Dance All Night

三門市立大学に通う学生のうちで『太刀川慶』の名を知らない人はいないというぐらい、太刀川くんは色んな意味で有名人だった。

三門市民なら誰もが一度はお世話になったことのあるボーダー所属のエース隊員で、個人成績もトップクラス。大学には滅多に顔を出さないのにボーダーでの成績があまりに優秀なおかげで多少の単位は融通してもらっているとかいないとか、ボーダーの給金があるおかげでバイト戦士の私たちとは似ても似つかぬ悠々自適の生活を送っているとか。例え太刀川くん本人がいない講義であっても、キャンパスの中では太刀川くんの話をあちらこちらで耳にした。

だから私が初めて太刀川くんに会ったときに「初めて会った気がしないな」と思ったのは何も特別なことではなく、ただ彼がこの大学では有名人だというそれだけの理由だった。そう思いたくて仕方なかったのに、今ではそうでなければいいなぁなんて思ってしまっている始末なのだから、人生というのは本当に、何が起こるのか分からない。



どれだけ噂話を耳にしようとも直接関わることはないのだろうと思っていた太刀川くんと初めて言葉を交わしたのは、大学二年になった春の一般教養の講義でのことだった。ガヤガヤとした話し声がひっきりなしに聞こえてくる講義室に入り、辺りをぐるりと見回してみるとそこかしこで新入生らしき子たちが何人も連れ立ってグループを作っていた。どこを見ても人、人、人、やはり一般教養となれば複数の学部から集まってくるだけあって学生の数も多いらしい。しかし前列から後列まで一通り机を見回してみても見知った顔は一人も見当たらなかった。仕方ない一人で受けるか、一年生の時みんなと受けてれば良かったなあ。何であのときみんなと違う講義選んじゃったんだろう。そう思いながら後ろから二番目の机に腰掛けようとすると、私が座ろうとした側とは反対側の椅子に座っていた人物がぴくりと肩を揺らした。「ここいいですか?」と声を掛けてからその相手が誰なのか気付く。太刀川くんだ。灰色がかった茶髪に気だるそうな瞳はテレビや雑誌で見かけた姿とまったく変わらない。……太刀川くんもこの講義受けてたんだ。

頬杖をつきスマホに視線を落としたままの彼から「どうぞ」と返ってきた言葉に軽く会釈をしていそいそと机に座り、鞄の中を漁るふりをして横目で隣を確認する。やっぱり太刀川くんだ。本物の太刀川くんがすぐそこに座っている。てっきり大学でもボーダーの人たちと一緒なのかと思っていたけれど、どうも今日の彼は一人らしい。

程なくして教授がやってきて講義室の喧騒は静かになった。少し遠くのスクリーンに映し出されるスライドを見ながら講義についての説明を寝ぼけ半分で聞いていると、「詳しいことは先程配ったレジュメに書いてあるので」という教授の言葉にどこか遠くへやりかけていた意識を戻して手元へと視線を落とす。……あれ、レジュメ回ってきてたっけ。きょろきょろと辺りを見回すと誰も彼もがいつの間にか配られていたらしいレジュメを手にしていたものだから驚いた。えっ何で皆レジュメ持ってんの、もしかして私だけ貰いそびれちゃった感じ?  不安になって隣の太刀川くんはどうだろうと様子を伺うと彼は座ったまま目を閉じて腕を組み眠っているようだった。どうしようこれじゃ「太刀川くんレジュメ持ってる?」とか聞けない。どうせ初日の今日はオリエンテーションだけで終わるんだろうし、とたかを括って後ろの席に座ったのがいけなかったのだろうか。どこかにレジュメ余ってたりしないかな。でも余ってたとしてもここで取りに行ったら間違いなく目立ってしまうし、「レジュメ配られてないんですけど」とか言って教授の話を遮れるような度胸もない。仕方ない、終わった後で貰いに行くか……。新学期早々教授に変な風に顔覚えられちゃうの嫌だなぁ。気が重い。一気に憂鬱な気分になってしまいため息を吐くと、隣の席で太刀川くんが身じろぎをした気配がした。
「ちょっと」

