ないものねだり

季節が夏だろうが冬だろうが、隣の芝はいつだって青々と茂っているように見えていた。


誰にだって分け隔てなく優しいところ、廊下ですれ違うとさり気なく目配せをしてくるところ、毎日ちゃんと「おはよう」って言ってくれるところ、返事をするタイミングがちょっと遅れたりしても笑ってくれるところ、プリントを回すときに体を捻って小声で話しかけてくるところ、体育の授業中に本当に楽しそうにバスケをしているところ、周りの男子にシュートを褒められて照れくさそうにしているところ、たまにつけているカチューシャの色は赤が似合っていて好きだと言ったら次の日に赤が黒髪の上に乗っているようになっていたりしたところも、全部全部眩しく見えちゃって教室でにやにやしそうになるのを抑えるのに結構苦労してたりする。枯れることのないその芝の持ち主の名前は高尾和成といって、まあ、ぶっちゃけ私の好きな人で、バスケ部のレギュラーで、多分、私の知る限りでは世界で一番キラキラ輝いている人。私の、一番大好きな人だ。
何食う?」
「ハンバーグ」
「じゃあオレはミートソースパスタでいっかな」

ファミレスでご飯を食べるときは、向かい合って座ってお互いに食べたいものを食べたいだけ頼むのがお決まりのパターンだった。高尾は育ち盛りの男子高校生で、しかも部活をしているからよく食べる。あんまり美味しそうに食べるので見ているとお腹がすいてきてしまって、私は女の子は小食の方が可愛いんだろうなぁ高尾もそういうこれぞか弱い女の子!みたいな感じの子にキュンとしたりするんだろうなぁと頭では思っていつつも食欲を抑えられないのが現状だった。実際に、今、注文をとりにきたウェイトレスは朗らかな顔で「ハンバーグですね」と繰り返し、席を離れていった。もう手元にプラスチック製のメニューは存在していない。しくじったと思い、眉根を寄せた。
「高尾」
「ん?」
「飲み物頼むの忘れた」
「ドリンクバー頼んどいたけど」
「え」

これだ。こういうことをさも当たり前のことかのようにさらりとやってのけるから、高尾のことが頭から離れなくなってしまうんだ。他愛のない話をしているうちに料理が届いて、カチャカチャと食器がこすれる音が鳴る。会話はあんまりない。だって二人ともご飯食べるのに夢中だから。肉汁のたくさん詰まってるであろうハンバーグをナイフで突つきながら、コップを握る高尾の手をちらりと盗み見た。いつも見てるけど、いつも思ってるけど、高尾の手、大きくて好きだなぁ。触りたいし、……こっちの手にも、触れてほしいなあ。あいにく両手はナイフとフォークで塞がっているので、高尾に触れてもらうことも、こちらから触れることも出来ないんだけど。
「それ美味い?」
「うん」
「昨日の練習で真ちゃんが新記録更新してたんだけどさー」
「うん」
「このあとどこ行く?映画?観たいのあんなら行くけど」
「うん」

「うん」
「オレのことそんなに好きじゃなかった?」
「う……うん?」

ハンバーグに差し込んだナイフを動かす手が止まった。今の、明らかに脈絡のない問いかけは一体なんだ。生返事ばかりの私が言えた台詞ではないけれど、話の筋が見えなくて、私はナイフとフォークを皿に置き、両手を太ももの上に置いてから高尾の手をじいっと見つめた。そういや高尾のパスタ全然減ってない。いつもなら食べ終わっていてもいい頃なのに、
「付き合ってからの、何か違う奴みてえ」
「え」
「あんま笑わねえし、試合も見に来なくなったし、学校じゃ避けられてるし」
「え、ちょ、高尾、」
「オレのこと嫌いになったんかなーって」

ここでようやく別れ話をされているのだ、と気づいた私は真ん前に座る高尾の顔、それも主に目と鼻のあたりを凝視した。え、あ、いや、違う。違う。嫌いとか、そんなんじゃなくて、むしろ逆で、……とにかく全然違うんだけど、どうしよう。否定しなければ。違うって言わなきゃ。もう頭の中はそれしかない。コップに手を伸ばして、中のジュースをぐいっと飲み干してから口を開く。
「違うの、……違うの!」

