白んだそれが貴方と知るまで

「優しい人」だと一口に言ってしまえばその通りだけれど、衛宮士郎を表すのにはその一言ではとてもとても足りないような気がしていた。それはどうしてかって、今なら分かる。本当は、本当の意味では、彼はちっとも優しくなんてないからだ。
「遅い。15分遅刻」

冬木の中心部近くにある駅の一角で、腕を組み背中を壁に預けてふんぞり返る私に嫌な顔ひとつせず士郎は眉根を下げて謝るとご機嫌取りのように向かいのカフェの一番メニューを指差した。それで手を打ってはくれないか、と言わんばかりの顔で。
「何してたの?今日。電車は遅れてなかったでしょ」

こじんまりとしたカフェの一番奥の席に座って、メニューを開きながら言う。すると向かい側から私の持つメニューに目を走らせていた士郎が「大荷物のお婆さんがいたから運ぶの手伝ってたんだ」と答えたので、また人助けかと心の中で一人ごちる。それから士郎はなんでもないような顔で、オレンジジュースを注文した。それに続いてケーキセットを頼む。それを見た士郎が「ケーキ好きだよな」と言ったので、「好きだよ」短く答えてやった。だって、苛ついた気持ちには甘いものが一番だって、昨日テレビでも言ってたじゃない。

本当は10分ちょっと待たされたぐらいでそんなに怒ったりはしないけど、目に見えて怒った風にしないと士郎は気づいてくれないから。無理やり溜め込んだイライラを、鎮めるためには甘いものが必要だった。幸いにも士郎が指差した店はカフェで、種類もたくさんあったからケーキセットを選んだというだけの話。特別に好きだっていうわけじゃない。この場面に必要なだけ。あえてどれくらい好きか表すと、そうだな、多分、士郎が人助けを好きなのと同じくらいには好きだろうけど。ケーキと紅茶とオレンジジュースが運ばれてきて、お互いにいただきますと言ってからグラスとカップに口をつける。
「そういえば、先週も同じようなことがあったよね」

あのときの士郎は確か、ネジの緩んだ時計を直してくれとか何とかで三年の教室にまで呼び出されていて一緒に帰る約束が無しになったし、今日はお婆さんの代わりに荷物を運んであげたと言うし、三日前は私の家の電球を取り替えに来てくれて、その前の日は車に轢かれそうになった子供を助けて腕と足を怪我していたし、その前の週は立て付けの悪くなったドアの調子がどうとか言って別のクラスにまで駆り出されていた。

衛宮士郎は便利屋だとかイエスマンだとか言う人は、彼のことをちゃんと分かっていないと思う。士郎は頼まれごとを断れないんじゃない。断らないだけなんだ。それを嫌だと思わないから断らないだけで、意思が弱いだとか気が弱いとかノーと言えないだとか、そういうことでは決してない。
「士郎はさ、困ってる人見ると助けずにはいられないじゃん」
「ああ」
「私はたまに、それが本当に良いことなのかなって思うときがあるよ」

一息に言ってやると士郎はストローをくわえたまま不思議そうな顔をして、お決まりの台詞を口にする。
「なんでさ」

何でって、それは、士郎が士郎だからだよ。そう言ってやれたらどんなにいいか。甘いケーキに手をつけないまま、砂糖も入れていない熱くて苦い紅茶を口に運ぶ。苦いはずなのに口の中に残る甘ったるさに反吐が出そうだ。

「正義の味方になりたいんだ」といつかの彼が言ったとき、私は何と返したっけ。ああそうだ、確か「士郎なら絶対なれるよ」とか、そういう当たり障りのない虫唾の走るほど甘い言葉を、からっぽの口から吐いたはずだった。

衛宮士郎が優しいだけの人間ではないと、思うようになったのはいつからだったろう。きっかけは些細なことだった。高いところの荷物を取ってくれたりだとか、両手が塞がっているときにドアを開けたまま待っていてくれたりだとか、家の蛍光灯が切れたといえばわざわざ替えに来てくれたりだとか。衛宮士郎は優しい人だと皆が口を揃えて言うのにも、私はなるほどと納得せざるを得なかったのに、いつからか彼が何者なのか分からなくなってしまっていた。

衛宮士郎にはどこか人間味がなくて、あるのは身よりも膨れ上がった正義感だけ。正義感が肉をまとい皮に覆われ服を着て歩いているというのに、他の誰もがまるで口裏でも合わせたかのように挙って彼を優しい人だと言う現実に目眩がしそうになってくる。

どうして誰も、気づかないんだ。どうしてそんなにも盲目でいられるんだ。どうして、衛宮士郎は優しい人間だって、思うことができるんだろう。
「先週の火曜日、士郎が助けた女の子が私の教室にまでわざわざ来て言ってたよ。ありがとうって伝えといてくださいだって」