トントン、と机を叩いた隣から伸びてきた手に顔を横に向けると、眠るのをやめたらしい太刀川くんと視線が合う。ルーズリーフとボールペン、そしてスマホ以外は何も置かれていない机と私の顔を交互に見た後に続けられた「もしかしてレジュメ持ってないの?」の言葉に頷くと、太刀川くんが机の上に鞄の中の荷物をひっくり返し始めたのが見えた。い、いきなりどうしちゃったんだろう。
「おれ去年もこの講義受けてたんだけど単位落としてさ。レジュメなら持ってるから見る?」
「いいんですか?」
「どうぞ」

そう言って太刀川くんが鞄から取り出したレジュメはクリアファイルに入れられていなかったのか全体的にしわくちゃになってしまっていた。
「去年のやつだけどまあ内容変わってないと思うし、一応持ってきといてよかったよ」

その言葉通り、本当に一応鞄に放り込まれただけなのだろう。もしかしたらずっと入れっぱなしにされていたのかもしれない。しわになっていた部分を伸ばしてざっと目を通してみても教授の話をメモしていたような形跡もなかった。去年も受けてたのに単位落としたってことは、ろくに出席していなかったんだろうか。そう聞きたいのは山々だったけれど、相手はあの太刀川くんだ。「ありがとうございます」と早口で言うと、「どういたしまして」と返事をした太刀川くんが欠伸をして今度は机に突っ伏したのが見えた。ところどころ跳ねている髪に少しだけ目線をやってから、教授の方へと目線を戻す。いつのまにか随分と話は進んでいってしまっていた。

どうやらこの講義は二、三人単位でグループを組んでグループワーク主体で進めていくものらしかった。夏休み前にはグループ単位で発表まであるらしい。毎回のグループワークと定期的な課題の提出、それが期末テストの代わりになるのだとか。「結構面倒くさくね?」「俺受けるのやめようかな」と周囲の学生たちがヒソヒソ声で話している声が聞こえてくる。さっき太刀川くんも単位落としたって言ってたし、この教授ってもしかして単位に厳しいタイプなのかも。そうだったら嫌だなぁ。受けるの他の一般教養の講義に変えちゃおうかな。

では次回からはテキストを持参するようにしてください、と締め括られた教授の言葉に一気に講義室の中が騒がしくなった。足早に出口へと向かう学生たちの流れが落ち着くのを待っていると「この講義受けるの?」と掛けられた言葉にスマホへと落としていた目線を上げる。太刀川くんだ。
「えっと……正直迷ってます」
「だよな。おれも迷ってる。でもボーダーの都合的にここの時間しか取れるのなさそうでさ」
「はあ」

パンキョーって微妙な時間のやつが多いんだよな、と困ったように笑みを浮かべて言う太刀川くんがあまりにも自然に話しかけてくるものだから、私たちって今日が初対面じゃなかったっけ?と少し混乱してしまった。いや、間違いなく初対面だったはずだ。だって声も初めて聞いた。どうも太刀川くんというのは噂以上に人懐っこいタイプの人らしい。
「名前なんていうの? おれは太刀川っていうんだけど。良かったらグループ一緒にやらない? おれ大学にあんまり知り合いいなくてさ」

名乗られなくとももちろん知っている。何せ太刀川くんは有名人だ。
です。えっと、私は別にいいですけど……太刀川くんはいいんですか?」
「いいよ。ちゃん真面目そうだしそういう人の方が助かる。あと敬語じゃなくていいから。何年生?」
「二年です」
「じゃあタメだな」

よろしくちゃん、と差し出されたスマホと太刀川くんの顔を交互に見つめた。連絡先の交換をしようということらしい。早速下の名前で呼んできているし、これは人懐っこいというより、なんというか、ちょっとチャラい人のような予感がする。だけど上手い断り方も思いつかず結局交換してしまった。ひらがなで『たちかわ』と名前が表示されている画面を見て信じられない気持ちになっていると「じゃあおれボーダー行く用事あるから」と太刀川くんが立ち去る素振りを見せた。スマホを握りしめたまま、机の上に置きっぱなしだった鞄を掴んでその後ろを数歩後から追いかけていく。気がつけばもう、講義室にいるのは私たちだけになってしまっていた。

