チル・アンド・バーボン


「キスしてくれないと帰らない」

深夜23時過ぎ、未だ眠らない街のざわめき、千鳥足で声の大きな酔っ払い同士が繰り広げる喧騒、少しだけ開いた居酒屋の入口のドアから漏れ出してくる香ばしい焼き鳥のタレの匂い、そして、終電が近づいている名残惜しさに身体を寄せ合い小声で何かを話しているらしいカップルが何組か。そこに高らかに響いた私の言葉に、諏訪は顔をしかめて心の底から面倒くさそうな顔をした。
「ハァ?」
「……だから、キスしてくれないと帰らないって」
「意味わかんねぇ」

言葉そのままの意味なのに、分からないとは一体どういうつもりだ。抗議の意味を込めてカツンカツンとヒールで地面を踏み鳴らしてやると「近所迷惑だからやめろ」と嗜められた。咥えタバコしてる奴に言われたくないんですけど。近所迷惑って言ったって、この辺りは私以上に騒がしい人たちばかりでヒールの音が少し鳴ったぐらいで誰かに迷惑をかけているとはとても思えないし、体よくあしらおうとしてるようにしか思えない。しかし、これでもかとばかりに塗りたくってきたマスカラ付きの睫毛を瞬かせて恨めしげに睨め付けてやったところで当の本人にはまったく響いていないようで、私はまた苦虫を噛み潰したような顔をして地団駄を踏んだ。

諏訪洸太郎との交際期間は実に3ヶ月、もう少しで100日の大台に差し掛かろうとしていた。この3ヶ月間、私は手を替え品を替えてはこの男の心の導火線に火をつけてやろうと苦心してきたものだが、結局のところ火がついたのは諏訪の薄い唇に咥えられたタバコだけだった。「恋は片想いのときと付き合い始めの3ヶ月が一番楽しい」なんて初めに言い出したやつはどこのどいつだ。もしもランク戦で戦うことがあるのならぶちのめしてやりたい。

諏訪の彼女というポジションに収まってからの3ヶ月、私たちの関係は前進どころか後退し続ける一方であった。いつでも気軽に連絡が取れるポジションをようやく手に入れたというのに、諏訪といえば口を開けば飲み会と麻雀の話ばかり。ランク戦は誘えども誘えども断られるし、大学ではろくに顔を合わさないし、ようやく誘ってきたかと思えばボーダーへ行った帰りに居酒屋でサシ飲みしてハイ解散、っていう色気も何もないデートばかりだし。いや、これはそもそもデートなのか? というのは、口には出さないけれど常々疑問に思っていることである。酒を飲みたい時にだけ呼び出されるなんて、これではまるで恋人ではなく飲み友達のようではないか。酒は嫌いな方ではないし、むしろそこそこ嗜める方であると自負している。諏訪と顔を突き合わせて一杯やるのは何度繰り返しても飽きないし、顔色こそ変わらないものの酒を流し込んでいくうちに徐々に上機嫌に、そして饒舌になっていく彼を見ているのが飽きないという意味においても嫌いではない。

しかし問題は、いくら上機嫌で酒をあおろうと日本酒を二人で一升瓶開けようと一向に手を出してくる気配のない諏訪のその態度だ。どれだけ酒の席が盛り上がろうと、ボーダーの他の人たちには誰にも言えない二人だけの秘密を思い切って共有して距離が縮まったような気がしていようと、終電の時間が近づくとその魔法はすぐに解けてしまう。あんな風に金髪で、愛煙家で、ビールが何より好きなくせに、意外と筋の通った男なのだ。諏訪洸太郎という男は。いくら私が会計票を持ってテーブルを立ち帰り支度を始めようとする諏訪に「今日はちょっとぐらい門限過ぎちゃっても大丈夫」と言っても「日付超えて帰らせるわけにもいかねーだろ」と取り付く島もなく、その度項垂れてそれ以上の文句を飲み込むしかない私はすっかり出来上がっている赤ら顔の酔っ払いたちに囲まれて終電に揺られ家へと帰る羽目になってしまう。そりゃあ、粗野で気の利かない男よりも優しくて紳士的な男の方が女の子にモテるとは思うけど。せっかく愛しの彼女がこんなにも健気にアピールを繰り返しているというのに、据え膳に手を付けようとすらしないのはいかがなものなのだろうか。とにもかくにも、諏訪は一時が万事こんな調子なものだから、いくら女神の如く寛大な私といえど我慢の限界が訪れるのもそろそろ時間の問題なのであった。

