくさと家に帰ってしまったのだ。あのときほど他人の行動に呆気に取られたことはない。開いた口が塞がらなかった。

恋人同士という甘い響きに有頂天になっていた私も、こんな調子で一ヶ月も経てばさすがにおかしいと気づき始める。えっなにこれ。何にも状況変わってなくない?あの日の「付き合うかァ」ってなんだったの?付き合うって何?ただ「同僚」から「恋人」に表面上の名前が変わっただけで実態は何ら進歩してないんじゃない?むしろ長年温めた恋心と下心が本人にバレてしまった分だけ、状況は私にとって不利になってしまったように思える。

そして不死川先生は相変わらず学校では私ではなくカナエ先生とよく話しているのだ。その状況も合わせて一体全体何なんだと思わずにはいられない。別に、学校だったり帰り道だったり、人目につくところでイチャイチャしてくれなんて言わない。言わないけれど、せめて生徒や他の先生達の目につかないところでは、恋人らしい甘い囁きとかたわいもない触れ合いとか、そういうのがさ、あってもいいんじゃないかって思うんだけど。恋人同士なんだし。これじゃあカナエ先生と私のどちらが不死川先生の恋人なのか分からない。

やはり、私の場合は気分の落ち込み具合と酒の飲みっぷりは反比例する。今日も今日とて私の隣には座ってくれない不死川先生の広い背中が焼け焦げてしまうのではと思うほどに熱い視線を送りながら、一ヶ月前と何ら変わらぬ状況に特大の大きさの溜め息をついた。「まーた開始早々から出来上がってんなァ」と今にもテーブルに倒れ込みそうな私の額を小突いた宇髄先生が「不死川、こいつもうダメそうだから家まで連れて帰ってやれよ」と不死川先生に向かって言っているのが聞こえる。それに答える不死川先生の声は聞こえてこない。「俺も煉獄もこいつの家どこか知らねェし。頼んだ」と言っている宇髄先生の声がやけに遠く聞こえた。
「帰んぞォ」

私が座るテーブルに「二人分だ」と言って一万円札を置いた不死川先生に腕を掴まれ、引きずられるようにして居酒屋を後にする。……こういうときぐらい、腕じゃなくて手を握ってほしいのに。

散々嘆いておいて今更という感じもするが、不死川先生が言ったあの「付き合うかァ」から約一ヶ月、私と彼の間にも、変わらないことばかりではなかった。第一に、道案内をせずとも彼は私の住むアパートに向かって真っ直ぐ迷うことなく歩いている。あの日以来、何度か足を運んでもらうことがあったからだ。どれだけせがんでみても彼がこの家で私と一緒に朝を迎えることはなかったけれど、こうして家まで送り届けてくれたときに玄関の扉を私がちゃんと閉めるまで見届けようとしてくれるところは、例え名ばかりであろうとも「恋人」にならないと見られなかったのかなあとも思う。

玄関の前に二人で立って、鞄の中を探る。鍵を差し込んで私がドアを開けるのをじっと見ている不死川先生を見上げて「ありがとうございました」と言いながらドアの向こうへ身体を滑り込ませた。「あァ」……こういうとき、少しでも名残惜しそうな顔をしてくれたならこの先へ踏み込む勇気も持てそうなのに。相変わらずの素気ない態度にアルコールも相まって涙が出てきそうになる。だけど、そんな感傷的な気分もバタンと閉まったドアに背を向け何気なくジャケットのポケットを探った瞬間に吹っ飛んでしまった。そこにあるはずの感触が微塵も感じられず、焦った私はすぐそこに彼がいることも忘れて素っ頓狂な声を上げる。
「あれっスマホ忘れた!?」
「……何やってんだ」

玄関の向こうから、不死川先生の呆れたような声がする。まだそこにいてくれたんだという安堵感と、さっきの間抜けな声を聞かれてしまった気恥ずかしさが混ざり合ってドクドクと脈拍が速くなっていく。そしてその鼓動の高鳴りは彼が扉の向こうで静かに発した「開けるぞ」の言葉でピークに達した。私の返事も聞かないうちにドアを開けて玄関へと入ってきた不死川先生があわあわと慌てる私を見下ろしてやれやれとでも言いたげな顔で口を開く。
「鞄の中に入ってんだろォ。……そっちじゃねェ、小さい方のポケットだ」

言われるがまま、廊下に放っぽり出していた鞄を拾い上げて中の小さい方のポケットを探る。……本当にあった。凄い。でも、何で分かったんだろう。
「……いつも見てたから分かる」

私の考えが伝わったのか、それとも、よっぽど言いたいことが顔に書いてあったのか。ぼそりと呟かれた言葉に勢いよく顔を上げると、仏頂面をしながらも少しだけ耳を赤く染めた不死川先生の顔が目に入った。思わず口をついた「嘘」の言葉に「嘘じゃねェ」とまた彼の眉が顰められる。