それから一週間後、「明日パンキョー受ける?」とスマホに届いたメッセージに本当に私とグループ組むつもりなんだ、と改めて思ってしまった。……あのとき太刀川くんは「大学にあんまり知り合いいない」って言ってたけど、それはないんじゃないかと思う。だってあんなにも人懐っこいんだし。ボーダーの有名人だし。それなのにあえて私とやりたいなんて、太刀川くんって意外と変わってる人なのかなぁ。



翌日。本当にちゃんと来るのだろうかという一抹の不安を抱えながら講義室の後ろの方の席に座ると、程なくして太刀川くんが現れた。「おはよう」と掛けられた言葉に頷くと、当然のように太刀川くんが隣の席に腰を下ろす。……やっぱり、本当に私とグループ組むつもりなんだ。ボーダーの人は一緒に受けないのかな。
ちゃんテキスト持ってきた?」
「うん。太刀川くんは?」
「持ってない。だから見せて」

案の定の答えに少し笑ってしまいそうになった。二人で見れるようにテキストを少し太刀川くんの方に寄せると見づらかったのか太刀川くんがずいと身を乗り出してくる。近い。太刀川くんは私とはちょっと距離感が違う人みたいだ。それとも、人懐こい人たちっていうのは皆こうなんだろうか。それとなく身体の距離を離しながら壇上に目をやると、まだ教授は来ていないようだった。隣の太刀川くんに再び目線を移すと太刀川くんもちょうどこちらを見ていたらしく目が合う。何となく気恥ずかしくなって、口ごもりながら何か沈黙を埋められる言葉はないか探した。
「太刀川くんって去年この講義受けてたんだよね? 何で単位落としたの?」
「ろくに出席しなかったから」

やっぱりそうなんだ。妙に納得してしまった。「太刀川くんっぽいね」と相槌を打つと「今年はちゃんと出るよ」と返事が返ってくる。本当かなぁ。
「その顔、全然信じてないだろ」
「そんなことないよ」
「さすがに今年は単位落としたらヤバいぞって本部の人らに言われたから今回はちゃんと出るつもり」

でも寝坊するときあるかもしれないからそのときはスマホに電話して、と続けられた言葉にどう反応すればいいのか分からなくて困った。まだ知り合いになってから少ししか時間が経っていないけれど、太刀川くんが真面目に大学に来たりグループワークに取り組むような人間ではないことは何となく分かる。夏休みの宿題もギリギリになってしか手をつけないタイプだろう。果たしてそんな人と成り行きでグループを組んでしまっていいのだろうか。下手したら私まで単位落とすことになるんじゃ……。私も人のことを言えるほどそこまで真面目なタイプでもないけれど。だけど太刀川くん以外に一緒にグループになってくれる人の当てがあるわけでもないからそれ以上は何も言わないでおいた。こんなことなら去年ちゃんと友達作っておけばよかったな。

大学生活も二年目に入ったこの春、去年の一年間で新しく知ったことはいくつもある。一限目の講義は初めのうちは張り切って受けている人が多いものの、早起きが段々しんどくなってきてやがて受講している人がどんどん減っていくということ。サークルや部活に入らないと意外と友達は出来ないということ。高校まではプリントと呼んでいたものをここではレジュメと呼ぶらしいこと。机に向かって勉強するだけでなく案外グループワークやディスカッションの機会が多いということ。噂に聞いていた薔薇色のキャンパスライフなんてものは誰しもに平等に与えられるようなものではないということ。それでも平坦ながらに日々は確かに続いていくということ。そして、これまで全く接点のなかった立場も趣味も全く違う人ともひょんなことから親しくなれてしまう場が大学だということも、去年の一年間のキャンパスライフで学んだことのうちの一つだった。だって現に太刀川くんが私の隣に座って同じ課題に頭を悩ませている。去年の私に言ったって到底信じられない光景だろう。

