煌めき心中

「私今なら本部長のこと倒せる気がします」

書類を提出するがてら立ち寄った本部長室にて、去り際にそう言ってみせれば椅子に腰掛けて紅茶を飲んでいた本部長が眉根をすうっと寄せて「倒される覚えは全くないんだがなぁ」なんて暢気なことを言ってみせたので、壁に拳を打ち付けたくなる衝動をぐっと堪えて足早に部屋を出た。早口に述べた「失礼しました」の言葉に返される本部長の言葉もろくに耳に届かないうちに、扉を閉める。舌打ちをしなかっただけ大したものだと自分自身へ賞賛を送った。ボーダーへ入隊してからというもの、私もかなり我慢強くなったものだ。

忍田本部長の目の下のクマが日に日に濃くなってきている。それは誰の目にも明らかで、火を見るよりも明らかなことだった。本部長として防衛隊の指揮を執る彼は、優れた指揮官ではあることは確かだけれど、些か自分自身のことに関して鈍いところがあった。医者の不養生、紺屋の白袴、髪結いの乱れ髪、まさにそんな感じ。「働きづめは体によくないぞ」と部下に言ったその口で、休息を薦める部下に対して「私以外に手の空いているものはいないからな」なんて戯れ言を言う。確かに忍田本部長の代わりはボーダーにはいない。あの人の代わりは誰にも務まらない。代役なんていないからこそ、自分の体を大事にしてほしいと願う私たち部下と、いないからこそやれるだけの仕事を目一杯引き受けようとする本部長との間には決定的な溝があった。私がどんなに足掻こうと簡単に埋められやしない溝だ。今はもっぱらその溝の深さに頭を悩ませる日々なのである。書類に目を通しながら紅茶を流し込む本部長の前で、何度その紅茶のカップを奪って頭からかけてやろうと思ったことか。もう数えきれないくらい、私は苦虫を噛み潰したような気分を味わされていた。

忍田本部長は、かわすのが上手い人だと思う。それは何も戦闘に限った話でもなく、戦いの最中でも今こうした押し問答の中でも、とにかく本部長は言葉巧みに話の本筋を逸らしていくことに長けていた。いくら休んでくれと懇願しても聞き入れてくれやしないのがその最たる例。かわすのがお上手ですね、とそれとなく指摘してみても「年の功というやつだよ」などとふんわりした答えしか返ってこないのだからあぁ相手にされていないのだと実感して打ちのめされることが続いたのでもう説得するのは諦めた。大人の強情とはこうも一筋縄ではいかないものなのかと私は頭を抱えた。そうしている間にも、本部長のクマはくっきりとその存在を際立たせていくのだからやってられるかと匙を投げたくなる。それでも放っておけない私だって大抵強情なことくらい理解しているが、これも上司と部下のよしみだ。ここにそれ以上の感情が存在するかもしれないことなんてきっとあの人はこれっぽちも想像しちゃいないんだろうと考えて余計に打ちのめされた。

こういう経緯があるからして、口で言っても伝わらないのであれば実力行使しかあるまいと私が強硬手段に出たのもある種致し方ないことだと思うのだ。あらかたの隊員が帰路に着き、静まり返ったラウンジを抜け本部長室を目指す。途中すれ違った太刀川くんに今日の忍田本部長の様子はどうだったか聞いて、返ってきた「相変わらず」という返事に遠慮なく舌打ちをした。まったく、あの人という人は。懲りる気配が感じられない。靴の踵を踏みならしながら歩き去る私の背中に向かって太刀川くんが「頑張って」と声をかけた。後輩にまで応援されちゃあ、失敗するわけにもいかない。勇んで本部長室のドアを開けた。
「ああ、君か」

昨日や一昨日と全く変わらない姿勢で椅子に腰掛ける本部長目掛けてずんずん進んでいく。いつもと違う私の剣幕に驚いたのか、目を丸くした本部長が座っている椅子を少し引いて後ろへ下がった。しかしそんなことは気にも留めず、一呼吸置いてから呼びかけた。忍田本部長。
「今日は私が送っていきます。残業はしないでくださいね」

車のキーを人差し指と親指でつまんで、とびきりの笑顔で言ってみせる。何かを言いたげな本部長を制して帰り支度をするよう促した。こういう人の前では、誰かが鬼にならなくちゃいけない。誰もならないのであれば、私がなってやるまでの話だ。訳が分からないといった顔をする本部長を急かして車の助手席へ乗せた。
「送っていきます」

もう一度、確認をとるように言うと本部長は困ったように眉根を寄せて、それから観念したようにシートベルトを締めて家の方角を述べた。言われた住所をカーナビへ入力すると音声案内が始まる。その途中「参ったな」と聞こえたような気もするけれど構わずギアを入れて発進させた。まったく、本当に参っているのはどちらだと思ってるんだ。本部長の座る向かいに設置されたスピーカーからは去年のヒットソングが流れていた。