否定しようと思うあまり力んでしまった。向こうのテーブルの人が振り返ってこっちを見ているのが分かって、慌てて声のトーンを落とす。小さめの声で、ちょっとだけ身を乗り出しつつぶんぶん手を振りながら全身で否定した。本当かよ、とでも言いたそうな顔をしている高尾は、多分、とんでもない勘違いをしている。
「高尾が嫌いとかじゃなくて、あー、……嫌じゃないから、なんていうか、……とにかく違うの」
「うん」

この高尾の返事は生返事なんかじゃなく、きちんと私の話を聞いた上での「うん」だと分かって、さっきまでの聞いてるとも聞いていないと判断しがたい返事ばかり寄越していた自分の態度を呪った。
「高尾、あのね、高尾が嫌なわけじゃないんだよ。ただ、ちょっと」
「うん」
「…………」
「……ちょっと、何?」
「やっぱり言わない」
「何で?」
「幻滅するから。高尾、こんなの聞いたら私のこと嫌いになるよ」
「ならねーよ。途中でやめられたら気になるっしょ」

ぐぬぬ。高尾が引き下がる様子はなくて、でも私もこんなことを言ったらもうこれから高尾の顔見て喋れる自信がない。きょろきょろと周りを見回して、ひそひそ話をするくらい小さい声で言った。
「恥ずかしいんだよ」

高尾が、そうするのが当たり前のことみたいに手を繋いでくるのが恥ずかしい。好きだよ、ってそんなに言わないけれど、甘やかすみたいにしてキスしてくるのも恥ずかしい。何なら朝練が終わって学校に来ると一番に私のところまで来てくれるのだって本当は恥ずかしいし、廊下にいると必ず見つけ出してさりげなく手を振ってくれるのも恥ずかしいし、高尾がいるとどんな空間だって居心地が悪くて、ドキドキして、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなくなってしまう。
「キ、キスとか、手繋ぐのとか、高尾は普通にしてくるし、前はどういう風に接してたっけ、っていつも考えるんだけど全然分かんなくてでも高尾は格好いいし何かいつも通りだし私ばっかり焦ってるみたいでペース狂っちゃうし余裕綽々でムカつくしでも一緒にいたいし、……高尾?」

もう自分でも何言ってんのかよく分からなくなってきた。落ち着かなくて握ったり開いたりしていた手のひらと、指に、暖かいものが触れる。散々触りたいなあ、触ってほしいなあってって思っていた高尾の手だ。どういうわけか少し寂しそうな顔をした高尾の指が私の指を絡めとって、「嫌だった?」と聞きながら、ゆっくり包みこむようにして私の心臓もろとも片手を握った。
「……オレと手繋ぐのとか、嫌だった?」

嫌じゃない。嫌なんかじゃない。むしろ嬉しい。顔から火が出ちゃいそうなくらい恥ずかしいけど、本当は、それと同じくらい嬉しいに。
「嫌じゃないけど、あの、私が嫌で、高尾じゃなくて、えっと、自分が嫌なの」
「……ん?」

伝わってない。全然伝わってない。こんな拙い言葉で伝わるならそれこそ奇跡だとは思うけど、それにしても、こんな風に聞かれてしまったら、今まで頑に隠していた全部を丸裸にされていくようで、耐えられない。耐えられっこないだろう。
「手繋ぐのとか、……キスとかね、高尾にされてると、……も、もっとしてほしいって思っちゃう私が嫌なの」

って何言ってるんだ恥ずかしい。ホントに恥ずかしい。もう嫌だ。ここがファミレスだということも忘れて大声で叫びたくなった。でも高尾が握ったままの手にぎゅっと力を込めてくるもんだから、一瞬で意識は片方の手だけにぶわっと集まっていく。
「高尾」
「…………」
「……何か言ってよ」

見せてほしいのに、俯いているものだからどんな表情をしているのか全然分からない。肩が震えているのに気づいて、泣いているのかと不安になった。何で泣いているのか分からないけれど、何なら心の奥の方まで全部全部暴露するはめになってしまった私のほうが泣きたい気分だけど、「高尾」もう一回呼びかけてみても返事はなくて、でも握られた手の力の強さも緩まることはなくて、何なんだよもう、と思っていたら、急に顔をあげた高尾が泣きそうな顔で、でもはにかむように笑いながら「…嫌われたかと思った」なんて言ったので、私は心の中で「そんなわけないでしょ」と大声を上げた。高尾は一回だけ深く息を吐いて、それからにんまりと笑う。さっきまでとは打って変わって緩みきった顔をするこの男に、恋人に、私は乱されてばかりなのだ。
「わ、笑わないでよ」
「ごめんごめん」