しばらく首をひねって課題と格闘していた太刀川くんは、集中力が切れてしまったのかグッと伸びをした後、同じく集中が途切れてしまって上の空になりつつあった私に向かって口を開いた。
「そういえばちゃんってサークルとか入ってんの?」
「ううん、去年は入ってたんだけど辞めちゃった。なんか、あんまりノリとか合わなくて」
「ふーん」
「太刀川くんはいつもボーダーで何してるの?」
「基本は防衛任務だな。あとはランク戦」
「ランク戦?」
「……ああそっか、ボーダーじゃないから知らないよな」

太刀川くんの話によるとボーダーに所属している隊員にはそれぞれ個人ランクというものがあるらしい。隊員同士で模擬戦をして、その勝敗の結果によって手持ちのポイントが上下するそうだ。へえ、そういうシステムになってるんだと思いながら「太刀川くんってどのくらいのランクなの?」と何となく投げかけた質問に返ってきた「一位だけど」という言葉に思わず持っていたボールペンを落っことしてしまった。
「一位!? 太刀川くんが!?」
「うん。……言ってなかったっけ?」

聞いてない全然聞いてない。ぶんぶんと首を振って否定すると「結構有名な話だと思うんだけど」と太刀川くんは少しだけ顎髭を撫でてから笑って言った。知らなかった。私さっきまでボーダーで一位の人と普通に話してたんだ。トップクラスに強いとは聞いていたけれどまさか本当にトップだったとは。それだけ強いとやっぱりボーダーでも頼りにされてるんだろうな。去年ろくに授業に出席していなかったという話も、ただの面倒くさがりな人かと思って聞き流していたけれど、もしかしたら三門市を守るために戦うことに忙しかったからなのかもしれない。それならさっきの私の態度はきっと失礼なものだっただろう。今更ながら申し訳なく思ってしまった。

お互いの口数が減ったところで、講義時間の終了を知らせるチャイムが鳴った。どうしよう、終盤の方は雑談してばっかりで全然終わらなかった。来週早速この課題提出しなきゃいけないんだよね。本当は今日中に仕上げちゃいたかったけど、太刀川くん忙しそうだし、後で家で一人でやろうかな。今日はバイトも入ってなくて暇だし。そんなことを考えながら二人で講義室を出た後、じゃあ私はこれでと言いかけたのを「このあと暇?」という太刀川くんの言葉が遮った。
「課題終わらなかっただろ。続きどっかでやる?」
「いいの?」
「うん。今日任務入ってないし暇だから」

ボーダー隊員の、しかもトップクラスに強い太刀川くんともあろう人が暇なんてことが有り得るのだろうか。少しの疑問を抱きながらも頷くと「よしじゃあ出来そうな場所探すか」と言って歩き出した太刀川くんの後ろをついていく。食堂を目指し二人で歩いている途中でふと「たまにはランク戦以外じゃなくて課題やってみるってのもいいよな。大学生って感じでさ」と言った太刀川くんの横顔は存外楽しそうな表情を浮かべていた。

お昼の時間ということもあって食堂は二人で並んで座れないぐらいに混み合っていた。この時期はサークルの勧誘が盛んに行われていることもあって、どのテーブルも二、三年生らしき人たちに占領されてしまっている。課題のついでにお昼も済ませてしまうつもりだったのに、当てが外れてしまった。図書館は静かにしないといけないから複数人で課題をやるには不向きだ。さてどうしよう。あまり大学の設備には詳しくないのだけど、他に課題をやるのに適している場所が果たしてあっただろうか。太刀川くんはどこか知ってるかな。それか日を改めた方がいいのかもしれない。ガヤガヤと賑わっている食堂を眺めながらそんなことを考えていると、不意にこちらを見た太刀川くんから発せられた言葉に耳を疑った。
「どこも空いてないみたいだし、おれん家でやる?」
「……ええ?」