だって、いつも見てたって。そんなの私の台詞だ。四六時中どれだけ見つめ続けたって全く目が合わなかったというのに、そんなふうに言われたって信じられないに決まってる。
「……テメェこそ本当に俺のこと好きなのかよ」

眉を顰めながら視線を落として呟かれた彼の言葉は、ぐるぐると回り始めた私の思考を止めるのには十分すぎるほどの威力を持っていた。え、何言って、と反応する前に「居酒屋でも宇髄の野郎とばっか話しやがって」と苦々しげに続けられた言葉に目を見開く。
「そ、そんなこと言うなら不死川先生だってカナエ先生とばっかり話してるじゃないですか。……私だって、カナエ先生みたいに不死川先生と学校でも話したいし、学校終わったら一緒に帰りたいし、すき焼き食べるだけじゃなくて泊まっていってほしいし、誕生日も祝ってほしいし、もっと言えば朝まで一緒にいたいし、何ならお風呂だって一緒に入りたいし、……でも、全然相手にしてくれないのは不死川先生の方で、」

一度口にすると堰を切ったように次から次へと欲望が溢れて止まらない。これじゃあまるで駄々をこねる子供だ。生徒を導くべき教師が何たる体たらくかと、呆れられてしまっただろうか。一通り私が心に秘めていた欲望を吐き出すのを黙って聞いていた不死川先生が数回瞬きをしてから言う。
「んなことで悩んでたのかよォ」

人の一世一代の告白を「そんなこと」扱いなんて酷い。そう言ってやりたいのに溢れてくるのは涙だけで、あまりの情けなさにスンと鼻を啜った。俯いてじっとそのままでいると、彼の大きな手がゆっくりと私の頭の上に乗せられてあやすように数回撫でつけられる。まさか彼がそんな風な行動に出るとは思わず、驚きのあまり涙の引っ込んだ目でぱちぱちと瞬きをした。瞬きの先にいる不死川先生はかつて見たことないほどに優しい表情をしている。
「学校のことは善処する。……泊まってくのも。胡蝶とよく話してるのはお前のこと話してただけだ。 お前が嫌がるんならやめる。……そんで、まあ、……風呂くらい好きにすりゃいいだろうが」

好きにすればいい、という彼の言葉に、アルコールとは比べ物にならないほどの熱で身体中がカッと熱くなるのを感じた。酔っているのだろうか、私も彼も。思ってもみなかった彼の言葉に、表情に、好きだという気持ちが急激に高まっていく。
「……じゃ、じゃあ、今から一緒に入ってもらってもいいですか?」
「はァ?」

一瞬ぱちくりとその三白眼気味な大きな目を瞬かせた後、ふいと顔を背けて玄関から続く散らかり放題のリビングと視線をやった彼が「部屋片付けたらな」と言って靴を脱ぎ私を追い越して脱衣所へと消えていく姿に目が釘付けになった。「風呂借りるぞ」の言葉とともにバタンとドアが閉められた後も、根が生えてしまったかのように玄関から動けずに立ちすくむ。……ちょっと、どうしよう。どうしよう。どうしよう。断られなかった。今のやりとりめちゃくちゃ恋人同士っぽくない?私一緒にお風呂入りたいって言ったよね?それで不死川先生嫌がらなかったよね?つまり、「いいよ」ってことなんだよね?

半ばヤケクソではあったが確かに自分から言い出したことのはずなのに、いざ肯定されるとどうしたらいいのか分からなくなる。とりあえず一旦落ち着こう。数回深呼吸をしてから意を決して自室に戻り、クローゼットの扉を開ける。手持ちで一番可愛い下着ってどんなやつ持ってたっけ。不死川先生はそういうことを気にするタイプだろうか。外堀を埋めていくために彼のことは粗方リサーチしたつもりだったのに、結局肝心なことは何一つとして分かってない。ただ、朝この扉を開けたときには想像もしていなかった甘い予感に胸が震えた。

脱衣所の向こうのバスルームから、彼がシャワーを浴びているのであろう音が響いてくる。膨らむ一方の期待を胸に床に机にと散らかり放題の荷物をクローゼットに押し込んで、一張羅の下着とお気に入りのパジャマを引っ掴んで脱衣所のドアに手をかけた。これは本当に自分の心臓だろうかと不安になる程に大きな音を立てている胸の昂りを押さえつけるように数回深呼吸をして、意を決してドアを開く。より大きくなったシャワーの音に期待と興奮がピークに達するのを感じる。どうか、この扉一枚隔てた向こうにいる彼も同じ気持ちでありますようにと願いながら、息苦しいシャツのボタンに手をかけもう一度深呼吸をした。

……そして、これからはきっと、可愛い生徒たちの前ではとてもじゃないが言えないような目眩く甘い夜が始まる。

風柱誕生日おめでとう2020!
去年はお祝い出来なかったので今年は祝えて嬉しいです
titled by るるる