「お前はもう少し辛抱強さを身につけた方がいい」というのは、諏訪と事あるごとに一緒にいる悪友――もとい、マブダチの風間からの有難いお言葉である。余計なお世話だと一蹴してやりたいところであったが、唯一の相談相手(愚痴相手と言い換えてやってもいい)の風間を失うと色々と不便になるので、何も言わないことにした。まさしく女神のように海よりも山よりも深い寛大な心持ちであると自分を評価してやりたい。

風間が言うところの『辛抱強くしていなければいけない期間』とは、一体どれくらいを指すのだろうか。一か月? 三か月? それとも半年? ちゃんといい子にしていたら、そうしたら、諏訪もちょっとは手を出す気になってくれる? なってくれない気がするんだけどなぁ。だって私たちは付き合って三か月の、『今が一番盛り上がっている』と言っても過言ではない大学生同士のカップルだ。その今ですらこの調子なのだから、この先こうした状況が一気に好転するのはそれこそ魔法を使わない限り叶うとは思えない。

しかしそうは言っても、ただ手をこまねいて待っているだけの私ではなかった。積極的すぎる女は時として男を辟易させてしまうが、受け身すぎるのもいけない。ファッション雑誌を読み漁って身に着けたありとあらゆる『可愛い』の知識を総動員して、いつもよりは2時間は早起きして来るべき諏訪の理性との戦いに備えてきたのだ。髪の毛はいつもの倍以上の時間をかけて丁寧に巻いて、その上でせっかくのセットが風に負けて崩れてしまわないようにこれでもかとばかりに整髪料を使ったし、雑誌に載っているピンクを使った可愛らしいメイクをそっくりそのまま真似した瞼と頬は恋する乙女の薔薇色に染まっている。唇はいつキスをされてもいいようにリップスクラブをした後で入念にリップクリームを塗った。靴はこの日のためにおろしてきた7センチヒール付きのパンプスだし、同じくデート服として今週新調したばかりのワンピースと合わせた姿はどこからどう見ても『夏のお嬢さん』としか言いようがない。それなのに諏訪といったら、目一杯の可愛いで武装した私の姿をいの一番に改札で見かけても何の反応も示さないというのだから、やってられるかと投げ出したくなってしまう。

もういっそのこと触ってくれなくたっていいから、せめて「可愛い」の一言さえあれば。そうしたら、単純な私はきっと舞い上がったままキスの一つもしてくれない諏訪のことを一か月だって三か月だって半年先だって変わらず愛していけるというのに。そこまでして頑なに私に触れたくない理由でもあるのだろうか。実はそんなに私のこと好きじゃないとか? それか告白を断ると角が立ちそうだったから一応付き合っているということにしているだけで、諏訪の中での私のポジションは未だ『飲み友達』の域を出ないとか。頭に浮かんだ考えをかき消すようにヒールを踏み鳴らしながら地団駄を踏んだ視界の先で、肩を寄せ合う仲睦まじいカップルの姿が目に入って憂鬱な気分に拍車がかかった。

せっかくお酒の力を借りて勇気を出して可愛くおねだりをしてみたというのに、これでは何もかもが裏目に出ているような気がしてならない。今日こそはキスしてもらえると思ったのに。「飯行くぞ」って連絡来たときからずっとドキドキして本当は今日一日中ずっと期待しっぱなしだったのに、諏訪の様子はいたっていつも通りで、期待していたのは自分だけだったと思い知った情けなさと恥ずかしさと憤りを感じながら約50センチほど先に立つ諏訪の顔を見上げる。普段より7センチ近くも身長を盛っているというのに、それでも諏訪の顔に私の唇は到底届きそうにない。
「面倒くせぇな」