それはちょっと、良くないのではないだろうか。「いいの?」と投げかけた言葉に「ついでに飯一緒に食ったらいいじゃん」と全く意に介していない様子で返してくる太刀川くんは、この調子だと私の今の「いいの?」に込められた意味の半分にも気が付いていないだろう。いいんだろうか。まだ短い付き合いだけど、太刀川くんがどうやら悪い人ではないらしいことは分かる。でも、良い人なのかはまだ分からない。そんな状態で他人(まだ友達と呼ぶことも少し気が引けてしまうほどの仲だ)の敷居を跨いでしまっていいとは思えないし、だけど好意から言ってくれているのだとしたらそれを無下にするわけにもいかない。こんなことを考えているのが太刀川くんに知れたら、勘ぐりすぎだと笑われてしまうだろうか。だけど警戒するに越したことはないと思う。だって私たち、これでも大学生なんだし。

どう返答すべきか迷っていると、私の考えていることに見当がついたのか「別に課題以外何もしないよ」と言って太刀川くんはまた笑った。……見透かされしまったことが恥ずかしいやら悔しいやらで、俯いて鞄についたストラップをいじり回す。それでも容赦なく畳みかけられた「どうする?」の言葉に、やっぱり太刀川くんは良い人ではないのかもしれないと思い至った。数秒置いてからゆっくりと頷くと、「じゃあ行くか」と言って身を翻し歩き出した太刀川くんの背中をじっと見つめながら思った。

私やっぱり太刀川くんのこと、全然わかんないかもしれないなあ。



太刀川くんの家は大学から歩いてすぐのところにあった。「適当に座ってて」の言葉に部屋の中を見回して空いているところに座ると「何か飲む?」冷蔵庫を覗き込んだ太刀川くんが問いかけてくる。
「麦茶持ってるから大丈夫」
「りょーかい」

よっこらせ、と私の隣に腰を下ろした太刀川くんは手に持ったコップを傾けてごくごくとお茶を飲んでいる。そのよく動く喉仏に視線が吸い寄せられてしまった。……太刀川くんの部屋、私の部屋よりも広いし他にも座れそうなスペースは色々あるのに、どうしてわざわざ近くに座ってくるんだろう。そう考えてしまう私はさすがに太刀川くんのことを勘繰りすぎだろうか。
ちゃんって料理できる?」
「できるってほどでもないけど……まあ普通に自炊はしてるよ」
「えらいな。自炊できるんだったら昼飯作ってもらいたかったんだけど、今冷蔵庫見たら何もなかった」

ああ、そういえば課題のついでにご飯も食べようって話してたんだっけ。「見る?」と問いかけられ、何となく頷いて立ち上がった太刀川くんの後ろに着いていって冷蔵庫を覗き込むと中には本当に何も入っていなかった。程よく冷やされた冷蔵庫の中にあるのはお茶と数本の缶ビールと醤油だけだ。あとあの袋に入ってる白い粉みたいなのは砂糖だろうか。何にせよ、まともな自炊生活を送っている人の冷蔵庫の中身とは到底思えない。……こんなんでよく人に「お昼ご飯作ってほしい」なんて言えたなぁ。誰かにご飯作ってもらったことないんだろうか。彼女とか。いや、彼女がいたらそもそも今日私をここに連れてきたりはしてないだろうけど。
「どう? 何もなかっただろ」
「うん、太刀川くんが自炊しない人だってことはよく分かった。お酒とみりんすらないってどういうこと? 普段家で何食べてるの?」
「餅とか」
「餅……」

だからほぼ何も入ってない冷蔵庫に砂糖と醤油だけは置いてあったのか。毎回同じ味で食べてて飽きないのかな。愕然としていると「きなこも美味いよ」と言われ、そういう問題じゃないと肩を落とした。
「あとパスタならあるぞ」
「パスタしかありませんの間違いでしょ」

そっちの方に入ってるから、と太刀川くんに言われた通りにキッチン下の戸棚を開けると開けられた形跡のないパスタの袋が一つだけ転がっていた。
「ここ引っ越すときに自炊って何したらいい?ってボーダーの奴らに聞いたらとりあえずパスタ買っとけって言われたから買った」
「パスタソースは?」
「ないけど」

