おとなとこども
ボーダーで過ごす24時間は、私にとって数時間に等しい。今日の体感では4時間ほど、ざっと6分の1。それも、忍田さんがいるときは尚更早くなる。
こんなこと、本人にはとても言えない話だけれども。
「うわっ、さむっ」
本部から外へと繋がる通路を出た瞬間、身を切るような冷たい風に吹かれた身体が大きく縮み上がった。ここのところボーダー本部に缶詰になっていたから、数日ぶりに外へ出ると季節が幾分進んだように感じられる。秋始めからずっと使っている薄手のコートでは最早心許なく、吹き荒ぶ風のあまりの冷たさに全身に一気に鳥肌が立っていくのが分かった。
コートの袖をまくって時計に表示された時間を確認する。ちょうど20時を過ぎたところだ。第一次大規模侵攻が起きてからは大抵の店が被害の少ない地域へと移転していってしまったから、この辺りは飲食店が少ない。梅見屋橋の方へ行けばいくつかお店も集まっているけれど、あの辺りも20時半を過ぎるとラストオーダーになるところが多いから、あまりのんびりしてもいられなさそうだ。
吹きつけてくる風を少しでも避けるべくコートの前ボタンをしっかりと閉めた後、梅見屋橋の飲食店が立ち並ぶエリアの方へと足を早めていく。
今日は何を食べようか。出来れば野菜を食べたいから、サラダかスープのある店がいいな。焼きたてのパンがあれば尚良し。ラストオーダーに間に合わなかったら、テイクアウトが出来ればいいんだけど。
総勢三百名を超える隊員を擁するボーダー本部には食堂が併設されていて、ランク戦や任務に当たる隊員たちに日々出来たての美味しい食事を提供している。けれど、その隊員のほとんどが未成年ということもあって、食堂のメインの営業時間は昼となっている。朝や夜にボーダー本部で活動している人間は、自宅からお弁当を作って持参するか、キッチンで各々食事を用意するか、自動販売機や近くのコンビニエンスストアで食料を調達してくるか、こうして外へと食べに行くかだ。私も普段は自分のデスクで軽く済ませることが多いけれど、さすがに毎日おにぎりやパンで空腹を紛らわせるのは身体に悪いということで、大きな仕事がひと段落したタイミングで久しぶりに外へと食べに来たというわけである。
どれだけ暴飲暴食をしたとしても次の日には平気でジャンクフードを食べられていた10代の頃や、徹夜で飲み明かした後そのまま大学の講義へと向かっていた20歳そこそこの頃とは違って、20代も後半に差し掛かろうとしている今では食べたものや睡眠時間が如実に翌日のパフォーマンスに反映されるようになってしまった。いくら仕事が立て込んでいるからといって、こうも毎日食堂で買ったパンやおにぎりをコーヒー片手にデスクで食べて仕事の合間に執務室の簡易ベッドで眠る生活を続けていてはどこかで絶対にガタが来てしまう。多少の無茶は若さでカバー出来てしまっていた年頃はもう終わりを告げようとしているのだ。
ボーダーに所属することになった当初はこちらの世界を守ろうと気負いすぎるあまりとても表では口には出せないような無茶もしたものだけれど、がくっと体調を崩したり疲労から大きなミスをしてしまったりとそれなりに大きな代償を支払う結果となってしまった。あのときは忍田さんや沢村さんがフォローをしてくれたおかげで何とかなったものの、もういい年をした大人のうちの一人として、同じ轍は二度と踏むまい。ただでさえ少ない人員で回しているボーダーの仕事に欠員を出してしまったら、自分だけでなく本部全体に迷惑がかかってしまう。然るに、自己管理も立派な仕事のうちの一つなのだ。