タバコの煙のついでに吐き出された、大きなため息。そしてようやく距離を詰めてきたと思った諏訪は、むんずと私の腕を掴むなり駅に向かってずんずんと歩き出そうとした。引っ張られる腕とは反対方向に体重をかけ、精一杯踏ん張ってやる。

「オラ早く歩け、終電なくなっちまうだろーが」
「やだ! 帰らないもん。ヒール痛いから歩きたくないし」
「んなクソ高ぇ靴履いてくるからだろ」

まったくもって諏訪の言う通りである。意固地になっている自覚は十分にあった。だって仕方ないじゃん、諏訪に可愛いって思ってほしかったんだもん。ちょっとくらいは私のこと『いいな』って思ってほしかったんだもん。あれもこれも全部無駄だったみたいだけどさ。

履きなれていないまだ硬い革のパンプスとの摩擦で傷ついた足が痛い。諏訪に傷つけられた心も痛い。……別に諏訪は何も悪いことはしていなくて、私が勝手に傷ついたような気になってるだけってことも分かってるけど。それでも、痛いものは痛い。あと少し歩いた先にある次々と飲み会終わりの大学生たちが吸い込まれていく駅にすら辿り着けないくらいの痛みを訴える足先に目線を落としてから再び諏訪の方へ目を向けると、タバコを咥えて呆れ顔をしているはずの彼の姿は忽然と道路から消えていた。きょろきょろと辺りを見回しても刈り上げた金髪にTシャツのあの男の後ろ姿は見当たらない。

……噓でしょ、置いていかれたんだけど。

居酒屋で「そろそろ帰るか」と諏訪が口にしたときとは比べものにならないほどの絶望感が全身を襲う。置いていかれてしまった。『何だかんだ言っても諏訪は優しいから、私がわがまま言ったって最後はきっと嫌がらないでいてくれるだろう』と高を括っていたのがいけなかったのだろうか。こんなことになるのなら、欲を出さずに素直にサシ飲みを楽しんでおけばよかった。そうしたら今頃、恋人らしい雰囲気にはならずとも、また次の約束を取り付けることくらいは出来たかもしれないのに。

痛む足を引きずりながらふらふらと歩いて駅前のベンチに座り込む。とても電車に乗って家に帰る気分ではないが、呆れ顔をしながらも電車まで引っ張ってくれる諏訪はいないのだから、ちゃんと自力で自宅まで辿り着かなくちゃいけない。そうは言ってもあまりのショックで体はろくに動かせそうになかった。ここからタクシーを呼んだら、家に帰るまでに一体いくらかかるだろう。5千円くらいにはなるだろうか。いくら今日の会計は諏訪持ちだったといっても、手痛い出費であることに変わりはない。

さっきまで居酒屋で上機嫌に喋っていた諏訪の顔を思い出すだけで心が痛み、がっくりと肩を落として項垂れた私の前に一つの影がかかった。
「なんだよ、ちゃんと自分で歩けんじゃねーか」

突如として視界に入ってきた私のものよりもうんと大きなスニーカーと、上から落ちてきた低い声。その声に顔を上げると、見慣れた金髪と刈り上げと咥えタバコが視界を占める。目線の先に捉えた諏訪はぼりぼりと片手で後ろ頭を掻いていて、その左手にはコンビニの袋がぶら下げられていた。
「……置いていかれたのかと思った」
「あ? 置いていかれたかったのかよ」

違うけど、と力なく首を横に振ると隣まで移動してきた諏訪が同じようにベンチへと腰を下ろした。そしてガサガサと袋を漁りながら「これ買いに行ってたんだよ」と言った諏訪が袋から取り出したのはペットボトルに入ったお茶と絆創膏だった。もしかして、と思ったことを口にするより先に「ほらよ」と差し出された絆創膏を受け取り、手の中にあるそれと諏訪の顔とを交互に見つめる。傷口に貼るように促され、渋々パンプスのかかとに手を掛けた。諏訪は買ってきたペットボトルの封を開けて、ごくごくと喉を鳴らしてお茶を飲んでいる。