やっぱりないんだ。砂糖と醤油しか持ってないくせにどうやって食べるつもりだったんだろう。茹でて醤油かけて食べるつもりだったんだろうか。素うどんならぬ素パスタ的な。……とても喜んで食べたい代物だとは思えないけど。未開封のままのパスタの袋にもう一度目線を戻してからあまりの使い道のなさに諦めて戸棚を閉めると「買ったときはやる気あったんだけどさ。やっぱり家帰ってくるとキッチンに立つの面倒くさくなるんだよな」と言って太刀川くんは笑った。
「お米とかも全然ないみたいだけど太刀川くんって普段外食ばっかりなの?」
「基本はボーダーの食堂とか隊員の誰かの家で食ってる」
「そうなんだ……」

ボーダーの福利厚生は存外手厚いらしい。知らなかった。というかこの部屋キッチン以外のところも全然生活感ないんだけど男の人の一人暮らしってこんなものなのかな。そう疑問に思って訊ねると、どうやら太刀川くんはこの部屋よりもボーダー本部にある部屋で過ごしていることの方が多いらしかった。「じゃあ別にわざわざこんなところで一人暮らししなくてもいいんじゃない?」と言うと「でも自分の部屋ないとこういうときに困るだろ」と返ってきた言葉にどういう顔をすればいいのか分からなくて眉根を寄せることしか出来ない。……こういうときって、どういうときなんだろう。ボーダーの人が近くにいると気軽に部屋に女の子連れ込めないからって意味?

途端に警戒心を強めた私の様子に気が付いたのか「ごめんそういう意味じゃないから」と太刀川くんが弁明しているのが聞こえる。ほんとかなぁ、と疑いを込めてソファに座っている太刀川くんを見やると「参ったな」と肩をすくめているのが見えた。
「飯どうしよっか」

気を取り直して、といった感じで太刀川くんが問いかけてくる。どうしようって言ったって、この家には何も食べるものがないんだから外食一択だろう。
ちゃんいつもこの辺だとどこで食べてんの?」
「えーっと、駅前のファミレスとか、中華料理屋さんとか、ラーメン屋さんとか……。あ、こないだ出来たカフェは一回だけ行ったけど美味しかったよ」
「じゃあファミレスにするか。……課題もやんないとだめだしな」

その言葉にはっとして、ノートパソコンを入れたままになっていた鞄を手に取り太刀川くんに続いて立ち上がる。いけない、太刀川くん家の冷蔵庫事情に呆気に取られるあまり課題のことをすっかり忘れてしまっていた。そうだ私、ここに課題やりに来てたんだった。

お昼のピークの時間が過ぎたファミレスの中は混み合ってはいたけれど、座れないほどではなかった。まずは腹ごしらえからということでお互いに食べたいものを注文して、満腹になったところで机の上に課題を広げる。太刀川くんといえば、注文したハンバーグとデザートのアイスを食べて課題を進め終わる最後の最後まで「ちゃんに作ってほしかった」と言って口を尖らせていた。「また今度ね」と返しながら、果たして私に人に食べてもらえるようなレベルの料理がどれだけ作れただろうと考える。ハンバーグはあんまり作ったことがない。一人分だけを作るのって面倒くさいし。カレーとか、肉じゃがとか、煮込むだけのものなら何とかなるかもしれないけど。この調子だと太刀川くん、何かしらの私の手料理を食べるまでずっと言い続けるような気がするなぁ。練習しとかないといけないかもしれない。……参ったな。自炊してるって言ったって、太刀川くんにそんな風に期待されるような代物じゃないんだけど。



あの日ファミレスで雑談を交えながらも何とか終わらせられたおかげで、課題は特に問題なく教授に提出することが出来た。よかった、第一関門はクリアした。この調子でいけばひとまず単位は大丈夫だろう。肩の荷が一つ降りたような心地がして、ほっと胸を撫で下ろす。その横で太刀川くんは私と同じようにほっとした表情を浮かべながら「これで忍田さんに怒られなくて済む」なんて言って笑っていた。