そう思って、いくら仕事が立て込んでいたとしても数日に一度は気分転換も兼ねてボーダーの外に出るようにしている。規則正しい睡眠、適度な運動習慣、バランスの取れた食事、定期的なリフレッシュ。どれも忙しいとつい後回しになりがちだけれど、勤め人として健やかに生きていく上で大切なものだ。
ほとんど無人の住宅街を通り抜けながら、再び腕時計を確認する。時刻は20時20分を指していた。この分だとラストオーダーには間に合わないかもしれない。いや、ぎりぎり走ればいけるかも――そう思って足を早めたときだった。
前方約三メートルほど先、横断歩道で信号が青に変わるのを待っている人物の後ろ姿に見覚えがあった。ほとんど走っているのに近いスピードで足早に近づいて、斜め後ろから顔を確認する。黒いコートに身を包み、背筋を伸ばしてしゃんとした姿勢で歩道の一角に佇んでいるその人は、やはり私のよく知っている人物だった。
「お疲れ様です」
隣に立ち、そう声をかけると忍田さんの目線がこちらに向けられる。
「休憩ですか?」
「ああ、今日は早めに終わったからラーメンでも食べようかと思ってね。君はこれから帰るところか?」
「いえ、私も仕事がひと段落したのでどこかで晩ご飯でも食べようかなと思って。食べたらまたボーダに戻るつもりです」
「そうか、ご苦労様」
口先では『どこか』なんて言いつつも、頭の中はすぐに本部長が食べる予定だというラーメンのことでいっぱいになっていく。この辺りにあるラーメン屋を数軒思い浮かべ、本部長はどこの店に行くつもりなのだろうと考える。先程まではあれだけ健康を意識して野菜を使ったメニューを食べようと思っていたはずなのに、本部長からたった一言『ラーメン』と聞いただけでこの有様だ。
けれど、それも仕方ないのではないかと思った。
だって私は、忍田本部長のことが好きなのだ。
本部長の好きなものはよく知っている。自己鍛錬に、だし巻き玉子、しょうゆラーメン、それとバイク。仕事中に飲む眠気覚ましのコーヒーは無糖派で、新茶の季節には玉露のお茶も好んで飲んでいる。普段甘いものを食べている様子はないけれど、たまに唐沢さんが外部のスポンサーからもらってきたお菓子をデスクに置いておくと次にデスクへ行ったときには無くなっているから、嫌いではないのだろうと思う。昼間に食堂で頼むメニューはもっぱら麺類か定食が中心で、食堂が空いていないときは私や他の職員と同じようにデスクで簡単に食事を済ませている。それか、今のように外で食べるときもあるようだ。
本部長もちょうど外に出るタイミングだったのなら、本部を出てくるときに少し遠回りをして作戦室に寄っていけばよかったな。そうしたら、自然な流れでご相伴に預かることだって出来たかもしれないのに。
反対側の信号が赤になり、まもなくこちら側の信号も青に変わろうとしている。もう頭の中は完全にラーメンのことでいっぱいだ。一緒に食べに行ってもいいか、聞いてみてもいいだろうか。どういう風に切り出せば、自然に訊ねることが出来るだろう。何も言わずに着いていくのはさすがに気持ち悪いだろうし、もしかしたら本部長も今日は一人で食べたい気分かもしれないし。
そんなことを考えているうちに、信号が青に変わったのを見て本部長が一歩踏み出そうとする。ああ、まずい、言うなら早く言わないと――
「……あの。ラーメン、ご一緒してもいいですか?