道中で何軒かのコンビニエンスストアの前を通りすぎた。スピードは緩めないまま、ミラーで本部長の顔色を確認する。有無を言わさず車に押し込んでしまったことを詫びるつもりはないけれど、やはり怒っているのだろうか。ただ静かに窓の外を眺める横顔からは何の感情も読み取れなくて今更ながら不安を覚えた。
「本部長、何か飲み物でも買ってきましょうか」
「いや、構わない。気を使わせてしまってすまないね」

返事を返してもらえたことにほっと胸を撫で下ろした。自分で強硬手段だなんだと言っておいて情けない話であるが、今の私には本部長に嫌われることが何よりも堪えるのだ。ハンドルを握り直して、ギアを踏み込む。人気のない道を車が滑るようにして進んでいく。何度も本部長、と声をかけそうになって喉元で言葉を押し殺すのを繰り返しながら、カーナビの音声に耳を傾けた。何となく、左側には目を向けられなかった。

対向車もほとんどない道を突き進んでいく。そろそろ目的地に着く頃だろうか。一度、二度、深呼吸をして、手にかいた汗を拭って、やっとの思いで左側を見る。本部長は目を閉じていて、車が揺れるままにその体を預けていた。今更と思いながらもオーディオのボリュームを下げる。自分の気の利かなさに肩を落としながら、運転を続けた。残りの信号に一つも引っ掛からなかったことに心の中で拍手を送りながら、いつもの百倍は安全運転を心がけた。

忍田本部長は、相変わらず一言も発さないまま目を閉じている。

目的地周辺です。カーナビの音声案内が終了するのを待って、適当な路地に入った。車を止めて、エンジンキーを抜いても一向に忍田さんが起き上がる気配はない。「本部長、着きましたよ。忍田本部長」応答はなかった。寝ているのかもしれない。あれだけ激務が続いていたんだから無理もない。しばらくこのままにしておこうかと思ったけれど、腕時計に表示された時間を見てふと我に返った。私は本部長に休んでもらいたい一心でここまで車を飛ばしてきたんだ。こんな安い車のシートじゃなく、一刻も早くふかふかのベッドで休んでもらいたい一心でやってきたんだ。一瞬運び込んでもいいんじゃないかという考えが頭をよぎったけれど、すぐ打ち消した。防衛部隊として鍛えているとはいえ、大の男を女が担いで部屋まで運べるわけもないので本部長には申し訳ないが起こすことにさせてもらおう。

シートベルトを外して、本部長のほうへ体を乗り出す。もう一度声をかけた。反応はない。……ふむ。どうしたものか。

肩を叩こうと手を伸ばしてから、果たして上司であるこの人の体に気安く触れていいものかと思案した。強引に車に乗せるような真似をしておいて何を今更、と思われるかもしれないけれど、本気で頭を悩ませた。目を閉じて、腕を組み静かに胸を上下させる今の忍田本部長は無防備もいいところだ。敵に襲われればひとたまりもない、無防備そのもの。そんな上司と私は今二人きりで、密室と言っていい空間に閉じこもっている。やるなら今しかない。いや、でも待て、やるって一体何を?

本部長の肩あたりで彷徨っていた指の先がかあっと熱くなった。一瞬でも邪な気持ちを向けてしまったことに申し訳なさが募る。私は上司に何てことを。ぶんぶんと顔を横に振り、本部長の肩に片手をかけた。そのまま緩く揺さぶる。「本部長、起きてください」頼むから起きてくれと祈るようにして肩を揺さぶる手に力を込めた。それでも本部長は目を覚まさない。肩から手を離して、さあどうしたものかと首を捻った。ここまで寝起きが悪い人だとは思わなかった。いや、きっと疲れが溜まっているせいだとは思うけれど、それにしてもだ。起きる気配がない。かといって、起こさないわけにもいかないだろう。車の中に放っておくわけにもいかないし、送っていくと宣言したからには責任を持って送り届けるべきだ。何かいい案はないかと何の気なしに右側に目線を向けた。緩く目を閉じた本部長の薄く開いた唇が目に入ってギョッと後ずさる。急に動いたあまり頭を天井にぶつけてしまい車が揺れた。冷や汗がどっと噴き出してくる。な、何を、考えてるんだ私のバカ。いい加減にしろ。

強かに打ち付けた頭を擦りながらどきどきと鳴り止まない左胸を押さえ込む。むくむくと広がる気持ちに口の中がからからに乾いていくのを感じた。本部長。小さく呟いてみると顔にかあっと熱が集まっていくのを感じる。起きる気配も全然ないし、ちょ、ちょっとだけなら、……いいよね。さっきよりも身を乗り出して、本部長の体の正面を跨ぐようにしてシートの背に手を置いて、真正面から顔を覗き込んだ。目線の下にある本部長の顔は、目を閉じていてもクマがくっきり浮き出ていてやるせない気持ちになる。そっと指でクマをなぞった。こっそり片手を移動させて、本部長の肩を触る。さっき触れたときとは比べ物にならないくらいの熱が手のひらに集まって火傷しそうなくらいだ。…どこまでしたら本部長は起きるのかな、なんて考えが頭をもたげ始めてハッとした。心臓が早鐘を打つ。こんなことをしていい訳がない。相手は上司で、ボーダーの幹部で、お世話になった人で、尊敬してやまない人だ。だから、こんな関係を壊すようなことをしちゃいけない。…いくら、こちらは好きだったとしても、だ。ぐっと下腹に力を込めた。分かっている。言い聞かせるように目を閉じた。それでも心臓はずっとうるさいまま。こんなことをしていい訳がないって分かっているのに、どうしても振り切れない私はどうかしている。上層部に知れたら失職モノだろう。