太刀川くんは自分から積極的にノートを取ったり発言したりすることはないものの、与えられた役割はちゃんとこなす人だった。ボーダーでもチームを組んで戦っているそうだし(しかもそのランクでも一位らしいし)、人と一緒に行動することに慣れているのかもしれない。思ったよりも協力的だった太刀川くんのおかげで、知り合いのまったくいなかった一般教養の講義でのグループワークもそこまで憂鬱ではなくなっていた。ボーダーとまったく関わりのない生活をしている私にとって、課題の合間に太刀川くんがしてくれるボーダー隊員の人の話はどれも面白いし、興味をそそられる。気を引き締めておかないと課題そっちのけで雑談ばかりをしてしまいそうになるくらいには。

大学の食堂はいつ行ってもそこそこに混んでいるということに気がついた私たちは、教授から課題が出される度にどちらかの家で昼ご飯を食べてからパソコンを開くようになった。太刀川くんの家は相変わらず生活感がないものだから、集まるのはもっぱら私の家だけど。定期的に太刀川くんが来るおかげで散らかりっぱなしだったワンルームの部屋はいつ人を呼んでも問題ないくらいには片付いているようになったし(前は下着がずっと干しっぱなしでも全然気にしなかったのに)、冷蔵庫には食材がいつも入っているようになったし、一人分しか持っていなかった箸もコップも二人分用意するようになったし、バイトのない日には予行練習として作ったことのないメニューに挑戦したりするようにもなった。一人で黙々と食べる食事よりも二人で囲む食卓の方がうんと楽しく会話も弾むものだから、つい作りすぎてしまうこともある。そんなときも太刀川くんは箸を口に運びながら「うまいからこれ持って帰っていい?」なんて言ってくれて、そして本当に余った料理をタッパーに詰めて上機嫌で自分のあの何もない部屋へと持って帰っていく。そういうところも好きだった。

去年はこんなに真剣に一般教養の授業に取り組んだりしなかったのに、これなら『秀』の評価をもらうことも期待できるんじゃないか。そう思い始めた矢先、講義終わりにふとスマホをいじっていた太刀川くんが「ごめん、しばらくおれパンキョー出れないかも」と言ってきた。ボーダーの用事で数日間、いやもしかすると数週間は三門市を離れることになるらしい。数日だったらいいけれど、もし数週間いないということになったら、太刀川くんが帰ってくる前に大学二年生の前期が終わってしまうことになる。そうしたら、夏休みを迎えて『グループワークの課題をやる』という名目を失ってしまった私はきっともう太刀川くんには会えなくなるだろう。だって私たちは友達にはなれたかもしれないけれど、それ以上にはきっとなれないから。

そこまで考えて、ここ数か月で太刀川くんを物凄く身近な人のように感じ始めていた私はようやく彼が何者だったのかを思い出した。そうだ。太刀川くんはボーダー所属の有名人で、誰よりも強くて、私がバイトや自炊に精を出している間も三門市を守るために戦っている。私じゃなくったって、太刀川くんはたくさんの人から求められているんだ。それなのに、そんな太刀川くんを何だか独り占めできているような気分になっていたなんて、馬鹿だなあ私も。思い上がっちゃいけなかったのに。なるべく明るい声に聞こえるように努めながら「分かった」と頷くと、太刀川くんが「ごめん」と言う。太刀川くんが謝ることなんて何にもないのにな。そんなに残念そうな顔をしてしまっていただろうか。むしろ私のことなんて気にせずボーダーで頑張ってほしいのに。
「そうだ、太刀川くんがいない間って太刀川くんの分のノートも取っといた方がいい?」
「いや、いい。取ってもらってもどうせ見ないし。……あ、でも教授に言ったらいつも課題は出してるから単位は何とかしてくれるって言ってたし、そこは気にしないでいいから」
「分かった」