私もちょうどあったかいもの食べたいなと思ってて」
頭を悩ませた割にはこれといった良いフレーズも思い浮かばず、やや早口になってしまった私の言葉に本部長が「ああ」と頷く。
良かった、断られなかった。横断歩道を渡る足取りは軽い。
思いがけず本部長と一緒に食事が出来ることになり、デスクで買い置きのカップラーメンを食べずに外へ出て食事をしようと思ったあのときの自分の判断に感謝した。たまにはこうして外に出てみるのもいいものだ。顔には出さないものの、本部長と二人きりで食事をするなんていう滅多にない機会の訪れに、私の心は完全に浮き足立ってしまっていた。
◆
本部長に連れられて来たのは古い店構えの中華料理店だった。若い隊員が多いボーダーの中で年長者としてあれだけ皆から頼りにされている本部長も、一人での食事ではこういうところに来ることがあるのかと少し意外に思いながら店員に案内されたカウンター席に二人で腰掛ける。狭い店内では少し体を動かしただけでお互いの肘や腕が触れてしまいそうで、その距離を気遣ってか本部長の身体は腰掛けている椅子の中央から少し左に寄ったところに位置している。
そういうさりげないところも好きだと思った。
四年半前に起きた第一次大規模侵攻であれほど大きな被害を受けたにも関わらず、三門市での市民の生活は以前とあまり変わらない。コンビニもスーパーも花屋もトレーニングジムも飲食店も当たり前のように毎日休まず営業しているし、会社や学校はカレンダー通り、特に以前と変わった様子はない。店の壁際に設置されたテレビから流れてくるニュース番組では観光客で賑わう紅葉スポット特集だの初雪予想だの受験シーズンの幕開けだのと近界民とは関係のないニュースばかりが放送されていて、少し先の警戒区域で小規模な爆発や地割れが起こっているのを誰も気にしている様子はなく、現に私もこうしてほとんど丸腰に近い状態でボーダー本部の外に出て忍田さんと二人で中華料理屋のカウンター席に座りながら、呑気に注文した二人分のしょうゆラーメンが運ばれて来るのを待っている。
「ここ最近バタバタしてて全然ニュース観れてなかったんですけど、もうすっかり秋ですね」
「ああ」
「本部長は紅葉観にいかれる予定とかあります?」
「いや、ないな。当分は仕事にかかりきりだろうから、今年も見ないうちにシーズンが終わっている気がするよ。君は?」
「私も一緒です」
ボーダーの仕事を始める前――大規模侵攻が起こる前の私は、仕事が休みの度に友人や恋人と外へ出かけては季節のイベントを楽しんでいた。春は花見、夏は花火大会、秋は紅葉、冬は雪山でスノーボードといった具合に。それが一変したのはボーダーへ入って忍田さんの下で仕事をするようになってからだ。たまの休みは昼過ぎまで寝ていて外出もろくにままならないし、紅葉や銀杏の葉が色づき始めていることにも、恋人たちの気分が最も盛り上がる冬の季節が近づいてきていることにもニュース番組を観るまで気が付かない有様で、特別な用があるとき以外は24時間365日ほぼボーダーで過ごしていると言っても過言ではない。今となっては学生時代の友人が何をしているかさっぱり分からないし、恋人なんて最後にいたのはいつのことだろうか。もう思い出すのも億劫になるくらい、遠い記憶の出来事のような気がする。
忍田さんのもとで働くボーダーでの日々は目まぐるしくも充実していて、やりがいに溢れているけれど、その分、私生活の方はからっきしだった。このままではダメだと思いつつも、最近では”仕事に邁進する人生も悪くない”と思い始めている自分がいる。それはまさしく、彼――忍田さんがボーダーにいるからだ。
私も含め、この三門市に住む人間がこうして日々の営みを続けていられるのは、この街にボーダーにいるおかげだ。たとえ近界民からの襲撃があろうとも、ボーダーが市民を守ってくれる。ボーダーの存在そのものが三門市で暮らす全ての人に安寧を与えていると言ってもいい。