いつもみたいに過呼吸になって死ぬんじゃないかと思えるくらいに笑い転げていないだけまだマシだけれど、これはこれで居心地が悪い。それに今の声色。絶対悪いと思ってないし。ちらりと目線を落としたハンバーグが乗った鉄板はもう白い煙を放ってはいなかった。...もっかい食べる気も失せちゃったなあ。ようやく私の手を離した高尾はテーブルの下からするりと手を抜いて、脱いでいた上着を羽織る。そしてその手を私へと差し出し「じゃあ行くか」と言った。テーブルの上に乗ったお皿と、ドリンクバーと、目の前の高尾に順番に目線をくれてから首を傾げる。
「い、行くかって言ってもパスタ半分くらい残ってるけど」
「大丈夫」
「大丈夫って」
「オレん家に何か食べるもんあるから」
「は?」
「オレの部屋行こ」
「え?あ、でも、いやいやいやハンバーグ勿体な」
「いいからいいから。どうせオレが払うんだし」

よくないだろう。そう抗議しようと思ったのに、高尾は席を離れるとそのままレジへ直行しお金を払って店の外へ出ようとする素振りを見せたものだから慌ててコートを羽織って背中を追いかける。ちょっと待って、ちょっと待ってったら、高尾!小走りになって追いかけるとようやく止まってくれた。急いで出てきたせいでマフラーもちゃんと巻けてないし、手袋は鞄の中に突っ込んだままだし、ちょっと息上がっちゃったし、高尾は何したいのかさっぱり分かんないし、一体なんだっていうんだ。
「どうしたの高尾いきなり、なんか変だよ」
「いきなりじゃねーし変でもねーって」
「いやどう考えても変だってば」
「だとしたらのせいっしょ」
「え、私?」
「あんなん言われたらオレもう無理なんだけど」
「ん?」
「とにかく今日は映画はナシ。また今度な」

そういやさっきこれ食べたら映画行こうかとか、言っていた気もする。ぶつけられた言葉の意味をろくに噛み砕かないうちに高尾がまた歩き出したので、慌てて走って追いついた。もう一回名前を呼ぶと静かに高尾が足を止める。片手でがしがし頭をかく高尾は少し決まりの悪そうな顔をして、振り返った。
「……あー、それとも」

勿体ぶるようにゆっくりと口を動かながら言う高尾の目はしっかりと私を捉えている。
「ちゃんと口に出して誘ってほしい?」

今日もカチューシャの色は赤で、青々と茂っていた隣りの芝はもう芝どころか薔薇でも咲き誇っているんじゃないかと思うくらいに眩しくて刺々しくてとても直視出来るようなものではなくて、吊り上がった高尾の目は見たことないくらいにギラギラ光を放っていて、あまりのことに私は今度こそあんぐりと口を開けた。どうしよう、どうしよう、ぐいぐい引っぱられる左手がいつ繋がれたのか分からないくらいには混乱してる。

「た、高尾」
「今めっちゃ可愛い顔してる」

そんなこと言ったら今の高尾なんてアイドルが束になってかかってきても敵わないくらい格好いい顔してるよ!って、声を大にして言ってやりたいくらいなのに、高尾がこんな目で見てくるから喉元に引っ掛かった言葉がそこから先へと飛び出してこない。これは、厄介だ。厄介だって分かってるのに、そんな目で見ないでって思ってるのに、恥ずかしいのに、もっとしてって、もっと触ってって、もっと欲しいんだって思っちゃうこんな自分が一番手に負えそうになくて頭を抱えたくなった。

されるがままに引き込まれた路地裏の壁の冷たい感触を背中に感じながら、近づいてくる高尾の唇を凝視する。どうして私はハンバーグなんて色気のないものを食べてしまったんだろう。こんなことになるなら苺のパフェとか、甘いアイスクリームとかを頼んでおくんだった。もしくは高尾の好物とか、……でも、キムチ味のキスはちょっと嫌だなぁ、なんて。
、目閉じろって」

言われなくとも瞑りますとも。聞いたことのないような音が耳のすぐ近くで聞こえてくるのに耐えられなくて、ぎゅうと目を瞑りながら高尾の案外がっしりとした背中に手を回した。妙に締め付けられて苦しい腹の内でこっそりと今までの純情ぶっていた自分にさよならを告げる。果たして高尾の部屋に辿り着くまでに、私は平静を保っていられるだろうか。今はもっぱら、それだけが不安だ。