「分かった」に続く言葉は出てこない。いつ帰ってくるのかも、そして帰ってきたら連絡を入れてほしいってことも、そうした余裕がありそうなのかも聞けなかった。スマホをポケットに入れた太刀川くんが立ち上がったのに続いて講義室を出る。……いつもなら、ここで「昼飯どうする?」って太刀川くんが聞いてきて、私は部屋の冷蔵庫の中身を思い浮かべながら「オムライスなら出来るけど」なんて笑って返すのに、もうそのやりとりが出来ないことを寂しく思った。嫌だなあ、せっかく太刀川くんと話せるようになったのに、友達程度にはなれたような気がしてたのに、それも今日で全部終わっちゃうなんて。憂鬱な気分を抱えながら太刀川くんに続いてエレベーターの前に立った。講義終了のチャイムが鳴ってから少し時間が経っているせいか、エレベーターホールには私と太刀川くんしかいない。……ボーダーの用事って、どういう用事なんだろう。危険なことなのかな。ちゃんと帰ってきてくれるといいな。そして、出来ることなら太刀川くんの無事を知れる手段がほしい。付き合ってもいないのにそんなこと言っちゃいけないって分かってるけど。

口を開けば欲張りな言葉ばかりが出てきそうで、肩にかけた鞄の持ち手を握りしめながら唇を噛み締める。押し黙ったまま太刀川くんの少し寝ぐせがついた後ろ頭を見つめていると、エレベーター前のボタンを押した太刀川くんが不意に振り返って言った。
ちゃんって今日昼飯どうすんの?」
「え? ……お、オムライスにしようかと思ってるけど」

今冷蔵庫に玉ねぎと卵くらいしかないし、と聞かれてもいないのに喋る私の顔に太刀川くんの視線が注がれている。……な、何でそんなにじっと見てくるんだろう。やめてほしい。そんな風に見つめられると、心の奥底に閉じ込めていようと固く決意した思いまで見透かされているような気分になる。

チーン、とエレベーターが到着したことを知らせる音が鳴った。しかし太刀川くんはエレベーターのドアが開いても中に入っていく素振りを見せない。どうしたの?と訊ねようとしたのと太刀川くんが口を開いたのはほぼ同時だった。
「帰ったらさ、食いに行っていい?」
「オムライス?」
「うん。まだ食ったことなかったし」

それはそうだろう、なんたって太刀川くんに出せると思えるレベルの出来栄えになるまで一か月もかかったんだから。……帰ったらって、また来てくれるつもりなんだろうか。もう一緒に課題をやる必要もないかもしれないのに。これじゃあまるで、と考えるより先に、またもや太刀川くんの言葉が沈黙を破った。
「なんか、付き合ってるみたいだよな。こういうのって」
「えっ」
「……まあ、おれは別にそれでもいいんだけど。こういうのはちゃんと帰ってきてからの方がいいと思うから」

こういうのって、ちゃんとした方がいいって、それって、私が期待している通りの意味なんだろうか。なんと答えればいいのか分からず口ごもっているうちにエレベーターが行ってしまった。あまりのことに「分かった」と頷くことしか出来ないでいると、少しだけはにかんだような笑みを浮かべた太刀川くんがくるりと前を向いてもう一度エレベーターのボタンを押す。そして呟くようにして言われた「いつになるか分かんないけど絶対連絡する」の言葉に今度は大きく頷くと、また私の顔をじっと見てきた太刀川くんが嬉しそうに笑った。

二回目でようやく乗ることが出来たエレベーターから肩を並べて降り、「じゃあおれボーダー行くから」と言う太刀川くんを校門まで見送って、歩いていく背中に手を振りながら見送った。その途中で太刀川くんってオムライスにはケチャップ派なのかデミグラスソース派なのか聞くのを忘れてしまったことに気がついたけれど、後で連絡をくれたときに聞けばいいかと思い直して小さくなっていく背中を見つめる。そして、いつになるのか分からない『いつか』に向けて、もう一度オムライスの卵をうまく巻けるようになるべく特訓することを固く決意した。太刀川くんは友達だ。だけど、次に私たちが会うときにはきっと、友達ではない何かになれているだろう。だから、とりあえずのところは友達でいい。あとほんの少し、私の心の準備が整うその日が来るまでの、今のところは、まだ。

HAPPY BIRTHDAY!

大学生の太刀川慶に無限の可能性を感じてしまいます

Inspired by SixTONES/Dance All Night