そして、そのボーダーの本部長として指揮を取っている忍田さんはそれを特に鼻にかける様子もなく、至って普通のことであるかのようにじっとテレビでコメンテーターが話している様子を眺めている。
私は、こうして何かをじっと見ている忍田さんの横顔を眺めているのが好きだった。報告書を真剣に読んでいる眼差しも、部下の報告を時折うんうんと頷きながら聞いている姿も、徹夜明けの少し疲れの滲んだ表情も、けれど部下の前では決してそれを見せまいと私が話しかけると途端にふっと穏やかな表情に変わるその一瞬の変化も、本部長がボーダーで見せる全てが好きだと胸を張って言える。
ボーダーの誰かに聞かれたら大袈裟だと笑われるかもしれないが、本部長の下で三門市の平和のために働くことこそが今の私の生き甲斐と言っていい。大きな仕事が一区切りついた開放感からか、いつもより少し気が大きくなっているのかもしれない。ようやく運ばれてきたラーメンを前にして、箸を手に取って「いただきます」と小さく声に出した後、考えるよりも先に、つい口が動いてしまっていた。
「――ここ最近、婚活をやってみてたんですけど」
そう切り出すと、隣でしょうゆラーメンの麺をすすっていた忍田さんが勢いよく咽せ込んだ音が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
「……あ、ああ。すまない」
「すみません。ラーメン食べながらする話じゃなかったですよね」
「いや、構わない。ああ、それとも、大事な報告なら後で場所を移してから聞いた方が――」
「いえ、いいです。わざわざそうしてまでする話じゃなくて。結婚の報告とかではないので」
そう断りを入れると、グラスから一気に水を飲み干した忍田さんから「そうか」という言葉が返ってくる。そして忍田さんが手に持っていたグラスをテーブルに置いたまま残りのラーメンには手をつけずこちらが言葉を続けるのを待っているような素振りを見せるので、話を切り出すタイミングを間違えてしまったと後先考えす口を開いた自分の軽率さを後悔した。どうしよう、食べ終わるまで待ってから話した方がいいだろうか。いやでも、本当にそんな改まって上司に聞いてもらうような話じゃないしなぁ。ラーメン食べながら聞いてもらうのがちょうどいいくらいの、なんてことない世間話の延長のつもりだったのに。
しばらくお互い無言でラーメンの入った鉢に視線を落とす時間が続いた後、ようやく忍田さんが再び箸を取ったのを確認してから話を続ける。
「……えっと。結論から言うと、上手くいかなかったんですよね、婚活。向いてなかったというか」
話しながらちらりと隣を盗み見ても、これといって忍田さんからの反応はない。反応がないのをいいことに、話を続ける。
「もういい年なんで、学生の頃みたいに相手が自分に好意があることを確認し合ったり、価値観が合うかどうかの探りを入れたりとかって、そんなにすることないじゃないですか。でも、ああいう場だとそういうのを一からしないといけないから、疲れるっていうか……」
名前と年齢、職業、休みの日にしていること、結婚相手に求める条件の有無、子どもがほしいかどうか。来る日も来る日も同じことを聞かれ続けて、もう自分のプロフィールは紙に書いたものを読むまでもなく空で言えるほどだ。
「男の人と話してても、あーこの話聞いてる時間で報告書三枚書けたな、って思うんです。そう思っちゃうともうダメで――」
この話を始めた最初のときは、ただ、雑談の一環として休日の――ボーダー以外での過ごし方を忍田さんに聞いてもらいたいだけだったはずなのに、今、私は一体何を話しているのだろう。話している途中でふと疑問に思い、そこで言葉を切って隣の本部長の方を見ると、彼の箸は再び止まっていた。自分の前に置かれたどんぶりに目線を移すと、半分くらいまで食べたしょうゆラーメンはすっかり冷めてしまっている。
「すみません。……私、言わなくていいことまで話しちゃってますよね」