一瞬だけでも触れてしまったらおしまいだ。私はこの人の部下じゃいられなくなる。本部長ともあろう人が、ただの部下の女に寝込みを教われるなんて、あってはならないことなんだから。落ち着け、落ち着け、落ち着け。ゆっくりと忍田さんから離れ、距離を取って運転席に納まった。深呼吸をして頭を振った。ダメだ、これ以上この人をここにはいさせられない。心臓に悪すぎる。悶々とした気持ちを必死に抑えているうちに、本部長が目を覚ました。呼びかけられて、大げさに肩が跳ねる。寝てしまったのか。呟く本部長の唇に目線をやることは出来ない。シートベルトを外した本部長が、体をこちらへ向けた。
「心配させてしまってすまなかったね」
「あ、いや、……心配なんてそんな」

心配なんて可愛らしい気持ちじゃないんですと大声を上げたくなった。さっき私は上司になんてことをしようと…。思い出すだけでかっと体が熱くなる。ドアロックを外して、助手席の本部長に車を降りるように促した。いつの間にか、とっぷりと日も暮れてしまっている。早く帰らないと。本部長の目の前から早く消えたい一心で「お疲れさまです」と声をかけた。それでも、後ろの本部長がドアを開けて車を降りる気配はない。忘れ物でもしたのかと振り向いた鼻先にあった本部長の顔にギョッとして、今度は窓ガラスに頭をぶつけた。痛いと声を上げないうちに、口を塞がれる。塞がれたそれが何であるかなんて、子供だって分かるだろう。

頭が痛いのか胸が痛いのかどっちかなんてもう分からない。混乱する思考回路で逃げる術を探した。あっちこっちへ思考が飛んでいく。体制を崩した私の手を引いて運転席へ座らせた本部長の手は、これが本当に彼の手なのかと疑うほど熱を持っていた。本部長は、これといって表情を変えることなく私の鞄を持つと助手席から降りていこうとした。待って、どうしよう全然着いていけない。
「あ、あの、本部長」
「……すぐに起こさない君が悪い」

バツの悪そうな顔で振り向いた本部長の耳が赤いような気がして私は目を丸くした。ドアを開けたままこちらを見る本部長の顔を直視出来ない。荷物を、とやっとのことで声を絞り出すと私が持っていくよと訳の分からない返事が返ってきて首を傾げた。ただならぬ雰囲気に汗が噴き出る。息を吐き出そうとする忍田本部長の唇に、どうかそれ以上何も言わないでと切に願うもそれは叶わないことだった。
「私の部屋に来るといい。さっきの続きをしよう」

運転席から転げ落ちそうになった。冗談だろう。まさか夢なのか、トリオン体で作り出された仮想空間か何かか。ここに紅茶でもあれば頭からぶっかけて確かめているところなのに手元には何もないんだからどうすることも出来ない。心臓はもううるさいどころか開いた口から飛び出してきそうな勢いで暴れ回っている。どうしよう、早く、早く何か言わないと。返事しろ私の口。しかし、本部長に、長年の想い人にそんな風にして真正面から見つめられると、何も言えなくなってしまう私はバカで、考えが足りなくて、欲望に流されやすくて、そしてきっとどうしようもなく女なのだ。

しばらくの沈黙、そして、私は白旗を揚げた。もとより大人なこの人のことだ、いつからペースに乗せられていたかなんて分かったもんじゃない。心底ずるいと思いながらも、私は運転席を後にした。車の鍵をポケットに滑り込ませる。私の鞄を持ちながら前を歩く本部長に「いつから気づいてたんですか」と聞くと、「いつからだと思う」なんて言って、はぐらかされた。本当に、つくづく忍田本部長という人はかわすのが上手い。だけどそれが有り難いと思えるのは、きっと、真正面から受け止められたら自分がどうなってしまうか分からないからだ。
「忍田本部長、……それも年の功ってやつですか」
「ん?ああ、……まぁ、そうだな」

本部長が柔く微笑む。実に一ヶ月ぶりに見る、本部長の笑顔だった。すっかり血色の良くなった本部長の顔を見て、私がこの人に敵う日など100年経っても訪れないのではないかと考えた。……だけど、まったく。一生敵わなくたっていいと思うなんて、やっぱり私はどうかしている。