諏訪の前でパンプスを脱いで裸足になるのは何となく恥ずかしいような心地がしたが、今はもうそんなことを言っていられる場合ではない。赤く靴擦れになってしまっている部分を覆うように絆創膏を貼ると、摩擦で起こっていた痛みが幾分かましになったような気がした。「ありがとう」口にした言葉は声量にしてはごくごく小さいものだったように思えたのに、隣に座る彼の耳に届くには十分だったようで、ようやく諏訪が小さく笑った気配がした。
「痛ぇか?」
「……痛い。けど、キスしてくれたら痛くなくなるかも」
「まだ言ってんのかそれ」

今日何度目にしたか分からない諏訪の呆れた顔。決して気持ちのいい表情とは言えないはずなのに、どうしようもなく格好よく見えてしまうのは私の視界に恋のフィルターがかかっているからに他ならない。顔をじっと見られているのが気恥ずかしくなって目線を逸らすと、その拍子に諏訪がぽつりと呟いた言葉が終電間際のがやがやとした喧騒の中でやけに耳に響いたような気がした。
「そんなにキスしてほしいのかよ」

そういう言い方をされてしまうと、まるで私が一人だけ欲求不満を抱えているかのようで納得いかない。しかしキスしてもらいたいのは紛れもない事実なので数秒迷ったのちに諏訪の方を振り返ってこくりと頷くと、私の返事を聞くなり大きめの溜め息を吐いて口を尖らせた諏訪の姿が目に入った。
「……ったく、せっかく色々考えてやってたのに」

色々ってどんな、と聞き返してやろうとした台詞は言えなかった。一瞬だけ唇を掠めた体温に、これでもかとばかりに塗りたくってきたマスカラ付きの睫毛を瞬かせ目をしばたたかせる。今の、諏訪の唇だ。私がいくら見つめようと切望しようと一向に触れ合うことのなかった諏訪の唇。それが、今、一瞬だったけど、確かに私に触れた気がする。
「す、諏訪」
「……これで満足したかよ」

満足なんかするはずない、なんて言ったら怒られるだろうか。たったこれだけのキスで、これまで私が腹の底で燻ぶらせ続けた思いが消えるとは思わないでほしい。しかし、たったこれだけのキスで私が舞い上がるような気持ちになってしまうこともまた事実である。諏訪の言葉に何も言えずにこくこくと頷くことしか出来ない私の耳は、今ではもう、念入りに染め上げてきた頬に負けないくらいの熱を持っていた。

キスしてくれないと帰らない。さっきそう高らかに宣言した自分の声が脳裏に蘇り、隣に座る男の顔を見やる。今日一番の目的は達成したのだから「帰れ」と言われるのを覚悟していたのに、諏訪は一向にその言葉を口にする気配を見せなかった。
「諏訪」
「なんだよ」
「もうすぐ終電きちゃうよ」

いいの? という意味を込めて、すぐ隣に座る彼の手を握る。握られていない方の手でペットボトルを傾け中身を飲み干した諏訪のその仕草が、何気ないものなはずなのにとんでもなく色っぽく見えるのは、さっきのキスの余韻が抜けないせいだろうか。
「いーんだよ。……どうせキスしてやっても帰んねーつもりだったんだろ?」

深夜23時半過ぎ、未だ眠らない街のざわめき、千鳥足で声の大きな酔っ払い同士が繰り広げる喧騒、少しだけ開いた居酒屋の入口のドアから漏れ出してくる香ばしい焼き鳥のタレの匂い、そして、手を繋ぎながら急かされるようにして終電へと駆けていくカップルが何組か。そこに響いた諏訪の言葉に、私はパンプスの中でじくじくと主張しているはずの足の痛みも忘れてにんまりと口角を挙げた。タバコを咥えるのをやめた彼のその薄い唇が再び私の唇に重ねられるまで、きっともう、そう長い時間はかからないはずだから。