忍田さんのワーカホリックが移ったのかも。茶化すようにそう言って、どんぶりに残っていた麺を口へと運ぶ。一口目を食べたときはすごく美味しいと感じたのに、今ではもうあまり味はしなかった。
何とかラーメンを最後まで食べ切って「ごちそうさまでした」と手を合わせると、一足先に食べ終わり水を飲んでいた忍田さんの目線がじっとこちらに向けられているのが分かった。
「どうしましたか?」
「ん? ……ああ、いや」
何か考えるような素振りをしている本部長の姿に、さっきまでの話はやはり失言だったかと胸の内で不安が募っていく。私ったら、本部長が黙って聞いてくれているのをいいことにペラペラと余計なことまで喋ってしまった。しかもラーメン食べながら。いくら仕事に生きると決意を新たにしたといっても色気がなさすぎるし、本部長だって、知りたくもない部下のプライベートな部分を予想外のタイミングで突然開示されてさぞや戸惑っていることだろう。
「さっきまでの話は、その、……口が滑ったといいますか。すみません、忘れてください」
紙ナプキンを一枚取り、本部長に背を向けた姿勢で口元を拭いながら早口で喋る。腹ごしらえを済ませたらまたボーダー本部へ戻るつもりだったけれど、今日はもう家に帰った方がいいかもしれない。仕事が片付いた高揚感から判断力が鈍ってしまっているに違いない。これ以上余計なことを言う前に、本部長の前から退散した方がいいことは誰の目にも明らかだ。
会計を済ませて店の外へ出る。また一層夜へと近づいた三門市の外気の温度は、薄着の身体には堪える冷たさだった。コートの前のボタンをしっかりと閉め、ポケットに手を突っ込みながら本部長の方へ声をかける。
「本部長はこれからどうされますか? 本部戻ります?」
「今日は家に帰ることにするよ。君は?」
「出てくるときは晩御飯食べたら戻って仕事しようと思ってたんですけど、……私も、今日はもう帰った方がいいかなと思ってます」
「それがいい。根を詰めすぎるのもよくないぞ」
部下の体調を気遣ってくれるばかりか、さっきの失言などまるでなかったことかのように振る舞ってくれる本部長は優しい。まさしく上司の鑑だと言えるだろう。今日は本部長の知らない一面をまた一つ知れた気がするし、仕事はハードだったけれど、総合的に見るととても良い一日だった。明日は休みを取っているし、少しだけ残っている仕事は休み明けに片付ければ間に合うものだから、せっかく良い気分になったのだし少し飲んでから帰ることにしてもいいかもしれない。一人で飲むのなら本部長の前でまたうっかり口を滑らせる心配もないし。コンビニかスーパーに寄ってビールとつまみを調達するのと、居酒屋のカウンター席で飲むのとではどちらがいいだろう。そんなことを考えていると、「家はどっちの方だ? 送るよ」という本部長の声が聞こえた。
「あっ……いえ、実は、ちょっとだけ飲んで帰ろうかと思っているので。ここで解散で大丈夫です」
「なら、これから一軒付き合ってくれるか?」
「いいんですか?」
「ああ。今日は慶もいないし、家に戻ってもいいかと思っていたんだが――気が変わってな」
含みのある言い方に疑問を抱きつつも、思ってもみない本部長からのお誘いに私の胸は躍った。繰り返すようだけれど、私たちが所属しているボーダーは三門市の安寧のために日夜休まず戦っている界境防衛機関だ。そこで本部長として指揮を取っている忍田さんは、一介の職員の一人でしかない私となんて比にならないほどの忙しさのはず。実際、ボーダーへ所属してからこれまでの四年間の間に忍田さんが忘年会や食事会に顔を出しているところを見たのは数える程度だった記憶しかない。その彼と、なりゆきとはいえ二人きりで飲みに行けるというのだから、断る選択肢は初めからないに等しい。酒に浮かれるあまりまた余計なことを言ってしまわないか少し不安には思ったけれど、アルコール度数の低いものを選べばそこまで心配はいらないだろう。この辺りにまだ営業している居酒屋はあるだろうか。本部長と話せるのならどこへだっていいけれど、せっかくなら、美味しいつまみを出す店がいい。本部長はどこかいいところを知っているだろうか。そんな風に考えながら歓楽街の方へと向かって歩き出そうとすると、口元に手を当てて何かを考えている様子の本部長がおもむろに口を開く。