先輩の女の人や、後輩の女の子、同級生たちが士郎のことを話す度、私はこの耳がなくなってしまえばいいのにと何度も願った。彼女たちの頼みを断らないのは士郎が士郎であるからで、他に何の理由もないって分かっているのに、どす黒い気持ちが消えてなくならない。
「言わなくていいのにな、そんなこと」

当たり前のことをしただけだろ、と士郎が言う。「そうだね」と返しながら、スプーンで紅茶をかき混ぜる。底の方に溜まった茶葉のカケラが真ん中に集まっていくのを見つめていると、水面に浮かんだ自分の顔が酷くゆがんで見えるような気がして頭を振った。
「士郎は当たり前のことしただけだもんね」

確認するように言って、士郎が頷いたのを見てからもう一度カップを口に運ぶ。やっぱり苦い。溜まった茶葉が舌にまとわりついて居心地の悪い気持ちにさせる。

衛宮士郎が正義の味方になりたいと言ったとき、私は彼ならそれになれると信じて疑わなかった。事実、彼はありとあらゆる者の味方で、本気で全ての人の幸せを願っている。それは素晴らしく平等で、分け隔てなく、だからこそ彼は誰に対しても優しい。
「ねえ、今からすっごい変なこと言ってもいい?」

かちゃかちゃと水の少なくなったカップの中でスプーンの擦れる音がする。
「私ね、士郎の一番になりたかったんだ」

もちろん一番大事な人って意味だよ、と付け加えると士郎はぱちくりと瞬きをしたまま何にも言わなくなってしまったものだから、お構いなしに言葉を続ける。
「でも、それにはなれないでしょ?分かってるよ、士郎は正義の味方だもんね」

高いところの物を代わりに取ってくれたときも、何も言わずにドアを開けて待っててくれたときも、壊れた機材を直してくれたときも、なんて優しい人なんだろうと思ったしその優しさは私だけに向けられたものなんだと思っていた。でもそれは違うんだって、気づいてしまった。私と同じように衛宮士郎に助けられ、感謝をし、特別になれたような気持ちになっている女の子は他にいくらだって存在している。そんなこと、少し考えれば分かったはずなのに。

衛宮士郎は正義の味方であって、彼を慕う者の味方だとは限らない。正義の味方に助けられた女の子はきっと彼をずっと覚えているだろうけど、肝心の彼はまた、困っている別の誰かの元へ行ってしまうのだ。

だってそれが、正義の味方というものだから。

それじゃあ私は、彼のことを好きな私は、どうしたら彼に一番に思ってもらえるの?これから先彼を好きになる女の子の分の悲しみや不幸まで背負うことが出来たなら、もう彼が他の人を見ることはないの?私が幸せにならなかったら、ずっと士郎の助けを必要とし続けたならば、士郎は私の側にいてくれるの?

そんな風にして、繋ぎとめたいわけじゃないのに。
「いらないよ」

カップの中身をかき混ぜていた手を止めて、小さい声で呟く。士郎は、真っ直ぐにこちらを見つめてグラスに浮いた氷をストローで突きながら私の次の言葉を待っている。
「私の味方にならない士郎は、いらない」

衛宮士郎はこんなにも真剣に私の話を聞こうとしてくれているのに、彼が私の本当の望みを叶えてくれることはないのだと思うと居ても立っても居られない気持ちになる。ちゃんと分かっているつもりだったのに、ただ突き付けられた真実が胸に迫る。士郎が正義の味方でいる限り、私だけの味方になってくれる日なんて来ない。

なんて残酷な話なんだろう。世界で一番美しく澄んだ水のような人だと思っていた衛宮士郎が、今、こんなにも怖い。
「私は士郎と不幸になんてなりたくない」

胸が抉れそうなくらいに締め付けられて、泣きそうになりながら訴えたって、この人にはこれっぽっちも届きやしない。最初から、分かっていたなら良かったんだ。衛宮士郎は正義の味方だって、その本当の意味を、分かろうともしなかったからこんなことになる。

衛宮士郎の正義は私の正義なんだと、根拠のない自信を振りかざして理解者になれたような気がしていた。だけどもう私には、士郎を抱きしめることなんて出来ない。心にも体にも、この人の何にも触れられない。士郎の一番にも、特別にも、絶対なれやしないから。

ケーキの横に置かれたフォークが使われることのないまま床に落ちてカシャンと音を立てる。
「優しい人だって、……ずっと、思ってたよ」

だから、もう、優しいだけの貴方ではいさせてあげられない。士郎ごめんね。ごめんね士郎。だけどもう、これ以上私を、置いていかないで。