「一つ確認だが」
「はい」
「君は今、恋人はいないということでいいのか?」
「……はい?」
不意に本部長の口から放たれた言葉に耳を疑うあまり、素っ頓狂な声が出てしまった。恋人はいないということでいいのかって、そう聞こえたような気がするけれど、聞き間違いだろうか。
言葉の真意を確かめたくて彼の方へとじっと視線を送ってみても、答えが返ってくる気配はない。
「いませんけど……」
戸惑いつつもそう答えると、本部長は「そうか」と言ったきり黙り込んでしまった。
恋人にしたい人なら目の前にいる。けれどそれは到底叶いそうにないから、他に目を向けてみてもいいんじゃないかと思って始めた婚活だった。だけどそれもどうにも上手くいかなくて、男の人と食事をしていても観光スポットに出かけていても仕事に没頭していても、どんなときもふとしたときに頭によぎるのは本部長のことだ。それならもういっそのこと、余計なことは考えずにただ、本部長とボーダーのことだけを考えていたい。そう決意を新たにしていたはずの私の中で、何かが揺らいでいくような予感がする。
「……本部長? 大丈夫ですか?」
中華料理店の少し先にある横断歩道の信号が青に変わっても、本部長は動かなかった。忘れ物でもしたのだろうか。もしかして体調があんまり良くないとか?
本格的な寒さのピークはまだ来ていないとはいえ、こんな風にいつまでも冷たい夜風に晒されていては身体に障る。
肩にかけていた鞄からスマートフォンを取り出して、検索画面でタクシー会社の電話番号を探しながら、どこか上の空のような本部長に向かって声をかける。
「飲みのお誘いは嬉しいんですが、お疲れなら家に帰って休まれた方がいいんじゃ――タクシー呼びましょうか。途中まで一緒に乗っていきますんで」
「ああ、いや、心配ない」
「でも」
「普段あまり外で食事をしないから、女性を口説くのに良い店をあまり知らなくてな。どこがいいのか考えていただけだよ」
「……えっ?」
スマートフォンの上で動かしていた指が止まる。誰もいない道路の上に立ちすくんでいる私と、いよいよ青信号が点滅し始めた横断歩道に向かってすたすたと歩き始めた本部長の間を、冷たい風が吹き抜けていく。
「……あ、あの、本部長それって」
どういう意味ですか、と聞こうとした言葉は最後まで続けることが出来なかった。歩道を渡りかけていた足を止めて振り向いた本部長が、人差し指をすっと立てて口元に当て、それ以上言葉を続けるのを制するように目配せをする。
それだけで、私はまるで唇同士が縫い合わされてしまったかのように何も言えなくなってしまう。
ボーダーで過ごす24時間は、私にとって数時間に等しい。今日の体感では4時間ほど、ざっと6分の1。じゃあそれがもし、ボーダーの外だったらどうなるだろう。仕事場以外の場所で、忍田さんと二人きりで過ごすことがあったのなら、――もしもそんなことがあり得るのなら、私はどうなってしまうのだろうか。
やっとのことでもう一度声を絞り出すようにして言った「本部長」の言葉は、期待と興奮と少しの不安が入り混じって震えていた。本部長が悪戯っぽく微笑む。ボーダーの中では決して見せることのないその表情に、私の心拍数はどんどんと高まっていく。
「わざわざ確認するものじゃないと言ったのは君の方だろう?」
「は、はい」
数分前の自分を呪った。私だってもういい年だ。本部長がする意味深な物言いに、これからボーダーの外で何が起こるのかを想像出来ないほど子供じゃない。
それでも、たとえ分かりきった前提の上に成り立つものであったとしても、相手がこの人ならば是非とも言葉にしてほしいと願ってしまうのは、いささか子供っぽすぎるだろうか。
お題:忍田本部長と大人の駆け引き(未遂)
あの年でしょうゆラーメンが好きなのって元気だなと思うこの頃です